「 我々はいまや、イエス・キリストより有名だ 」
ジョン・レノン ( ロックシンガー )
We're more popular than Jesus Christ now.
JOHN LENNON
前評判の高い映画を観るときには、以下の二つを用意したほうがよい。
それは、「 失望に耐える覚悟 」 と、「 連れに八つ当たりしない冷静さ 」 だ。
個人的な評価だけれど、トム・ハンクスの主演作品は 「 当たりはずれ 」 が大きく、前作が面白かったので期待して行くと、どうも肩すかしに遭う。
その原因は、彼の演技力がどうこうというわけでなく、脚本が陳腐だったり、物語がつまらなかったり、大半は彼以外のところにある。
私のお気に入りは、「 ビッグ ( 1988 ) 」、「 フィラデルフィア ( 1993 ) 」、「 フォレストガンプ ( 1994 ) 」、「 プライベートライアン ( 1998 ) 」 などだ。
逆に、「 グリーンマイル ( 1999 ) 」、「 キャストアウェイ ( 2000 ) 」、「 レディキラーズ ( 2004 ) 」、「 ターミナル ( 2004 ) 」 あたりはガッカリだった。
年代別に並べてみると、最近の出演作に 「 ハズレ 」 が多いわけで、初期の作品に溢れていた 「 輝き 」 が、いささか影を落としている感もある。
好きな俳優が出ているという理由ではなく、全世界中でベストセラーとなった小説の映画化という話題に触発され、「 ダヴィンチ・コード 」 を観た。
映画が面白ければ後から読もうと考えて、小説のほうは未読である。
一緒に観た人は、35歳の女性 ( 美人、既婚、子供なし、浮気相手あり、私とは関係なし = ただのお友達 ) で、こちらも 「 謎 」 の多い人物である。
別の人と観る予定で前売り券を買ったのだが、都合で行けなくなったという電話があり、ランチをご馳走する条件で映画をご相伴することになった。
もちろん、それ以上のことは 「 ご相伴 」 していない。
さて、映画のほうだが、宗教上の歴史にまつわる大ミステリーということで、既に世界各国では賛否両論が繰り広げられているらしい。
未見の人も多いと思うので詳しい説明はしないが、私自身は 「 う~む 」 という印象で、正直、楽しめなかった。
ただ、今回は、映画の内容がどうこうというより、作品の重要なテーマである 「 キリストは神か、人間か 」 といった、根幹に関する点が大きい。
それが人によっては 「 大問題 」 なのだろうけど、無宗教の私にとっては、「 どうでもいい 」 わけで、だから、作品自体がつまらないのである。
その秘密を巡って謀略が展開されたり、連続殺人が発生しても、自分には関係ない世界の 「 内輪もめ 」 にしか感じられず、物語に引き込まれない。
なんとなく、そういった精神世界を想像できなくもないし、歴史的建造物や、絵画や彫刻に残るキリスト教文化を、荘厳で素晴らしいとは感じる。
だからといって 「 セックスしないで生まれた子供が、神の使いとしてどうこうした 」 という話を信じるかというと、これはかなり難しい。
きっと、現代社会で新興宗教の教祖を名乗る人間が同じ事を言ったなら、ほとんどの人は信じないのと同じで、科学的な裏付けのない話である。
信じたい人が信じるのは自由だが、信じない人には通じない話だ。
それはキリスト教にかぎらず、どの宗教も同じなのだが、聖書には名言が数多く記されているし、ある種の 「 SF 」 として読むには面白い。
もし、本当に神や、人々を導く教祖みたいな存在があるとして、それが立派で正しい立場なら、「 自分のことは自分でしなさい 」 と言うはずである。
神や宗教に頼ったり、うまくいかないことを第三者的な存在のせいにするのではなく、自分の責任で解決するように指導するはずだ。
ましてや、自分の宗教に基づいて、異教の民族と戦争をしたり、テロ行為で思い知らせたり、そんな信仰を強いるはずなどない。
宗教そのものが 「 悪 」 ではないけれど、歪んだ解釈で悪用する愚かさに、長く伝播してしまった現実を考えると、宗教信仰のマイナス面は大きい。
だから私は宗教など信仰しないし、また、信仰する必要もない。
鑑賞後、彼女 ( 同じく無宗教 ) は 「 面白かった 」 と言ってたので、宗教に関わらず面白いと感じる人もいるだろう。
たしかに、ダヴィンチの絵に隠された暗号とか、トリックめいた部位の解説は面白いが、あくまでも後付けなので 「 屁理屈 」 の域から脱せない。
また、仮にそうであっても、無宗教の人間にとっては 「 どっちでもいい話 」 なので、「 ふ~ん 」 という感想しか思い浮かばないのである。
単なる推理小説、サスペンスとしては、さほど目新しくも、スリリングでもないので、私の評価は 「 ガッカリ 」 レベルであった。
彼女との映画談議も盛り上がらず、夕食をご一緒することもなく解散したので、別に期待していたわけではないが、そちらも 「 ガッカリ 」 であった。
2006年05月25日(木) |
ヤンキース 松井 選手 の好きな言葉 |
「 この世で最悪の破綻者は、情熱を失った人である 」
H・W・アーノルド ( アメリカの技術者 )
The worst bankrupt in the world is the person who has lost his enthusiasm.
H.W.ARNOLD
心が変われば行動が変わり、行動が変われば習慣が変わる。
習慣が変われば人格が変わり、人格が変われば運命が変わる。
上の2行は、「 ヤンキース 松井 秀樹 選手 」 の好きな言葉だという。
一見、順風満帆にもみえる彼の人生だが、本人にとっては、絶望と挫折の繰り返しで、何度もくじけそうになったらしい。
そんなとき、この言葉に出会い、辛くても諦めない、何があっても最後までやり遂げる精神を身に付け、ここまで登りつめたのである。
もちろん、体格や運動神経、野球のセンスや身体の健康なども重要だが、多くの選手がそうであるように、才能に恵まれただけでは大成しない。
運命を大きく左右するのは、本人の 「 心 」 の問題である。
他人をねたんだり、ひねくれて世の中を斜めにみたり、すねて歪んだ発想をする人は、まず、言葉や態度、行動に、その姿勢が現れる。
すると、素直に喜びを表したり、他人に感謝したり、精力的に仕事をこなしたり、未来に希望を抱く習慣が消え去り、生きる目標を失う。
周囲から同情されることはあっても、尊敬などされず、自己嫌悪に陥って、精神の均衡がとれないまま 「 人格破綻者 」 の仲間入りをする。
同病のひねくれ者だけが共感を示す中、少しでも居心地のよい場所を探すのだが、待ち受けているのは、果てしなく続く絶望的な運命だけである。
すべて、本人の心の持ち方しだいであり、自らが招いた不幸の輪廻だ。
私の知る 「 人生を楽しみ、快適に暮らしている人 」 たちは、けして裕福な人ばかりではないが、心の豊かさという点では共通している。
また、自分の仕事や家庭生活を、苦痛だけではなく、働いたり他人に奉仕することへの喜びと誇りをもって、人生に情熱を傾けられる人々だ。
私も含め、そういう人々から影響を授かった人間は、そうでない人々と同じように苦境を体験しても、そう長くはない間に、トンネルから抜け出ている。
軟弱なひねくれ者は、成功した人間や、幸せそうに生きる人間たちを見て、「 自分と違って、苦労をしていないから幸せ 」 なのだと勘違いしている。
実際には、どんな英雄も成功者も、苦労や失敗に無縁でいられるはずなどなく、それを乗り切れるか、怠惰に諦めるかの差があるだけなのだ。
それに、他人の信頼に応え、情熱的に課題を克服し、自分の夢や、理想や目標に向かって邁進していれば、必ず誰かの目に留まるものである。
少し前までは、仕事や私生活に不運、不調が続いていたけれど、このところ有力な協力者が現れたり、思いがけない幸運に恵まれ始めた。
それらは、窮しても情熱を損なわず、自分を見失わなかった賜物である。
自分を不幸に陥れるのも、幸運を授けてくれるのも、総理大臣や経団連の会長などではなく、朝、自分が鏡を覗き込んだときに映っている人間だ。
つまり、自分自身、自分の心と情熱しだいなのである。
2006年05月22日(月) |
お粗末な日本のマスメディア |
「 自分自身の息子を知っているのは、賢い父親である 」
ウイリアム・シェークスピア ( イギリスの劇作家、詩人 )
It is a wise father that knows his own child.
WILLIAM SHAKESPEARE
自分の息子が非行に走らぬよう、正しく導くのは親の責任である。
もし、悪事に手を染めたなら、他所の子と同じように裁くのも親の努めだ。
企業の従業員が不正や犯罪に手を染めた場合も、それは同じである。
人それぞれなのだから、企業は関係ないでは済まされない。
たしかに企業の使命は、従業員を監視することや、法律を遵守させることが一番ではないかもしれないが、まるで無縁ともいえない。
事実、従業員の不祥事は企業イメージを著しく低下させるし、それにより、社員教育や、社内の倫理観を問われるのは当然のことだ。
社会人である以上、自分自身の行動に責任を持つべきではあるが、親が子供に行う 「 躾 ( しつけ ) 」 と同様の指導を、企業も果たす責任がある。
そして、それでも社内から犯罪者を出してしまった場合は、事実関係を潔く認め、適切に処分し、信用の回復に努めなければならない。
社外の犯罪者には厳しく、身内の犯罪者に甘いなどということは、断じて、あってはならないことである。
また、同じ会社でなくとも、同じ業界がこぞって 「 同業者をかばう 」 愚行に走るのも、業界全体のモラルを問われる忌々しき問題だ。
たとえば、マスコミの場合、犯罪者の 「 実名報道 」 について、個人情報、プライバシーの問題があっても、彼らはその必要性を声高に訴えてきた。
常日頃から熱心に、国民の 「 知る権利 」、報道機関の 「 伝える権利 」 を主張してきたのだから、身内の不祥事も同様に扱うべきだろう。
日本テレビのアナウンサーが、盗撮事件を犯し、警察に逮捕された。
不起訴処分にはなったが、本人が罪を認めたので、事実であることは間違いなく、おそらく懲戒免職などの社内的処分が課せられている。
このアナウンサーの実名については、日本テレビのみならず、他の放送局も軒並み 「 匿名報道 」 で統一されており、氏名が公開されない。
一部のジャーナリストやネットにより氏名は明らかにされているが、本来なら、実名報道にこだわるマスメディア自身の手で、公開されるべきだろう。
こういう 「 他人に厳しく、自分に甘い 」 姿勢は、日本のメディア業界の程度が低いことを裏付けており、憤りを感じさせるものだ。
少し前には、大手新聞社の社長の息子が、大麻を所持していて逮捕された事件もあったが、公表は 「 潔い 」 といえるものではなかった。
あの犯人もマスコミ業界で働く人間だったが、事実の公表を遅らせようとしたり、隠蔽しようとした動きがあり、多くの国民の不信感を招いた。
愛国心の欠片も感じさせない 「 問題の多い新聞社 」 で、日頃は自政府のアラ探しを、正義の代弁者のように論じているが、その実態はどうか。
本来、身内の不祥事についても、追求の手を緩めないことが肝要だろう。
まぁ、「 息子が犯罪者 」 なのと、「 親父が売国奴 」 なのと、どっちがいいかは疑問で、同じ立場なら悩んでしまうところではあるが。
とにかく、日本のマスメディアの 「 質 」 は、呆れるほど低い。
その一因は 「 談合体質 」 にあり、たとえば、新聞の休刊日が大手各社で揃って同じというのも、先進諸国では考えられない怠惰ぶりである。
こんな連中に、「 ペンは剣よりも強し 」 なんて言われても、その矛先は連中の好き勝手に選択されるのだから、まったく信頼などできない。
報道や言論の自由というものは、その権力を手にした者が、自由に振りかざせるものではなく、公正に、隔てなく用いてこそ、真価が発揮される。
安価で手に入る 「 娯楽的情報源 」 として、新聞を購読してはいるが、ここには正義も、道徳も、公正さも存在しないことを、改めて再認識させられる。
「 自分の勘を信じなさい 」
バーバラ・ウォルターズ ( アメリカのニュース・キャスター )
Trust your gut.
BARBARA WALTERS
今夜の名言は短くて簡単なので、ぜひ覚えていただきたい。
ただ、道を尋ねてきた外国人に使うと、不親切に思われるかもしれない。
注目の中、ワールドカップの代表メンバーが発表された。
FWの久保選手が落選したことは、前大会時に中村選手が選ばれなかったときよりも、私にとっては驚きであった。
この4年間、中村選手が奮起し大活躍して全幅の信頼を勝ち得たように、久保選手もめげずに精進して、さらなる発展を遂げてほしいと願う。
ただ、4年前の中村選手は23歳で、現在の久保選手は30歳であることを思えば、同じような状況でも久保選手のほうが辛いかもしれない。
もちろん、たとえ本大会に出場する機会を逸したところで、久保選手が日本代表のために貢献した事実は、けして色あせるものではない。
指揮官の決断は、ときに厳しく、非情な印象を与えることもある。
しかしながら、結果が求められる場において、指揮官の責は誰よりも重く、そこには慎重な分析と、冷静な判断を含んでいる。
指揮官といえども全能ではないので、ときに誤りも犯すが、それでも、巷の素人評論家よりは、信頼できるはずだろう。
応援する立場の人間は、「 選ばれた23人 」 と指揮官にすべてを託して、ひたむきに声援を送ることが最善で、選出基準を云々する必要はない。
4年前とは違って、ジーコ監督は代表メンバーを誰よりも知り尽くしていると考えるのが妥当で、結果の如何に関わらず、この決断を受け入れたい。
とはいえ、得点力で実績のある久保選手の不出場は、不安でもある。
きっと、日本が無得点で敗れたりなんかすると、代表メンバーの選考に異議を唱える人も多く現れるだろう。
ただ、あくまでも試合の結果を左右するのは、ピッチに立つ選手であり、「 久保選手が出なかったから負けた 」 などという言い訳はできない。
それを指揮官のせいにすることも、誇り高い代表選手は望まない。
軟弱な 「 総理大臣が悪いから自分は不幸だ 」 などとわめいている連中と違い、一流プレイヤーは、自分の栄光を自らの手で掴み取るだろう。
「 すり減らすほうが、錆び付かせるよりもよい 」
リチャード・チェンバーランド ( アメリカの俳優 )
It is better to wear out than to rust out.
RICHARD CHAMBERLAND
明日からまた、新しい仕事に参加することになった。
最初は儲からないかもしれないが、大きな事業に発展する愉しみがある。
人の一生は短いので、楽しまなければ損だと思っている。
勤め人の場合は難しいが、今の私のように自営している人間は、あちこち顔を出して、いろんな分野に資金と労力を投資するのも面白い。
見込みのないものは早めに退散し、望みのあるものは追いかける。
収支が順調でもツマラナイものは他人に譲渡し、自分はできるだけ新しい発見のある分野に深く関わりながら、その中でまた新しい仕事を見つける。
この数年はその繰り返しでやってきたが、時間のやりくりに苦労しながらも、多くはない利益と、少なくはない人脈を、その成果として手に入れた。
日本のサラリーマンは働き過ぎだという説もあるが、拘束時間が長いことと、よく働いていることを混同しているケースも多い。
副業が許されない背景もあるが、企業でサラリーマンとしてひとつの仕事に取り組むことは、ある意味 「 楽 」 な部分もある。
むしろ、家事と子育てを両立しなければならない専業主婦のほうが、同時に別のことを考えなければならなかったりして、複雑な苦労もあるだろう。
どちらがエライということではないのだが、自営して複数の仕事に携わるようになってから、なんとなく主婦の感覚がわかるような気がしてきた。
主婦という仕事には、経営感覚みたいなものが必要なのかもしれない。
けして 「 よからぬこと 」 をしているわけではないが、私の周りには主婦や、子供のいる女性といった友人も多い。
彼女たちと話をしていると、「 視点が違うと、物事の判断や価値基準も異なる 」 ということがよくわかり、いろいろと勉強になることがある。
また、男性は女性に対して 「 女性というものは、こうあってほしい 」 と勝手に期待している部分が多いので、実態とのギャップに驚かされたりもする。
男性と女性では 「 ここが違う 」 と思っている点が違わなかったり、「 これは同じだろう 」 と思う点が違ったりして、なかなかに奥が深い。
女性のキャリアカウンセリングをするときにも、その勉強は役に立ったが、学んだからといって自分の恋愛が向上したかというと、…疑問である。
女性の多くは、男性以上に忙しく家事をこなしながら、なおかつ社会に参画して働きたいと望んでいる。
しかし社会は、男女雇用均等法など、法的な整備が進行したからといって、まだまだ女性が 「 働きやすい環境 」 にあるとは言い難い。
テレビで 田島 陽子 さんが女性の地位向上について力説している姿をよく目にするが、労働問題に深く関わっていると、実は、よくわかる点も多い。
女性の潜在的能力は、多くの仕事で男性以上の活躍を見込めるだろうし、その成果として、報酬と達成感を得られる機会が顕在しているはずだ。
女性像が変化したのではなく、過去において、その能力と権利を 「 封印 」 してきたが、最近になって主張する人が現れ始めただけのことである。
総体的に、働く女性は、男性よりも身の周りを清潔に保ち、化粧をしたり、家事全般を行い、そのうえで社会に参画する意欲を備えている。
問題は、特に既婚男性に求められる 「 甲斐性 」 の点で、女性よりも収入が少なかったり、女性を養育できなくなると困るというところだろう。
女性の社会進出が伸びると、男性の平均収入が下回り、家族を養えなくなるので困るという意見が、既婚男性には根強い。
もちろん、その場合には社会全体の意識構造も、「 必ずしも男性が女性を養う必要はない 」 という風に変化させねばならず、そこに時間がかかる。
あるいは、多くの 「 負け組男性 」 がパートナーを失い、将来的な出生率の低下などを招く可能性も、ないとは言えないだろう。
それでも、私の知る女性たちはよく働くし、働く意欲を持っている。
仕事から遠ざかってブランクのある女性も、「 すり減らすほうが、錆び付かせるよりはいい 」 と言って、仕事に復帰したがっている。
仕事をいくつか抱えている私が言うのも変だが、「 そんなに働かなくっても、いいんじゃない 」 と制しても、その衝動が収まることはない。
面白いもので、仕事をしたくない怠け者は、たいした仕事もしていないのに 「 働くのは苦痛 」 と愚痴を吐き、よく働く人は 「 働きたい 」 と嘆願する。
強力なライバルの出現は変化をもたらし、闘志を湧かせるので、彼女たちの社会進出を歓迎するが、「 お手柔らかに 」 と願いたい猛者もいる。
2006年05月14日(日) |
盲信は愚か者の始まり |
「 私は、何も学ぶものがないほど愚かな人に会ったことはない 」
ガリレオ・ガリレイ ( イタリアの物理学者、天文学者 )
I have never met a man so ignorant that I couldn't learn something from him.
GALILEO GALILEI
毎回、著名人の名言を冒頭で紹介している。
時代背景は違えど、歴史の先達から教訓を受ける点は多い。
人はすべて、過去の教育や、出会った人々や、育った家庭など、それぞれの生い立ちや環境から、人格や、物の考え方に関する影響を受けている。
真の学習とは、死ぬまでにどれだけの知識を詰め込むかではなく、尊敬に値する人格や、正しい発想ができる度量を身に付けることかもしれない。
ある時点において、いくら知識があっても、世の中は常に変化しているのだから、学ぶことを止めてしまうと、時代に即した発想力は得られない。
つまり、学ぶこと、世の中を眺めること、他人の意見に耳を傾けることなどを放棄した者は、いくら物知りでも 「 愚か者 」 になってしまう。
冒頭のガリレオの言葉には、そんな訓戒が込められているように思う。
私以外にも、WEB日記で 「 引用 」 を取り入れる人は多い。
たとえば 「 誰々がこんなことを言ってたよ 」 とか、「 話題の本にこんな記事があったよ 」 とか、参考になる意見や事柄を紹介する手法だ。
自分自身にも意見はあるが、著名人の発言などを引用することで、そこに説得力を加えたり、正当性の裏付けをすることなどが狙いである。
無名の素人が意見を述べる際に、「 あの ガリレオ も、こう言ってますよ 」 と付け加えたほうが、主旨が伝わりやすいし、共感も得られやすい。
歯ブラシのCMなどで、「 歯科医の○○博士も推奨しています 」 と、実在の歯科医を登場させたりするのも、「 引用 」 の効果を狙った手法だ。
たまに、この 「 引用 」 の用い方を、間違って使っている人をみかける。
たとえば、頻繁に 「 自分 」 を引用元に使うケースなどがそれに当たる。
出版物でいうと、「 前作に私はこう書いたので、おわかりでしょうが 」 などと書く作家がいたりするのだが、読む側の立場としては 「 はぁ? 」 となる。
過去に発せられた意見である引用元も、いま意見を述べている人も、同じ人物なのだから、そんな引用をされても 「 意見の検証 」 ができない。
前の発言が正しければ問題ないが、誤りなら今回も間違っているわけで、それを、識者の意見や客観的事実との比較と同じように語られても困る。
WEB日記にも、同様の誤りを繰り返す人がいて、「 以前、私は日記にこう書いている 」 などと、あたかもそれが事実的根拠のように示す人がいる。
たとえばそれが、「 自分の意見は終始一貫していますよ 」 という主張なら理解もできるし、「 私には先見の明があるでしょ 」 という自慢ならわかる。
しかしながら、「 ○月○日の日記を読めば、私の意見が正しいことが証明できる 」 と言われても、同人物の意見を見比べるだけで、検証できない。
よほど、その作家を神と崇めている読者なら別だが、前の意見が正しいと証明されているわけでもないのに、正当性を理解することは難しい。
あるいは、「 それでわからん奴はバカ 」 と、自分の正当性を盲信されているのかもしれないが、私と同じように疑問を持つ読者のほうが多いはずだ。
私の日記などは 「 かなり、いい加減な日記 」 だが、自分の書く文章には、それなりの責任と、それなりの正当性を追求しているつもりだ。
しかしながら、自分は神ではないし、未知の知識や情報、別の考え方などが存在する可能性を認めるし、それに対して真摯に耳を傾けたいと思う。
掲示板を設けたり、メールを記載したりしているのも、共感を求める目的と同等に、反対意見があれば、そこから学びたいと考えるからである。
自分の意見の正当性に自信があるのは立派なことだが、過去の、自分が発した文章を引用し、バイブルのように掲げるのはどうかと思う。
精神分析的に判断すると、明らかに 「 自己愛 」 の強い傾向が現れていて、周囲が見えなかったり、他人の意見から学ぶ姿勢に障害がある。
物事を学ぶために不可欠なのは、「 自分は完璧ではない 」 といった謙虚な姿勢であり、他人を見下したり、物事を熟知しているという過信は禁物だ。
世の中のすべてを知り、常に森羅万象について適切な判断を下すのには、人の一生なんて短すぎて、到底、不可能なことである。
また、たとえば戦争を例に挙げると、「 戦争をしたから人が死ぬ 」 場合と、「 戦争をしなかったから人が死ぬ 」 場合もある。
置かれている立場や利害によって、どちらが得策 ( あるいは、善か悪か ) か判断のつきにくい問題もあり、何が正解とはいえない事柄もある。
思い上がりを廃し、たえず自分の出した答を見直していくことこそが、学ぶための近道で、失敗すると遠回りをすることになるような気がする。
2006年05月13日(土) |
ある中小企業のリストラ |
「 火熱に耐えられなければ、台所から出て行くべきだ 」
ハリー・S・トルーマン ( アメリカ合衆国第33代大統領 )
If you can't stand the heat, get out of the kitchen.
HARRY S.TRUMAN
プレッシャーに耐えられない人は、重圧に耐えられる人に任せるべきだ。
文句ばかり言ってないで、さっさと舞台から降りることが望ましい。
キャリアカウンセリングをしていて、一番、気をつけなければいけないのは、働く人の能力や適正と、就く仕事とのミスマッチを防ぐことだ。
いくら仕事のできる人でも、すべての仕事に相応しいとはいえない。
殆ど興味の無い仕事や、まったく適正のない仕事を選ぶと、他の仕事では有能な人であっても、その分野に関しては無能のそしりを受ける。
これと同じように、ストレス耐性の低い人が、重圧のかかる仕事をすれば、精神を病んだり、ひどい場合には身体的な不調にまで発展する。
仕事で体調不良に陥る大きな原因は、仕事そのものに問題があるだとか、病気になる人が悪いとかではなく、職業選択のミスマッチによるものだ。
まるっきり仕事に自信がなかったり、自分の能力や経験にプライドを持っていないような人は、多少、仕事がうまくいかなくても深刻に悩まない。
もちろん、仕事が順風満帆にうまくいっている人も深刻に悩むことはない。
悩んだり、嘆いたり、パニックを起こしたりするのは、「 仮想的有能感 」 を抱えながら、それに縛られ、苦悶する人たちである。
本当の自信は行動力と成果によって獲得するものなので、仕事の質と量が満たされていれば、「 仮想 」 ではなく本物の有能感を持つことができる。
しかしながら、体力を使ったり、人前で恥をかくことが苦手だったりする人の多くが、根拠の無いプライドだけをぶらさげて病気になっていく。
某中小企業のオーナーと話をしたが、その社内で 「 変わり者のAさん 」 と呼ばれる人の実態が、まさしくそうであった。
学歴、経歴が華々しいので中途採用した40代だが、成果が思わしくなく、取引先からの評判も悪い。
いつも焦っていて、同僚との協調性も薄いので、ここは 「 焦らなくてもいいよ、長い目でみて評価しますよ 」 と、その社長は励まそうとした。
ところがAさんは、弁明など求めていないのに、仕事がうまくいかない理由ばかりを並べ立て、会社と同僚の批判ばかりをする。
その後は、社長が話し掛けようとすれば席を外したり、社内のミーティングがあるときに決まって外出したりして、話す機会が減ってしまった。
彼の中には、覚せい剤中毒者と同じで、強い 「 被害妄想 」 が生じている。
社長が話し掛けたり、同僚が小声で話しあったりしていると、自分を攻撃しようとしているとか、自分の悪口を言っているように感じるのである。
たまに仕方なく会議に参加すると、成績の低迷を自分の責任として詫びるのだが、原因については、天候など、不可効力的な要素を並べる。
上長から、「 それは誰にとっても同じ条件ではないか 」 という指摘を受けると、途端に不機嫌になり、黙り込んでしまう。
もっとひどいときは、お客が悪い、社内のシステムが悪い、自社製品の品質が劣っている、さらには 「 世の中が悪い、政治が悪い 」 とまで言い出す。
基本的に、こういうタイプの人に 「 営業 」 をさせることが間違っているのだが、専門知識を要する営業職なので、なかなか代わりがいない。
また、社員を信頼し、愛情を注ぐタイプの温厚な社長さんなので、長期的に育てたいと考え、多少の問題があっても、あまり厳しく叱らないのである。
最近では、同僚のヒソヒソ話も本当にAさんの悪口になってしまい、もはや被害妄想ではなくなってきつつあり、かなり困った問題になっている。
噂が飛び火して私の耳にも入ってくるようになった頃、社長から酒席に誘われ、行ってみると 「 どうしたらいいだろう 」 という話だった。
開口一番、酔いの回らないうちに、頭はきれるし、才能はあるので、人格面さえ成長してくれればなぁという話を、社長は寂しそうに語り始めた。
カウンセラーには、我々のようなキャリアカウンセラーと、精神科医のような 「 治癒的カウンセラー 」 の2タイプがある。
つまり、私は仕事上の相談には乗れるが、医師ではないので 「 病気を治す 」 ことなどできないし、目的にもしていない。
雇用している社長や、企業の立場も同じで、仕事上の手助けはできても、彼自身の本質的な問題を解決することは難しく、当然、その責任もない。
本当に彼を 「 なんとかしたい 」 のであれば、専門医の診察を受けさせるのが妥当なのだが、本人に自覚がなければ拒否する可能性が高い。
また、軽はずみに 「 医者に診てもらえ 」 などと告げるのも、精神的に傷つけたり、追い込んだりする危険があるので好ましくない。
大企業なら、もう少し重圧の少ない仕事に配置転換させるとか、いくつかの方法があるのだが、中小企業にはポストが少ない。
余剰人員を持たず、少数精鋭で闘うことが中小企業の宿命なので、たとえ病気や正当な理由があっても、仕事のできない人には居場所がない。
つまり、ここは心を鬼にして 「 辞めてもらう 」 しかないのだ。
失業すると苦しい立場に追い込まれるかもしれないが、かといって、問題を放置したまま残留させたところで彼は 「 ハッピー 」 ではない。
大企業で閑職に配置転換され、給料が下がったとか、ボーナスが少ないと嘆く人もいるが、中小企業で失脚する人は、もっと辛いのである。
もし、社長に親心があって、彼に何かしてあげたいのであれば、そのままの状態で雇い続けるよりも、他に、彼のためになる方法がある。
たとえば、最近は 「 アウトプレイスメント 」 といって、解雇する会社が費用を負担して、人材紹介会社に再就職支援を委託するシステムもある。
人材会社は有料で求職者を預かり、履歴書や職務経歴書の書き方を教えたり、面接のトレーニングをしたり、再就職活動の指導を行う。
さらには、本人の適性検査や希望職種の聴き取りなどをして、できるだけ、ミスマッチのない再就職先を探して斡旋する。
退職金を数十万円上乗せするくらいならば、同じ費用を再就職支援会社に委託し、「 プロの就職ノウハウ 」 を活用したほうが、本人のためにもなる。
それに、こういった人物は、失業して苦労したほうがタフになる。
世間には、① お金があって幸せな人、② お金があって不幸な人、③ お金がなくて幸せな人、④ お金がなくて不幸な人 の4種類の人間がいる。
普通に考えると、一番不幸なのは ④ のように思えるが、むしろ、② の人に 「 心の病 」 は多く潜在し、最近は、自殺を図る人もこのタイプに多い。
逆に ④ の人は生活に必死で、死のうなどと考える暇もないし、③ の人は、工夫して人生を楽しむ術に長けている。
リストラが不幸の元凶ではなく、仕事にどう取り組み、人生にどう向き合うかが、重要なのだということを、人も企業も考えるべきであろう。
2006年05月12日(金) |
石井選手の2000本安打 |
「 年をとって負けると、あいつはもうダメだと言われる。
若くて負ければ、青二才と言われる。
だから負けるな 」
テリー・ブレナン ( ノートルダム大学のフットボールコーチ )
If you're old and you lose, they say you're outmoded. If you're young and you lose, they say you're green. So don't lose.
TERRY BRENNAN
横浜ベイスターズの石井選手が、2000本安打を達成した。
長年に亘る研鑚と努力の成果を称え、心より拍手を贈りたい。
プロ野球の歴史の中で、2000本安打を記録したのは34人目だが、石井選手と、かつて巨人にいた川上哲治氏しか達成していない記録がある。
それは、「 2000本安打 + 1勝 」 という記録だ。
つまり、川上氏と石井選手は、野手としてヒットを放っただけではなく、投手として1勝 ( 川上氏は11勝 ) を挙げている。
投手として入団して、途中で野手に転向する選手は珍しくないが、その後、2000本もヒットを打ったというのは稀有な存在といえよう。
石井選手の場合、最初の3年間は投手として出場していたので、野手としての実働期間は、在籍年数よりも短いのである。
入団1年目に1勝を挙げたが、2年目、3年目は勝ち星に恵まれなかった。
そこで諦めず、打撃に活路を求めて精進したところが彼の偉大さで、私の好きな野球選手の一人であり、今回の偉業達成は大いに喜ばしい。
若い頃に挫折を味わっているせいか、インタビューでの受け答えも謙虚で、余計なことは考えず、野球一筋に励んできた人柄がしのばれる。
プロスポーツはエンターティメント的な要素が強いので、新庄選手のような華やかさも否定しないが、寡黙な職人気質にも惹かれるものがある。
彼らの活躍と、ひたむきさが、日本のプロ野球を支えてきたのだ。
オリンピックでは 「 参加することに意義がある 」 と謳われているが、これはけして 「 勝ち負けが問題ではない 」 という意味ではないように思う。
あくまでも、「 勝利を目指して参加をする 」 ことに意義があるのであって、最初から勝つ気も無く、物見遊山で加わることを奨励するものではない。
勝つために闘い、勝てなければ石井選手のように、別の舞台に活路を切り拓く執念が、スポーツの世界で頂点を目指す者には求められる。
そこには、ファンの期待や、ライバルとの競争、自分自身との闘いなど、様々な困難やプレッシャーを克服していく試練が待ち構える。
スポーツ選手の活躍が、我々に勇気を与えてくれるのは、きっと、そんなところにあるのだろうと思う。
2006年05月11日(木) |
経営不正行為における罪の意識 |
「 まず正しいところに足を置くよう気をつけなさい。
それから、しっかり立ちなさい 」
エイブラハム・リンカーン ( アメリカ合衆国第16代大統領 )
Be sure you put your feet in the right place, then stand firm.
ABRAHAM LINCOLN
他府県に比べると、大阪の人は 「 せっかち 」 なことで知られている。
私も大阪で生まれ、現在も暮らしているので 「 せっかち 」 なようだ。
大阪人の 「 せっかち 」 な気風は、テキパキ動くとか、なんとなく活気があるような印象を与えるという点において、プラスの側面を持っている。
しかしながら、公衆道徳においては時折、マイナスの面が顔を出す。
上京して、東京の駅ホームで電車の到着を待っていると、必ずといっていいほど、降りる人が降りてから、秩序正しく乗客が乗り込む姿を目にする。
東京の人にしてみれば、「 当たり前じゃないか 」 と思われるかもしれないが、大阪でしか電車に乗ったことのない人から見れば、新鮮な光景である。
今日も大阪で電車に乗ったが、降りる人を押しのけて、われ先にと乗り込む人の姿を多く目にする。
車を運転する場合にも、この 「 せっかち 」 な性分が、交通マナーの悪さに直結することが多く、大阪では事故やトラブルの原因につながっている。
信号待ちをしている車の運転手は、目前の信号よりも、交差する別方向の信号を気にしていて、そちらが赤に変わるタイミングを見計らい発進する。
いわゆる 「 見切り発車 」 というものだが、あまりに多くの運転手が見切り発車をするために、正しく信号を待っている人が追突される場合もある。
車のみならず歩行者も、信号を守らない人が多い。
一昔前には 「 赤信号、みんなで渡れば怖くない 」 というギャグもあったが、大阪の人は周囲に誰もいなくても、危険がなさそうなら渡る人が多い。
かつて私もその一人で、よほど大きな交差点は別として、道幅の狭い道路などでは、車が来ていないことを確認すると、赤信号でも渡っていた。
他府県、特に関東の人などが一緒にいると、「 赤だよ 」 と言って、信号が目に入っていないのではないかと、警戒を促されることが多かった。
それで、意識的に気をつけて赤信号を守るようにしていると、今度は大阪の知人から、「 どうしたの、早く渡ろうよ 」 などと首を傾げられる。
これを、「 大阪は交通マナーが悪い 」 とか、「 公共のルールを守らない 」 と言われると、たしかにそうなのだが、なかなか改善されそうにない。
言い訳みたいだけれど、あまりにも多くの人が 「 そうしている 」 場合には、ルールがどうであっても、罪の意識を持たず、それに従ってしまいやすい。
ルールは人によって制定されるが、習慣もまた、人によってつくられる。
あるいは、「 習慣が人をつくる 」 ということもある。
習慣的に赤信号を守らなかった私が、ある日を境に守るようになったのは、立派な先生から、交通マナーや、ルールを説かれて悟ったからではない。
ある女性に、「 貴方は車の接近を確かめて渡っているので、たしかに危険は少ないだろうけど、子供が見て真似たら危険でしょ 」 と言われたからだ。
お恥ずかしい話ではあるけれど、恥をかいたり、痛い目に遭ったり、そんな失敗をしないとピンとこないような 「 罪の意識 」 というものもある。
金融庁は、カネボウの粉飾決算事件で、所属公認会計士が逮捕、起訴された中央青山監査法人に対し、一部の法廷監査業務を停止処分とした。
監査法人というのは、会計監査を専門に行う会社のことで、企業の財務処理の監査をして、監査証明を発行することを仕事にしている。
資本金が5億円以上あるか、負債総額が200億円以上ある企業は、公認会計士の監査を受けることが商法では定められている。
そのような企業では、必然的に大規模な監査業務が必要とされるために、いづれかの監査法人が業務に就くことになる。
中央青山は最大手で、所属公認会計士がやったこととはいえ、不正を防ぐ内部管理体制の不備が組織として問題視され、処分の対象となった。
ライブドアも粉飾決算容疑で捜査が進められているが、この手の不正は、横領とか、収賄などに比べると、関与した人間の 「 罪の意識 」 が低い。
伝統的に日本人の民族性は、「 私利私欲を目的とする不正行為 」 に厳しいが、会社全体の利益や存続のためというと、わりと寛容な部分が多い。
個人が私腹を肥やすために行う不正は、周囲も容赦しないし、手を染めている当事者自身も、たいていは、後ろめたい気持ちでいるはずだ。
それが 「 会社のため 」 とか、「 重要な取引先のため 」 なんて理由になると、けして正しいとまではいわないが、「 仕方ないかな 」 などと甘くなる。
どちらも不正であり犯罪行為なのだが、耐震偽装問題しかり、今回の問題しかり、会社という背景が絡むと、個人の罪悪感が軽減される傾向にある。
逆にいうと、こういった不正は氷山の一角であり、逮捕された当事者以外も 「 日常的、慣例的に、頻繁に行われている 」 という可能性が高い。
むしろ、今回の逮捕者だけが、周りは誰もやったことなどない前代未聞の計画を、独自に遂行したという話のほうが、信憑性に欠ける気もする。
そういった意味も含め、当事者だけではなく監査法人自体にも処分を課し、全体にお灸をすえるような形としたのではないだろうか。
企業に忠誠を尽くすことを批難はしないが、自分の一生を棒に振って会社のために不正をはたらいても、会社は個人を救えない。
組長の代わりに人を殺して刑務所に行き、「 帰ってきたら金バッジ 」 などと褒美をもらえるヤクザの世界のほうが、よほど良心的である。
不正や犯罪にまで抵触しなくても、企業で働いていると 「 上長の指示とはいえ、良心の呵責を感じる 」 などという事例は多い。
そこで誰かの言いなりに動くようでは、その人の価値などない。
逆らえば解雇されるからなどと反論される方もいるだろうが、マトモな会社なら、従業員に、ロボットではなく、高度な期待を寄せているはずである。
それに、「 正しい方法で成功する 」 ことを目的として、その仕事を選んだのであれば、不正に関与して会社に残ろうとする行為自体が間違っている。
無垢な子供に見られても、「 これが正しい姿 」 と胸を張れるような仕事をすることが、本当は継続的な成功への近道なのである。
「 人は皆、無知である。
ただし、それぞれ違う事柄について 」
ウィル・ロジャース ( アメリカの俳優 )
Everyone is ignorent, only on different subjects.
WILL ROGERS
賢い人は尊敬できるが、「 賢そうに振舞う人 」 といると疲れる。
それに、そういう人が一番、信用できないものだ。
知恵や教養を身に付けていることと、賢そうに振舞うことは違う。
偏差値の高い学校を出ていても、そんなことは微塵も感じさせないような 「 アホっぽい人 」 もいれば、その逆のタイプの人もいる。
他人を見下して説教ばかりするので、さぞや立派な学歴や職歴をお持ちかと尋ねたら、「 う~む・・・ 」 みたいな人もいる。
このあたりは、意外と本人自身が気付いていなかったりするようだ。
また、WEB日記の場合は、日常生活で使わないような表現をするケースも多いので、その文章だけでは人物像が推察できない場合がある。
私の日記は、「 毒にも薬にもならない、どーでもいい日記 」 を目指していて、いまのところ自分自身の評価は、それ以上でも、それ以下でもない。
文章が堅めなので、「 なんとなく難しそうなことを書いている 」 ように感じる人も多いようだが、けしてそのようなことはないと思う。
きっと、平均的な読者層よりも、私自身の年齢が上なので、表現が堅苦しかったり、古臭かったりするだけの話ではないだろうか。
ちなみに、我々のような中年が、若者より落ち着いていたり、しっかりしているとか、賢そうに感じるのは、先入観と錯覚によるものだ。
けして落ち着いているわけではなく、単に若者より 「 元気がないだけ 」 で、自分自身の若い頃と比較しても、あまり賢くなった実感がない。
では、アホなのかというと、実際にそうなのである。
世の中には自分の知らないことが多いし、どんどん変化していくものだから、いつだって勉強しなきゃいけないし、いくら学んでも追いつかない。
たしかに、好きなことはよく勉強したし、社会人になってから再び留学したりなんかしたので、それなりの知識や特徴を身に付けたかもしれない。
ただ、それが 「 賢そうに振舞う 」 ことと、「 アホっぽく生きる 」 ことの違いには結びつかないし、影響を受ける必要もないはずだ。
自分は、「 アホっぽい生き方 」 を目指し、実践してきたという自負があるので、「 難しそうな日記を書いている 」 などと思われるのは少し残念である。
誤解しないでいただきたいのは、「 アホっぽく生きる 」 ことと、馬鹿げた行動をすることは、けして同じではないということだ。
私の提唱する 「 アホっぽい 」 というのは、なんだか自分が偉くなったような錯覚に陥ったり、他人を見下したりしないように心がけるという意味である。
難しい理屈にばかり囚われていると、規則やら、今の時代には通用しない化石のような 「 常識 」 に縛られて、物事の本質が見えないことも多い。
それよりは、子供のように素直な視点で、「 理屈はよくわからないけれど、実際に困るよね 」 といったシンプルな発想のほうが、現実を直視できる。
だから、私の日記では 「 憲法にこう書いてある 」 とか、「 国際法に違反する 」 なんてことは、ほとんど重要に語っていないはずだ。
たとえば、「 戦争反対 」 と声高に叫ぶ人を例に挙げると、国連がどうしたこうしたとか、大量破壊兵器がどうこうと理屈を並べる人もいる。
これは、たしかに 「 賢そうなご意見 」 である。
それに対し、いい年をした大人が、なぜ戦争反対かと問えば 「 人がいっぱい死ぬから 」 なんて答えると、ちょっと 「 アホっぽい 」 印象がある。
私としては、前者のようなタイプよりも、後者のような人のほうが好きだし、そっちの理由のほうがずっと真相を見極めているように思うのだ。
それに、前者にはいくらでも反論できるが、後者に反論できる余地はない。
イラク戦争では多数の死者が出たけれど、では、「 イラク戦争がなかったら、何人の人間が死んだのか 」 について、あまり語る人はいない。
日本政府が駐留米軍に 「 思いやり予算 」 を支給することを問題視する人も多いが、自衛隊が同等の戦力を確保するのに必要な予算は語らない。
そのあたりが、「 賢そうに振舞っている人 」 の限界なのである。
また、こういうタイプの人は 「 自分は違うけど、大半の日本人はバカ 」 という発言が多く、当然のことながら反感を招くことも多い。
私も 「 現代の日本人は勉強不足 」 という点において同意見だが、それは 「 自分も含めて 」 という注釈がつく。
いま書店では、『 他人を見下す若者たち =自分以外はバカの時代= 』 という本が売れている。
根拠のない 「 仮想的有能感 」 を持ち、他人のキャリアやスキルを否定することで、自己防衛と優越感を確保しようとする若者を指摘している。
読んでみて 「 なるほど 」 とうなづける点も多いけれど、対象が若者の場合には、まだ幾分かの可愛げもあると思う。
中年になって、このような姿勢でいるほうが、よほどみっともない。
自分の意見はそれなりに主張しても、自分だけが正しいとか、他人を見下す発想を持つことは、なるべく避けたほうが望ましいだろう。
日記の文章でいうと、「 賢明なる読者の皆様なら 」 といった記述も、特定の読者をおだてているようで、実はバカにしているような印象がある。
あるいは、「 国民は政府に騙されている 」 なんて記述も、政府を攻撃しているようにみせかけて、実際には 「 騙されるバカ 」 を標的にしている。
問題は、国民が賢いか馬鹿かではなく、「 誰のための政府か 」 であると私は思うのだが、そういう日記を書く人は価値観が異なるようだ。
そうはいっても、たしかに周囲から誉められたり、評価されたりすると、思い上がりやすいのも事実で、自分自身も例外ではない。
これからも日記を書くときには、この心構えを大切にしていきたいと、話題の本を読んで改めて感じた次第である。
2006年05月08日(月) |
それぞれの置かれている状況と、その発言 |
「 勇気とは、窮しても品位を失わないことだ 」
アーネスト・ヘミングウェイ ( アメリカの作家 )
Courage is grace under pressure.
ERNEST HEMINGWAY
人それぞれに、好不調の波というものがあるだろう。
不調で窮している時は、何をやっても成果に結びつき難い。
あまり泣き言を吐かないタイプだと自認しているが、このところは明らかに 「 絶不調 」 で、ちょっと厳しい時期に突入している模様だ。
未来はわからないが、過去に比べると、行動の成果が結果に反映されないことが多く、途方に暮れたり、嘆いたりして苦しんでいる。
こんなときだからこそ、自分の真価が問われる時期だと自戒し、ストレスやイライラを他人にぶつけないことが肝要で、ここは耐えねばなるまい。
ビジネスや資産運用と、私生活の充実を切り離して考えるように努力しても、それぞれには因果関係があったりして、連鎖的に悪循環が起きる。
焦る気持ちや不安を 「 試練への挑戦 」 と受け止めて、冷静かつ能動的に、粘り強く対処していく不屈の精神と、不断の行動力が求められよう。
私は日記において、「 仕事とは、工夫次第で楽しいもの 」 とか、「 人生とは、明るく楽しむべきもの 」 といった、楽観的な記述をすることが多い。
それに対して、「 健康面や経済的な背景に恵まれているから書けることだ 」 とか、「 弱者への配慮が足りない 」 というご批判を受けることもある。
もちろん、自分の意見に対して共感が得られ、賞賛を受けると心地よいが、異論を唱えられ、ご批判を受けることも自分の糧になるはずだ。
だから私は掲示板に書き込まれた内容を削除しないし、ムキになって反論したこともなく、すべてのご意見を真摯に受け止めるようにしている。
真意がご理解いただけていないと感じる場合もあるが、自分の筆力が足りなかったり、表現が不適当なためにそう判断されたのだから、仕方がない。
ただ、物事に楽観的だったり、人生を積極的に楽しもうとする人間が、必ずしも豊かで健康な生活を安定的に保っているかというと、そうではない。
逆に、他人から見れば裕福で恵まれた環境にあると思われても、自分では 「 毎日が不安でしょうがない 」 という精神状態の人もいる。
つまり、それぞれの人間が置かれている状況と、その人の考え方は、仮に同じ立場であっても異なるのだということだけは、ご理解いただきたい。
むしろ、同じ人間が境遇の変化によって、思想や哲学を変えたり、言動が食い違ってくることのほうが、理不尽であり、卑しく醜いことだとも思う。
以前に比べて、厳しい状況に追い込まれてはいても、自分で正しいと信じた生き方を全うする以外に、状況を打破する手立てはないはずだ。
回りくどい表現をしたが、現在、「 窮地 」 を脱する努力をしている最中なので、けして 「 何の苦労もない 」 ような状況ではない。
窮しても他人をねたんだり、社会に憎悪したりしないのは、どんな状況でも信念を貫きたい気持ちと、「 そんなことをしても仕方がない 」 からである。
生まれ持った精神力の違いとか、「 心の治癒力 」 みたいな差よりも、その点が大きいのではないかと思う。
余談だが、たとえば 「 うつ病の人は精神力が弱い 」 ということはない。
精神力が強いからこそ限界まで我慢して破綻するのであり、精神力の弱い人は日常的に愚痴や泣き言を吐露するので、うつ病にはなり難い。
他人に公開する日記で大事なことは、「 自分の置かれている状況 」 と、「 自分が正しいと思うこと 」 を関連付けずに、信念を語ることだと思う。
自分らしく、信念に従って行動できない人は、「 他人から、こうあってほしいと望まれる人物 」 にはなれても、自分として生きることができない。
特に、窮している時には 「 マイナスのオーラを発する人物 」 や、そういった雰囲気に呑まれ、取り込まれてしまいやすいものだ。
明日からGWも明け、また世間はビジネスモードに様変わりする。
たとえ今は苦しくとも、希望をもって課題を克服し、試練に打ち勝って美酒に酔える日を、胸に描いて前進していきたいと思う。
「 重役の地位に定着している人間は、問題提起に対して解決のヒントを
出すものだ 」
マルコム・S・フォーブス ( フォーブス誌の元発行人 )
Executives who get there and stay suggest solutions when they present the problems.
MALCOM STEVENSON FORBES
資本家、出資者が社長の会社と、雇われ人が社長の会社がある。
それぞれに一長一短があり、どちらがよいともいえない。
中小企業に多い前者は、一概にいえないけれどもワンマン経営の体質になりやすく、従業員の福利厚生面などでは 「 けちんぼ 」 のところが多い。
雇われ社長の場合は、「 自分自身も従業員の一人 」 という意識が強いので、たとえば退職金制度など、従業員の待遇改善に積極的だったりする。
前者の長所は、オーナーに話を通して合意を得られれば、大抵のことはすぐに決められるので、稟議や上申などの 「 決断が早い 」 というところか。
その点、経営責任者の肩書きがあっても、雇われ社長の場合は自分一人で決められないことも多く、それに反すると 「 独断専行 」 と批判される。
外資の日本法人や、大手の子会社の社長などは、特にそういったジレンマにさらされながら、舵をとっているのが実情なのである。
GWの最中だが、阪神と村上ファンドの間では攻防が繰り広げられている。
昨年はフジテレビとライブドアの間で一悶着あったが、単なる仕手戦なのか M&A かはともかく、既存の会社を狙う集団の動きが激しい。
問題の本質を語ると長くなるので省くが、簡単にいうと、企業側が 「 守り 」 という点に対して無頓着で、警戒を怠っていたのが根本的な要因だ。
知恵と、資本と、調査能力と、他人に恨まれても気にしない度胸があれば、既存の企業を手中に収め、大きな利益を得ることも可能である。
アメリカでは日常茶飯事に展開されてきたので、各企業では対策を講じる習慣が出来上がっているけれど、日本企業の多くには危機感が足りない。
以前にも書いたのだが、日本と欧米の文化の違いは、「 ドア と ふすま 」 の違いに象徴されていると思う。
日本人は、たとえ鍵がかかっていなくても、ふすまが閉まっていれば、それを開いて侵入してはいけないという 「 暗黙の了解 」 を共有している。
だから、「 僕の会社なんだから、他人のあなたが介入しないでね 」 みたいな不文律を、社会全体が認知しているものと思い込んだ油断がある。
過去において、それに反する動きもあったけれど、合法かどうかに関わらず、彼らは 「 乗っ取り屋 」 などと蔑まれ、好ましく思われなかった。
印象が悪いのだから、以後のビジネスにも影響があるし、紳士的でないというイメージを持たれるので、国内大手は積極的に参加しなかった。
ところが、日本の企業に着目する外国資本の参入があったり、社会通念の変化などによって、近年、ビジネスモラルに対する考え方が変わってきた。
賢い企業は、資本構成を見直したり、それなりの対策を講じてきたのだが、自分たちが狙われていることなど微塵も感じない企業もある。
あるいは、狙われてから対策を考えればよいと悠長に構えている会社も、多いのではないだろうか。
実際には、狙われて動き出されたら 「 ほとんど逃げ場がない 」 のが実情で、日頃の対策が重要なのだが、そういった意識が全体的に薄い。
フジテレビは難を逃れた形となったが、あのような大騒動を招いた時点で 「 経営者の無能ぶり 」 は露呈しているわけで、格好悪い話である。
経営に参画する幹部の大きな仕事は、「 会社を守る 」 ことでもある。
危なくなってから、マスコミを通じて情緒的に訴えたり、世論を有利に導こうとすることではなく、日頃の防衛構想を打ち立てることにある。
好きか嫌いかは別として、村上ファンドの戦法は合法的なものであり、企業体質の問題があったにせよ、阪神サイドには油断と怠慢があったはずだ。
これからは、既存企業と、それを狙う頭脳集団の攻防戦が、あちこちで繰り広げられる時代になるはずで、役員にとっては死活問題となる。
この問題しかり、憲法問題しかり、日本固有の 「 島国根性 」 的な油断が、危険な局面に対峙して試される時代になってきているようだ。
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