Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2005年09月25日(日) 治安と過保護の因果関係



「 彼 ( スピルバーグ ) が子供のときは天才だなんて知らなかった。

  率直な話、わが子ながら何者なのか、まるでわからなかったわ 」

              レア・アドラー ( スティーブン・スピルバーグ の母 )

When he was growing up, I didn't know he was a genius.
Frankly, I didn't know what the hell he was.

                                  LEAH ADLER



よく、「 生まれつき 」 という表現をするが、はたしてどうか。

生まれながらにして個性が決まっていることなど、あるのだろうか。


人間の性格の99%は、環境と生い立ちによって形成されるという。

生来の性格と思い込んでいるものの多くは、実は三歳児ぐらいまでに形成された部分が多く、それを指して 「 三つ子の魂百まで 」 などと言われる。

したがって、胎内で大きくなる頃から三歳ぐらいになるまで、できるだけよい環境条件を整えることこそ、その子供の一生を左右する可能性が高い。

家庭の中で母親に抱かれ、愛されて母乳を飲み、周囲で交わされる言語を聞きながら、しだいに人間らしい性格や態度ができてくる。

もちろん、それがすべてではないけれど、重大な影響力があるだろう。


ある本に 『 インディアンの教え 』 という教訓が紹介されており、これを読むと、我々にとって、いかに子供の頃が大切かということがわかる。

○ 批判ばかり受けて育った子は、人を批判するようになります

○ 敵意に満ちた中で育った子は、誰とでも戦うようになります

○ ひやかしを受けて育った子は、はにかみ屋になります

○ ねたみを受けて育った子は、常に悪い事をしているような気になります

○ 寛大な心の人の中で育った子は、がまん強くなります

○ 励ましを受けて育った子は、自信を持つようになります

○ ほめられて育った子は、いつも感謝するようになります

○ 公明正大な中で育った子は、正義感をもつようになります

○ 思いやりのある中で育った子は、信頼をもつようになります

○ 仲間の愛の中で育った子は、周囲のものを愛するようになります


難しいことかもしれないが、「 愛情 」 と 「 過保護 」 は違う。

片方で、自分の子供を虐待するような親がいるかと思えば、生まれたときから過保護に育てすぎて、どうしようもない子供をつくる親もいる。

親としては愛情を注いでいることになるのだろうが、ちょっと困難な事態に直面すると、簡単にギブアップしてしまう 「 ひよわな人間 」 が多すぎる。

自殺者が多いことを深刻な社会問題と捉える人もいるが、世の中の人間が全般的に 「 ひよわ 」 になっていることこそが最大の原因である。

政治が悪い、経済が不振だなどと、他の理由を並べ立てても、一人一人が 「 ひよわさ 」 を捨てて強く生きられれば、自殺する原因にはつながらない。


面白いことに女性というのは、大抵の場合 「 マザコン男 」 が嫌いなのに、自分の息子ができると 「 マザコン 」 に育てようとする人が多い。

先日も友人の奥様と話していて、「 最近、小学校低学年の息子が冷たい 」 などと、なかなか “ 子離れ ” できない様子を笑いながら聞いていた。

ただ、彼女と話していて 「 なるほど 」 と思う点もあった。

最近は治安が悪くて、子供を狙う犯罪も多いので、昔のように子供同士が公園で遊んだり、町内を駆け回らさせることが難しくなっているのだという。

学校でも、子供たちだけで遊ばせず、なるべく保護者が付き添うように指導しているらしく、こんなところにも 「 過保護 」 にならざる実情がある。


治安が悪いため、子供にべったりと親が付き添い、おのずと過保護になり、やがては 「 ひよわな人間 」 が社会人となり、困難に遭遇して挫折する。

それが現代の風潮だとすれば、かなり将来が不安である。

逆にいうと、治安を回復することで、子供たちをのびのびと育てられ、たくましい人間を多く輩出できるという論理にもつながる。

できれば、いま一度、そういう世の中にしたいものである。

そのためにも、特に 「 子供を巻き込む犯罪 」 に対しては、厳罰と確固たる予防措置を以って、治安の安寧をはかることが、重要ではないかと思う。






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2005年09月21日(水) 昨日の自分は別の人間



「 私は昨日に戻ることはできない。

  なぜなら、昨日の私は別の人間だったのだから 」

        ルイス・キャロル ( イギリスの数学者、聖職者、童話作家 )

I can't go back to yesterday,
because I was a different person then.

                              LEWIS CARROLL



ルイス・キャロル といえば、『 不思議の国のアリス 』 の原作者である。

この童話は ファンタジー だけでなく、精神分析の分野からも注目された。


身長が伸び縮みしたり、鏡をくぐり抜けた先にある “ あべこべ世界 ” など、童話の登場人物 アリス は、作品の中で様々な怪奇現象を体験する。

言語哲学者、精神分析医などの間では、作者である ルイス・キャロル 自身が、実は、同じような体験に苦しんでいたのではないかという説が強い。

1955年、イギリスの精神科医 J・トッド は、これら、自己の身体像や事物の変形体験が見られる症例を 「 不思議の国のアリス症候群 」 と名付けた。

大脳の病気などが原因とされる症例で、現在も多くの患者が苦しんでいる。

思い当たる節がある方は、専門医に相談されたほうが望ましい。


ちなみに冒頭の名言は、個人的に気に入っているものの一つだ。

過去の失敗に落ち込み、後悔してクヨクヨするよりも、新しい自分の可能性に賭けるという生き方は、まさに私の信条としているところである。

生きている限り、誰でも失敗するし、落胆することもあるけれど、自分自身の存在を嫌ったり、自己を否定する必要などない。

反省すること自体は悪くないが、自己嫌悪や自己否定からは何も生じず、問題解決の糸口をつかむことも、自分の責任を果たすこともできない。

ならば、「 昨日の自分の失敗を、明日の自分が取り返す 」 ぐらいの心意気をもって、しっかりと前を向いて歩くことが最善ではないだろうか。


恋人と喧嘩した後の “ 謝り方 ” にも、この言い回しは利用できる。

ひたすら頭を下げて、「 昨日の自分はどうかしていた、今後の自分をみてくれ 」 みたいな調子で謝るのも、仲直りの常套手段である。

実はつい最近も、この “ 謝り方 ” を駆使して、彼女との危機を回避した。

もちろん、技術的な問題だけでなく、きちんと誠意を示すことが大事なのだけれど、言葉というものは重要なコミュニケーションツールの一つだ。

ただし、あまり頻繁に 「 この手法 」 を使うと、効果が薄れていくばかりか、高価なプレゼントとか、別のアイテムも必要になるので要注意である。






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2005年09月18日(日) 小学生のイタズラ



「 凡人は自分より優れているもののことは何も知らない。

  しかし才能ある人は天才を直ちに見分ける 」

                 アーサー・コナン・ドイル ( イギリスの小説家 )

Mediocrity knows nothing higher than itself,
but talent instantly recognizes genius.

                         ARTHUR CONAN DOYLE



ご存知 「 シャーロック・ホームズ 」 の生みの親である。

医学を修めて開業したが、その後、作家に専念したらしい。


冒頭の名言が正しいとするならば、逆説として 「 凡人でも、自分より優れていないもののことは理解できる 」 という見方ができる。

私はたぶん凡人なので、政府のおエライ人たちのことはよくわからないし、あまり興味もないし、自分のことで精一杯である。

ネット上では、総理が馬鹿だとか、姑息だとか、悪人だとか吹聴する人々も大勢いるようだが、彼らはどれほどの 「 才能ある人 」 なのだろうか。

他にやることもあるだろうに、明けても暮れても総理の批判に膨大な時間を費やす人々を、私は自分よりも 「 優れていないもの 」 だと思う。

だから私は、私を含めた全国民を代表して リスク を負っている総理を揶揄しないが、その批判にエネルギーを傾注する人々は馬鹿だと知っている。


日本国民は誰でも、満20歳になると国会議員の選挙権が与えられる。

選挙によって選ばれ、公職につくことのできる 「 被選挙権 」 は、参議院議員と県知事は満30歳、それ以外は満25歳以上の国民に与えられる。

つまり、30歳以上の人なら誰でも、その気になれば国会議員に立候補できるわけで、国会議員や総理大臣というのは、けして特別な人間ではない。

その立場に 「 なろうと努力した人間 」 と、しなかった人間という差があるだけで、それは彼らにだけ与えられた権利ではないのである。

私が 「 なろうとしなかった 」 のは、あまり 「 割の良い仕事 」 と思わないことや、自分の性分に合わないと判断した結果ではないかと思っている。


国会議員の中でも特に、総理大臣をやろうかなんて決意は、並大抵の勇気で出来ることではない。

小泉首相の場合も、平壌に行って北朝鮮の首脳と交渉したり、郵政を民営化するなどと提言したり、かなり革新的な行動を起こしてきた。

その結果が良いとか悪いとかはともかく、彼はその権限を獲得し、実行した人間で、私は 「 何もしなかった凡人 」 であることは間違いない。

もちろん、「 何もしなかった凡人 」 にも、その実績を評価したり批判する権利はあるけれども、自分は 「 何もしなかった 」 ことを忘れてはいけない。

そう思うから私は、たとえば政治の話をするときには 「 自分が何者か 」 ということを踏まえて考えを述べているし、これからもそうするだろう。


一度も政治の舞台に立ったことも、リスクを張って世の中の役に立とうとしたこともない様子の人が、「 小泉はあーだ、こーだ 」 と批判する。

たまにはよいが、毎日、かなりの時間をかけて攻撃材料を集め、執着的に難癖をつけて批判し、糾弾しまくるのは狂気の沙汰である。

当然のことだが、いくら繰り返したところで、それを小泉氏本人が閲覧することはないだろうし、メールを送っても事務方が笑い捨てるだけだろう。

大抵は、彼らも会社員だったり、何かの仕事を持っているはずだが、こんな無駄な作業に多大な時間を割いて、まともに働けているのだろうか。

まれに職場の話題が出ているが、給料が減ったとか、賞与が少ないとかの話ばかりで、「 だったら、本業に力を入れたらどう? 」 と疑問に感じる。


仕事には、「 自分にしかできないこと 」 と、「 自分がやったほうがよいこと 」 と、「 誰にでもできること 」 がある。

仮に小泉批判が 「 必要な仕事 」 だったとしても、自分や、その家族が健康で豊かな生活を維持するための 「 別の仕事 」 のほうが重要であろう。

当の本人は、批判を 「 自分にしかできないこと 」 のように感じて熱中しているのだが、周囲はさめた目でしか見ないし、ご家族は 「 災難 」 である。

そんな暇があったら、少しは自分や家族のために 「 マシな仕事 」 をするか、よほど働くのが嫌なら、家族サービスでもしたほうが望ましい。

だいたい、総理大臣の悪口なんて 「 誰にでもできること 」 であって、どんな立派な屁理屈を並べたところで、所詮は小学生の悪戯レベルである。






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2005年09月12日(月) 自民党が圧勝



「 人民の意志が、どのような政府にも唯一の正当な基盤であり、

  表現の自由を守ることが、当然、私たちの第一の目的である 」

          トーマス・ジェファーソン ( アメリカ合衆国第3代大統領 )

The will of the people is the only legitimate foundation of any government,
and to protect its free expression should be our first object.

                           THOMAS JEFFERSON



1ヶ月近く更新を休んでしまったので、書き方を忘れそうである。

一部の皆様にはご心配をお掛けしたが、元気に暮らしている。


長く日記を書けなかった理由としては多忙が挙げられるが、実はもう一つ、それなりの理由らしきものがある。

それは、今回の “ 衆議院選挙 ” に、私自身がちょいと関与しているためで、たいした貢献もしていないのだが、一応、日記を自粛した。

私自身は、あまり昔から政治に興味がないので、どの政党の、どの議員を手助けしたのかを語るつもりもないし、何の役割を務めたのかも語らない。

行きがかり上、やむなく引き受けただけで、どうでもいいことだ。

それでも、日記を書く上で衆院選のことは避け難いので、しばらく自粛していたのだが、終わったので再開することにした。


自民党の圧勝に終わったが、感想としては “ 良かった ” と思っている。

もし、民主党が勝利した場合、やはり私は “ 良かった ” と言うだろう。

冒頭の言葉にある通り、「 人民の意志が、どのような政府にも唯一の正当な基盤 」 であり、どんな結果でも、それは “ 人民の意志 ” なのである。

人民の選んだ人物が代議士になり、より多くの得票数を得た政党が議会を運営することに、何の問題があるというのか。

自分の支持政党が負けたからといって、それを “ 間違った結果だ ” などと語る人物は、冷静に考えると 「 思い上がり 」 も甚だしいのである。


政治家のみならず素人でも、大衆を 「 愚民 」 扱いして、選挙戦の結果を揶揄したり、批判的な意見を繰り延べる人がいる。

彼ら曰く、「 国民は馬鹿だから、真実がみえない 」 のだそうである。

なんとも失礼な意見だが、仮にそれが事実だとしても、一国の政局は国民のために運営されるべきなのではないだろうか。

ごく一部の自称 “ 賢い ” と言う人たちのために、大半を占めるであろう彼らからみた “ 馬鹿な国民 ” の意志が通らないのはおかしい。

今回の例でいうと、国民が自民党を支持したのだから、そういう連中が何を言おうと、日本の与党は自民党でよいのである。


ちなみに、私自身も投票には行ったし、当然、まったく興味がないわけでもないが、先ほども述べたように、それほど強い支持政党への執着はない。

この国は問題点も多いが、それなりに暮らしやすい良い国である。

真面目に働いて暮らしてさえいれば、いきなり野生の動物に襲われることもなく、三度の食事にありつけ、毎夜ごとに眠る場所を探さないですむ。

それは、どの政党が支配したところで、あまり変わらないだろう。

だから、なんだかんだ言っても “ どっちでもいい ” のである。


もちろん、ずっと先の心配をした場合、自分なりに 「 どの政党に任せたほうが、将来の不安が少ないか 」 ということについては考える。

しかしながら、自分が幸せか不幸かという根拠に、政権政党と支持政党の違いを挙げる可能性は皆無で、ほとんど何の影響も及ぼさないと思う。

つまり、自分自身はどの政党が政権を担ったところで、同じやり方で幸せに近づく努力をするだろうし、責任を “ そこ ” には求めない。

どうしても政府の庇護がなければ生きていけない人たちを除けば、大半の国民は同じような環境に置かれているのではないだろうか。

それなのに、選挙の結果を批判したり、あるいは絶望したり、憂いたりする人たちというのは、ちょっと 「 自責 」 の概念が低いように思う。


ほぼ間違いなく、いま幸せな人たちの大部分は、自民党が勝とうが民主党が勝とうが幸せなはずで、不幸な人たちもまた同様である。

そのような立場にある不幸な人の、不幸な原因は 「 あなた自身 」 にあるのであって、どの党もそれを庇ってくれたり、和らげてくれることはない。

環境が激変すれば幸せになれるなどと、「 棚からボタ餅 」 みたいな期待を抱いていることこそ、なんとも不幸で哀れな話なのである。

あるいは、「 どうせ不幸なんだから、現世を呪ってやれ 」 みたいな連中が、政権与党の愚痴と批判に明け暮れているようにしかみえない。

ネット上にも多く潜む、多勢の国民を 「 馬鹿扱い 」 する彼らに対して、同調するかどうか、これを読んだ皆様には慎重に考えていただきたいと思う。






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