「 一つのドアが閉まるとき、別のドアが開く。
しかし、閉まったドアをいつまでも残念そうに見つめているので、
私たちのために開いているドアが目に入らないということがよくある 」
アレクサンダー・グラハム・ベル ( アメリカの科学者、電話の発明者 )
When one door closes, another opens; but we often look so long and so regretfully upon the closed door that we do not see the one which has opened for us.
ALEXANDER GRAHAM BELL
過ぎたことをクヨクヨ悩んでみても、物事は解決しない。
新しいドアを開いて前に進むことが、何より大切なのである。
思い出とか記憶というものの類は、自分が生きてきた証でもあるが、それに執着し過ぎると、マイナスの側面が多いかもしれない。
過去の失敗をはじめとする嫌な記憶にこだわり続けたなら、人生が不幸に思えてくるし、成功や実績にこだわり過ぎると、自慢たらしい人間になる。
嫌な記憶は 「 忘れるにかぎる 」 と人は言うが、お気に入りの記憶もまた、ほどほどに忘れるぐらいが良いのかもしれない。
その向こうに何があろうと、とっくに古いドアは閉鎖され、釘を打ち付けられているのに、うらめしく眺めていたところで、何にもならないではないか。
人の一生は短く、過去にしがみついて生きられるほど、暇もゆとりもない。
カウンセリングをしていると、「 過去のトラウマ 」 を持った人たちの話を聴くことも多いが、彼らには 「 忘れちまえ 」 と言うようにしている。
逆に、「 過去の栄光 」 を引きずる人に対しては、どうしても、誉めてあげたり、持ち上げるような応対をしてしまいがちだ。
なぜならば、人は 「 誉められると喜ぶし、自信を持つ 」 からである。
自信を漲らせ、やる気を引き出したり、行動の動機付けをすることが我々の仕事なので、それ自体は間違った対処法でもない。
しかし人によっては、輝かしい過去こそが 「 足枷 」 となって、前に進めないケースがあることも、また事実なのである。
時間は人を変えるが、周囲の状況も一変させることがある。
過去を見つめている人は、自分の姿だけではなく、まわりの風景や、他の登場人物についても、昔の面影に想いを馳せている。
ビジネスの成功も、「 その時代だから通用した仕事のやり方 」 であるとか、「 その時代だから効力を発揮した知識や能力 」 という事例が含まれる。
自信を持つのは良いことだが、今ではすっかり通用しなくなったスキルを、後生大事に抱えて自慢する人たちは、ちょっと困った存在である。
新しいドアに目を転じるという言葉には、古い記憶を忘れなさいという戒めと同時に、新しい時代への順応が求められるという意味が含まれている。
中高年のビジネスマンと話していると、そのような 「 過去の栄光 」 を鎧にして、現在の自分の立場を認めようとしない人が多いことに気付く。
その度に 「 やれやれ 」 とため息をつき、自分は彼らとは違って進歩的で、ドライな現代人だという自己評価をしてきた。
仕事も恋愛も、日常生活のすべてが、今は昔と違う。
日進月歩で変化する時代に対応して生き抜くには、「 忘れる 」 という能力と、「 時代に馴染む 」 という習性が、不可欠ともいえるだろう。
何かを 「 忘れる 」 のに苦労しているようでは、私も古い人間なのだろうかと、今夜も宵の口から深酒しながら自問している。
「 如才のない人というのは、女性の誕生日はいつも覚えているが、
彼女の年齢は決して覚えていない人だ 」
ロバート・L・フロスト ( アメリカの詩人 )
A diplomat is a man who always remembers a woman's birthday but never remenbers her age.
ROBERT.L.FROST
英語の [ diplomat ] を辞書でひくと、「 外交官 」 という訳が現れる。
ときによって、それは 「 如才のない人 」 という意味でも使われる。
WEB日記を書いていると、その内容によっては、他人の批難を浴びたり、茶化されたり、中傷されることもある。
どちらかというと、過敏に 「 そういうこと 」 を気にしない性格であり、自分の書いたものに責任を持つ意味でも、過去日記を削除することはなかった。
しかし、4年間で初めて、ある日の日記の全文を削除することにした。
本来、「 書くべきでない日記 」 だと知っていたが、ある方の愛について書かれた日記に感銘を受け、「 返信 」 のつもりで書いたのである。
その方から、ご覧をいただいた旨のメールをいただいたので、確認のうえ、削除することにした次第だ。
別に、内容が不謹慎だとか、倫理観に背くといったことではない。
削除した理由は、自分で読んで 「 切ない 」 からである。
他人からの評価など気にしないが、自分が辛くなるような日記など、早々と消し去ったほうが得策である。
いつまでも残したり、記憶に留める必要などなく、そこに出てくる登場人物と同様に、「 忘れる努力 」 をすることが肝要であろう。
いささか卑怯な気もするが、「 忘れる 」 ことでしか決着しない恋もある。
一部の方が 「 誤解 」 をされているようなので、補足をつけ加える。
今回の恋は私の 「 片思い 」 であって、自分の気持ちを告白したわけでも、相手から想いを告げられたわけでもない。
だから、それを 「 何かの始まり 」 だと考えるのは誤りで、何も行動を起こさなければ、成就することも、破綻することもない。
その相手とは、これからも頻繁に会う可能性があるが、心の 「 もやもや 」 は墓場まで、密かに持っていくつもりである。
気まぐれで、飽き性の私なら、墓場に辿り着くまでにどこかへ 「 置き忘れ 」 てしまう可能性のほうが、ずっと高いだろうけれど。
私は、たぶん 「 如才のない人間 」 である。
情熱的に恋をしたつもりでも、どこか冷めたところがあって、けして自分が傷ついたり、損をすることがないように計算し、上手く立ち回っている。
なるべく相手のプライドも損ねないように気をつけ、汚い部分から目を反らすようにして、記憶の背景に色を染める如く、美化する心得も知っている。
もちろん、「 引き際 」 も知っているし、危ない橋は渡らない。
それを 「 ズルイ 」 と呼ぶか、「 オイシイ 」 と呼ぶのか、「 如才がない 」 と呼ぶかは人それぞれだが、どれも間違いではないだろう。
経験が多いだけでは、恋の 「 エキスパート 」 ではない。
しかし、「 片思いの恋 」 のほうが、発展するよりも心地良い場合があることを、様々な経験から学んでいることも事実である。
学んでいるからこそ、「 不可侵 」 な領域には、入り込みたくても入れないという習性が、どっぷりと身に付いているのだろう。
自分自身のそんな部分も 「 切ない 」 といえば 「 切ない 」 のだが、これから先も、そんな自分と付き合っていくのである。
安全装置のような、自分の 「 如才のなさ 」 は、これからも私を守り続け、その代償として 「 切なさ 」 を求め続けるのかもしれない。
「 恋は愚か者を賢くし、賢者に愚行をさせる 」
サミュエル・ジョンソン ( イギリスの批評家、ジャーナリスト )
Love is the wisdom of the fool and the folly of the wise.
SAMUEL JOHNSON
取り立てて 「 愚か者 」 でも 「 賢者 」 でもない場合は、どうなるのか。
たぶん、「 何も変わらない 」 のではないだろうか。
また、冒頭の名言が正しいのならば、「 何度も繰り返し恋をする人間 」 は、だんだん賢くなっていき、どこかを頂点にして、また馬鹿になっていくのか。
だいたい、「 恋 」 の定義も難しい。
ちょっと好きになる程度のことを 「 恋 」 と思う人もいれば、そうではないと言う人もいるし、何が 「 本物の恋 」 なのかは基準が曖昧だ。
自分自身で振り返ってみると、たしかに 「 あれは “ 恋 ” だった 」 だとか、「 あれは “ 気まぐれ ” だった 」 とか、それぞれに違いはある。
しかし、その違いすらも 「 別れた後で気付く 」 ことが多く、付き合っている最中に意識することは少なかったように思う。
さて、人間には 「 嗜好 」 というものがあり、たとえば 「 好きなタイプ 」 などというのも、人それぞれに異なっている。
あるいは、「 同性から好まれないが、異性からは好かれやすい人 」 なんて存在も、世の中にはあるようだ。
たとえば、異性に甘えて媚を売るような女性を、嫌う女性は多い。
それはきっと、彼女の 「 作戦 」 であって、ずる賢いところに嫌悪する女性達が 「 気をつけなさい 」 と、対象にあたる男性に注意を促しているのだ。
ご忠告は、ありがたく、真摯に受け止めるべきだろう。
ただ私自身は、それを 「 作戦 」 と見抜けないほど、経験が浅いわけではないし、簡単に騙されるほど初心でもない。
ならば、彼女の作戦は成功しないかというと、そうではない。
私は、そういう 「 策を巡らす女性 」 が、大好きなのである。
善い悪いではなく、これも一つの嗜好なのであって、胡散臭い出会いとか、わざとらしい転び方とか、女優っぽい涙とか、そういうのも嫌いじゃない。
ちなみに、「 フェロモン系のきつい香水 」 を嗅いだ時も、周囲の 「 さっき、臭かったよね 」 なんて会話に同調しているが、本当は好きだったりする。
当然のことだが、「 好き 」 なのと 「 付き合おうとする 」 のは違うし、好きなタイプを片っ端から口説いて回るほど、暇でも、元気でもない。
また、いくら面倒だからといっても、手近なところに居る口説けそうな女性に手を出すほど、飢えてもいないし、節操がないわけでもない。
それに、異性に関してはかなり 「 飽きっぽい 」 性格のようだ。
だから、ご心配いただくような事態にはならないし、万が一、そうなった場合の面倒臭さや、「 損得勘定 」 ぐらいはできる人間である。
それに、いまは仕事が忙しくて、楽しくて、それどころではない。
「 人を高めるのは、苦難でなくて回復である 」
クリスチャン・N・バーナード ( 心臓外科医 )
Suffering isn't ennobling, recovery is.
CHRISTIAAN.N.BARNARD
未曾有の悲惨な列車事故が、とても身近な地区で発生した。
犠牲者の皆様の冥福を祈り、謹んで哀悼の意を申し上げる。
大量輸送機関による事故では、乗り物の 「 どの位置に 」 居たかによって、ときには生死を分かつことがある。
亡くなられた方々のご不幸は疑いようもないが、運良く助かったといっても、それが安易に 「 幸運 」 などと呼べるものではない。
多くの方にとって、この列車は通勤、通学の手段であったり、生活のために欠くべからぬ交通機関として、日常的に利用されていたはずだ。
都内で起きた 「 地下鉄サリン事件 」 のときも同じだったが、被害に遭った多くの生存者は、これからも同じ区間を利用しなければならない。
たとえ 「 こんな悲劇 」 があろうと、そこから目を背け、遠ざかることすらできない宿命を、生存者の多くは苦悩として抱えることになる。
現在、日本には約1万2千名の 「 臨床心理士 ( 医師約400名を含む ) 」 がいて、人々の心の問題を専門的に取り組む仕事に就いている。
それ以外にも、各種機関で教育を受けた カウンセラー、サイコセラピスト、心理相談員などの名称を持つ専門家が、それぞれの分野で活動している。
私のように、ビジネスマンのキャリア開発や、転職、就労など仕事上の悩みを主に担当するカウンセラーは、対象者の 「 治癒 」 が目的ではない。
それでも 「 一般の素人 」 とは違い、一通りの養成を受けて資格を取っているわけで、実務面でも 「 心のケア 」 という作業に深く携わっている。
近畿だけでも、相当数の 「 専門家 」 がいることは間違いない。
皆、仕事を抱えていたり、別のボランティアを行っていたりして、多忙な毎日を過ごしていると思うが、少しぐらいの余力は残しているだろう。
事件発生後、夜までの間に、そんな仲間たちからの電話が鳴り続け、彼らの一部は自治体や JR からの召集がなくとも、参加する意気込みがある。
京阪神の人間は、「 阪神大震災 」 の体験があるので、心のケアの必要性については、十分に認識できているのだ。
かといって、各々が勝手に勇み足で行動しても、現時点では当局の混乱を招く恐れもあるので、協会に主旨を伝えることとなった。
そういうわけなので、「 GW に会えない 」 ということになっても、心変わりしたわけではないのでお許しを願いたい ( 私信 )。
「 あなた以外に、あなたに平和をもたらすものはない 」
ラルフ・ウォルドー・エマーソン ( 思想家 )
Nothing can bring you peace but yourself.
RALPH WALDO EMERSON
日中首脳会談の実現によって、きな臭い雰囲気は収束しつつある。
これでまた、日本は 「 平和である 」 という妄想の世界に引き戻される。
中国における暴徒化した抗日デモは、けしからん話であったが、今の日本の平和が 「 安泰ではない 」 という事実を伝える教訓にはなった。
常に北朝鮮にばかり気をとられ、もっと強大で、経済、文化の面などで密接な関係にある中国が、ある日突然 「 牙をむく 」 脅威を忘れかけていた。
あの国が、溢れる民衆のエネルギーを自在にコントロールすれば、どのような結果を招くかということについて、改めて知った人も多いだろう。
韓国も、潜在的に 「 日本の安全保障上の脅威 」 になる可能性はある。
我々が好むと好まないとに関わらず、日本が戦争の放棄を謳い続けたところで、戦争が永遠に、日本を放棄してくれるとはかぎらない。
ただ、そんなことを悲観しながら生きていてもしょうがない。
いつか 「 空が落ちてくるんじゃないか 」 などと心配しているようなもので、そんなことに神経をすり減らしても、あまり意味など無い。
大事なことは、国の平和よりも 「 自分自身の心の平穏 」 にある。
いくら世界が平和でも、自分の心の平和が安寧でなければ、たえず悲観的に、いらぬ緊張をしながら、ビクビク暮らすことになる。
そんなことでは仕事の業績など上がらないし、人生を楽しむなんてことからは、よほど縁遠い生活になってしまうだろう。
中国のデモにかぎらず、国内の平和を訴えるデモや、集会などを煽動している人たちの多くは、とても殺伐とした顔色をしている。
どちらかというと、主張そのものより、その人の内的な不満の捌け口として、シュピレヒコールを叫んでいるような素振りもみえる。
むしろ戦争を起こすのは、こういう 「 殺伐とした連中 」 のストレスが、大衆に伝播するケースが多いのではないかとも思う。
心が穏やかで、自分のストレスと上手く付き合っていける人たちは、そういう騒ぎの片棒を担ぐこともなく、いたって平和に暮らしている。
すべてとは言わないが、大声を出して練り歩くデモ隊も 「 一種の攻撃 」 であり、騒音による迷惑などに無配慮な、暴力的行為の一環である。
本当に平和を望むのならば、まず、自分の心を平和に保つことである。
それは、どこの国の軍隊でも、憲法9条でも成し得ることはできず、自分の気持ちの持ちようによってしか、平定することはできない。
自己主張の強い人は、すぐに 「 他人をコントロールしよう 」 とするけれど、自分自身の心や感情を制御したり、平穏を保つ能力に欠けている。
これでは、いつまでたっても 「 幸福な未来 」 などやって来ない。
仮に周囲が 「 思い通り 」 になったとしても、自分の中に平和が訪れないのだから、永遠に、平穏とは無縁の存在に孤立してしまうのである。
2005年04月24日(日) |
Be yourself. |
「 本来の自分になりなさい。 さもなければ、あなたの母親になりなさい 」
ウッディ・アレン ( アメリカの俳優、映画監督、脚本家 )
Be yourself. If you can't be yourself, be your mother.
WOODY ALLEN
自分が 「 なれないもの 」 になろうと試みることは、不幸の一因である。
変化を求めて努力することと、「 自分らしさ 」 を失うことは別問題だ。
自分の 「 母親になれ 」 というのは、ウッディ・アレン流のジョークだろうが、なかなか本質を突いているかもしれない。
要するに、「 気取らず、自分らしく生きよう 」 という教訓が含まれた言葉であり、もし、自分の母親の目線で見ても、それは正しいかを問うことだ。
身の程以上に立派でなくとも、最低限、自分で決めたルールぐらいは守り、胸を張って生きていたいものである。
誰の目を誤魔化せても、自分の 「 心 」 に嘘はつけない。
自分自身を厳しく律する必要はないが、理想や欲望を追求するあまりに、本来の自分を失って、失速した飛行機のように墜ちていく人も多い。
大抵の人は、「 本来の自分 」 というスタイルを崩さないかぎり、それなりの長所や魅力を携えていて、それぞれに素敵な存在なのである。
向上心を持つのは良いことだが、背伸びをしたり、見栄を張ったり、実際の努力や行動以上に自分を見せようとすれば、どこかに無理が掛かる。
ときには、「 自分がなれないもの 」 になろうとして、素直な気持ちや、本来の自分らしさといった、かけがえのない大事なものを犠牲にしてしまう。
人間は誰でも、自分を 「 変えることができる 」 のも事実だが、多少、他人に比べて劣っていると感じても、すべてを捨て去るのは愚の骨頂だ。
オリジナルの自分を持たない人間が、理想の人物像を演じきったところで、そんな血の通わない 「 模倣の塊 」 には、誰も魅力を感じたりしない。
とある知人の女性と、久しぶりに再会した。
以前は地味で無口な印象だったが、派手で、しかも饒舌になっていた。
性格が明るくなったのは結構なのだが、不自然なほどに開放的で、かつての品位や、知性をかなぐり捨てるかのような、軽々しい応対が気になる。
彼女は、ある企業に転職したのだが、そこでの仕事が水に合わず、何度も職場で泣いたり、あげくの果ては体調を崩し、辞めてしまったそうだ。
辛く暗い傷心の日々を忘れるためか、無理に明るくつとめているらしい。
気になったので声をかけ、二人きりで話すことにした。
彼女の不自然な 「 陰から陽への揺り戻し 」 は、かえって自分を疲れさせ、そんな振る舞いは長続きしないことを諭した。
自分らしく 「 自然体 」 でいいということを、彼女は理解してくれたようだ。
彼女はとても魅力的で、お互いに 「 お相手 」 が居なければ、あるいは友達以上の仲になっていたかもしれない、自分と気の合う女性である。
彼女から、どうして 「 私の異変に気づいたか 」 を問われたので、それは 「 君が無意識に、私に “ SOS ” を送っていたんだよ 」 と答を告げた。
2005年04月23日(土) |
人生を思うままに過ごすこと |
「 成功とはただ一つ。 人生を思うままに過ごせることだ 」
クリストファー・モーリー ( アメリカの詩人、小説家、随筆家 )
There is only one success - to be able to spend your life in your own way.
CHRISTOPHER MORLEY
何を 「 思うまま 」 にするかによっても、結果は違ってくる。
さほど大きな野心を持たなければ、思うままに過ごせる可能性は高い。
まだ人生が終わったわけではないが、これまでの人生において、ある程度 「 思うまま 」 に過ごしてこれたような気がする。
あるいは、「 気の向くまま 」 なだけかもしれない。
いづれにせよ、学びたい学校に入り、働きたい仕事に就き、好きな女性と恋をし、行きたい国へ旅をし、美味しい物を食べてきた。
そう豪語すると、誰もが口を揃えて 「 恵まれてるなぁ 」 と言うかもしれないが、では、他の人は違うのだろうか。
学びたくもない学校へ入り、働き甲斐のない仕事をやらされ、好きでもない女性と交際し、行きたくない土地に訪れ、不味い物ばかり食べてきたか。
実際は、そうじゃないはずだ。
まず、学校や企業については、希望が低かったか、あるいは努力が足りなかったことで、目標を下げざるを得なかったのではないだろうか。
希望が低かったり、努力を怠った結果として、それなりの進路を歩んだのだとしたら、その結果は、自分の 「 思うまま 」 の実績ということにもなる。
恋人や伴侶に不満があっても、一度は 「 好き 」 と思ったから付き合ったのだろうし、交際した時点では 「 思いのまま 」 だったのではないだろうか。
食べ物も、旅の目的地も、選択した時点では 「 思いのまま 」 だったろう。
つまり、大抵の人は 「 物事を自分の判断で決める 」 という能力を持っているわけで、それなりに 「 思うまま 」 に過ごしてきたわけである。
他人や、他人の持ち物と比較したり、それを羨むことで不満が生まれる。
不満や後悔など 「 不幸 」 の要因となっている事柄の多くは、自分の怠慢や、選択の結果であり、自分の 「 思うまま 」 による副産物なのだ。
犯罪や災害の被害に遭ったり、不慮の事故に巻き込まれる不幸は別としても、大半の人々は 「 必然的な行動の結果 」 が、現況を構成している。
だから、世を恨んだり、自分の 「 運 」 が無いなどと嘆くのはおかしい。
皆、自分の 「 思うまま 」 に生きさえすれば、人生の成功者なのだ。
他人と比べて裕福になったとか、そういう問題ではない。
結果がどうであれ、自分の意志に基づいて行動し、その責任を自分で負える人間ならば、どんな生き方をしようと、人生の成功者である。
逆に 「 成功者でない 」 のは、上手くいかない理由を他人に求めたり、自分の落ち度を自覚できていない 「 他責の人 」 である。
生き甲斐、達成感、生きる喜び、他人への感謝、挑戦意欲などの低い人は、そのあたりを再度、振り返ってみる必要があるのではないだろうか。
「 赦しとは、踏みにじられたスミレの花が、自分を踏みにじった
かかとに放つ芳香である 」
マーク・トウェイン ( アメリカの作家 )
Forgiveness is the fragrance the violet sheds on the heel that has crushed it.
MARK TWAIN
若い頃、キリスト教徒の友人と、酔った勢いで喧嘩になったことがある。
彼の 「 右の頬 」 をぶったら、「 左のカウンターパンチ 」 が返ってきた。
現実とは、そんなものである。
なかなか、「 右の頬をぶたれて、左の頬を差し出す 」 ような芸当はできないもので、それを実行するには不屈の精神と、相当な心のゆとりが要る。
友人とは、類を同じくするような人間の集まりであることが多く、彼がそれをしたなら、それは私の友人と呼べるかどうかさえ疑問であろう。
暴力はよくないが、「 殴られたら、殴り返す 」 ぐらいのほうが自然であり、殴り返さずに微笑んでいるなんて、かなり不自然ではないだろうか。
そんな不気味な人間を 「 人格者 」 と言うのなら、もちろん私は人格者ではないし、人格者などと友達になりたいとは思わない。
彼の信心が足りないとか、人格に問題があるわけではない。
彼は、相手の望むこと、つまり 「 こちらが殴ったのだから、文句があるなら殴り返してこい 」 という期待に応えただけである。
それで、お互いがスッキリしたのだから、何の問題もない。
もし、「 左の頬 」 なんか差し出されたなら、スッキリするはずもないし、それ以後の友情が続いていたかどうかわからない。
この話を持ち出した意味は、暴力を肯定するわけではなく、「 自然な反応 」 というものが、なにより一番ではないかということを言いたいのである。
ある国が、別の国の人たちを苦しめ、酷い目に遭わせた。
被害を受けた国の人たちが怒り、加害者に謝罪や賠償を求めるのは自然であり、訴追された側が非を認めるならば、速やかに応じる必要がある。
国家間の戦争と個人的な犯罪は同じでないが、それを 「 罪 」 と呼ぶならば、しかるべき 「 罰 」 が与えられることは納得できる。
あるいは、そのような 「 合法的な処分 」 だけでは被害者の無念が晴れないならば、なんらかの 「 報復 」 が行われることもあるだろう。
殴られた人間が 「 殴り返す 」 ほうが、物事がしっくりいくこともある。
ただし、一度は決着した問題を、数十年後に蒸し返すのはおかしい。
相手が罰を受け、罪を償い、謝罪したにも関わらず、いつまでも赦さないという姿勢を貫くのは、正常なこととは思えない。
償いきれない罰や、取り返しのつかない罪というものもあるだろうけれど、だからといって当事者ではない 「 孫子の代まで恨む 」 のは異常である。
しかも、その数十年の間、両国は和解し、発展的な経済活動や、友好的な外交関係を協調しながら、お互いの立場を尊重してきたのだ。
つまり、そのような状態で相手の 「 左の頬 」 に殴りかかるるのは、もはや過去の報復ではなく、新たな 「 攻撃 」 の始まりとみるほうが正しい。
中国における反日デモは、「 内政の不満から目を逸らすため 」 に、民衆が外敵を憎むように仕向けた 「 中国政府の陰謀 」 によるものであろう。
思わぬ大騒動になり、貿易上の不都合や、あるいは和平上の妨げにまで発展したことは、中国政府自体が驚き、「 誤算 」 と感じているはずだ。
しかし私には、中国政府だけが悪く、「 何も知らされていない民衆 」 に罪が無いとは思えない。
自分たちの野蛮さ、横暴さに気づかないほど、彼らは無知でも、無教養でもなく、「 悪いこと 」 と知りつつ、暴挙に走っていることは明らかだ。
ここで日本が 「 左の頬 」 を差し出せば、たしかに 「 人格者 」 にもなり得るが、それで積年の課題が 「 スッキリ 」 するかというと、逆効果である。
「 他人の過ちから学ぶことが必要だ。
自分でそれらすべての過ちをするほど、長生きはしないのだから 」
ハイマン・G・リッコーバー ( アメリカの海軍工兵将官 )
It is necessary for us to learn from others' mistakes. You will not live long enough to make them all yourself.
HYMAN.G.RICKOVER
なんでもかんでも 「 境遇 」 のせいにし、不平不満を言う人がいる。
あるいは、文句を言わないまでも、それで落ち込んでいる人がいる。
自分は特別な境遇にいるので、「 お前なんかに、俺の気持ちはわからん 」 と、こちらが相談に乗ってやろうとしても、頑なに心を閉ざす人がいる。
病気や、何かの障害や、あるいは家庭の問題などで悩んでいる人の中に、そういった態度を示す人が多いようだ。
カウンセラーという肩書きを持つと、不思議と彼らの態度が変わる。
それは、たとえば 「 傾聴 ( けいちょう ) 」 といったカウンセリングの技能であったり、技術的な工夫もあるけれど、肩書き自体の影響力が大きい。
しかし、それでも話を聞き出せる程度のことで、こちらから差し伸べる助言に対して、真剣に受け止めてくれる人は少ないようだ。
たしかに、特別な境遇にあって 「 それ以外の環境では体験したことのない痛み 」 を抱える人たちと、同じ気持ちになることは難しいだろうと思う。
だが、推測し、思いやり、一緒に考えることはできる。
それを拒絶し、「 お前にはわからんよ 」 と自分の殻に閉じこもっていては、何の解決にもならないし、ますます孤立するだけである。
友人や、家族や、本当にその人の幸せを願っている人々ならば、100%は理解できないとしても、閉ざされた心を開いて話し合うべきだろうと思う。
現代の若者に 「 そういう事例 」 が多いのは、情報化社会とは名ばかりで、「 人間的なコミュニケーションは不足している時代 」 が一因と思われる。
たしかに、機械的なコミュニケーションは、携帯電話やパソコンなどの発達によって、大いに進化し、急速な成長を遂げてきた。
しかし、人間的なコミュニケーションについては、どうだろうか。
人は気持ちを伝えるときに、言葉や文字によってだけではなく、仕草や表情の微妙な変化によって、本当の 「 サイン 」 を送ることがある。
それらを読み取り、相手の感情を汲むという修練が、最近は欠けているような気がしてならない。
文字や言葉にできない 「 本当の気持ち 」 こそが、実は大切なのであって、その 「 やり取り 」 が無い時代だからこそ、心を閉ざす人が増えている。
また、「 人に迷惑を掛けない 」 という意味を、誤って解釈する人も多い。
自分のミスだから、他人に相談したら迷惑が掛かるとか、面倒に巻き込むだけだという気持ちが強いために、自分の中に閉じこもる人もいる。
特に日本人は、「 人に迷惑を掛けない 」 という言葉を絶対的に正しいのだと信じ、その言葉の正当性を疑うことを知らない。
たしかに、嫌がらせのような迷惑は掛けないほうがよいし、自分の出来るところまでは努力するほうが望ましいけれど、それがすべてではない。
時には小さな助力を求めたり、心を許せる相手に多少の面倒をかけるぐらいは、さほど気にするほどのことでもないはずである。
冒頭の言葉の通りに、自分が体験したこと以外にも、人間は多くの事柄を他人から学んでいて、それがあるからこそ生きていけるものである。
同じ体験が無いから 「 わかりっこない 」 などと、決め付けてはいけない。
受け止める側も、「 想像がつかない 」、「 考えたこともない 」 などと、相手の気持ちを慮ることがないようでは問題がある。
カウンセラーという仕事を通じて、私が思うことは、「 どうして、誰にも相談しなかったのか 」 という疑問と、相談できない世の中への憤りである。
人間らしさが置き去りにされる中で、人々の悩みは増殖しているようだ。
「 過去には帽子を脱いで敬意を表し、
未来には上着を脱いで立ち向かいなさい 」
クレア・ブース・ルース ( アメリカの劇作家、編集者 )
Take your hats off to the past, but take your coats off to the future.
CLARE BOOTHE LUCE
年長者には敬意を表すが、未来ある若者ほど重要とは思えない。
ましてや、若者の邪魔をする老人ほど、見苦しいものはない。
私の周囲には、「 もう一花、咲かせたいね 」 という老人が多く、野心が強いせいか、ボケてもいないし、年齢のわりには若々しい。
それ自体は結構なことなのだが、「 老いては子に従え 」 という言葉もある。
こちらが敬意を表しているのをいいことに、傍若無人な振る舞いや、過去の栄光を引きずるような 「 高圧的な態度 」 で接してくる人もいる。
年下というだけで、なんの上下関係も無いのに無理難題を押し付け、断ると 「 年寄りを大切にしなきゃいかんよ 」 などと哀願口調に転じる。
年寄り扱いすると怒るくせに、都合が悪くなると 「 年寄り 」 を演じる。
中年というのは、「 年寄りの予備軍 」 なのか、「 若者のなれの果て 」 なのか、はたまた別の存在なのか、なんとも微妙なところだ。
以前、40歳の女性の就職を世話したことがあるが、自分の年齢について彼女は、「 微妙な年齢でしょ 」 と自己評価していたのを覚えている。
女性向けの就職情報誌などをみると、「 35歳まで 」 という案件が多くて、それを過ぎると、36歳も、45歳も、それほど変わらないようだ。
男女とも、この年代は 「 老け具合 」 の個人差が大きく、実年齢でバッサリ振り分けるのは、ちょっと間違っている気もする。
しかしながら、求人する側にすれば 「 なんらかの年齢制限 」 を置く必要もあるので、それを 「 35歳まで 」 にしている企業が多いのだろう。
服装や、見た目の若々しさではなく、「 まだ成長が止まっていない 」 という人は若く、自分で 「 ピークを過ぎた 」 と思えば老けているのかもしれない。
私自身が 「 老けたなぁ 」 と感じるのは、細かい字が読みづらく、老眼鏡が要るので、電車で文庫本を読むのが億劫になってきたところである。
また、その話をした後で、「 視力自体は、今でも 1,5 なんだけどね 」 などと、言い訳がましく説明するところに、さらに中年の悲しさが出ている。
カラオケで 「 ORANGE RENGE 」 などを歌ってみるが、ラップのところが 「 棒読み 」 になってしまうのにも、軽く老いを感じる。
歌い終わった後、そんな気もないくせに 「 そろそろ演歌でも覚えないとね 」 などと、自嘲ぎみに笑って誤魔化すのも、「 ジジイ化 」 の兆候である。
大抵、人間は 「 美しいもの 」 が好きである。
年をとることは 「 醜く 」 なることでもあり、40代で美しい女優さんがいるといっても、所詮は若い娘さんに勝てない。
もちろん、男性も女性も、お互い様である。
旦那が若い女性に見とれていると、「 もうッ、男ってのはしょうがないわね 」 などと怒っている奥様が、「 KINKI KIDS 」 のファンだったりもする。
ただ、すべての男女が 「 若い異性が好き 」 なのかというと、そうでもなく、美しさに見とれるのと、好きになるのとは別問題のようだ。
幸い、まだ白髪も少なく、殆ど見当たらず、先祖の写真を見ても、遺伝的に 「 禿げる家系 」 ではないようで、自分の髪の量は多すぎるぐらいである。
よし、「 まだまだイケる 」 と自信を持ち、颯爽と出かける。
ところが、家を出て電車に乗っているとき、大事な点に気づいた。
父方の祖父も、母方の祖父も戦争で死に、父の兄弟は若くして病死し、母も早くに亡くしたので、我が家の 「 先祖の写真 」 は皆、若いのである。
つまり、「 禿げない家系 」 ではなく、「 早死にの家系 」 なのであって、この先は、禿げることよりも、もっと別の心配をしなければいけないのだった。
2005年04月18日(月) |
そんなこともわからんのか |
「 知識には二つのタイプがある。 一つは物事を知っていること。
もう一つは、それをどこで見つけるかを知っていることである 」
サミュエル・ジョンソン ( イギリスの詩人、批評家、随筆家 )
There are two types of knowledge. One is knowing a thing. The other is knowing where to find it.
SAMUEL JOHNSON
知識のみならず、誰でも 「 いま持っているもの 」 には限りがある。
だから、生きるには 「 これから手に入れるもの 」 も必要になってくる。
自分はいい大学を出ているとか、一流企業に入ったとか、役職であるとか、そんな 「 過去 」 で勝負することの無意味さは、そういうところにある。
いわゆる 「 履歴 」 なんてものは一過性の権威でしかなく、なにかの拍子に価値が下落したり、ほとんど値打ちを失ってしまう率も高い。
それに対して、品性とか、人格とか、「 その人から奪いようのない資質 」 というものは、人間にとって一生の財産になるものである。
たとえば、「 他人の意見に素直に耳を傾け、なにかを学ぼうとする姿勢 」 もそこに含まれるもので、自分は物知りだと錯覚する人よりも優れている。
古い知識を大荷物のように抱えている人よりも、毎日、少しづつでも新しい発見を繰り返す人のほうが、よほど 「 価値ある知識人 」 といえるだろう。
大昔の百科事典をめくると、月面予想図という頁に 「 タコのような異星人が月面を闊歩している絵 」 が描かれていたりする。
古い知識というものは、時代の変化や、科学の発達などによって陳腐化し、持っていることの意味を消失する可能性も高い。
あくまでも 「 参考 」 程度に留め、時代が変わったら柔軟に修正を加えたり、場合によっては思い切って 「 切り捨てる 」 覚悟がいる。
私は日記の冒頭に 「 著名人の名言 」 を引用しているが、現代に通じるものを選び、そうでないものは捨てるか、反面教師的に使うようにしている。
知識は大切だが、それぞれに 「 賞味期限 」 があると思ったほうがいい。
獰猛な獣も、母性からか、種の保存本能からか、我が子を教育する。
ただ食事を与えるだけでなく、「 猟の仕方 」 を教え、自分がいなくなっても自活できる方法を、きちんと教える習性が備わっている。
わからないことがあったら 「 答 」 を教えるという教育では、お腹が空いたら餌を与えるというのと同じで、その場は解決しても進歩がない。
人間の場合も、すぐに 「 答 」 を求めたり、しきりに聞きたがってくる御仁が多いが、ここで簡単に与えてしまってはいけない。
大事なことは 「 答 」 そのものではなく、それを導き出す思考や、プロセスの正しさにある場合が多いのである。
人間はコンピューターと違い、創造的能力というものが求められる。
単に知識を詰め込むだけなら、機械でも十分に出来る時代になった。
その知識を活用したり、足りない情報をどこかから引っ張り出してきたりすることこそが、人間の与えられた使命となる。
そのためには、現状に満足せず、ましてや 「 自分は賢い 」 などという思い込みに陶酔したりせずに、常に 「 学ぶ姿勢 」 が必要である。
先日、国立大学も出ているのに 「 そんなこともわからんのか 」 と叱責した相手への 「 そんなこと 」 とは、知識の問題ではなく 「 そんなこと 」 である。
「 人間は何事も人に教えることはできない。 ただ、人が自分の中に
ある能力を発見するのを手伝うことならできる 」
ガリレオ・ガリレイ ( イタリアの物理学者、天文学者 )
You cannnot teach a man anything; you can only help him to find it within himself.
GALILEO GALILEI
適性検査の結果を示されただけで、簡単に 「 自己認知 」 などできない。
自分が何者で、何の仕事に相応しいかを知るには、かなり時間が掛かる。
コンサルタントという仕事は幅広いが、私の場合は 「 企業 」 の業務改善や社員教育という分野を、主に担当してきた。
ようやく軌道に乗ってきたが、「 飽き性 」 というか、「 好奇心が旺盛 」 というか、新しい仕事、刺激的で創造的な新事業に参加する誘惑に勝てない。
そんな折、公共的な人材教育の民間委託事業に関与する知人から、個人を対象とした 「 カウンセラー 」 の仕事を引き受けるように依頼があった。
たまたま、某資格を持っていたことや、本業の大半を任せられる人材にも恵まれ、彼が短期間で著しい成長を遂げてくれたので、条件は整った。
長い下準備を経て、カウンセラーとしての第一歩を踏み出したのである。
多くの 「 プロ・カウンセラー 」 がそうであるように、私の場合も、それだけでは、たいした報酬にありつけない。
だから、カウンセラーの中には 「 隠居したような老人 」 や、年金、副業などによる 「 別所得 」 を擁する人が就いているケースが多い。
そのため、最近は平日の大半をカウンセリングに充て、夜間と休日に本業の事務処理、整理などを行う生活が続いている。
好き好んで始めたことなので、忙しいとか、儲からないとか、愚痴や不満をこぼす気はないし、実際のところ、刺激的な新生活を大いに楽しんでいる。
過去の 「 お金儲け 」 とは正反対の仕事だけれども、そういった過去があるからこそ、自分の特性を見込まれ、また、それを活用できるのである。
プロの仕事とは、「 対価に相応する実績を提供すること 」 という概念を持ち続け、いままでは仕事をしてきたつもりである。
それが 「 私 」 であり、それ以外の生き方は考えられなかった。
映画 『 七人の侍 ( 54東宝 ) 』 に登場する侍の如く、ボランティアでもなく、かといって高額の報償が目当てでもない仕事がある。
今回は、それと同じように、自分の腕を見込んでくれた依頼者に対し、薄給と、義侠と、己の意地を賭けて、新しい闘いに挑む心境になった。
あの侍たちを駆り立てた 「 何か 」 が、今は少し理解できる気がする。
私の人材教育は、以前から 「 コーチング 」 の技法を執っている。
医者や教師というのは、「 こちらが知っていることを一方的に伝える 」 のが仕事だが、ビジネスマンを育成する場合に適しているとはいえない。
コーチングでは、正解を教えるのではなく、「 答を自分で見つけさせる 」 とか、当事者に 「 気づかせる 」 ことを目的としている。
だから、こちらが正解を知らなくても問題ないし、正解かどうかということよりも、本人の 「 気づく 」、「 やる気が起こる 」 ことこそが成果となる。
人間は誰にでも 「 無限の可能性 」 が与えられているもので、それを引き出そうなんて楽しい仕事は、お金には換えられない醍醐味があるのだ。
2005年04月16日(土) |
閉ざされた世界の教育 |
「 学問は結局、世のため、人のためでなくてはならない 」
柳田 國男 ( 日本民族学の創始者 )
Lerning, after all, must serve the world and the people.
KUNIO YANAGITA
教育とは、本来、そうあるべきものだろう。
文部省にも不満はあるが、最低限 「 そこ 」 を目指す姿勢は評価できる。
独裁国、あるいは一党支配の国においては、事情の違うこともある。
教育を 「 思想統制 」 の手段として、統治者に都合のよいように加工して、人心をコントロールするために用いられているのだ。
中国で反日デモが起こるのも、北朝鮮の国民が 「 将軍様 」 を崇めるのも、フセインの残党が 「 聖戦 」 で殉死するのも、その影響が強い。
本来、優れた教育が偉大なところは、一人に 「 徳 」 を教えれば、その徳は何万人にも拡がり、一世代の教育は百の世代にも伝わることだ。
現在、「 社会人教育 」 に携わっているが、「 人を教育することで世の中はよくなり、自分が死んでもその効果は絶えることがない 」 ことを願っている。
逆に、歪曲した知識や考え方を 「 教育 」 という名のもとに流布した場合、国全体を誤った方向に導いてしまう危険がある。
洗脳された国民が誤りに気付き、自ら軌道修正を施すのは容易でない。
日本の場合は 「 敗戦 」 で、旧ソ連の場合は 「 社会主義経済の崩壊 」 という、いづれも大きな犠牲を払って、ようやく修正を遂げたのである。
時の権力や指導者が変わらない状態で、大勢が誤りに気付き、姿勢を正すなどということは、ほとんど期待できないようにも思う。
自国の教育を疑い、異論を唱えること自体が、独裁国では不可能に近い。
中国や韓国が 「 一体、いつになれば、日本を許すのか 」 といった問題も、それと同じように考えたほうがいいだろう。
現在、太平洋戦争の責任を追及する人はいても、日露戦争や、日清戦争、第一次大戦の補償を要求する人はいない。
戦争の被害があったとする国々が、そこで 「 戦争 」 と名指しているものは、二国間で直近におきた 「 太平洋戦争 」 のことだけである。
つまり、将来において両国との間に新たな戦争が起きたとすれば、今度はそちらの戦後処理、戦争責任の追及に、矛先は変わっていくだろう。
それまでは、現在の対立、恨みの矛先、賠償目当ての申し立てが収束する期待は低く、何年も、何百年も、お互いの 「 不協和音 」 は消失しない。
真理に触れることのない 「 閉ざされた世界の国民 」 とは、そういうものであり、自分たちの行為が 「 蛮行 」 か、「 正義 」 なのか、判断もつかない。
少なくとも、彼らが受けてきた 「 教育 」 に反する行為ではない。
中国政府が、デモ隊を本気で鎮圧したなら、日本人、日本企業への攻撃を止めさせることが、彼らの 「 教育 」 を否定することにも繋がりかねない。
あれだけの騒動を、中国政府が黙認する背景には、あるいはその理由が強いという可能性もあるのではないだろうか。
新たな戦争でも起こらないかぎり、不毛な軋轢は続いていくのだろう。
「 一つの国だけしか知らないことは、どこの国も知らないと同じである 」
セイモア・マーティン・リプセット ( アメリカの政治社会学者 )
Those who know only one country, know no country.
SEYMOUR MARTIN LIPSET
英文にも、なかなか 「 味のある文章 」 がある。
引用文の最初の 「 知る 」 と、後の 「 知る 」 では微妙に意味が違う。
前者の 「 知る 」 は 「 普通に知っている 」 ことを表し、後者は 「 深い意味での知る 」 ことを示している。
単語にすると、どちらも [ know ] だが、読み手のほうが二つの異なる意味を理解しながら読まなければならない。
このような 「 言葉のマジック 」 みたいなものは、日本語特有の難しさであると捉えている人も多いが、けしてそんなことはない。
行きもしないで、交わりもしないで、「 ○○人とは、こういう民族だ 」 などと決め付けるのは愚の骨頂で、偏見というより 「 無知 」 に近い。
外国には、日本と違った別の文化や思想があり、どちらが上で、どちらかが劣っているなどと、簡単に言い切れるものではない。
最近の若者に多い 「 引きこもり 」 という現象は、自分の 「 自己認知 」 をはかるうえで弊害のあることが広く知られている。
人間は、他人の姿に自分を投影して、「 自分とは何者か 」 を知ろうとする生き物であり、自分と比較する他人との交流なくして、それは出来ない。
誤った自己認知は、自分への過大評価、あるいは過小評価につながって、仕事をはじめ、日常生活全般への悪影響、精神健康度の低下を及ぼす。
それと同じように、「 日本とは、日本人とは 」 を知る上で、留学や、転勤などの機会を得て、長く海外に駐在することには意味がある。
もちろん、素直な心を失い、偏見と固定概念に凝り固まった人間の場合は、海外経験が豊富だからといっても、真実に気付かないのが実態だ。
だから、できるだけ若く、素直な心を忘れないうちに、海外経験を積ませる ( 具体的に言うと、留学ということになる ) ことには意義がある。
動機は、物見遊山でも、不純なものでも構わない。
目的は、「 国際感覚を身につけるため 」 だけでなく、外側から眺めてみることで、「 もっと日本という国を深く知る 」 ことも含まれる。
私自身も、「 海外を知って、日本を再認知した 」 経験者の一人である。
できれば、短期の旅行ではなく、実際に現地に住み、地元の人々と交流ができるような環境を与えることのほうが、効果的で望ましいと思う。
親御さんにとっては、それなりの費用が掛かるのだから、投資に見合う効果というものがあるのか、その点が気になるのも当然のことだ。
現実的に、「 元を取る 」 という狙いが大きいのならば、英語圏の有名校に通わせて、修士、学位を持ち帰らせるのが一番であろう。
MBAなどを取得し、TOEIC 900点レベルをキープできれば、就職の際には有利だし、将来において離職しても、それなりの仕事でお呼びが掛かる。
見知らぬ異国に我が子を送り出すには、お金以外の心配もあろう。
最近は日本も 「 進んで 」 きたが、性に関する開放度、秩序には差があるので、ウブな子には 「 性教育 」 は施しておいたほうがいいかもしれない。
歴史を振り返ると、「 空海 」、「 最澄 」 など、日本の仏教の基礎を築いた人々は、皆、中国に留学している。
明治時代の多くの指導者は、ヨーロッパやアメリカに留学した。
昔から 「 井の中の蛙、大海を知らず 」 という諺もあるが、井戸の中にいるだけでは、大海どころか、井戸の全容すら見えないのが実態である。
もし、「 投資に見合う具体的な成果 」 が期待できないとか、その後の就職に役立つような有名校に入れないとしても、やはり留学をお勧めする。
人間は 「 他者の視点 」 を持つことで、自分の存在を相対化できるし、他人への配慮も出来るようになるもので、教育手段として適しているからだ。
「 世の人はわれをなにともいわばいえ、わがなすことはわれのみぞ知る 」
坂本竜馬 ( 土佐脱藩浪士 )
Whatever people may say about me, I understand what I'm doing.
RYOMA SAKAMOTO
坂本竜馬を研究すればするほど、彼が 「 変わり者 」 だったことがわかる。
当時の武士の概念から外れていただけでなく、日本人的でもない。
日本に来た外国人の教師が、英会話の授業で必ず戸惑うことがある。
それは、日本人の生徒に意見を求めると、助けを求めるかのように周囲を見回して、なかなか自分の意見を言わないという現象だ。
日本文化の顕著な特徴の一つに 「 集団主義 」 があり、日本人の行動は原則に基づくと言うよりも、周囲の人間との調和を基点としている。
坂本竜馬らは、冒頭の名言のように 「 他人がどう思おうと、自己の信念に生きて行動した 」 極めて珍しいタイプの日本人である。
少数派ではあるが、日本の歴史を創ってきたのはそういう人々で、これは皮肉だが示唆的な歴史の現実ともいえるだろう。
自分の意見を持たず、あるいは ( 持っていても ) 言わずに、全体の流れに乗っているだけではつまらないし、組織全体の成長もない。
かといって、確固たる根拠もないのに、常に多数派を疑いの眼差しで眺め、闇雲に異論を唱えるのは、ただの 「 天邪鬼 」 でしかない。
論拠を固め、多数派を圧倒するほどの説得力を持ち、その主張が全体のためになることを理解させ得る 「 プレゼンテーション能力 」 が必要となる。
自己の信念を貫きたいと願う人は大勢いるが、交渉力、プレゼンテーション能力、コミュニケーション能力などが欠けていて、大抵は成功しない。
あるいは、その人自身の 「 人徳 」 とか 「 人間力 」 みたいなものが未熟では、上辺で支持する人はいても、最後までついてきてくれない。
持論を展開する際に、反対意見を持つ人が何人いてもかまわないけれど、最後まで支持、賛同してくれる人間が何人いるかが大きな問題となる。
ある会社で若手幹部が 「 謀反 」 のような発言を興し、ちょっとした騒動になったのだが、火種はやがて小さくなり、いつの間にか消えてしまった。
誰が 「 もみ消した 」 わけでもなく、自然に鎮火したのである。
言ってる内容は正論だが、発言者自身の人格や、私的な損得へのこだわり過ぎる傾向を悟り、最初は支持した人たちが徐々に離れてしまったのだ。
日頃は労働を 「 生活のため 」 と嘯いている人たちも、実際には 「 大義 」 を求めていて、生半可な人間の誘いには乗らないことを改めて感じた。
「 現実が、夢を壊すこともある。
だから、夢が現実を破壊することがあってもいいじゃないか 」
ジョージ・ムーア ( アイルランドの作家 )
Reality can destroy the dream; why shouldn't the dream destroy reality?
GEORGE MOORE
ビジネス書の多くには、「 人間の能力には、ほとんど差が無い 」 とある。
それを、「 出来の悪い人への慰め 」 と受け取る人もいる。
私としては、「 人間の能力には、ほとんど差が無いけれども、ほんの僅かな心構えの違いが、大きな個人差となって成果に現れる 」 ものだと思う。
たとえば、積極的な性格で成功を収める人間と、そうでない人間の違いは、けた外れな勇気や冒険心といった資質の差ではない。
実際は、何かの選択肢に迫られたとき、「 五分五分なら、やってみる人 」 と、そうでない人の違いぐらいなものであることが多い。
この差は、気まぐれで、ほんの僅かな違いなのだが、その人の生き方や、人生観、職業観、適性といったものに大きく影響している。
慎重なのはよいことだが、あまり度が過ぎると、「 先など見えない人生 」 を十分に満喫できず、悲観的で、消極的な生き方を招いてしまうこともある。
このところ、若者の就労率が低下し、若年層の失業者が増加している。
リストラなどで職を失った中高年者もいるが、労働市場には、ベテランよりも若い層を受け入れる需要のほうが圧倒的に多い。
つまり、若年層のほうが 「 職探しは簡単 」 なのである。
にも関わらず、総体的に若年層の求職者の多くは、就職活動に無気力で、中高年者の多くは、かなり積極的に活動している実態が見受けられる。
だから、数少ない 「 積極的な若年求職者 」 にはチャンスが多く、それほどスキルが高くなくても、条件のよい職に就くことができる。
積極性とは別に、成功する若者と、そうでない若者との違いは、将来への 「 夢 」 や 「 希望 」 を持っているかどうかの差もある。
いまは具体的な目標など無いけれど、そのうち 「 何かいいことがあるかもしれない 」 程度のものでもよい。
極東のいざこざや、地球温暖化や、破滅的、悲観的な情報やら知識を頭に詰め込んで、評論家気取りの 「 冷めた若者 」 が巷に溢れている。
彼らからみると、夢や希望を持った若者などは、「 能天気で馬鹿な連中 」 と映るようで、「 ダサい 」 お人好しの域を出ないものだろう。
しかし、実際に 「 ダサい 」 のは、何の夢も持たず、勝負もしないで諦めている側の人間、つまり 「 人生を楽しめない人間 」 のほうである。
もちろん、中高年も 「 夢 」 を持っていいし、より具体的な夢を描き、自分の叶えたい夢を 「 自己認知 」 できるのは、むしろ中高年者である。
夢を頓挫した背景に 「 現実 」 という壁があったのなら、次はその壁を乗り越えるか、ぶち壊す方法を考えてもいい。
それができない理由は、自分で思い込んでいる 「 どうしようもないから 」 ということよりも、本当は 「 いまさら面倒だから 」 という理由のほうが多い。
若者が 「 五分五分なら、やってみる 」 のに対し、中高年者は 「 一分でも望みがあるなら挑戦してみる 」 ぐらいでないと、積極性は活かされない。
そのぐらいの覚悟や、夢や、積極性もなく、「 頭デッカチで心はカラッポ 」 というようでは、いくら利口ぶってみても 「 ダサい 」 のである。
2005年04月11日(月) |
窮地に立つ管理職の対応 |
「 中間管理職と真のリーダーシップとの微妙な半歩の違いは、
プレッシャーの下で優雅さを保てるかどうかだろう 」
ジョン・F・ケネディ ( アメリカ合衆国第35代大統領 )
The elusive half-step between middle management and true leadership is grace under pressure.
JOHN.F.KENNEDY
ケネディの名言には、「 古臭さを感じさせるもの 」 が少ない。
若くしてこの世を去ったからか、あるいは先見の明があったのか。
企業で管理職を経験している人ならば、ケネディが遺した冒頭の文の意味するところを、十分に理解できるだろう。
ありがちな 「 仕事に追われる → 忙しくなる → 部下や周囲への気配りが足りなくなる 」 というパターンに、誰しも一度は悩むものである。
特に若いうちは、管理職とはいえども 「 プレイングマネージャー 」 として、指導するだけでなく、自らも行動し、結果を出すことを要求される。
こんなときに、「 能力の低い部下 」 の存在などは、実に厄介なものだ。
平時なら、「 それも、その人の個性 」 として認め、なんとか良い部分を引き出してやろうと努力できても、緊急時になると追い詰められてしまう。
部下からみると、「 普段は親切なのに、忙しくなると手のひらを返し、自分のことで精一杯になってしまう 」 ような上司を、どう評価するのか。
独善的な偽善者、器の小さな奴、そんなところだろう。
むしろ、普段は厳しく叱責するけれど、肝心なときにこそ動じず、細かいミスなど笑って許し、でんと構えている上司のほうが頼もしい。
厳しく指導してきたのは 「 この時 」 のためだと諭し、責任は俺が取るから、自分の力を信じて思い切りやってみろと、発奮させるほうが効果的だ。
追い込まれたときの態度こそが、その人の 「 真の姿 」 なのである。
英語では、「 窮地にあって勇敢に頑張る、動じない、元気をなくさない 」 という意味のイディオムに、[ keep a stiff upper lip ] という表現がある。
緊張したり、動揺したりすると唇が震えることから、その言葉が生まれた。
上唇をしっかりと固定して、的確な指示を自信たっぷりに与えるためには、普段から繁忙時、緊急時を想定した修練を積んでおくことが重要となる。
自信とは、経験や知識から生まれるものなので、小さな仕事で成功事例を積み重ね、暇なときには誰よりも知識や情報を集めて武装しておくことだ。
暇だからといって怠けたり、ろくな指導もせずに部下を放置していると、窮地に立ったときに 「 手のひらを返す 」 しかなくなってしまう。
ダメな集団をみると、忙しくなると上司が狼狽し、部下は青ざめている。
優秀なチームは、まずコーヒーでも飲んで一息つき、上司から静かに短い指示が出ると、「 何をすべきか 」 知っている部下が、いきいきと活動する。
消防の避難訓練と同じで、普段の修練が厳しければ厳しいほど、いざという時に落ち着いて、円滑に作業が進められるものである。
部下から嫌われたくないがために、普段 「 甘っちょろい接し方 」 しかしていない管理職にかぎって、自分が追い込まれると豹変することが多い。
部下というものは、自分が困っていないときの 「 上司の対応 」 には無関心なもので、有事の姿勢にこそ興味を持っていることを忘れてはならない。
「 将来の文盲とは、読み書きのできない人ではなく、学ぶことも、学んだ
ことを捨てることも、また、学び直すこともできない人のことである 」
アルビン・トフラー ( アメリカの著述家、未来学者 )
The illiterate of the future are not those who cannot read or write, but those who cannot learn, unlearn and relearn.
ALVIN TOFFLER
英語で 「 無教養 」、「 文盲 」 を意味する単語は [ illiterate ] である。
しかし、この文中にある 「 将来の文盲 」 は、違う人種を指している。
それは、「 読めるのに読まない 」 とか、「 ものを読まない 」、「 活字離れの 」 などを意味する形容詞 [ aliterate ] のことである。
せっかく本を読む能力があっても、読まないのなら、何の役にも立たない。
あるいは、「 読んだつもり 」 になっていても、内容をまったく理解していないようでは、はたして 「 読んだ 」 といえるだろうか。
大学を卒業していても 「 無教養な人 」 や、中学校しか卒業していなくとも 「 見識の高い人 」 がいるのは、そういうところに起因している。
私が日頃、「 学歴は重要、学校歴は無意味 」 と唱えているのは、その点を指摘しているもので、その人の 「 知的能力の真価 」 ともいえるものだ。
日本国憲法を守れとか、ことあるごとに 「 それは違憲だ 」 と揶揄するのが大好きな人々がいる。
当然、その人は 「 日本国憲法を熟知しているもの 」 と、他人は思う。
ところが、「 ローマ法王が死去し、各国首脳が弔問したのに、小泉総理は行かなかった 」 ことを、大きな問題があるかのごとく批判する。
たしかに、この話は一見すると 「 筋が通った話で、外交上のマイナス 」 に見えなくもないが、それでも 「 行けない 」 のには理由があるのだ。
それこそが、「 日本国憲法 」 の足枷によるものである。
ちゃんと 「 読解力 」 のある人間が読んで、歴史上、隣国が日本に対して 「 どのような難癖をつけたか 」 を考えれば、すぐに謎は解ける。
日本の憲法では、「 宗教の自由 」 が保証されており、総理自らが、特定の宗教に関して 「 肩入れ 」 することは、認められていない。
もちろん、総理自らにも 「 宗教の自由 」 は認められているのであるから、キリスト教徒として参列することは、個人の自由である。
しかしながら、靖国神社に参拝した折の映像や、普段の活動等からみて、どうみても 「 キリスト教徒 」 だとは考え難い。
ローマ法王は、たしかに偉大な人物で尊敬に値するが、国家元首ではなく 「 宗教上のトップ 」 であるのだから、総理が参拝すべき理由はない。
私はむしろ、この一件で 「 小泉 純一郎 」 という人物を見直した。
二流の政治家なら、このときぞばかりに 「 人気取り 」 のパフォーマンスを展開し、聴衆にアピールしようとしただろう。
そして後日、「 護憲派 」 と称した天邪鬼な団体や、隙あらば難癖をつけようとする隣国から、「 憲法違反 」 だとして批判されたはずである。
ひょっとすると、本人は 「 とても行きたかった 」 のかもしれない。
そうならば、「 引き留めたブレーン 」 が優秀だったのだろう。
大学を卒業し、世間に物申すのはよいが、このように 「 不勉強、あるいは考えが浅い 」 ために、物事の本質が見抜けない人たちが実に多い。
他人が自分の期待と違う行動をとったときに、賢い人は 「 なぜだろう 」 と理由を考え、そうでない人は 「 中傷する目的 」 で凝り固まってしまう。
けして、そういう人たちを責めようとか、蔑もうとか、そういう意図はないが、「 せっかく字が読めるのだから 」 もう少し考える習慣を持って欲しい。
もちろん、私の思う 「 説 」 も間違いで、「 ただ面倒だから行かなかった 」 というのが真相かもしれない。
どちらが正しいかが問題ではなく、「 理由を考えることもなしに批判する 」 ことが、常識人として、あまりにも愚かでお粗末だということである。
* 考えてください
問 : 10℃のコーヒー900CCに、5℃のミルク100CCを入れる。
すると、何度になるでしょう?
「 美しいものと共に生きたものだけが、美しく死ぬことができる 」
岡倉 天心 ( 評論家、美術史家、思想家 )
He only who has lived with the beautiful can die beautifully.
TENSHIN OKAKURA
大阪の桜は、いまが満開の真っ盛りである。
来週は荒天が続く見込みなので、今日、明日がピークかもしれない。
一年で、ほんの僅かな期間しか咲かない桜の花を、日本人は愛で、それを肴に酒を酌む習慣が長く定着している。
昔は、花見というと梅の花が主流だったそうだが、日露戦争の祝勝記念に全国で桜を植樹して以降、徐々に桜を観る機会に変わってきたらしい。
その壮麗さ、散り際の儚さ、潔さは、日本人の美学に通じるところがある。
軍歌 『 同期の桜 』 は、まさにそれを謳ったもので、「 パッと咲いて、パッと散る 」 なんて思想は、当時の軍国教育にもピタリと適合した。
大学の合格発表を伝える電報にも、「 サクラサク 」 だとか 「 サクラチル 」 なんて符号がよく使われていたものである。
学校教育の観点から捉えると、入学、進学の時期を、現在の 「 春 」 から 「 秋 」 へと変えることが望ましいと私は思う。
欧米と半年 「 ずれる 」 ことで、留学や、帰国子女の受け入れには不便があり、なにかと不都合が多いのである。
それでなくとも少子化で生徒数が減る日本の学校側は、優秀な生徒を海外に取られるという制度を歓迎しない風潮もみられる。
また、「 入学式には桜の風景が似合う 」 という、まことに情緒的な理由から時期を変えられないという意見も多く、逃げ口上に利用されている。
しかしながら、留学制度の改善がなされず、「 東大 」 程度がトップレベルという認識から脱せないようでは、学力水準の向上が望み難い。
今年は、アチコチから 「 花見と称した飲み会 」 に誘われることが多い。
十数年前、世間が 「 バブル景気 」 に浮かれていた頃、やたらと花見やら忘年会、新年会といった飲み会の誘いが多かったことを思い出す。
11月の初旬から忘年会の予約が殺到し、1月の予定は新年会で埋め尽くされていたのである。
笑い話だが、「 これじゃ、12月から新年会をやらないと間に合わないね 」 などという冗談が、日常的に交わされていたりした。
それを思うと、今年の花見が盛況なのは、僅かながら 「 景気の回復 」 を感じさせる背景があるような、そんな気がしないでもない。
2005年04月08日(金) |
日本人が守ってきたもの |
「 指導者が最後に試されることは、他の人たちに自分の志を実行する
信念と意志を残して、死ねたかどうかということである 」
ウォルター・リップマン ( ユダヤ系アメリカ人ジャーナリスト )
The final test of a leader is that he leaves behind in other men the conviction and the will to carry on.
WALTER LIPPMANN
日本はなぜ、太平洋戦争終結後、今日まで平和を貫いてこれたのか。
護憲派の言う通り、「 憲法九条 」 のおかげなのだろうか。
日本の平和を語るとき、大部分の人は 「 外敵から身を守る 」 という視点に重きを置き、それを最初に考えることが多い。
具体的には、日米安保の是非とか、隣国との協調に主眼を持つ。
なかには、闇雲に、妄信的に 「 憲法九条 」 を万能の杖のように語る人もいるが、それはちょっと 「 論外 」 であろう。
先日、ケーブルテレビで 映画 『 日本の一番長い日 ( 67東宝 ) 』 が放映されていたので、何度も観た映画だが録画しておいた。
今日、時間があったので、懐かしみながら鑑賞した。
この映画は、昭和二十年八月十四日から、十五日 ( 終戦の日 ) にかけての、激動の24時間をドラマチックに描いた名作である。
既に 「 ポツダム宣言 」 を受諾し、終戦は決まっているのだが、それを将兵や、一般国民にどう知らしめるか、政府首脳部は悪戦苦闘する。
ご存知の通り、日本の軍隊というのは 「 猪突猛進型 」 で、退くことを教えなかったばかりか、弱気の姿勢を全面否定してきた。
事実、八月十四日の夜にさえ、帰還することのない 「 特攻機 」 は出撃し、日本の勝利を信じる国民は、皆、歓喜の声でそれを見送っている。
日本が戦争に負け、「 無条件降伏 」 することなど、一般の国民は誰一人として、想像もしていなかったのである。
軍部の中には、「 負けるだろうな 」 と思っていた人間が少なくない。
しかし、彼らは彼らで、「 本土決戦 」、「 玉砕 」 という末期を予測していたので、日本列島に敵軍が上陸する前に降伏するとは、考えていなかった。
事実、広島、長崎に原爆を落とされた後というのは、「 退きどき 」 としては遅すぎる決断で、国民のためというには中途半端な時期であった。
降伏の指示を不服とする青年将校たちは、どうせ負けるのなら、本土決戦を敢行し、せめて一矢を報いたいと、クーデターを画策し 「 決起 」 する。
決起した彼らが狙いをつけたのは、「 玉音盤 」 である。
玉音盤というのは、天皇陛下の 「 玉音放送 」 を録音したレコードのことで、十四日に収録し、宮内庁で保管され、翌朝、放送局に届けられた。
有名な 「 朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み〜 」 で始まる玉音放送は、ともすればクーデターで奪われ、放送されなかったかもしれないのだ。
玉音放送が流れてしまうと、いくら軍部が決起して戦争を続けようとしても、国民の支持は得られず、すべてが 「 万事休す 」 となる。
それを守ろうとした宮内庁、放送局、軍の首脳部らの努力により、玉音盤は無事に放送され、八月十五日正午、戦争は終わったのである。
映画なので、脚色された部分もあるとは思うが、その日の正午に自決した将兵が多数いたことは、歴史上の揺るぎない事実として記録されている。
玉音放送の中に、「 堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以って万世の為に太平を開かむと欲す 」 というくだりがある。
現代的に訳すると、「 ( 天皇として ) 耐え難いことを耐え、忍び難いことを忍んで、将来のために平和を実現しようと思う 」 という意味になる。
日本は戦後、周辺の国々から疎まれながら、軍隊を持たずに、平和国家を謳い、請われればODAを援助し、あらゆる平和的努力を続けてきた。
それをよいことに、特に韓国、中国は 「 あらゆる難癖 」 をつけて、日本の法律や、文化、教育の面にまで、繰り返し干渉を続けている。
普通の国なら、「 我慢も限界だ、いい加減にしろ 」 と怒るところだが、何を言われても友好的に接し、けして怒りを露にすることはない。
私は、戦後の日本人は 「 憲法九条 」 ではなく、天皇が玉音放送で語った 「 堪え難きを堪え、忍び難きを忍び 」 を守ってきたように思う。
何を言われても、「 日本が 」 言い返さずに堪えることが、アジアの平和を実現する手立てであることを、天皇は予見していたのではないか。
逆に言うと、勝敗はともかくとして、「 日本さえ、その気になれば 」 いつでも戦争を起こすことはできたようにも思う。
最近の若者は、「 堪えることが苦手 」 だという。
玉音放送の何たるかを知らない世代が、時代の中核を担ってからも、隣国の姿勢が変わらなければ、憲法がどうだろうと戦争になるような気がする。
「 人は批判してくれというが、称賛を欲しているだけである 」
W・サマセット・モーム ( イギリスの小説家、劇作家 )
People ask you for criticism, but they only want praise.
W.SOMERSET.MAUGHAM
どんなに善意で言ったとしても、指摘された欠点から目を背ける人がいる。
そういう人にかぎって、「 誉め言葉 」 だけは大いに歓迎する。
インターネットに関する法律には、まだまだ未整備の部分も多いが、基本的には、リアルな世界と同様の解釈が通るはずだ。
たとえば 「 著作権 」 について言うと、他人が無料でネット上配信したものをコピーして私的に楽しむだけなら、商法にも抵触しない。
完全に、その人の 「 オリジナル的な作品 」 を、お金儲けの手段に使ったり、なにかの賞に盗用して応募すると、ちょっと問題である。
個人情報保護の観点でみても、元になる資料が 「 発信者が勝手に流布した個人情報 」 であれば、それを引用して公開されても文句は言えない。
普通ではない方法 ( ハッカーなどによる ) で、発信者が明らかにしていない個人情報まで公開するのは、処罰の対象になる可能性がある。
たまに、個人の日記などで 「 リンク禁止 」 とか、「 リンクフリー 」 だとか、注釈が付けられているものを目にする。
これは 「 ナンセンス 」 な話で、禁止しようが、許可しようが、それを誰かが引用するのは、法的に 「 自由 」 である。
私の日記も、ときどき部分的に引用してくださる方がいらっしゃるが、まったく気にしていないし、気にしたところで 「 引用者の自由 」 である。
幸い、好意的な感情で引用してくださる方が多いけれど、批判的な意味や、誤りを指摘される意味で引用されても、いずれも大歓迎だ。
日記を書き、公開し、それを読まれた感想をいただけることは嬉しい。
なかには、「 リンク禁止 」 と謳いながら、それが好意的な使われ方なら、 「 光栄にもリンクしていただきました 」 と、嬉しそうに報告する日記もある。
気持ちはわかるが ( 冒頭に書いたように )、読んでるこっちが恥ずかしい。
そこまで露骨に、「 批判は要らん、称賛をよこせ 」 という姿勢を示すのは、あまり 「 大人 」 のやることではないだろう。
不倫とか、なにかと 「 批判を浴びやすい 」 内容を綴った日記に、そういう類のものが多く、アチコチで突付かれていらっしゃるようだ。
個人的には、その行為自体を批判も、肯定もしないが、たまに 「 名誉毀損だ 」、「 傷ついた 」 などの書き込みを見ると、「 アホか 」 と思ってしまう。
ネット上の法律に詳しい弁護士の友人によると、個人が勝手に ( 頼まれもせずに ) 垂れ流した情報を引用し、批判しても、普通は罪に問われない。
ただ、たとえ反対意見であろうと、せっかくネット上で知り合いになった仲でもあり、少しは 「 善意 」 も含まれるならば、耳を傾けるほうが望ましい。
批判は避けて、称賛だけを与えられたいというのは、人間らしい 「 素直な偽らざる感情 」 かもしれないが、それではいつまでも成長しない。
他人の指摘に耳を塞ぐということ自体、どこかに 「 まずい部分 」 を自覚している証拠であり、真実を希求する姿勢から遠のいている。
虚勢を張り、殻に閉じこもるのは、「 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥 」 に通じる話で、それが嫌なら、WEB日記など書かないほうがよい。
2005年04月06日(水) |
病気は恥ではないが、名誉でもない |
「 人間集団で最悪なことといったら、態度の悪さ。
これは伝染するんでね 」
ロジャー・A・レイビー
A bad attitude is the worst thing that can happen to a group of people. It's infectious.
ROGER.A.RABY
何かの病気であることは、けして 「 恥 」 ではないが、「 名誉 」 でもない。
病人の使命は、「 病気を治すこと 」 と、「 感染を抑えること 」 にある。
前回の日記に、専門医などから 「 精神に異常あり 」 と診断されたりして、自覚症状のある人は、自動車の運転を慎む必要があると書いた。
それは、自分や第三者の安全を考えた場合に、必要な措置だといえよう。
精神病だけではなく、発作的な症状を併発する病気や、あるいは 「 病気 」 とまでいかなくとも、注意力、集中力に乏しい御仁も、運転は慎むべきだ。
本人に自覚症状がない場合は、周囲がよく観察し、戒めることも大事だ。
家族や、職場の人間が協力して、不幸な事故を招かないようにすることが、結果的には、本人のためにもなるはずである。
精神病の一種である 「 うつ病 」 の人を、励ますつもりで パーティ に誘ったり、人ごみに連れ出すのは、医学上 「 逆効果 」 といわれている。
うつ病患者を含め、人間は意外と 「 孤独 」 には耐えられるものであって、一人静かな場所で休養することは、淋しげに見えても大きな問題はない。
逆に、耐え難いのは、群集の中での 「 孤立 」 である。
うつ病患者を、人ごみや、活気のある人たちで賑わう場所に引っ張り出し、自分の存在を悲観したり、打ち消そうとすることで 「 病状 」 は悪化する。
この 「 孤独 」 と 「 孤立 」 の違いを正しく理解していないと、うつ病患者への対処を誤る可能性が強く、治癒上の失敗につながりやすい。
うつ病の典型的な症状は、「 物事に対する興味や喜びが衰退している 」、「 疲れやすく、行動力が低下している 」 などが代表的である。
付加的な症状は、自信を喪失し自己評価が低下している、自分を責める、自殺願望がある、焦燥感に駆られる、睡眠障害、食欲不振などである。
現代において、彼らの症状を悪化させる要因の一つに、「 インターネット 」 というものの存在が、少なからずあるような気がする。
無数の人々が情報を発信するネットの世界は、ある意味 「 人ごみ 」 なのであり、うつ病の人が交わることには、かなりの 「 リスク 」 がある。
事実、ある 「 うつ病患者 」 の場合、症状が悪化している傾向がある。
普通、私のように日記を書いている人間は、語尾を 「 です。ます。」 で締めるか、「 だ。である。」 で締めるか、その文体は一定している。
その日によって、昨日は 「 〜です。」 と書いたり、今日は 「 〜である。」 と書いたり、口調がバラバラになることは少ない。
ある人の場合、初期の日記は 「 〜である。」 で統一されていたし、内容も、たしかに 「 うつ病患者特有の 」 自己嫌悪的な文章が多かった。
ところが最近は、「 自分を正当化し、他人を口汚く攻撃する 」 という正反対の文章や、あるいは、媚を売るような 「 〜ですよね。」 という記述も多い。
内容も、人種差別を批難しながら自分は 「 差別的な発言 」 を交えるなど、支離滅裂に陥っていて、うつ病というより 「 分裂症 」 の兆候がみえる。
けして 「 辞めろ 」 とは言わないし、あくまでも個人の自由ではあるが、心の病が治癒するまでは、「 ネットの世界に浸る 」 ことが望ましくないと思う。
それに、小説を投稿するとか、自分の体験談、闘病記を載せるのなら問題は少ないが、時事問題や、社会批判を掲示するのはどうかと思う。
なぜならば、「 精神科に通い、治療を受けている = 自分の発想や、考え方には異常な点、誤りが多い 」 ことを、自覚しているはずだからである。
すべてが間違いとは言わないけれど、自分の精神状態が 「 万全 」 でないことを知りながら、世間に持論を発信するのはいかがなものか。
本人は 「 ストレス解消 」 のつもりで始めたかもしれないが、先般から述べた 「 人ごみは逆効果 」 という事実を鑑みても、その期待は望みが薄い。
また、精神的な病気も 「 感染 」 することがある。
ネットで知り合った 「 見知らぬ人々 」 が意気投合し集団自殺を図ったり、負のベクトルが相乗作用することがあるのは、もはや周知の事実だ。
負の主張をネットにばら撒くのは、インフルエンザで咳が出て苦しいからといって、他人にまで咳を吐きかけるようなことをするのと同じようなものだ。
それを責め、「 悪いこと 」 と中傷することが目的ではなく、自分も 「 仕事で抑うつ状態に陥った人 」 を扱うことがあるので、心配しているのである。
メールを直接くれれば相談に乗るし、あるいは、主治医に 「 ネットのことも含めて 」 素直に心を開き、すべて正直に話されることをお勧めする。
「 ここに運転を習いにくる人はいませんよ。
運転免許証だけを取りにくるんです 」
ジャック・ラビオ ( パリの教習所経営者 )
People don't come here to learn to drive. They come here to get a driver's license.
JACQUES RABIO
自動車教習所へ行き、実技の指導を受け、試験所で学科試験を受ける。
ある程度の学力と技量さえあれば、誰でも車を運転できるようになる。
仙台のアーケード街に暴走車が突入し、6人が死傷する事件が起きた。
運転手は、「 自殺をしたい 」 という理由で凶行に及んだそうだが、一般の人間には 「 なぜ、無人の海ではなく、商店街なのか 」 という疑問が残る。
自分が死にたいだけなら、他人を巻き添えにしなくても、別の方法があるではないかという風に、考えられるからだ。
もちろん、それは 「 正論 」 なのだが、そう上手くはいかない。
自殺企図者というのは、「 他人の迷惑 」 など眼中にはなく、自分の都合しか考えない人間なので、そのような期待は薄いのである。
少し前の事件だが、3歳の娘と、生後半年の息子を連れて線路に侵入し、無理心中をはかった母親がいた。
ご存知のように、3歳ぐらいの女の子というのは、一番可愛いものだ。
結果、赤ん坊は軽症で済んだが、母親は意識不明の重体、3歳の女児は 「 右腕を切断する 」 大怪我を負った。
命は取りとめたものの、この子は、たとえ狂人といえども 「 自分の母親に、片腕をもがれた 」 のである。
テロや、戦争や、天災や、凶悪な犯罪が数あれど、いたいけな3歳の女児から、実の母親が片腕を奪うほどの罪悪が、他にあるだろうか。
それでも、「 自分の命なんだから、自殺するのは勝手だ 」 といえるのか。
基本的に、自殺という行為には 「 異常な精神状態 」 が伴っているわけで、自殺企図者と善悪を議論したところで、何の解決にもならない。
ただ、このような悲惨な事件、罪のない者を巻き添えにする事件を少しでも減らすために、僅かながら 「 対策 」 はあるように思う。
それは、たとえば 「 車を使って自殺しようとする人間 」 に対して、論理的に諭し、思い留まらせることではない。
もっと確実で、効果的な方法が他にある。
それは、「 精神に異常が見受けられる者に、運転をさせない 」 という手段であり、同様の被害を未然に防ぐためには、必要なことだと思う。
あるいは、人権問題などを理由に反対する人がいるかもしれないが、自動車の持つ 「 殺傷能力 」 というものを考えると、ごく当たり前のことだろう。
精神病というものには、突発性の症例もあるが、自殺を企図する前段階として、その人の異常性に関する 「 予兆 」 というものが必ずある。
仮に法制化が無理だとしても、「 予兆 」 に気付いた周囲の人間が、本人に運転する機会を与えないようにするとか、なんらかの方法はあるだろう。
万が一、静止を振り切って車で出かけたら、即座に通報して警察で捕らえるなどすることが、場合によっては 「 本人を救うこと 」 にもなる。
病気に対する偏見を助長するとか、差別的で人権侵害だという見方もあるだろうが、「 権利を奪うことが、本人の生命を救う 」 ことも有り得るのだ。
本来なら、精神科に通うなどして、「 自分は心の病である 」 と自覚した時点で、自ら運転を自重するなり、免許証を一時返納することが望ましい。
もちろん、運転を続けることは 「 法で認められた権利だ 」 といった主張も間違ってはいないが、最悪の結果というものも想定する必要がある。
コレラや、ペストや、インフルエンザなどのような伝染性の強い病気に感染した人が、「 人ごみに出かける 」 ことも、自由といえば自由である。
しかし、わずかでも 「 良識 」 のある人間なら、他人に自分の 「 病害 」 が及ぶことを避けるために、自分の 「 権利 」 は、一時的に放棄するはずだ。
2005年04月04日(月) |
話し上手になるためには |
「 話を止めれば、お客を逃がします。 背中を向けても、逃がします 」
エスティ・ローダー ( 化粧品会社役員 )
When you stop talking, you've lost your customer. When you turn your back, you've lost her.
ESTEE LAUDER
話し下手であることを、「 話術が下手なためだ 」 と思っている人が多い。
つまり、話し方が下手なことが、「 話し下手 」 だと思い込んでしまう。
実際には、密度の濃い内容を持ってさえいれば、多くの場合、少しくらいの巧拙は気にならないものである。
よほどの 「 赤面症 」 か、対人能力に問題のある人でなければ、話すべき内容を他人に伝えることは、そう難しいことでもないはずだ。
話せないのは、話そうとする内容に 「 中身の無い 」 ことや、何から話せばよいのか、頭の中でまとめていないことが原因となっている場合が多い。
では逆に、「 話し上手 」 な人は、どこが秀でているのか。
それは、「 分析力 」 に拠るところが大きい。
まず、話すべき内容の要点を分析し、そこに至る経緯や、自分なりの考え、対処法といったものを整理し、もし尋ねられたら答えられるようにしておく。
何の準備も心構えもなく、状況を相手に説明するだけでは、「 中身が無い 」 のと同じであり、単なる 「 伝書鳩 」 のようなものである。
主観を持ち込まず、客観的に伝えることはよいことだが、自分の考えを押し付けないことと、「 自分の考えを持っていない 」 こととは違う。
では、「 話し方が上手 」 な人は、どこが秀でているのか。
それは、「 観察力 」 に拠るところが大きい。
読書や、日常の生活において、「 これは使える 」 という表現を見つけたり、他人との会話から学ぶ 「 話力の目 」 を持つことが重要である。
特に、自分が聞いて 「 説得力を感じた 」 言葉などは、マメに記憶しておいて、必要なときに、頭の引き出しから引っ張り出して使うとよい。
そのためには、他人の話を傾聴することや、問題意識をもって活字を読む習慣を身に付けるべきで、無感動、無関心な姿勢では上達しない。
ファッションと同じく会話にも 「 センス 」 というものがあるが、いずれも多くの経験を踏んだ人のほうが、センスは磨かれ、洗練されていく。
観察力をもって収集し、模倣して使うことの繰り返しが、会話力を高める。
会話には相手があり、その相手こそが 「 効果の決定権 」 を握っている。
正直に伝えさえすれば 「 話し下手だって、いいじゃないか 」 と言う人もいるかもしれないが、そのことをわきまえて話すことは極めて重要である。
本当の 「 誠実 」 は、自分に対する誠実よりも、他人に対する誠実のことを言っているのであり、相手に不快感を与えない気配りを要するものだ。
誠実な話し方とは、相手が正しく受け止められるように、相手が許容できることを含めて、正しく考えて話すことを指す。
だから、「 言いたいことが伝わらない人 」 も、「 自分勝手な話をする人 」 も、「 饒舌だが、迷惑な人 」 も、全員、会話の修行が足りないのである。
2005年04月03日(日) |
ベストスモーカー大賞 |
「 タバコを吸う権利は、隣にいる人間の鼻先で終わる 」
作者不詳
A person's right to smoke ends where the next person's nose begins.
ANONYMOUS
アメリカの公共広告に使われた標語だが、作者まではわからない。
タバコを吸う私にとっては、ちょっと耳の痛い言葉である。
本人はタバコを吸わないが、「 誰かが隣で吸っても平気だ 」 という友人を伴い、ちょっとオシャレなビストロへ昼食に出かけた。
店内には禁煙席と喫煙席があり、当然のごとく喫煙席を選んだ。
土曜の午後ということもあってか、家族連れなどで禁煙席のほうが埋まっていて、喫煙席には少し余裕があったので、運良く待たずに座れた。
席につき、注文をしてからタバコに火を点けようとすると、空いた隣の席に、幼稚園児ぐらいの女の子を連れた家族連れがやってきた。
火を点けるのをためらいながら、しばらく眺めていたが、彼らがタバコを吸う様子はなく、「 禁煙席を希望したが、空いてないのでここに来た 」 らしい。
ここは喫煙席なので、私には 「 タバコを吸う権利 」 がある。
それと同時に、ここがどんな場所であろうと、私には 「 幼稚園児の鼻先で、タバコの煙を吐き出す趣味 」 はない。
もしも、禁煙席が空いているのに、彼らを喫煙席に案内したのだとしたら、それは店側の怠慢や思慮不足を責めることもできるが、この場合は違う。
あるいは、この 「 レディ 」 があと20年ほど老けていれば、タバコを吸ってよいかどうかを尋ねることもできるが、それにはまだ早すぎるようだ。
また、その娘の両親も、人の良さそうな感じのいい人たちで、彼らに尋ねたなら、おそらく 「 吸うな 」 とは言えずに我慢なさる可能性が高い。
ここでタバコを吸わないのは、崇高なる 「 人間性 」 の問題というよりは、「 愛煙家のプライド 」 に拠る部分である。
タバコの害悪が問題視されるのは、医学的に 「 人体に及ぼす影響 」 云々ということ以上に、吸わない人からみた 「 吸う人間のイメージ 」 が大きい。
他人の迷惑など顧みず、喘息の子供が近くにいようが、風味の繊細な料理を愉しんでいようが、平気で 「 有害な煙 」 を撒き散らす印象が強い。
それで、健康上の観点だけでなく 「 タバコを吸う人間 = 悪い人間 」 という図式を、なんとなく持っている人も多いのである。
けして自分を 「 いい人間 」 とは思わないが、好きなタバコを吸える場所が減り続ける傾向には歯止めが欲しいし、吸わない人と共存していきたい。
周囲に配慮することは、「 肩身が狭い 」 ということと同義語ではない。
また、それが 「 保持している権利を奪われる 」 ことでもない。
たしかに、酒や、その他の嗜好品に比べてタバコは 「 不当な迫害 」 を受けていることも事実だが、その原因は 「 一部の悪質な喫煙者 」 にある。
おそらく、いくら迫害を加えても、ヘビースモーカーが多いことや、タバコの販売による税収を無くすことはできないので、全廃されることはない。
だから、闇雲に 「 タバコは悪い 」 という思想ではなくて、「 ベストスモーカー大賞 」 などを設け、国を挙げて喫煙マナーの啓蒙を行うことが望ましい。
「 歳をとっての幸せは、何にも増して、プライバシーの優先を
維持することだ 」
作者不詳
Happiness in old age is, more than anything else, preserving the the privileges of privacy.
ANONYMOUS
4月1日、「 個人情報保護法 」 が全国で施行されることになった。
特定の顧客を持つ企業の大半は、この法律に無関係ではない。
さて、「 個人情報保護法 」 とはいかなる法律か。
原則としては、「 5千人以上の個人情報を持った民間事業者 」 が対象で、利用目的を特定し、情報の漏洩を防ぐ措置を講じることを求めている。
本人の同意なしに第三者に情報を提供することはできず、目的外の利用に対して本人が利用停止を求めることができる。
不適切な情報の取り扱いをして、国の命令に従わない場合は、6ヶ月以下の懲役または30万円以下の罰金に処せられることがある。
その情報が不正に使用された場合は、当然、賠償責任も生じることとなる。
このところ金融機関で、情報管理を巡る不祥事が、相次いで発覚している。
みずほ銀行では、約27万人分の顧客情報の紛失が判明し、あおぞら銀行でも、約2万6千人分の紛失が見つかった。
紛失というが、実際には 「 何者かによる盗用 」 ないしは 「 銀行員による流用 」 と考えるのが妥当だろう。
過去において、「 ヤフー 」 や、「 ジャパネットたかた 」 などでも個人情報の漏洩はあったが、銀行の場合は、それ以上に問題が多い。
なぜならば、いずれも顧客名に加えて、預金残高や融資金額など、厳重に管理すべき情報が数多く含まれているからである。
両行とも 「 不正使用された報告は無い 」 と話すが、紛失情報には名前や住所とともに、年収や金融資産といった悪用されかねないものが含まれる。
顧客からすれば不安はぬぐえず、保護法が全国施行されて状況の把握が進めば、他行でも同様の事例が発覚する可能性もある。
保険会社でも情報管理を巡る不祥事は相次いでおり、アメリカンファミリー生命保険は30日、約1万7千人分の契約情報の紛失を発表した。
各社とも、情報管理者の任命や、社員教育の徹底などデータ管理強化に取り組んでいるが、過去の保管状況の再確認まで踏み込むところは少ない。
それに、流用した張本人らは 「 悪いことだと知っていた 」 はずで、それを既得権益のように考える輩を教育したところで、効果など期待できない。
個人情報を漏らされたくなければ、個人保護法に頼るよりも、はじめから 「 信頼の置けない銀行などに個人情報を渡さない 」 のが一番である。
内容は似たり寄ったりではあるが、銀行の中でも比較的に不祥事が少ないところと、頻繁に世間を騒がせているところがある。
融資などを受ける際には、そのあたりも十分に吟味し、信頼に欠ける銀行とは、一切の接触をしないことが肝要となる。
利用者がそうした評価を下すことで、彼らの胸中にも少しは 「 危機意識 」 が芽生え、内部の害悪を取り払うことに注力できるかもしれない。
一部の不心得者だけに限らず、銀行全体が個人情報の保護という問題を疎かにしていた事実は明らかで、今後、その実態が暴かれていくだろう。
「 私の生き方は実にシンプルだ。
朝起きて夜寝る。
その間は、最善を尽くして仕事をする 」
ケイリー・グラント ( 俳優 )
My formula for living is quite simple. I get up in the morning and I go to bed at night. In between, I occupy myself as best I can.
CARY GRANT
ハリウッド黄金期の超二枚目スターは、意外と地道な人物だったようだ。
どんな職業でも成功への近道は、「 最善を尽くす 」 ところにある。
明日からは、自分が関わっている仕事の内容を、あまり詳しく書けない。
一つには、それが 「 他人のプライバシーを侵害する危険 」 があることと、明日4月1日から 「 個人情報に関する法律 」 が強化されることにある。
もちろん、そんな法律など無くとも、クライアントに対する守秘義務を疎かにするつもりはないが、改めて慎重を期さねばならない。
特に、他人の内面的な相談を受ける立場にある者が、軽々しく情報を開示するなど、あってはならないことである。
もちろん、昔話だとか、町で見かけた 「 面白い人々 」 の話などは、実名を明かさない程度の配慮で書けば、別に問題はない。
4月というのは、就職、進学、あるいは人事異動の多い時期である。
新生活を始める人は、未知への好奇心に溢れ、あるいは予測のつかない不安と闘いながら、そのときを待っているのではないだろうか。
自分の生活と向き合うには、困難に挑戦し、向上する意欲も大事だし、かといって、失敗したときに落ち込まない習慣も必要となる。
情熱をもって真剣に取り組みながらも、そのストレスやプレッシャーに耐え、場合によっては自分を許す柔軟さも身に付けておかねばならない。
こういう時期の 「 心構え 」 は、なかなかに難しい。
私は毎日を、「 今日が最後の日 」 だと思いつつ、「 今日が最初の日 」 だと思うように心がけている。
相反的で矛盾しているようだが、その時々の状況によって使い分けている。
上手くいった過去の成功事例が役に立たず、それで未知の未来に不安を感じたなら、「 今日が最後の日 」 だと思って、全力を傾けるようにする。
過去は返ってこないから、その失敗をどんなに悔やんでも仕方がなく、これからが大事だと思えば 「 今日が最初の日 」 だと、自分を奮い立たせる。
新しい生活、新しい自分、新しい一日に希望を抱いて、全力を尽くすことが私流の 「 人生の楽しみ方 」 であり、成功への近道だと信じている。
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