新知庵亭日乗
荷風翁に倣い日々の想いを正直に・・・

2003年02月28日(金) 妖精との旅立

 ソーニャの作ってくれたポーランド料理で忘れられないのは餃子だ、ピロシキ風なのだけど形といい味といい餃子なんだ・・・名前は忘れたけれども。あとにしんのマリネ(後に知る)も美味かったそしてビゴス、これは各家庭で独特な味にするそうで、母から娘へと伝わりまたその作る人の故郷が解るそうだ。
 そしてウォッカ世界最強の96度スピリタスこれは普通は薄めるのだけれども、唇が痺れる(火気厳禁)、あとはズブロッカこれは香草が入っていて香りがよく、口移しのでの飲み方が最高!しかし御同輩、ポーランド女性と決して勝負しようなどと思わない事をお勧めします。飲みすぎるとその後にやって来るであろう素晴らしい時に[いざ鎌倉]が立たないので要注意ですZo−。
ワルシャワ中央駅
僕達は役所に証明を取ったり大使館に行ったり忙しかったが、愛の時間は睡眠時間を削っても辛くない・・・全ての連絡、交渉を済ませ僕達は駅に待つ人となった。当時国立音楽院の権威は大変なものだった、勉強や研究しようという学生には東西を越えた特権が与えられていた。
 ここから東西ドイツを抜けて巴里北駅に向かう。向かい合わせの6人掛けの座席が一区画ずつ壁で区切られていて通路側にドアがついているのが大半である、ほぼ満員だった。
 ソーニャの作ってくれたバケッドサンドウィッチとドイツ白ワイン(少し甘い)の組み合わせは最高だった、夜に出発したので車窓から見える朝焼けの風景は美しい、ポーランドが平らな国という意味が納得できるぐらい、畑が続く。
 途中ベルリンでかなり緊張する検問にあった、国境警備兵が車掌の横にいて自動小銃を構えている、その時ソーニャがドイツ語も出きることに驚いた、そしてハノーファーで2時間の待ち合わせに遭遇したので少し街に出た、やはりビールは美味い、そこの店でドイツ人が大声で合唱していた、そして大笑いをしていた、ソーニャの言うにはどうもHな歌らしい、

・・・○○が縮むのは労働とビールのせいだ、俺の腹は出て○○が見えなくなる、嫁は益々大きくなるー俺達は大海に鉄砲うつのはもーこりごりだよなーヒムラ−さんよ・・・
みたいな訳だった、僕も笑ってしまった、ソーニャによるとナチス親衛隊長官、ハインリヒ・ヒムラーは恐妻家だったそうな、そして○○○は小さかったそうだ。
でもあまり笑えない歌だよなー。
 赤い顔のオジさんが僕の顔を見て愉快そうに何かを言った、ドイツ語のレトリックは忘れたがソーニャが困った顔をして解説してくれた。「今度はイタリア抜きでやろーぜ同盟国の青年よ」と言っているらしい「今度はイタ抜きでやろうぜ」という有名な日本人向けのブラックユーモアを教えてもらった、何故だか僕は嬉しかった・・・。





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ソーニャとの列車の旅は楽しかった・・・と言いたいのだがある頭を悩ます問題が巴里が近づくにつれ、僕の顔を暗くした。
 ソーニャとの恋の道行きは輝かしい未来を約束しているような気持ちだった、しかし僕は巴里で音楽院で同期に入った女性と同棲していたのだ、丁度彼女は夏期休暇で国(カナダ)へ帰っていたのでなんとかなるとでも思っていたのか・・・。
 この事が、その後僕の人生に因果応報ともいうべき時空の渦へと流されていくことには、その時は全く気がついていなかった。




2003年02月27日(木) 森の妖精

ソーニャの艶のある美しい栗色の長い髪を手で愛撫する・・・思考が駆け巡る・・・今僕達を阻止するものは何もないと思っていた、東西に分かれた政治形態だって問題じゃない、とりあえずパリに共に行こう、ショパンを支えた男装の麗人ジョルジュ・サンドのようにパリでソーニャのためになることを何でもしよう・・・
 豊かな乳房から森の茂み沸き出ずる湖へと進む、愛らしい声とともに僕はポーランドの大地と一体となった、やがて豊かな大地はヌーベルバーグとも言える芸術という生命を育むだろうという事を信じていた。
 パリに戻る時が迫ってきていたが、それもたいした問題ではない。
「ソーニャ、あと1週間で夏期休暇がはじまるよ、ねー一緒にパリに行こうよ」
「行きたい、でも音楽院から許可が下りるかしら・・・」
「んー郵便局から電話して夏期ピアノ講習会のこと聞いてみようか」
 若さはどこまでも突き進む、朝焼けか夕焼けか解らなくなるまで、ソーニャと一糸纏わぬ姿で過ごした、なんの違和感もない一緒にショパンのピアノコンチェルト第二番のニ楽章を連弾したとき、僕も感動のあまり泣いてしまった。






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「ねーソーニャ英雄ポロネーズを弾いてくれない?」
残念な事には英語で通じなかったので僕は冒頭の部分を少し弾いた、ソーニャはポーランド語でなんとかポロネーズと言ったけど今でも思い出せない単語だ。
「この曲はジョルジュ・サンドとの恋によって生まれたの」
「じゃ僕はピアノと打楽器のための英雄ソナタを作曲しよう、決めた!」
 ソーニャはショパンとジョルジュ・サンドの話をしてくれた、ショパンとドラクロワは互いの芸術を尊敬し合うようになったというのは、初めて聞いた、そして英雄ポロネーズはポーランドの舞踊のリズムから成り立っていることを、自然の姿のまま踊って説明してくれた。ソーニャのお母さんはバレーの振付士で今はソ連のレニングラードで教えているということも・・・。
 目を閉じるとその舞姿かうかぶ、ターンした刹那の姿、美しいなにもかにも美しい、想いではあまりにも美しすぎる・・・



2003年02月26日(水) 想いでは美しすぎるもう二度とは・・・

「森へいきましょうソーニャさんアッハーハ・・・」ワルシャワから自転車で20分も行けばそこは湖とウッソウ-とした森に出会います、音楽院で自転車を借りて、初夏の街を走りやがてお城の見える森に入っていきました。

「ここによく小学生の時家族や友達とピクニックに来たの、そしてサンドウィチにチーズとミルクをいただくの・・・はいワインとパン・・・ルルルルール・・・」
「あ!その歌も知ってるよ、なんだったっけ、ひばりのこ すずめのこ・・・」
「これ皆で踊るのよ・・・こーやって」
「・・・・」

 熱い吐息が迫り、ソーニャの唇は濡れていた、唇から首筋へと愛撫は激しく滑っていく、ふと見ると濃紺の湖面にお城が写り、湖面に垂れた森の木の枝が、移った城の窓を貫いていた。
「お会いして未だ二日目よ・・・私、あなたの事何も知らない」
「僕は日本人で音楽家の卵だよ、こうしてめぐり合ったのは・・・ほら(英語の単語がでてこない!)昔から決まってたんだ、それにしても美しい森と湖だね」
「第二次世界大戦で何故ドイツは、ポーランドを襲ったか知ってる?理由はいろいろあるけど、その一つにドイツの冬のためだったとかポーランドの森をヒトラーは狙っていたんです、暖炉の薪のために・・・・・・」
「あっその話ね、酷いね、僕、アウシュビッツに行ったんだ・・・」
「そう・・・」
「ドイツにも良い友人がいるし、音楽も大好きだし、何であんな・・・」
「ねーあの歌、もう一度日本語で歌って・・・」

「春が呼んでるよ」
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ひばりのこ すずめのこ
飛びながら 何を見た
ホーヨホヨヨ ホーヨホヨヨ
小林幹治作詞





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やがて太陽が赤く染まり、初夏とは言えどもかなり寒くなってきました。ソーニャは押し黙ったまま、自転車を押して歩きだしました。
 「私、以前から日本の国の人に興味があったの、ミスヒロコ・ナカムラの演奏を聞いて驚いたわ、だってポーランドの古い民謡を素材にしたショパンの曲を見事に歌っているんだもの・・・」
「ねー、日本にお出でよ、一緒に行こう、そしてミスヒロコ・ナカムラにレッスンを受ければいいじゃない、行こうよ、そして結婚するんだ!」
「・・・」
 
 もう二度とは戻らない青春の刹那、あれは軽く出た言葉ではなく、未だ光輝く未来を疑うことを知らなかったからだ、ポーランド、アウシュビッツ、ショパン・・
・ソーニャ・・・あの愛らしい目・・・夢の中で僕は暖炉のそばでソーニャと同じ目をした幼子を抱いてソーニャの弾くノクターン嬰ハ短調20番を聞いている・・




2003年02月25日(火) ソーニャのこと

 「ポーランドは一度地図から消えたことがあるんです、ショパンが生まれた時には地図にはポーランドはなかったの」
「・・・」

ポーランドの歴史は、分割と再生の歴史であった。
 1772年――ロシア、プロイセン、オーストリアに、
 1793年――ロシアとプロイセンに、
 1795年――再びロシア、プロイセン、オーストリアに分割され、ヨーロッパの政治地図から姿を消した。
その後、ナポレオンによって「ワルシャワ公国」が創建(1807)され、復興の夢を追ったポーランドであったが、ロシア遠征の失敗(1812)によるナポレオンの没落によって、四度分割される運命を負った。これが「ウィーン体制」である。旧公国の八一パーセントは、ロシア皇帝を国王とするポーランド王国とされ、ポズナニ、ビドゴシチは、プロイセンの手によりポズナニ大公国とされた。オーストリアは、ヴィエリチカの塩山を得、またクラクフは、共和国として自由都市を宣言された。

「コーヒーでもいいですか?」
「ありがとう、濃い目でね」
ソーニャは手回しミールでコーヒーをひいてくれました・・・フーフフーフフーフ
「へーその曲は日本でもよく歌うよ」
「森へ行きましょう,ソーニャーさん、アハーハ・・・」
この日本語の歌詞をソーニャに一生懸命英語で説明しました。
森へ行きましょう娘さん(アハハ)
  鳥が鳴く(アハハ)あの森へ(ララ ラララ)
  僕らは木を切る君たちは(アハハ)・・・
「アハハ・・・その後は忘れてしまった、ごめんね」
ひいていた手が止まった、そしてうつむいて、やがて僕の顔をじーと見つめた、ソーニャのその美しい大きな黒い瞳は涙で煙っていた。
「!どうしたの?ごめんね、忘れてしまって、お国の歌なのにね、日本では幼稚園の時から歌ってるよ」
「いいえ、今ではポーランド人でもお祭りの時、年配の人が歌うだけ、私の大事な歌なの、それを歌っている日本という国に・・・嬉しくって・・・なんとお礼を言えばいいのかしら」
「大事な歌?」

娘さん
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「明日、学校へいらっしゃる?そしたらその後大事な森へいきましょう」
「森へ行きましょうソーニャさん(アハハ)・・・」
 今でも目を閉じるとその時の優しい歌のハミング、大粒の涙の純情が思い出されて苦しくなります・・・今すぐあの時に戻って全ての時間を止めてやりたい・・・
何故?・・・そーしなかったのか・・・

やがて時が過ぎ、アデレードの海岸で一人腹ばいに寝転んで歌った・・・

砂山の砂に 砂にはらばい 
初恋の いたみを遠く  
思い出ずる日
石川啄木「一握の砂」より



2003年02月22日(土) ワルシャワにゆれる淡恋一章

Pomnik Chopina
'73年パリ高等音楽院の友人と東欧への旅に出ました、もちろん列車の旅です、蒸気機関車にはめぐり合えませんでしたが、レトロな車両に多国語、パヒュームの臭い等、今でもシャネル19番などの香りは、あの東欧の旅を想い浮かべます。






最初の訪問地東ベルリンです。
街は本当にゴミなんかなく、美しかったですが、ベルリンの壁を見て悲しくなりました。その時まさか東西が統一されるとは夢にも思いませんでした。美術館を見学して、友人はライプツィヒに行き、僕はチェコスロバキアのプラハに向かいました、そしてポーランドのワルシャワで落ち会う約束をして別れました。





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目的はワルシャワ高等音楽院(現在フレデリック・ショパン音楽院)とアウシュビッツを訪れる事です。ホテルには泊まらないでパリ音楽院の斡旋でワルシャワ高等音楽院の宿舎に泊めてもらいました。
 オーケストラの練習でちょうどショパンのピアノコンチェルト第二番をやっていました、その音色の美しさはパリのオーケストラとは違います、周波数を少し低くとっているようでした。ショパンコンクールを受ける予定の学生が熱心に聞いていました。
初めてきました、アウシュビッツ、おびただしい入れ歯、鞄、焼却炉、処刑した壁等、この時のショックで食べ物も喉を通らなくなり、旧市街から街の中をウロウロ歩き回ったのです。
 するとある建物の三階あたりからそれはそれは美しい曲が聞こえてきました、ショパンの曲であるとは思いましたが初めて聞くメロディーで、アウシュビッツの自問・・・何故理知的なドイツ人があのような蛮行を行ったのか?・・・
しばらくその建物の下に佇んでいましたが、大きなドアを押して、階段をあがります、するとその調べ(練習しているので繰り返し引いている)の聞こえるドアの前に立ちました。
 コンコン・・・「ポーランド語」・・・僕は日本人でパリで音楽を勉強しています、今あなたが練習されていた曲名を教えて下さい・・・と英語で話しました。
 するとドアが開き栗色の長い髪の少女がた流暢な英語で・・・日本から?・・ミスヒロコ・ナカムラを知っていますか?・・・どうぞお入りになって・・・。
 不躾な訪問をお詫びして、ポーランドに来たまでのことを話ました。彼女は目を輝かせて、僕の下手な英語を一生懸命に聞いてくれました。
「今、練習している曲はアダージョCis-mollです、今度音楽院で弾くのです」
「それはワルシャワ高等音楽院でですか?」
「そうです」
「僕は今あなたの学校の宿舎に泊まっているのですよ、そしておとといはコンチェルトを聞きましたよ」
「私も居ましたあ!失礼ソーニャと言います」「僕は・・・・です寄寓ですね・・お願いですもう一度聞かせて下さい」

「遺作」
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2003年02月21日(金) 遺作

映画「戦場のピアニスト」で流れる曲です。あまりにも悲しく、ショパンの想いとともに胸に深深と迫ってきます。



ドイツ兵に見つからないよう泣き止まない赤ん坊の口を手で塞いで窒息死させてしまう母親のエピソードが印象的です。まさに記号に堕してしまった人間の悲劇とでも言うべきか、それはこの映画に反復される「音と記号」のモチーフの一つでもあると言えるのですが、ただ、彼女が記号に堕すことなく、泣き止まない赤ん坊をそのまま抛置しておいたところで状況が変わったとはとても思えないわけで、その意味に於いて、音=音楽を得ることによって一時的であれ記号であることを止めたエイドリアン・ブロディの身に起こったことは、しかし、やはり(残念なことに)単なる例外に過ぎなかったと言わざるを得ないのかも知れません。
一心不乱にピアノに向かう彼はもはや一個の記号などではなく、彼が自称した通りの一人のピアニスト、その演奏に耳を傾けたトーマス・クレッチマンも当たり前のように彼に名前を訊ね、「ピアニストらしい名前だ」とさえ、それが記号と記号の対峙でない以上、蛮行の起こり得る余地など何処にもないはずなのですが、それでも、それはやはり「神の意志」に導かれた一個の偶然でしかなかったのです

 「遺作」出版されているもののうち、死後に出版された第20番はノクターンとして知られていますが、正式なタイトルは「Lento con granespressione」というタイトルで、普通はノクターン集には含まれないそうです。
ウイ−ンに到着してまもない青年ショパンの筆から生み出された曲です、手紙にそえられてワルシャワにいる彼の両親のもとに送られました。
 この作品は1830年に作曲されていますが、楽譜は死後1875年になってようやく出版されています。





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 彼はどのような気持ちで作曲し、また誰のために演奏したのでしょうか、Shinchanはワルシャワの街のとある建物から流れてきたこの曲に引きつけやれて・・・とうとうドアをノックしてしまいました・・・セピア色の淡く蝋燭の炎のような恋に・・・



「遺作」
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(掲載許可済)



2003年02月20日(木) ナチズム下のユダヤ人音楽家

エリック・リーヴィー「第三帝国の音楽」を読みました。(望月幸男監訳ほか、名古屋大学出版会)
 ナチズムによるユダヤ人音楽家排斥運動は歴史的に徹底的に否定されています、しかし強制収容所に消えた数多くのユダヤ人の中にはその持てる才能を発揮して戦後まで生き延びた人がいます、それが映画「戦場のピアニスト」の実在音楽家W・シュピルマン(1911〜2000)


1939年、ナチスドイツがポーランドに侵攻した時、シュピルマンはワルシャワの放
送局で演奏するピアニストだった。ワルシャワ陥落後、ユダヤ人であるが故にゲッ
トー(ユダヤ人居住区)に移され、飢えや無差別殺人に脅える日々を強いられる。
やがて何十万人ものユダヤ人の移送が始まるが、家族の中でたった一人収容所行き
を免れたシュピルマンは、決死の思いでゲットーを脱出する・・・。
「戦場のピアニスト」で最高賞のパルムドールに輝いたロマン・ポランスキー監督(AP)ポランスキーは幼い頃をクラクフのゲットーで過ごし、母を収容所で亡くした経験を持つ。これまで彼は、あまりに心に深い傷を刻んだあの体験と向かい合う準備ができていないと感じ、『シンドラーのリスト』の監督をオファーされた時でさえ断っていた。そんな彼が遂に自らの原点に立ち帰った揮身の作品。





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「無伴奏組曲」
アラン・ジョミ著 松本百合子訳
http://www.artisthouse.co.jp/works/books/info/books26.html
・・永遠に続く「生」の繰り返しの「哀しさ」(ヴァイオリン奏者 二村英仁) 
カールは第2次世界大戦中、ナチス・ドイツによるホロコーストにより、チェコスロバキアのテレジンのユダヤ強制収容所に収容されていた。テレジンの強制収容所では、ヨーロッパ各地から集められたユダヤ人音楽家達が戦時下でも演奏会を行なっていたという。そこでカールは自分の妻となるカミーラに出会う。二人の交際が始まり、密かに逢瀬を重ねるうち、カミーラが妊娠し、それを看守に見つけられ、彼女はあの悪名高きアウシュビッツに送られてしまった。その後、カールとカミーラは生き別れとなってしまう。それからすでに60年近く経とうとしているが、カールはまだカミーラを探し続けており、つい先日、カミーラに生き写しの女性にモントレーであった、というのだ。

ホロコーストの中でカールとカミーラのような人々は少なくないだろう。一体、どれだけのカールとカミーラがホロコーストで引き裂かれてしまったのだろう。

バイロイト祝祭劇場
 ワーグナー家の人々とナチスの結びつきにより、バイロイト音楽祭は一時隆盛を誇ります、しかしユダヤ人排斥運動は音楽祭のオペラ歌手、オーケストラ楽団員にも容赦はありませんでした。
 何人かの音楽家が収容所へと消えました。

イデオロギーの眼鏡で音楽や芸術を見る過ちは二度と犯してはならない
イスラエルでワーグナーの楽劇を演奏しようとした、指揮者ダニエル・バレンボイム氏
2001年7月7日、その事件は起こった。その日の夜、世界的な指揮者、ダニエル・バレンボイムによるベルリン州立歌劇場管弦楽団の演奏会がエルサレムで行われた。
その公演のプログラム本編終了後、バレンボイムは聴衆に向けてこう呼びかけた。
「これからアンコールとしてワーグナーの楽曲を演奏したい。それについて、皆さんと民主的に決めたいと思う」会場は騒然とした。しばらくした後、拍手でそれに応じる賛成派とブーイングをする反対派とが入り乱れることになった。
当初、この日のプログラムの中にワーグナーの楽劇『ワルキューレ』が入っていたのだが、国会議員らの反発によって、別の作曲家の楽曲に変更されていた。
「ワーグナーは主催者が中止を決めたはずだ」と叫ぶ反対派の声。
それに対し、バレンボイムは「ここからは私個人の責任で演奏したい。意見のある人はここで話し合おう」と提案した。
約30分間、話し合いは行われた。指揮台に詰め寄る反対派、そしてバレンボイムの提案に賛同する賛成派。ここがおおよそコンサートホールだとは思えない、むしろ紛糾する国会のようにすら見える状態が続くことになった。
「楽譜の準備は出来ています。聴きたい人だけ残ってください」
結果、ワーグナーの楽曲は演奏されることになった。反対派の人たちは自分たちの主張が通らなかったことに憤りを覚え、コンサートホールを後にした。そして、会場ではバレンボイムのタクトにより、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』より「前奏曲と愛の死」が演奏された。




2003年02月19日(水) ポーランドの悲話

Shinchanは未だポーランドが東側体制の時、演奏旅行に行きました、その時未だ無名だった作曲家グレツキさんから直接CDをいただきました、でもその時グレツキさんは英語の話せる方でしたが、多くを語らず「暇な時に聞いて下さい」と言っていただいたのが交響曲第三番でした、帰国して聞きました、コントラバスが深く息を吐くようにはじまり、やがてオーケストラが渦を巻くように、そして何か訴えるようなメゾソプラノの歌、ポーランド語で書かれたCDだったのでその意味はわかりませんでしたが、能の「物忌み」を感じさせる何か強烈なメッセージがあるようでその後何度も聞いていました、それがある時ロックのMTVで字幕が流れ、滂沱としてでる涙はとまりませんでした。
第1楽章 レント ソステヌート・トランキッロ・マ・カンタービレ
「私の愛しい選ばれた息子よ、自分の傷を母と分かち合いたまえ・・・」

第2楽章 レント・エ・ラルゴ トランキリッシモ
「お母さま、どうか泣かないでください・・・」

第3楽章 レント・カンタービレ・センプリーチェ
私の愛しい息子はどこへ行ってしまったの?・・・」
原語ではなく、対訳(沼野充義訳)を引用します。

お母さま、どうか泣かないでください。

天のいと清らかな女王さま、

どうかいつもわたしを助けてくださるよう。

アヴェ・マリア。

〔ナチス・ドイツ秘密警察の本部があったザコパネの「パレス」で、第3独房の第3壁に刻み込まれた祈り。その下に、ヘレナ・ヴェンダ・ブワジュシャクヴナの署名があり、18歳、1944年9月25日より投獄される、と書かれている〕





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テーマ曲弾いているのはヴァイオリンのイツァーク・パールマン、素晴らしい演奏で胸に深深と響いてきますね。

「シンドラーのリスト」の舞台(ポーランド・クラクフ)
アウシュビッツ収容所跡の「死の棟」には、タンポポが咲き乱れていた。
「ほら、シンドラーに金を巻き上げられて、私は一文なしさ」
クラクフの旧ユダヤ人街カジミエシュ地区。作曲家兼ピアニストとして知られるレオポルド・コズウォフスキ氏(79)は、レストラン「クレズメル・ホイス」に現れるなり、ズボンのポケットに手を突っ込んで、おどけて見せた。
映画では、シンドラー(リーアム・ニーソン)にエナメル容器工場の買収資金を提供するユダヤ人役を演じた。地元エキストラの代表格である。
自身もユダヤ人で、収容所でナチス将校らのために演奏し続けることで、ホロコーストを生き延びた。父はルブフ(現ウクライナ西部)郊外の森で射殺され、母は収容所で死亡した。
「すべてのドイツ人が悪魔だったとは言わないが……」。憎しみの記憶は墓場まで持ち込むことになるだろうと言う。

1940年当時、リトアニア駐在の外交官であった杉原千畝は、ソ連が日本大使館を閉鎖する僅かな期間に、日本本国の命令に背むきながらもポーランドから脱出してきた6千〜8千人のユダヤ人達に日本通過を許可するビザを発行し続け、彼らの命を救った。杉原千畝はごく一般の環境と家庭の中で育った普通の人でした。その普通の人が、自国の文化を愛しながらも他国の人と共感できる国際人としての資質を持ち、ユダヤ人大虐殺が行われた第二次世界大戦という特異な環境の中で、人間として偉大な行為を行ったのです。

  シンドラーがポーランドのクラコフにあった収容所から助けたユダヤ人の人数は一千百〜二百人と千畝には遥かに及ばない(ただ、原作によると、彼が当該の収容所以外で救った人々も含めると、実際にはその数はもっと多かったとされている)。しかしシンドラーの英雄伝で重要な事は、彼の行動がドイツ占領下のポーランドと言う、本国と同然にいつ後に手が回るかもしれぬ非常に危険な場所で大胆に行なわれた事である。そして彼がユダヤ人達を救う為に採った方法は非常に奇抜で独創的ながら、一方でリスクが高く、効率は決して良くない。言わんやある種の人間からすれば、彼の取った行動は狂気のさたと取られても不思議ではない。

イギリス人俳優、レイフ・ファインズ氏
「シンドラーのリスト」の「アーモン・ゲート」役。実録では裁判で絞首刑となった。映画のシーンで朝寝ぼけ顔で収容所のユダヤ人に向けライフルで狩を楽しむ狂喜、戦争がなかったらアーモン・ゲートは大学を出て小さな町の役所にでも勤めていたかも知れません・・・家族の方が言われたそうです。






2003年02月18日(火) 戦場のピアニスト

広尾で飲んだ暮れてました、周りはフランス人ばかし「ここでは日本語しゃぺれ!」て言ってやりました。話題はそー戦場のピアニスト、シンドラのリスト、泣かせますよねアウシュビッツの土を靴で少し掘ると骨が出てきます。皆さんアウシュビッツに行かれましたか?


 そのアウシュビッツ収容所跡地を訪れたポーランドの少年グレツキは後年作曲家となり悲歌のシンフォニーを作曲する。九二年の発売を機に、イギリスのFM放送で取り上げられたのがきっかけで静かなベストセラーになり、やがて米国でも大ブームを起こした。全米クラシックではもちろん二年越しでナンバーワン継続中だが、ポップスも含めたレコード売上記録にも顔を出す空前のヒットになった。
 FMがに流れた時ヨーロッパ中の高速道路の路肩に車が止まり聞き入ってしまったという。





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《悲歌のシンフォニー》

わたしの愛しい息子はどこへ行ってしまったの?
きっと蜂起のときに 悪い敵に殺されたのでしょう

人でなしども 後生だから教えて
どうしてわたしの 息子を殺したの

もう決してわたしは 息子に助けてもらうことはできない
たとえどんなに涙を流して この老いた目を泣きつぶしても

たとえわたしの苦い涙から もう一つのオドラ川ができたとしても
それでもわたしの息子は 生き返りはしない。

息子はどこかで墓に眠っている
でもわたしには、どこだかわからない
いたるところで 人に聞いてまわっても

かわいそうな息子は、どこかの穴の中で 横たわっているのかもしれない
暖炉のわきの自分の寝床で 寝ることもできたはずなのに

神の小鳥たち、どうか息子のために さえずってあげて
母親が息子を 見つけられないでいるのだから

神の花よ、あたり一面に 咲いてください
せめて息子が楽しく 眠れるように・・・


1961年エルサレムにおいて「アイヒマン裁判」開廷。翌年、処刑された。

 でも・・・しかし・・・僕達、現代人は手段こそ違っても何時でも、アイヒマンになるのではないかと思います。
アイヒマンは第2次世界大戦時にユダヤ人を虐殺したナチスのユダヤ問題総責任者です。彼の仕事は効率がよく約600万人のユダヤ人が抹殺されたとしています。
 アイヒマンはドイツ降伏後に姿を消します。もちろんつかまれば戦犯になる事が分かっていたからです。ユダヤ人を虐殺した罪で・・・。
 ブダペスト駐在スウェーデン公使のラウル・ウォーレンバーグはユダヤ人を救出するためビザをばら撒き、時には処刑寸前のユダヤ人をナチスからお金で見逃してもらうというようなことまで行いました。
 あるパーティーでウォーレンバーグは敵の大ボス、アイヒマンと対決します。ユダヤ人から手を引けと言うアイヒマンに対し、ウォーレンバーグは毅然と拒否します。
 アイヒマンは『あなたは人間じゃない悪魔だ。』と罵ったウォーレンバーグに『私は命令に忠実な、いちドイツ人だよ。少し勤勉すぎる嫌いはあるがね・・・。』と返します。そして結局絞首刑になりました。
 どうでしょうか?いくら反戦を言っても、究極的には報復を繰り返す業から、少しも脱する事ができません。
 イラク問題の他にもコンゴ大虐殺、コートジボワール虐殺人食事件等、報道しない日本の能天気報道機関、日本が世界国境なき医師団による対象国になっている事を知らない無知(ホームレスの救済必要重点国ですって!)
 今日フランス人に言われた
「核を持たない国はイラク問題の発言は生意気だ、実行力もないくせに」
でShinchanは「てめーらは確か、ドイツにあっけなくケツをむけたんだよな」

「でも、フランスは連合国として戦後君臨したんだ」
Shinchanは
「だからイラク攻撃に反対やと、独自路線言いながら空母を派遣してんねな」
「じゃー日本は出来るのか?アメリカの作った舞台にも出ないくせに」
Shinchan
「解った、今度はイタ抜きでフランスとドイツと日本が連合してアメ公をやっつければええのやな」
「ウイ、ダコー」
酔っ払いのたわごとでした。でもかなり現時点での本音です。だってフランス大使館関係者ですから、今度ドツイたんねん。

では世界的超有名ジョークを紹介します。
 判決が決まった後、裁判長はアイヒマンに、最後に何か望むことはないかと促した。アイヒマンは少し考え、「ユダヤ教に改宗したい」と言った。

 これには裁判長も驚いた。ユダヤ教に改宗するとは、ユダヤ人になることと同義だからだ。困惑した裁判長はアイヒマンにその理由を問うた。アイヒマンはニヤリと笑って答えた。

「これでまた一人ユダヤ人が殺されることになりますから」

 ナチスは有能なユダヤ人音楽家をガス室に多数送りました、ショパンのノックターン、マズルカの伴奏と共に・・・。合掌・・・。



2003年02月17日(月) 愛媛公演

愛媛は松山公演(日本音楽集団)に行って帰ってきました、土曜日に発って日曜日本番でその日に帰るという、なんとなくつまらない日程でした。
 松山といえば道後温泉ですよね、空港に着いてタクシーでJALホテルにいくまでに、運チャンに聞きました。
「〜ぞなもし、なんて今でも言うんですか?」
「もー今ではたいがいのお年寄りでも言いませんわ」
ということで道後温泉本館へ行きました。
明治27年に建築された三層楼のどっしりしたもので、近代的なホテルや商店街の中にあってひときわ風格ある姿を誇っています。
と説明がありました、貸しタオル・浴衣・お茶・お菓子(坊ちゃん団子)がつきます。というので神の湯ニ階席にしました。吃驚したのは脱衣場にゆかたが置いてあって、男女一緒なのです、はい若いお姉さんもオバさんもオジさんも一緒です。






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作家司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」の舞台となった地で、2008年にはNHK大河ドラマになるそうです。
 もし秋山真之が正岡子規と一緒に文学の道を進んでいたらあの日露戦争での日本海大戦に負けていたかもしれませんね。

 お湯は熱く、湯上り後お茶とぼっちゃん煎餅を食べて、仲間の待つ宴会場へ向かいました、いつものように酔っ払いでした。
 翌日9:00ホテル出発、生涯学習センターで14時から本番、満席!でした、よかったよかった!
 嬉しかったのは忘れていた学生時代の友人が楽器屋さんでチラシを見たと言って尋ねて着てくれた事です。
「松山で良い音楽を聞く事に飢えているんです」
と言ってました。
 1泊二日の短い演奏旅行(業界用語でビータ)でした、今度は・・・と一緒に行こうかな・・・。



2003年02月15日(土) LA FETE DES AMOUREUX(恋人の日)河内風

0,0,0,
なんのことかわかりまっか?
今年とうとうチョコレート、一つももらえまへんなんだ!
そら、弟子や生徒やお仲間の女性陣に「聖ヴァレンタインは殉教者やねで、そんなうわついた気持ちでどないすんねん、義理やら本命やらちゅうよりはABCDやったってんちゅうことや、体一つでぶつかってコンカイ!」


 まー毎年こんなことほざいとったんやったら、チョコもらえまへんな、Shinchanが巴里におった頃は、教会で乙女達が敬謙なお祈りを捧げてましたよ、そしてどっちかちゅうと男衆が頑張ってたナー。




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ぼやき漫才人生航路的に
今日は世界的にバレンタィンデーでおますな・・・
あんた、ようそんな難しいこと知ってはるナー・・・
うら若い乙女が、愛を打ち明けるためにチョコレート送りますな・・・
ほー、ウチはもーたことないデー・・・
アホ!女が渡すんじゃ!・・・
そんなん誰が決めたんジャイ・・・
ん・えーこと言うた、そや!なんでチョコレートでなきゃあかんのや!・・・
そや!最初から近藤さん渡した方が、家族計画ちゅうか、エイズ撲滅のために役に立つちゃうんケ?・・・
おー大きく出たなー、その通りや、あー何時、誰がチョコレート渡すことに決めたんや、デパート行っても、チャンチャラした包装紙にどうせ捨てるリボン付けさらしてけつかる、チョコレート会社と聖バレンタィンはんは、どんな関係があるちゅうねん、えーコラ!責任者出てコンカイ!・・・
そらな社長さんがキリスト教徒やったんや・・・

実は,この聖バレンタインの遺骨がマドリッドにあるのです。マドリッドの中心部にある聖アントン教会( Iglesia de San Anton)に静かに眠っています。2月14日には,この遺骨が公開されていて,僕も見てきました。教会には,2〜3人の見学者しかいなく,ひっそりとしていました。7時からは,彼のためのミサが開かれたようです。その時は,大勢の人々が集ったのかもしれません





2003年02月14日(金) 八百万の神々住むバクダット

明日から愛媛公演、で道後温泉とくりゃ、イラク問題だよなー、これでフランスが多国籍軍に参加したら、地下鉄が爆破されるのやろなー・・・。
 元をただせば共産化を防ぐ為に大統領制をアメリカが支援したのになー、変な話です。
20年前、イラクはアラブ諸国の中で石油依存から、農業、工業国として自立しつつある優等生的な国であった。水はあらゆる地域に供給され、食物も安くて豊富。医療水準も高く、医療費はほとんど無料。能力があれば誰でも大学まで無料で行けた。女性の社会的地位も高く、首都バクダットはアラブ諸国の中でも最大の近代都市として発展した国です。

13年前東京の青山にあるイラク大使館は、古い4階建てぐらいのビルだった。ベランダがついた小さなマンションのようなビルを丸ごと大使館にしていた。
 Shinchanは一人単身で文化省の要請でカブール大学に講義に行く事になったので外務省の係官と一緒に大使館を訪れました。
 書記官が流暢な日本語で大歓迎されるでしょうと言って、何も心配しないようにという事でした。

 朝5時すぎ、モスクから拡声器で礼拝を呼びかけるアザーンの声で目が覚め、ヨルダンのアンマンから、イラクのバクダッドまで、約800キロをバスで移動しました。
ヨルダンからイラクへの方向には、新車や中古車を10台ぐらいずつ積んだ自動車運搬トラックが何台も止まっていた。イラク国内を走る自動車は、ここを通って輸入されているらしい。nissanという大きなロゴが入ったピックアップトラックのぴかぴかの新車がぎっしり積まれたトラックも見た。イラク側には、新車を買える経済的な余力があるのだ。セメントやパイプライン用の鉄の管を積んだトラックもいた。西欧の運送会社のロゴが描かれたコンテナを積んだトラックも列をなしていた。

イスラム以前の宗教を内包するシーア派
「シーア派の中心は、古代以来の信仰を持っていたメソポタミア文明やペルシャ帝国の人々で、彼らがイスラム教に集団改宗する過程で、昔からの宗教の教義や哲学をイスラム教の枠内で再解釈しなければならなくなり、もともとのアラビア半島のイスラム教(スンニ派)とは違う分派となった」というものだ。シーア派が多いのはイラクのほか、イラン、アゼルバイジャンなどで、いずれもイスラム教が発祥する前にメソポタミアを支配していたペルシャ帝国の諸王朝の領土だった。
 日本的と比べると、古代神道(色々な神ー自然信仰)が大陸から仏教が渡って来てその文明、文化に吸収されていくのですが、本来仏教になかった神道の習慣をやがて包含するようになりました、まー結婚式はキリスト教でクリスマスも祝い、お寺で除夜の鐘を聞き、神社に初詣するという、節操のなさはイラクもイランでもないですが、このシーア派の寺院を見ていると、浅草の浅草寺で出店が並び、庶民が集まって賑わうのがそっくり似ているのです。





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日本は完全に古代十字軍に組みする東洋軍隊としてアメリカに当然追随することになるのでしょう、ここは腹を決めてかからなければ唯戦争反対を唱えていてもしかたないのだと考えています。

 石油の利権をアメリカの防衛網に委ねている限り、そう車を乗っている僕達は綺麗ごとでは済まされないのです。
が・・・しかしイラクは政治形態の違いを別とすれば、わりと日本と似ているのです、唯、唯戦争が回避されて政治形態が変わる事を祈るのみです。




2003年02月12日(水) 魔性の花 筺(はながたみ)

 Shinchanの使っている小鼓の胴のうち曰く付きの花飾り絵巻の胴があります。


 小鼓の胴は淡墨桜から作られます、長い年月、厳しい冬を越した淡墨桜は春とともに妖艶な花を咲かせます。
  万葉の時代から桜は乙女の精とも言われ子孫繁栄の生命力、散る美しさの儚さは今でも人々は宴を張り歌舞音曲に明け暮れます、Shinchanは今の花見は大嫌いです、特にカラオケなんぞをやっている輩は淡墨桜の怨霊によって造られた小鼓によって呪い殺して(そこまでせーへんでもええけど)やりたいと思うのです。

 能の花筺(はながたみ)は数ある作品の中ではハピーエンドとなっています。
応神天皇から五代目の孫にあたる大迹(オオアトメ)の皇子は、越前の国味間野どいう所に居ましたが、皇位を継承するため、急に都へ上ることになリました。
 その頃、寵愛されていた照日の前は、里帰りをしていましたので、急な事情をしたためた手紙と、毎朝使っていた花籠を形見として、使者に届けさせました。照日の前は、手紙を読んで事情は分かったのですが、皇子を慕う心を抑えることが出来ず、供の女を連れて、跡を追って都へ上りました。
 都に馴れない二人は、紅葉狩の行幸の列の前を、横切って咎められ、大事な形見の花籠を叩き落とされました。その警護の役人に、花籠の由来を言って、非礼をなじりました。
 その事によって、継体天皇と名を改めた皇子は、跡を追ってきた照日前と再会することが出来ました。また、照日前は、再び元のように、寵愛を受ける身となリました。




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 太平洋戦争後、東京の隅田川沿い、上野公園に再び桜を咲かせようという計画が出されました、勿論歴史的に見ると、戦国時代、江戸時代、関東大震災、第二次世界大戦等で夥しい人達の死体が放棄されたり、焼かれたりして埋められました。
 記録によると上野公園での桜植樹の最、移動しようとした桜の根には多数のシャレコウベが絡んでいたそうです。
粟田部の薄墨桜

このサクラは、室町時代世阿弥作と伝えられる謡曲「花筺」にうたわれているゆかりのサクラとされ、標板には樹齢500〜600年とある。
 伝説によると、男大迹皇子(オオトノノオウジ)が滞在されていた時は、花は淡紅色で匂いは四方に満ちていたが、皇子が都へ上った後は、花の色が次第に薄れ、いつのまにか薄墨桜と呼ぶようになったという。

 植物化学的に言って、カルシュームを必要とする桜が人骨等骨を必要とするのは当然です。
 ある神社に奉納されている小鼓の胴の由来は・・・素晴らしく低音の迫力のある音がする鼓があったそうです、しかしその鼓の胴を求めて手に入れた、鼓打ちは後継ぎの男の子が生まれなかったり育たなかったりする因縁が付きまとうようになりました、鼓の胴彫り職人がその胴を手にいれて模倣研究により、同じような胴を作ろうとしましたが、妻娘が狂人となり跡が絶えたそうです。

奉納されている胴

 上のShinchanが持っている胴と比べて下さい、どこか似ていませんか?
淡墨桜の咲く月夜に一人 鼓を打つ 森羅万象は 耳を澄ませ 去った情念が 音とともに 滅びの宙の舞を舞い 散っていく そして
かすかな曙は 花に埋もれた鼓を 思い出させる



2003年02月07日(金) 泉鏡花の魔界に遊ぶ

幼な子の昔,亡き母が唄ってくれた手毬唄.耳底に残るあの懐かしい唄がもう一度聞きたい.母への憧憬を胸に唄を捜し求めて彷徨する青年がたどりついたのは,妖怪に護られた美女の棲む荒屋敷だった.毬つき唄を主軸に語りの時間・空間が重層して,鏡花ならではの物語の迷宮世界が顕現する。
 Shinchanは昨年、今和朗台本、今井耕二演出、劇団俳協、文学座、人形劇団ひとみ座のキャストと協力の泉鏡花原作「草迷宮」の作曲、音楽監督をしました。能囃子、薩摩琵琶、雅楽の楽器の生演奏とシンセサイザー録音による音楽を制作しました。
 通りゃんせ、通りゃんせ
(此處《こゝ》は何處《どこ》の細《ほそみち》ぢや、          
細道《ほそみち》ぢや。    
秋谷邸《あきややしき》の細道《ほそみち》ぢや、           
細道《ほそみち》ぢや。    
少《すこ》し通《とほ》して下《くだ》さんせ、             
下《くだ》さんせ。    
誰方《どなた》が見《み》えても通《とほ》しません、           
通《とほ》しません。)
 そして村の鐘が鳴る・・・もうこれだけで恐いですよね、まー有名なあの「通りゃんせ」のメロディーを変えて少し編曲しましたが、けっこう作曲中は恐わかったです。





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一番恐かったのは原作でさりげなく書かれている、秋谷邸で外で子を腹ましたお嬢さんと本妻が同時に出産して同時に亡くなり、それで気が狂った跡取息子喜太郎は
井戸へ身を投げてしまった、という内容だけでも恐ろしいのに鏡花の詩は・・・これはフルバンド風ジャズで作曲しました。

向うの小澤に蛇が立つて、
八幡長者の、をと姫、
よくも立つたり、巧んだり。
手には二本の珠を持ち、
足には黄金の靴を穿き、
ああよべ、かうよべと云ひながら、
山くれ野くれ行つたれば・・・・・

産んだ其子が男の兒なら、    
京へ上ぼせて狂言させて、    
寺へ上ぼせて手習させて、    
寺の和尚が、    
道樂和尚で、 高い縁から突落されて、     
笄落し、    
小枕落し、

という手毬歌で、この手毬がテーマです、幼い頃亡き母から聞いた手毬歌、その歌を知っていた従姉妹、その従姉妹も無理な結婚が祟って死んでしまい、その手毬歌を聞きたいがために、怨霊が祟る秋谷屋敷に放浪の末たどりついて、小次郎法師が怨霊退散を祈念すると悪左衛門という地獄の使者が菖蒲を紹介し亡き母も現れる、どこか映画のゴーストバスターズの江戸版のような感じはするのですが・・・。
 音響テクニックとしては音楽がサラウンドで客席360度飛んだり回ったりして、怨霊のうめき声は客席の下から聞こえるというようにしました。

 この時の音楽がサウンドトラックCDになっています。もしご希望ならばE-Mailにてご連絡下さい、送料+\1500-で販売します。 


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