2002年12月27日(金)
'02やがて悲しき外国語!
Internationales de la Guitare Festival in Montpellier 2001
Shinchanはこのモンペリエで開催される、国際音楽祭に招聘されました、丁度Shinchanが所属する日本音楽集団がプラハの春音楽祭に招聘されているので、それと合わせてパリ日本館、Shinchanがお世話になっているモロッコの在日本大使館のS大使からの要請で、モロッコ公演の一連のプロデューサーを引き受ける事になったのです。 日本音楽集団のモンペリエでのポスター
Shinchanはメンバーより約1週間前にモンペリエに入りました、6月とはいえもう夏の空で、サマータイムです。 今回出演するサリフ・ケイタ氏のマネージャーとも会いました、モンペリエは地中海の近くで、モロッコ、スペインなどにも簡単に行ける場所です、Shinchanはバスで地中海の海岸へ行きました、20分で着きます。 海岸に寝転がり、沖では子供達の為のヨット教室が行われていました、少し肌寒かったですが、元気にワンちゃんと一緒に泳いでいる子供もいます。 Shinchanはビールとハンバーガーを買い、オペラのMDを寝転がって聴きました、ワーグナーの楽劇「タンホイザー」をここ南仏で聴くのもおつなものです。 音楽祭の総裁はTalaat Singabyさんで、元モンペリエ総合大学の歴史経済学の教授です、エジプト出身なのです、彼とは武士道について語り合いました、又空手の有段者でもあります。日本音楽集団の音楽監督田村氏とも話しははずみました。 古代ローマの水道
Shinchan自ら契約書を作りお互いにサインをして、本番を迎えました、勿論大成功で・・・出演料はフランス政府の補助金の振りこみ後に日本音楽集団の事務所に振りこむという契約だった・・・のですが・・・約2年かかって完了しました、その間フランスの文化省に問い合わせたり、在パリの日本文化会館に問い合わせたり、全てフランス語でした・・・作家の村上春樹さんが「やがて悲しき外国語」というエッセーを書かれていますが、きちっとした文章をメールで送るのに5時間ぐらいかかりました、ほとほとフランス語の公式文章にはイヤになりました・・・やがて悲しき外国語とはこのことだったのです。
コンサートが行われたモンペリエオペラハウス Talaat Singaby総裁は言った「太陽は日本から昇り、エジプトのピラミッドの 彼方に沈む、そしてモンペリエでも彼は見ている 」 ・・・やがて悲しき外国語なり・・・
2002年12月26日(木)
'85これが青春だ!
あいかわらず、オランダとパリを行ったり来たり、日本での演奏活動の合間にやる比較音楽の研究だ。 ある時パリ音楽院の講師仲間がモロッコへ車で行こうと言い出しました、「途中砂漠もあったりするからプジョーの四駆が必要だからリースでもするかなー」なんて言うので、「いや三菱パァジェロだよ」とShinchanは拘りました。「パアジェロ?」「じゃ俺はかってに借りて行くぞ!」「自由にすれば~」なんてやりとりをしてました。 じゃ勝手に借りて、素適な女の子を誘うか・・・なんて三菱のパリ支社に行きました。受け付けもディラーもフランス人だったので、まー普通に会話をしていたら 渋い、白髪交じりの髭のおじさんが「君、フランス語操れるのかい?」・・・どこかで見た・・・あー「これが青春の先生!」紳士は恥ずかしそうに「夏木陽介です、今度パリ・ダカールラリーに出場するんだけど、君メカニックと通信隊の通訳やらない?」「え?パリからダカールまでですか、途中モロッコも通りますか?」「通るよ、でもねー23日間走り続けるのだよ」「???」 経路はフランス、スペイン、モロッコ、モ-リタニア、マリ共和国、セネガルの6カ国。 「あのさー、太平洋をね、小さなモーターボートで一カ月走るようなもの。みんなSOSの発信器を持たされて、緊急の場合はそのスイッチを入れれば誰か助けに来てくれるはずだと。でも、スイッチをONにすると同時にリタイアが決定し、その年のパリ・ダカは終わります。もっとも、来ない場合もあるんですけどね、そんな感じかな」 なんて気楽に言ってくれる、それからフランス人のナビゲーター兼メカニックのクロードさんに個人教授を受けました。 「パリ・ダカでは、毎年、多いときは6人くらい事故で亡くなるんです。目の前で何人も死んでいる人を見たよ、だから走り続けるのだけれども、休息や食事の時間、トイレタイムその他、水、燃料、オイルの補給のタイミングが勝敗を分けるのだ」
砂漠の夜はマイナス18度くらいになります、そして砂が動く音、風が遠くから近づいて来て、通り過ぎる音、これらは都会に居ては絶対味合えない事です、それと180度満天の星、何度も見える流れ星、天の川、当時はカーナビなんてなかったので、太陽と星を点と点の三角形で計算するコンパス、そしてShinchanの主な仕事は通信機で送られてくる、コントローラーの言葉、風が1日吹くと、主催者が連絡してくる目印が埋まってたり、一山が消えていたり、逆に増えていたり、唯でさえ通信状態が悪いのに、なまりのあるフランス語が聞こえてくるのには参った、それと隠語が卓さんあってかなりHな単語だったけれど、これはShinchan直ぐに慣れました。たとえば、・・・よく前儀するようにとかどこどこのチームはピストン運動が下手だとか挿入しっぱなしは命取りだ・・・なんて通信が入るのです。 そしてキャンプ地には勿論女性チームがいます、中には外国の王女様や皇太子妃がキャンプしてたりします、そして全て女性で編成されたチームもあります。ので「子猫ちゃんを見ても消防士になるな!」なんて通信が入ります・・・解りますか?
2002年12月25日(水)
'81巴里を震撼させた事件
Shinchanは研究論文執筆のためオランダのユトレヒト総合大学で比較音楽学の講義を聴きそして巴里の音楽院で講師勤めていた時です、「日本人が女を食った」???しかも食べた相手はオランダ女性らしい・・・。
犠牲者のルネ・ハルデルベルトは裕福なユダヤ人の家庭の出身で、博士号取得のためパリに来ていた。佐川のアパートを訪ねたのは、ドイツ近代表現主義の詩人ベッヒャーの詩をドイツ語で朗読して欲しいと佐川が高額の報酬で頼んだからだった。その前にも何度か佐川宅を訪問しているが深い間柄ではなかった。 1981年、プローニュの森で発見された2つのカバンのひとつの中から 人の足が.... 事件はここから始まった! 佐川一政の冷蔵庫には10を超える皿の上にのったルネの 肉塊でいっぱいだった...
当時はテレビで犯人の顔が最初の頃は放映されたが、そのうちイニシャルだけになった。もーソルボンヌ界隈ではその話で持ちきりで、なんと逮捕された男の名は佐川一政、当時33歳。フランス文学と日本文学の相互影響について博士論文を書くべく、パリのサンシエ大学院(第三大学)に留学中で、被害者であるルネ・ハルテヴェルトとは同じ大学内の友達だった。
↑メッセージがあるよ、クリック 佐川はシェークスピアの「テンペスト」に特別な意味を見出し、修士論文のテーマにした。佐川がフランス語で著した修士論文は教授たちの高い評価を受け、逮捕された時には出版される直前だった。 取調べ中の証言によれば、人肉食の願望は小学生の頃だったという。3歳の頃に叔父と「人食い鬼」に食べられるという設定の遊びをしていた。 16歳のとき人肉食の願望について精神科医に電話で相談を申し込んだが、その医師は相談に応じなかった。和光大学3年のとき35歳のドイツ人女性宅に忍び込んで逮捕されたが、佐川の父親の払った示談金を女性がうけとって告訴を取り下げたため、有罪にはならなかった。 1977年28歳のとき、シェークスピア文学で修士号を取得しパリに留学する。 台湾からの留学生が言うには「俺達台湾人は日本人と同じ顔をしているから、最近女の子が逃げるんだよ」 「それは災難だったねー、日本人の僕にはそんな事ないよ、きっと犯人と君の顔が似てるからじゃないの」 「それで、心配した大学が[カニバリズムの起源]っていう講義をするらしいよ、君も来ない?」 というのでその第三大学に言ってみた。 ゴヤ 「わが子を食うサトゥルヌス」サトゥルヌスは息子たちが成長して自分を滅ぼすのを恐れ、5人の息子を食い殺したというギリシャ神話の神。
食人には,ショッキングで胸が悪くなると同時に,人を引きつけてしまう何かがある。食料が尽きた探検隊や飛行機事故の生存者が死んだ仲間の肉を食べたという話でも,パプアニューギニアの儀式の話でも同じだ。人肉食いは新聞の見出しやホラー映画のテーマとなり,嫌悪感を催させながらも,人々の関心を集め,とりこにする。欧米社会では多くの人々にとって,食人は究極のタブーだ。それはあくまで自分たち以外の文化や時代,ほかの場所の出来事でしかなかった。そして,過去数世紀の人類学の調査にもとづく食人についての知識がきわめてあいまいで中途半端なため,この習慣を完全に否定することもできず,逆に,食人がいつ,どこで,なぜ行われたのか正しく理解できてもいない。 現在,食人の真実に光を当てるような新しい科学的な証拠が発見されつつある。金属器の使用やエジプトのピラミッド建設,農業の開始,あるいは後期旧石器時代に多くの洞窟壁画が描かれるよりもずっと以前に,さまざまな場所で食人が行われていた可能性のあることが明らかになった。もちろん私たちの祖先も例外ではない。北米南西部に残る先史時代のプエブロ文化の遺跡から太平洋諸島まで,破壊して捨てられた人骨は広い地域で発見され,場合によっては無数に見つかっている。これらの古人骨を調査する骨学者と考古学者の用いる分析機器や方法論はしだいに発達しており,ここ数年の調査で,ついに科学者たちは先史時代に食人があったことを示す有力な証拠を提示した。 なんて説明を聞いて、納得出来たような出来なかったような、しかしまぎれもなく猟奇殺人事件だったのだが、その後、無罪となり、佐川君とまで言われ唐十郎との往復書簡なんかが出版され、その佐川君は・・・
↑メッセージがあるよ、クリック フランスの個人主義はShinchan達を普通に扱った、これが日本だと奇異な眼で見られるのだが、この時はその個人主義の恩恵をありがたく受け取ったのだった。
2002年12月24日(火)
'72カルチェラタンの憂鬱
Hey Jude, don't make it bad take a sad song and make it better Remember to let her into your heart Then you can start to make it better
ラジオやカフェからさんざんビートルズの曲が聞こえてきます、そしてソルヴォンヌのカフェでも学生がヴェトナム反戦や東西問題などについて論戦していました、Shinchanはそういった哲学や政治関係のフランス語理解力が乏しく、特に'68年のパリ五月革命の事に関しては、全くちんぷんかんぷんでした。それとビートルズの音楽ではリンゴスターのDrumsが下手糞で、途中リズムが走ったり、音色が汚かったりしてShinchanは好きになれませんでした。 それを少しでもパリ大学の連中に言いでもしたら、凄い攻撃を受けるのです。
↑メッセージがあるよ、クリック 「君は'68の五月革命を知っているのか?」 一九六八年は世界でも日本でも激動の年だった。一月・東大紛争のはじまり。二月・成田空港(東京国際空港)反対運動、金嬉老事件。三月・南ベトナムのソンミ村でアメリカ軍による村民大虐殺事件。四月・キング牧師暗殺。五月・フランスの五月革命。六月・ロバート・ケネディがロサンゼルスで狙撃され、翌日死亡。小笠原諸島が日本に正式復帰。十月・スエズ全域でアラブ・イスラエル戦争。国際反戦デーに全学連が防衛庁や国会構内に乱入・新宿駅に放火(新宿騒乱事件)。十二月・三億円強奪事件、米宇宙船アポロ八号による世界初の月面テレビ生中継。 「君はコダ―ルの Loin du Vietnam(ベトナムから遠く離れて)を観たか?」 ジャン=リュック・ゴダール 60年代後期からはもっぱらが政治映画。男女が政治について語り合う「中国女」を始め、メッセージ性がことさら強くなり、ゴダール自身の考えが、役者の口を通じて突然に発せられるようになる。毛沢東主義に傾倒していたゴダールは、五月革命のとき、68年度カンヌ映画祭の会場で造反、セレモニーを中止させたこともあった。それがきっかけとなり、ゴダールは商業映画から撤退、純粋にプロレタリアの立場に立って政治映画を撮るため、ジガ・ベルトフ集団を結成し、ますます破壊的な映像革命を巻き起こしている。
'68というとShinchanは中学生だよ、そんなの覚えてる訳ないし、音楽の勉強や練習に忙しくて、大学紛争もその意味なんて全然解ってなかったのです、それがパリに来て普通大学の学生と付き合うようになって、いきなり難しい話を振られるのだからたまったもんじゃない。 「君はヴェトナムに行くのだろう、同じアジア人として何も感じないのか?」 なんて言われ、憂鬱な気分になったのです、ここんとこ解剖学や軍事訓練などと音楽から離れているのが原因だと思って、カフェで酒を飲んで論議するのを止めました。でも当時の良い風習フリーセックスは大いに歓迎して、突き進む事になるのです。 ジャン=リュック・ゴダールの「ベトナムから遠く離れて」
67~68年頃にピークを迎えるこのヴェトナム戦争は、TVで伝えられた初めての戦争だったこともあって、世界中に反戦運動の嵐を巻き起こし、それは当時の反体制運動の主要な流れのひとつとして大きな盛り上がりを見せた。68年には、ケネディから戦争を引き継いだジョンソンがついに大統領選挙への出馬を断念したほどである(もちろん同年のいわゆる「テト攻勢」で軍事的敗北を喫したことが決定的なきっかけだが)。とくに、この戦争で映像メディアが大きな役割を果たしていることを意識した映画作家たちが、映画という自分たちの表現手段を使ってアメリカ帝国主義への批判とヴェトナム人民との連帯を表明しようとしたことは、歴史上、また映画史上、きわめて重要な出来事と言えるだろう。その成果こそ、「ベトナムから遠く離れて」(67年)にほかならない。クリス・マルケルの呼びかけに応え、(映画のクレジット順で)アラン・レネ、ウィリアム・クライン、ヨリス・イヴェンス、アニェス・ヴァルダ、クロード・ルルーシュ、ジャン=リュック・ゴダールがフィルムを持ち寄り、マルケルの総編集のもとに出来上がったこの映画は、視点や語り口においてきわめて不均質でありながら、いや、それゆえにこそ、ヴェトナム戦争という大きな出来事が映画界に与えたインパクトの広がりと深みを如実に示している。そのなかでも、われわれはとくにイヴェンスとゴダールの二人に注目したい。結論的に言うなら、旧左翼的で直接的なイヴェンスと、新左翼的で媒介的なゴダール、その両極端の出会い(損ね)の場となっているところに、「ベトナムから遠く離れて」のひとつの面白さがあるのではなかろうか。
2002年12月23日(月)
'72パリの18区のクリスマス
Gare du Nord(北駅)
普通巴里のクリスマスというと、シャンゼリゼ通りのイルミネーションとかノートルダム寺院のライトアップなどを思い浮かべるのですが、ここ巴里18区Gare du Nord(北駅)や地下鉄④番線のシャトー・ルージュ駅界隈はアフリカ系の人達が多く住んでいます、食料品や衣料品が物凄く安くて、アラブ、アジア、アフリカ系の人達でごった返しています、時に麻薬の売買なんかも目にする時があり、日本人観光客には要注意の場所です。
しかしアフリカ系フランス人を友人に持つと話は違ってきます、イザベルは両親がマリ共和国出身でスーパーを経営しているせいか比較的裕福な家庭で育っていて、パリ第五大学医学部で麻酔学を専攻しています、例によって解剖学教室で知り合った中で、よくカフェで話をしている間柄です、それと彼女は英語も読み書き出来るので、Shinchanによく医学的な事を英語交じりで説明してくれるのです。 ★ゴスペルの原点を聞いた! 夜になると、少々怪しいのだけれども、レストランに明かりが灯り、どこからともなく、サバールやコラという楽器の音と歌が聞こえてきます。コラという楽器は大きなカボチャに絃が張ってある、印度のシタール族という感じです。 ゴスペルというとアメリカの黒人霊歌の事ですが、ここ巴里のアフリカンはメロディーは賛美歌なのです、けしてブルースコードではないのです、混声四部に分かれて歌うのですが、それに強烈なパーカッションが入ってきます、そしてcall and response type 呼応形式。主唱者(leader)と低音パートの人たち(basers:旋律の基本部分を歌う・挿入句を入れる)が交互に歌う形式のものが多い。アフリカ音楽の典型。
↑メッセージがあるよ、クリック では、唯一巴里で聞いた英語による黒人霊歌この曲は象牙海岸から奴隷として捕まった黒人達が何時か故郷に帰ろうという願いをこめて歌った曲ですAmazing Grace をクリック! 1. Amazing grace, how sweet the sound 御恵み 計れじ That saved a wreck like me 罪深き 我を I once was lost but now I'm found 闇の淵より 救いし Was blind but now I see 今 光 見ゆ 2. 'T was grace that taught my heart to fear 畏れを 学ばせ And grace my fears relieved 安らぎ 与え How precious did that grace appear 至極の愛 尊し The hour I first believed 御栄え あれ 3. Through many dangers, toils and snares イバラの道さえ I have already come 主の導きなり 'T is grace hath brought me safe thus far 我今あるは主のため And grace will lead me home 導きあれ
2002年12月22日(日)
’72パリ解剖学とサルトル
美大の学生とカフェでビールを飲みながら、色々お話をしました、「人体は美である、刻々の変化する細胞の瞬間を切りとって観察出来る我々は幸せだ!ダビンチの解剖図が絵描きにとって基本中の基本だよ」 なんてぬかしよる「じゃ質問だけど、俺達音楽科の学生にとって解剖学は何か価値を生むの?」「美しい淑女も一皮剥けばあーなるんだよ!」「???」「存在、そのものが美なんだ!で結局芸術は当為としてアウフヘーベンされるのだ!」 「おいサルトルかよ、まー流行やしな、そのフランス語俺には難解だよ」「日本には禅の思想があるだろ、真・善・美そのものだよ」「違うって、利・美・善やって」 サルトルの『嘔吐』は、退屈と言えば退屈なのだが、異様な魅力を持っている小説です。『嘔吐』は「実存主義の聖書」とまで言われているらしいが、別に「聖書」と言われるほどの思想は得られていない。しかしながら、ロカンタンが綴る彼の世界観は不思議な魅力を持っている。ロカンタンはどこまでもいけ好かない男だが、にもかかわらず、僕たちにはこの種の人間に密かな興味を寄せるという性向がある。ロカンタンはカミュの『異邦人』のムルソーと同系列の人間である。『嘔吐』と『異邦人』は、他の作家には見られない一風変わった小説である。そして彼らの世界観に触れるのは、決して無益ではないことと僕は考える。
↑メッセージがあるよ、クリック 「でもさーあのサルトル先生、朝は覚醒剤、夜は睡眠薬、それに紙巻たばこ60本、大酒、脂っぽい食事の日々らしいぜ、まさにアクセルとブレーキを同時に踏む生活だよなー。」 サン・ジェルマン・デ・プレに新しい広場が誕生した。哲学者のジャン・ポール・サルトルと作家のシモーヌ・ド・ボーヴォワールを記念した「サルトル‐ボーヴォワール広場・・・・生はそれ自体を永続化することと、それ自体を超越することからなっている。もしそれが自らを維持することだけに 終始するなら、生きることは単に死なないということにすぎなくなってしまう・・ ――シモーヌ・ド・ボ-ボワール 「だいたい何の為に僕ら音楽科の学生が、解剖学教室に通っているの?」「とどのつまり脳の問題だよ、作曲したり演奏するレベルが本能か後天性なのかという事だろう?」「前頭葉で考えた結果が芸術にもなり戦争の兵器にもなり、サド・マゾにもなるんだろう」 「で女性を喜ばせる方法は解剖学で学べるかなー?」 「じゃー来週、質問してみようか?」 なんてカルチェラタンのカフェは夜中に入るのでした・・・。
2002年12月21日(土)
Influ~En・・(d)・・・zaⅢ
幸いな事にホテルの部屋はツインルームでした、T子さんはお医者さんなのです、Shinchanが火照った顔で打ち上げのパーティーに出ていた時からひよっとして?と思っていたらしいのです。 抗生物質とビタミン剤、部屋のバスにお湯を張り、ドアを開けた状態で湿度を上げ浴衣を10枚ほどもってきてもらって、フラフラだったので寝ました。
↑メッセージがあるよ、クリック 「で、明日のご予定は?」 「レンタカー借りて鳴門大橋、明石大橋を渡って京都に行くつもりです」 「じゃ、私の車で送ってあげる」 「いいんですか、時間は?」悪魔の声ー 「なーおまえ、そんなド厚かましい事言うたらあかん、このお調子者メが!」 ・・・な!なんでー、まじな悪魔の声やなー・・・ T子さんは「だいぶよさそうやから、車とって朝、迎えに来ます。」 と言って帰っていきました。 朝食のヴァイキング(インフルエンザでもお腹の空くShinchanです)を食べている時にT子さんが颯爽と登場「渦潮、見れます?」「道の幅が広いので見れないのよ」 BMWの助手席に乗って出発、今年はBMWに縁があるShinchanです。 明石海峡大橋 Shinchanの子供時代から須磨の海岸には六甲山から大きなペルトコンベア―で石や砂を運び、それらがポートアイランドとなり明石大橋となりました、ここだけの話ですが、小学生の時の遠足で明石の子午線記念館に行った時、解説の先生が「将来ここに明石海峡大橋が出きるんだけど、地質学的にここの海峡にボーリングすると地震に繋がる恐れがあるかもしれない」というのをShinchanは覚えてました。 「ねーT子さんそーなんやって」 「へーShinchanは地震の時はどーしてたん?」 「東京におったよ、友達に電話で知らされて、3日目にようやく神戸にたどりついてん、寒くてしんどかった」 「今、通っているとこ、ここに高速道路が倒れていたんや」
↑メッセージがあるよ、クリック そしてShinchanはT子さんのお陰で、京都まで来ました、あとは恩返ししないとね・・・。
2002年12月20日(金)
Influ~En・・(d)・・・zaⅡ
荒川康男さんのBass、猪俣猛さんのDrums、これがいいんだ、荒川さんのコントラバスは味があります、豊かな低音は日本の邦楽器に一番欠けている音ですね、そしてけっして邪魔をしない猪俣さんのDrums、テクニックは衰えなんて微塵にも感じさせません、そして歌うのですね、前田御大と半世紀演奏しているので、曲の緩急やフィチャリングはむしろ能のような感じさえします、山本邦山さんShinchanが入っての演奏は、Shinchanの独断の解釈。 1.前田御大のpfを大鼓として聞く。 2.邦山さんの尺八を能管として聞く。 3.荒川さんのBassを太鼓として聞く。 4.猪俣さんのDrumsを地謡いとして聞く。 このようなかってな解釈で演奏しました。しかも序・破・急で。
↑メッセージがあるよ、クリック 終わって、汗をふき、いったんホテルへ帰り、熱のある体で打ち上げにしゅっぱーつ!悪魔の声ー 「なーおまえ、もーええやんか、お役目おわったし、ホテルのベットに寝とき、地元の有力者?ほっとけほっとけ、つきあいなんかやめときーて」 徳島の人形浄瑠璃 徳島では人形のことを木偶(でく)と言います。 ・・・ととさまー、かかさまー・・・と人情物が受け一般の素人の方が熱心に太夫や人形使い、太棹三味線に挑戦されて小屋もたくさんあるそうです。Shinchanは地元の方の要望で来年徳島に来る事を約束しました、浄瑠璃を見て阿波踊りを見るのです、やっぱり打ち上げに来てよかった・・・。 阿波踊りの様子や囃子の音が聞けるヨ!http://www1.pref.tokushima.jp/kikaku/jouhou/awaodori/odori1.html それでは二次会にしゅっぱーつ! スナックみたいなところに着いて、さっきまで日本酒を飲んでいたので、ビールを注文しました、そしたら俄に眠たくなってきたので、さすがのShinchanもタクシーを呼んでもらってホテルに戻りました。悪魔の声ー 「なーおまえ、えーんか?ここまで来て帰っても・・・もうこうなったら朝まで付き合わんかいな」 倒れるように帰ったホテル、するとある女性が追っかけてきました。 「看病するように言われましたので・・・」 「?いいですよ、もう遅いし・・・」悪魔の声ー 「なーお前、ことわらなあかんでー!品行が良くないデー、もめても知らんゾー」 ・・・お前悪魔やろ!何、まじな事いうてんね・・・ でその女性は?・・・・↑メッセージがあるよ、クリック
2002年12月19日(木)
Influ~En・・(d)・・・za
↑メッセージがあるよ、クリック あれー晴れてる、あと2時間で羽田やで・・・体温計を見たら38.9℃・・・オイ誰か11時45分発徳島行きJASをハイジャックしてくれ・・・いやちゃう・・・徳島大地震!!・・・神様仏様、人々が死傷しないで徳島空港だけが離着陸出来ないようにして下さい・・・そして公演が延期になりますように・・・ハイ・・・煙草はけして道に捨てませんハイ・・・お酒のめちゃ飲みはしません・・・綺麗な女性が現れてもやたらに声をかけませんハイ・・・全て神様仏様にご相談の上、行動しますハイ。↑メッセージがあるよ、クリック 悪魔の声ー 「なあおまえ、ゆっくり寝てなはれー、おまえ一人おらんでも、どうちゅうことないんやーわすれとった、ちゅうたらええんやー」 Shinchanは前日の夜、少しかったるいなーと思いました、朝、汗びっしょり、体温計は38,5℃、寒気もする・・・どないしょうと布団の中で絵図を描いていたのが、上の神様仏様の話しです、病院にも行けず、細君に荷物の一つを持ってもらって羽田に行く事にしました。「少し待ってネ」・・・あー遅刻する熱が上がる・・・で結局手荷物検査で爪きりが問題となって(コラ!どこの世界に爪きりでハイジャックする奴がアルカイーダ?)・・・さむー でJASのマイクロバスに遅刻者7人乗って飛行機へ・・・ 徳島に着いたら、迎えが来ていて・・・あれ?地歌のT.S先生は?・・・おれへん・・・陸路かなー?携帯に電話しても繋がらない・・・ 迎えの人が「リハーサルの時間がありますので、どうぞJタクシーに乗って下さい」 途中、邦山氏からTELが入り、家にいたそうだ!?(えーなーその手があったんや)悪魔の声ー 「なあおまえ、そやからいわんこっちあらへん、上手がおったなーこの愚か者メが~緊急入院しなはれー、気持ちえーでー」 結局会場に着いたのですがほとんどリハーサルは出来ませんでした、Shinchanは小鼓を出しただけで終わりました。 もう宴会にいこか?という頃合に○琴さん登場!!!悪魔の声ー 「なあおまえ、酒飲んでぶっ倒れるんやーそして救急車に乗りなはれ、えー気持ちやデー、もっとえーのはナー地獄良いとこ一度はおいで、酒は美味いし姉ちゃんは綺麗だ、ワッワッハッハハ」
2002年12月12日(木)
’72パリ医科大学解剖学教室は梁山泊
Autoposis de anatomie
Shinchan達はパリ大学の医学部基礎解剖学教室へ行くようにと士官学校の大佐から言われました、詳しくはUniversité ParisⅤです。近くには美術学校がありサンジェルマン・デュプレの大通りに面しています。 セーヌ川を左に見テ歩いて行くと、ソルボンヌ界隈に出ます、いわゆるカルチェラタンと言われている町です。ここではよく学生達がカフェで議論の花を咲かせていました。
パリ第五大学(医学部) 外見からは全くここが医大?という感じです、大佐の命令は骨学と筋学を観察するようにという事でした。 好奇心に駆られ、死体は男かな?女?なんて思っていそいそ行きました、その広い教室、解剖台が真ん中にあり、小さなコロシアムのように学生席が段々に高くなっているのです、で聴講や講義に来ている学生は、これは後で解ったのですが、美大、体育科、士官学生など医学関係以外の学生が多く来ていました。 Shinchanが大使館の書記官からもらった、仏和医学ノートはかなり古い物でした、まず漢字が旧漢字だったので、ひよっとしたら戦前の留学生が残していったのかも知れません、そのノートはパリを去る時に返しました。 最初の講義は髭をたくわえたプロフェッサーが五人の助手を連れて、そけぞれ手に鋸やナイフ、かんぬきのような物を持って、白い布に覆われた死体(献体)とともに現れました。「ボンジュール、今日は腕の筋肉に電極を通してどの筋が指を動かすか見て見ましょう」と言ってバサッと布を取り・・・!!!お!女だ! 鋸で肩の方から切断して皮をはいで(恐ろしかったです)赤と白の電線をあっちこっちに突き刺しました。↑メッセージがあるよ、クリック 「体育と音楽の学生は前にくるように」なんて言われて、恐る恐る降りていきました、消毒薬と死臭が混ざった臭いがツーンとします、そして電極をコントロールしている配電盤のように沢山あるスイッチの一つを押すと、人差し指がピョコピョコ動きました、そして良く解らなかったのですが、薬指と小指の筋はどうしても同時に動いて困る、と言う事を言っていました。 フーンなんて感心していたら、腕を切り取った女性の死体を助手達が正に解剖を始めたのです、ウヘー!!でも、もうそこから動けないのです。 筋肉の説明だけじゃないの? 皮をはいで黄色い脂肪が見えて、やがて骨が見えました、すると今度は肋骨を鋸で切り、な!なんとその破片がShinchanの席まで飛んで来ました、見る見る内に身体が開かれ、内臓が完全に見えるようになりました。 教授の説明は腕の筋肉について喋っているのですが、横で解剖している助手達のほうに、学生の眼は行きます。杉田玄白と『解体新書』 講義が終わり友人達とアラブ国際研究所でミントティーを飲みながら「しばらく肉は食えないよなー」・・・
2002年12月10日(火)
間奏曲キング牧師とケネディー大統領
キング牧師の"We shall overcome"そして友よ、熱かった時代ですね。 I have a dream that my four little children will one day live in a nation 私には夢がある。いつの日か私の幼い四人の子どもたちが、彼らの肌の色によって評価される where they will not judged by the color of there skin but the content of のではなく 彼らの人格の深さによって 評価される国に住めるようになることであろう。 "Free at last! Free at last! Thank God Almighty, we are free at last!" 「自由だ!自由だ! 全能の神に感謝すべきかな。 私たちは ついに自由になった!」 (1963,8,28,『ワシントン大行進』の際のスピーチ)
↑メッセージがあるよ、クリック では生の声を聞いてみよう! をクリック!歌うように話すスピーチはゴスペル(黒人霊歌)の原点を感じさせます。キング牧師はベトナム戦争のことにも言及しています、それはケネディー大統領が暗殺されて次ぎのジョンソン大統領になり、北爆の泥沼に入りました。多くの若い米兵が戦死しました。キング牧師は自らの命もそう長くない事も察知していた感があります、そのベトナム戦争に対するスピーチはまるでケネディー大統領の言葉を代弁しているようです。 最後のスピーチ [もし私の最期の日に立ち会うことがあったら、長々と弔辞を述べないで下さい。私がノーベル平和賞を受賞したことなど言わないで下さい。そんなことは重要なことではないのです。何百もの賞を受けたことなど言わないようにお願いします。どこの学校に行ったかなど、どうでもいいことです。 最期の日には、私マーティン・ルーサー・キングJr.は、人のために一生を捧げた、と言ってもらいたいのです。戦争の問題では、つねに正しい立場に立ったと言ってもらいたいのです。すべての人間を愛し、仕えたと言ってもらいたいのです。] ケネディ自身は議会に提出中であった公民権法が実現する前に暗殺されてしまいますが、キング牧師の訴えはケネディの訴えでもあったような気がします。 ケネディ大統領のことば─あの運命の初夏、ワシントン、アメリカン・ユニバーシティ卒業式でのスピーチWhat kind of a peace do I mean and what kind of peace do we seek? Not a "Pax Americana," enforced on the world by American weapons of war. We must reexamine our own attitudes towards the Soviet Union. Our most basic common link is that we all inhabit this small planet. We all breathe the same air. We all cherish our children's futures. And we are all mortal. (From June 10, 1963 speech to the graduating class of American University.) 私のいう平和とはどんなものか、また我々はどのような平和を求めるのか。アメリカの武器によって「アメリカの支配による平和」を強制しても平和は来ない。ソ連への我々の態度も再検討すべきだ。我々を結びつける基本は、我々全てがこの小さな惑星に住んでいることである。我々はみな同じ空気を吸っている。我々は子供たちの将来を案じている。そして我々は皆、死すべき運命にある。 Shinchanはよく覚えています、買ってまもないテレビ(もちろん白黒)の前でニュースが流れお父さんが「なんちゅうことする国ゃ!」と言いお母さんは「あんな立派な人を・・・」って言って泣いていました。鮮明に覚えています。 をクリック!
↑メッセージがあるよ、クリック もしケネディーやキング牧師が生きていたら、現在のアメリカをどのように導いたのでしょうか?歴史にIFはないのですが、来年は大変な世界的動乱が起こるような気がします・・・。
2002年12月07日(土)
間奏曲「赤とんぼ」から「ラ・マルセイエーズ」キング牧師
手前から西郷隆盛、桐野利秋、村田新八
この座っているのが村田新八です、彼はフランス留学時にアコーディオンを習得して、あの官軍最後の総攻撃の前夜、西郷隆盛軍は高らかとフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」をアコーディオンの伴奏で歌い、城山にこだましたと言い伝えられています。'70年代の大学紛争の時の学生達が「あかとんぼ」で西南の役終焉が「ラ・マルセイエーズ」というのは何か共通点が感じるのです。
↑メッセージがあるよ、クリック をクリック! この歌詞まー凄い内容です「君が代」が大人しく聞こえますね。La Marseillaise Allons enfants de la patrie, Le jour de gloire est arrivé Contre nous de la tyrannie L'étendard sanglant est levé Entendez vous dans les campagnes, Mugir ces féroces soldats? Ils viennent jusque dans nos bras Egorger nos fils, nos compagnes! Refrain Aux armes, citoyens! Formez vos bataillons! Marchons! Marchons! Qu'un sang impur Abreuve nos sillons! Amour sacré de la patrie, Conduis, soutiens nos bras vengeurs! Liberté, Liberté cherie, Combats avec tes defenseurs! Sous nos drapeaux, que la victoire Accoure à tes males accents! Que tes ennemis expirants Voient ton triomphe et notre gloire! Refrain Nous entrerons dans la carrière Quand nos ainés n'y seront plus; Nous y trouverons leur poussière Et la trace de leurs vertus. Bien moins jaloux de leur survivre Que de partager leur cercueil, Nous aurons le sublime orgueil De les venger ou de les suivre! Refrain 大意 さあ、祖国の子等よ 栄光の日は訪れた。 暴君たちの血まみれの旗が我等に向かって掲げられた。 田園を満たす獰猛などよめきが聞こえるか。 彼等は子供や妻たちの咽喉を切り裂きにきたのだ 武器を取れ、市民達よ。 軍隊を組め、進め。 敵の汚れた血で我等が田園を浸せ。
忙中の間?所と国が変われば・・・ 1812年のナポレオンのロシア遠征によって焼失したモスクワの中央大寺院が,70年ぶりに再建された祭典のために書かれたと言われている。フランス人はこの曲が嫌いだという話もあります。 ピョートル・イーリチ・チャイコフスキー 生没年 1840-1893 大序曲《1812年》 をクリック! 1812年に当時破竹の勢いをもったナポレオンがモスコーに攻め入ったが寒さと飢えの厳しさに敗北した様子が写実的に描かれています。 フランス軍を現すのにフランス国家(ラ・マルセイエイズ)が用いられており、最後にその国歌を打ち消すようにロシア国家が高らかに朗々と歌われて、勝利を表現しています。そういう音楽だけにフランスでは演奏されない曲なんて言います。 冒頭の讃美歌は「神よ汝の民を護れ」という題名だそうで、民衆の苦悩と恐怖を表現しているそうです。まー最後には大砲が鳴って鐘がガンガン打たれます。↑メッセージがあるよ、クリック しばらく間奏曲が続きます、次回はキング牧師の歌っているようなスピーチですつづく
2002年12月06日(金)
間奏曲「赤とんぼ」は革命歌!?
Shinchanの友人でKちゃんからこのような書きこみをいただきました。 。 * ゚ ・ 。 引用開始 。 * ゚ ・ 。 * 赤とんぼは、私の大好きな歌です。日本人の心の原点に触れるような歌ですね。この歌が革命的じゃないっていう評価を中国のえらい人からもらったっていうのは、本当に???ですね。 でも、これで思い出したんだけど、私が大学生だったころ、大学紛争があって、時計塔にたてこもってた学生たちが、機動隊に取り囲まれて、もう、風前の灯火となったとき、時計塔から、「赤とんぼ」の曲が流れてきたんですよ!なぜ、学生たちが、そんなときに、この曲を流したのか、なぞですが、たてこもってた学生たちのほとんどが文学部の学生たちだったってことが、関係あるかもしれません。 夕方、薄暗いなかで、ものものしい装甲車に取り囲まれて、塔からは、「赤とんぼ」。不思議な雰囲気でした。そのあと、機動隊が突入して、ものすごい騒ぎになり、催涙ガスや、投石の中、彼らは一斉に逮捕されちゃったんだけど。 。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。 引用終了 。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。 Shinchanは'70の大阪万博の時は中学3年だったので、大阪駅で大学生さん達がWe shall overcomeや「友よ」を歌って機動隊と闘っているのを見てました。 熱い時代だったのですねー。 それで中国の政治家さんの「赤とんぼには革命精神が感じられませんね」という発言はおそらく彼が毛沢東と友に抗日戦線を闘いあの長征を経験したからだと今では思っています。
山,靑天を 刺き破りて 鍔(やいば) 未だ殘(かけ)ず。 天 墮んと欲(す), 賴りて以て 其の間に(ささ)ふ。 十六字令、毛沢東の詩 長征とは?http://www2.wbs.ne.jp/~jrjr/hk2-9.htm このように毛沢東は革命家であり詩人だったのですね。
↑メッセージがあるよ、クリック クリック! 冒頭に引用したKちゃんの言う'70の大学紛争で「赤とんぼ」を流しておそらく歌ったであろうと思うのですが、その後機動隊に一網打尽にされるのは何か日本人の精神性を表しているような気がします。 あの西南の役で城山の最後の西郷さん(シャレかいな!)を囲んだ兵はフランス留学経験のある村田新八のアコーディオンでフランス国歌ラ・マルセイエーズを歌ったという言い伝えが鹿児島にはあります。つづく
2002年12月05日(木)
間奏曲赤とんぼと蛍、日中友好の掛け橋
「赤とんぼ」と「蛍」が日中友好の掛け橋になったお話です。 クリック!
1 夕焼(ゆうや)け 小焼(こや)けの 赤(あか)とんぼ 負(お)われて 見(み)たのは いつの日(ひ)か 2 山(やま)の 畑(はたけ)の 桑(くわ)の実(み)を 小籠(こかご)に 摘(つ)んだは まぼろしか 3 十五(じゅうご)で 姐(ねえ)やは 嫁(よめ)に行(ゆ)き お里(さと)の たよりも 絶(た)えはてた 4 夕焼け 小焼けの 赤とんぼ とまって いるよ さおの先(さき)
↑メッセージがあるよ、クリック 今日の間奏曲は「あかとんぼ」でShinchanは'74年に中国の北京に行きました、未だ文化大革命の時代だったと思います、日本は箏や尺八、笛、そして鼓、太鼓で演奏しました、中国は中央民族管弦楽団が交響詩「黄河」でした、最後にあかとんぼを演奏した時ある偉い政治家風のおじさんが「今の曲には革命精神が感じられませんねー」なんて言われて、一同??? よく見ると中国の音楽家が恥ずかしそうにうつむいていました。 その時指揮者とオーケストラとソプラノの歌手がお返しにと言って、清少納言、『枕草子』第一段の一節を演奏しました。歌は日本語でした。 夏は 夜 月のころは さらなり 闇もなほ 蛍のおほく飛びちがひたる また ただ一つ二つなど ほのかにうち光りて行くも をかし 雨など降るも をかし きっと芸術家として又儒教精神の国として、その政治家の言った言葉に耐えられなかったのでしょうねー、Shinchanや仲間、中国のメンバーは滂沱とて落ちる涙を堪える事が出来ませんでした。 それから随分経ってからShinchanは日本、中国、韓国の伝統楽器で編成されたオーケストラアジアに参加して、中国のメンバーと再開したのでした。
2002年12月04日(水)
’72フランス陸軍士官学校
L'ecole speciale militaire de Saint-Cyr Coetquidan"フランス士官学校"に週3日、朝10:00~夜9:00までという信じられない過酷な授業と訓練が始まった。
Ⅰ緊急治療と衛生 Ⅱ防御と生きるための知識(動物、主に毒蛇の峻別と食料と水確保) Ⅲ野営の技術と防衛法 今まで音楽しかやってこなかった学生にそれこそマンツーマンで叩きこまれるのだ。
手前は旧武器弾薬庫、その向こうが軍舎 なにかかっこ良く書いてますが、これら全てフランス語で教育されるのです、Shinchanはパリ医科大学の日本人留学生が残していった仏和医学ノートを大使館の書記官からいただきました。これは後々大変役に立ちましたが、授業初日は全くと言って良いほど何も解りませんでした。 Ⅰ緊急治療 救急業務は、18世紀のナポレオン戦争の時、フランス陸軍軍医のジーン・ラリーが、戦争に馬車を走らせて傷兵救護にあたった記録が最も古いものとされています。 ここで驚くべき事を教わりました。Artere(動脈)とVeine(静脈)について動脈は心臓から圧力をかけて送られている血管で静脈は一度全身に広がってしまい、勢いのなくなった血液が通る血管です。もし手のひらや手首に怪我をして出血した場合、上腕を縛るのできなく、心臓より高い位置に上げて傷口を塞ぐのです。
↑メッセージがあるよ、クリック Desinfection(消毒)、例えば野戦地で怪我をした場合、その出血を止めるのが先決で消毒はかなり後で良いということでした。ある医者は無意味だとも言ってましたね。 ★蛇に噛まれた! 足や手を心臓から下の位置にして、心臓に近い所にゴムで縛り、そして口で吸う、蛇の種類の峻別が大変に難しく、カンボジアやベトナムに生息する毒蛇は神経毒なので必ず手や足の元を縛って口や携帯用毒吸い出し器「アスピブナン」で吸う、これも時間との勝負なので口の消毒などはしない、そして万が一飲みこんでも害はないという事でした。 Shinchanは仏和医学ノートと睨めっこして一生懸命に復習しようとしましたが、疲れて寝てしまうのでした。 明後日はな!なんと解剖学教室に行くのです、いったい何のためやろー?勿論女性軍も一緒・・・。 携帯用毒吸い出し器「アスピブナン」(フランス製) ※フランス外人部隊のページhttp://www.f5.dion.ne.jp/~mirage/hypams00/2e.rep.gcp.html
2002年12月02日(月)
’72ベトナム国立音楽院①
ベトナム国立音楽院 これはShinchanが1971年巴里国立高等音楽院に留学していた時のお話です。 まだアメリカと北ベトナムの間で戦争が続いている最中の事です、以前ベトナムがフランス領だった事もあって、国立音楽院どうしで共同研究や交歓学生交流が行われていました。 ある日音楽院の掲示板にle Viet Namという文字が目に入りました、未だフランス語の文章に慣れてなかったので、友人に読んでもらいました。 ・・・ベトナム派遣学生応募、オーケストラ要員に限る・・・という事でした、 Shinchanは巴里のローマ通りの宿舎の近くによく行くカフェでベトナム料理やコーヒーをよく注文していました。 底にコーヒーの粉がたまり、濃くて沢山砂糖を入れます、いわゆる粉コーヒーですね、これは後に行ったバリ島のバリコーヒーと味が似ています。友人とそのコーヒーを飲みながら「僕、応募しようかなと思っているだけど、君は?」 「その後の文章には、外国留学生の場合は大使館の証明書が必要と書いてあったよ、そして陸軍士官学校で基礎的軍事訓練を受けるとも書いてあったよ」 「陸軍士官学校?」 「だって戦争中だよ」 「ふーん、これはダメかな」 「ティヤン!そうだ、モレーヌは応募したらしいよ」 「えー!女の子でもいいの?」 「ここはフランスだぜ」 Shinchanはちょっと不純な動機でとにかくダメ元で応募することにしました。
↑メッセージがあるよ、クリック カメラマン赤塚 俊介氏の報道写真http://www.angel.ne.jp/~nisikori/nam/cman/zp_akatsuka1.jpg? 在パリの日本大使SさんがShinchanの両親を説得してベトナム派遣に全責任を負う事で承諾書を発行してくれました、S大使とはその後色々な所でお世話になるのです。 総勢6名、内女性4人(逞しい!!、外国人はShinchanとカナダの女性)がここパリの陸軍士官学校でサバイバル訓練を受ける事になりました。 「ようこそ、我が士官学校に!最初に言っておく、このような無謀な計画を実行しようとしている文化省の意図が私には理解を超える、しかし諸君がたとえ一人になっても生き残る術を全て教え込む、脱落者は名簿から外す、ダコー?」 とモンジュゥエール大佐が言った。 Shinchanは既に柔道二段極真空手初段を取得していたので・・・おもろいやんか・・・なんて言っていましたが・・・おしっこがちびるような過酷な訓練が待っていたのです。 ※ベトナム戦争のページ をクリック!
2002年12月01日(日)
Shinchanの恐怖
Shinchanは幼稚園から小学校に上がる前、大阪の大学病院へ両親と一緒に診察を受けるため行きました。絵を見てこれは何?「・・ペシュ・・」「・・・カエリュ・・」「・・ニャーコ・・」などお医者さんが色々テストします。 Shinchanの症状は幼稚園に行って、皆で体操する時、機嫌がよければしますが、何か気に入らない事があるとピアノを開けて覚えた曲をずーと弾いていたり、鍵盤を叩いたり、その時は凄くうるさいのです。お絵描きをするとお友達が吃驚します、白髪先生のように足で描こうとするのですから、そしてそれを先生に注意されると、砂場にかってに行って、足で掘ったり、砂に何かを描くのです。
白髪画伯の作品 ↑メッセージがあるよ、クリック ようするに集団生活が出来るか出来ないかが、一般の学校に行くか、養護学校に行くかの判断材料なのです。 ※今のShinchanがお母さんに聞いたところ、当時は自閉症という言葉がなく、軽度の知的傷害だと診断されたということでした。今だとアスペルガー症候群や高機能自閉症などと定義されるのでしょうが、1959年当時では知的障害児の範疇に入れられたそうです。 高機能自閉症・アスペルガー症候群の理解と援助 大妻女子大学・よこはま発達クリニック 内山 登紀夫氏のサイトhttp://web.kyoto-inet.or.jp/org/atoz3/ask/utiyama/ Shinchanのお家からけっこう離れた所に、ある大学の精神科の専門病棟がありました、近所の人達や子供達は脳病院と言っていました、そこを通るとうめき声や叫ぶ声が聞こえたりします。 「Shinchanはあそこの脳病院に行ったらええんやー!」とか大人の人に、いたずらをして叱られる言葉に「そんなんばっかりしてたら、脳病院にいれるで!」と言われました。 Shinchanが時々、今で言うところの「ひきこもり」をするのはそういう罵声を浴びせられた時です。犬のペスがチャゥ、チャウと吠えてくれました。 「・・・しんたん・・・のう・・・いん・・・行く?」 実はお母さんは、親戚や幼稚園の父母から・・・あんたの育て方が悪いから・・・と言われていたのです、でもShinchanが始めて聞いたピアノ曲をすぐそっくりそのまま弾ける(勿論手が小さいので正確にそのままという事ではありません)事や独逸語で音階を覚えているという音楽の才能を伸ばそうと思ったので「Shinchanはそんな病院に行かへんよ、字も書けるようになるし、もっとお話も出来るように必ずなるって、そんな事言われても友達と喧嘩したらあかんよ」と泣きながら抱きしめて言うのでした。 お父さんは悩みました、もし自分の教えている小学校に入れると、PTAから何を言われるか解りません、当時の養護学校は色々な症状に分けて専門的に療育するという概念や施設が乏しかったのです。結局お父さんの先輩で別の小学校で教頭先生をしているYさんが、「俺が責任持つから」という事で、普通科に受け入れてもらえる事になりました。昔の小学校の廊下 Shinchanにとって良かったのは幼稚園から小学校に上がる友達がそのまま一緒のクラスになった事です、Shinchanの事を解ってくれている友達がいたおかげで良くも悪くも、傍若無人が始まるのです。 あたらしい自閉症の手引きhttp://mail.nucl.nagoya-u.ac.jp/%7Etaco/aut-soc/rainman/