Seakの日記
日々感じたことを書き留めていこうと思っています。

2004年09月30日(木) 9月もおしまい

今日で9月も終わりだ。この2ヶ月、ほとんど外出しなかった。やれやれだ。

今日はマルチスレッドの勉強をしていたが、これからプログラムを書かなければならないというのに今さら勉強をしていて間に合うのだろうか。ひどく不安だ。

相変わらず足が痛い。単なる切り傷なのだが、血を拭くのを忘れてしまって、爪の裏側に血が入って固まってしまったようだ。そのせいなのかどうか、少し腫れてしまって歩くだけでかなり痛い。歩くスピードは普段の半分くらいになってしまった。体の不自由な人の気持ちがほんの少しだけ分かったような気もする。もっとも、僕の場合は放っておけば治るわけだが、障害の場合はそうも行かない。絶望は察して余りあるものだろう。



2004年09月29日(水) 過去の日記から

2004.9.30

過去の日記へのリンクを張ってみたが、見てみるとなんともおもしろいことを書いている。とても自分で書いたとは思えない。最近、友達と会う機会が少ないのだが、それが逆に幸いしたような気もする。ちなみに、2003年の9月30日の日記は、2ちゃんねるに晒された思い出深い日記だ。ほとんどレスがつくこともなくスルーされたようだが。自分で言うのもなんだが、どうにもコメントしようがないし、それほどおもしろくもないだろう。それにしても、昔はあれほど浮かれていたのかと思うと、懐かしくて悲しい。今ではもう、あれほどまでに浮かれることなんてありえないのではないだろうか。僕自身は、何が変わったわけでもないと言うのに。変わり行くのはただ周りの環境のみだ。



2004年09月28日(火) 久しぶりの会話

ずいぶん久しぶりに、ある知り合いにあった。大学の近くの歩道橋の上だった。ずっとそこで話していたおかげで、その歩道橋の上で人が走ると、歩道橋が揺れるということを知った。

その人と、いろいろと研究室の話をしたりした。どこの研究室でも状況は似たようなものらしい。結局のところ、何がなんだか分からないということのようだ。みんな大変なんだな、という当り障りのない結論になりそうだ。しかしまあ、ちょっと会っただけで1時間以上も話し込むとは…。お互い、おしゃべりがかなり好きだというのもあるのだろうが、それにしてもずいぶん長いものだ。

過去において同じ部屋で同じように講義を聞いていた人たちも、今はもう、それぞれがそれぞれの道を歩んでいる。そんな人たちとの接点が失われて久しい。なんとも悲しいものだ。ただ、メールアドレス変更のメールを出したら、数人から返事が来て嬉しかったのだが。返事など必要ないのだろうが、何か返してみようと思う。今はもう、こちらから積極的に連絡を取らなければ、まともに人と話すことすらできない生活なのだ…。直接会って会話することはコミュニケーションの基本だと思うのだが…。人として基本的なことが、今の僕の生活からは欠落している。

ところで、物事を考えるということは、果たしていいことだと言い切れるのだろうか。最近、さまざまな議論を目にして、よく疑問に思う。最近になって1年前の日記にリンクを張ったが、1年前と今と、まったく書いていることが変わらない。進歩していないな、と思うが、昔と違って前より悪くなったと思わないだけマシだろうか。

で、物事を考えるということについてだ。物事はどんなことにせよ、考えれば考えるだけ、それまで見えていなかった面が見えてくるものだ。僕は何度かマスコミに対する批判をこの日記に書いてきたが、いずれも結局のところは、考えが足りないということに尽きる。いろいろな見方のある物事を、一面的にしか見ていない、それも、そのマスコミにとって都合のいい見方しかしていないように感じるのだ。しかし、そこで多くの見方を併記すれば、量は増えるし内容もぼやける。文章全体でさまざまな意見が交錯して、何を言いたい文章なのか分からなくなってしまう。

そしてそれよりも問題となることは、いろいろ考えれば考えるほど行動がともなわないことだ。なぜなら、ありとあらゆる可能性を考えている限り、その問題について結論は出ない。結論が出ないから、何らかの行動を起こすこともない。何か行動を起こさない限り、ほとんどの問題は解決しない。

結局、どうすべきなのか。何がなんだかさっぱり分からなくなってきた。マスコミは一刻も早くニュースを記事なり報道なりで伝えなければならないのだから、考えることよりも行動を優先するのは仕方のないことなのかもしれない。考えが足りないように見えるのは、時間的な制約がある中での彼らの能力的な限界なのだろう。

とりあえず、今の僕は行動をする必要などない。問題があれば、なるべく多面的に考えていればいいのだろう。きっと。ただし、いくらいろいろ考えて、日記であれこれ批判したところで、問題は何一つ解決しない。それは肝に銘じておくべきなのだろう。



2004年09月27日(月) 危険な化学物質

恐ろしい化学物質についてのウェブページを見つけた。その化学物質は、毎年無数の人を死に至らしめているそうだ。さらに固形状態のその化学物質に接触すると身体組織に激しい損傷を来すことが確認されているそうだ。その化学物質の名はDHMO(DihyrodogenMonooxide)と言う。ちなみに、これから紹介するページには記されていないが、この物質は多量に摂取すると中毒症状を起こすということを、僕は知っている。そのウェブページは、DHMOに反対しようというページだ。

この文章が意味するものは、環境問題に対する皮肉だ。環境問題に関連する多くの文章に当たる際、常にDHMOを念頭に置くべきだろう。

リンク先を見ていない人のために言及しておく。DHMOとは水である。DihyrodogenMonooxideは、「水素が二つに酸素が一つ」だ。無数の人を死に至らしめているとは、溺死などを指す。曖昧な根拠でもっともらしい文章を書くことで、これだけの恐怖心を煽ることができるのだ。



2004年09月26日(日) 相対的な正義

人は正義を行っていると確信しているときに、最も邪悪な行動を平然と行うことができるという言葉を見た。これこそ、僕の信念に一致する言葉だ。必ずと言っていいと思う。邪悪な人間は、絶対に自分が正義だと信じていると思う。



2004年09月25日(土) YahooにURLを書いたのは…

久しぶりにMyRefererを見てみたら、変なところから来てる人がいた。Yahoo!知恵袋?なんだそれは…。

それが、Yahoo!知恵袋 - インターネットをやっていると「ぬるぽ」とという項目だ。ID非公開って誰だろう。まあ、とりあえず言っておくと、この質問者の「調べた」というのは嘘だろう。「ぬるぽとは」というキーワードでググればすぐに出てくるはずだ。もはや僕の日記は引っかからないが、一番上のものを見るだけでも十分だろう。I'm Feeling Luckyでも行ける。

ともかく、変なところで参照されていてかなり驚いた。インターネットに後悔している以上、どこのだれに参照されてもリンクされても文句を言える立場ではない。リンクしないでくださいなどと言う人がいるが、インターネットの性質を考えれば、それは本質を見誤ったものだ。インターネットにウェブページを公開している以上、それは全世界に対して公開していると見るべきだ。それをリンクするな、などと言っているのは、そのインターネットの性質を知らないでいるとしか思えない。もっとも、ほとんどのウェブページは、確かに誰かにリンクされなければ知られることはないのだが…。何と言っても、現在もっとも有名なウェブ検索ソフトウェアであるGoogleが、誰かにリンクされたページを優先して表示する使用である以上は。



2004年09月24日(金) ガンホーという企業

またおもしろいページを見つけてしまった。癌砲が発売したサウンドトラックのページだ。

レビューを見て欲しい。Amazonでは数多くの商品が発売されているが、未だかつてこれほどの酷評をされた商品を見たことがない。それもそのはず、なんとCDなのにMP3以下の音質だと言うのだ。一体何を考えていたのだろう。



2004年09月23日(木) Google検索の傾向

前にも似たようなことを書いたが、この日記はGoogleで検索されやすい傾向にあるようだ。

しかし、どうもそれだけではない。この日記に限らず、相互にリンクされている場合が多いブログも、Googleの検索でかなり上位に表示される。もしかしたら、それがブログ普及の一助になっているのかも知れない。普通の個人のウェブページよりも検索されやすいのなら、簡単に多くの人が訪れることになるからだ。それがいいことなのかどうかはなんとも言えない。Googleの検索は一つの評価と言えるわけで、その評価がブログという手段を使うというだけで簡単に得られることにもなるからだ。まあ、Googleで検索されることが高評価だなんて誰も言ってないし、別にいいのかも知れないが…。



2004年09月22日(水) 練習問題

将来きっと、今よりもマルチスレッドのプログラミングについて理解しているだろう。そうありたい。だから、勉強を始めたばかりの頃の考察をあえて残す。内容については一切保証しない。キーワードは安全性生存性再利用性パフォーマンスだ。

  • 問題12-1 (評価基準の適用)

    本章で述べた評価基準を考慮し、次の発言について自由に考察してください。

    1. メソッドには機械的にsynchronizedをつけておけば「よい」だろう。

      機械的にsynchronizedを付けた場合、安全性は向上すると思われる。しかし、生存性は必ずしも保証できない。また、一つのインスタンスで利用できるメソッドを一つに限定した場合、応答性が低下することが考えられる。また、キャパシティも大幅に低下すると考えられる。

    2. synchronizedメソッドの中で無限ループになっているじゃないか。これは「悪い」プログラムだな。

      無限ループになっていても、ループの離脱条件がきちんと記述されていれば問題はない。されていなかったとしても、安全性や生存性に直接影響する事柄ではないと思われる。だいたい、ゲームのメインスレッドは無限ループがよいのではないだろうか。

    3. プログラムのミスで、無限ループに入るだけのスレッドを100個も起動してしまった。でも、スレッドはただループしているだけだから、まあ「よい」だろう。

      パフォーマンスの大幅な低下が考えられる。意味がないのであれば、処理は最小限にとどめるのが理想だろう。

    4. このサーバには同時に1つのクライアントしか接続できないんですか。もっと「よい」サーバにしてください。

      厳密な安全性と生存性を求めるのならば最良の方法だ。堅牢なサーバを運営するのならばよい方法ではないだろうか。しかし、パフォーマンスはよくない。多少の停止を許容するサーバであればパフォーマンスを優先するのもいいだろう。例えばラグナロクオンラインのサーバは、ときどきダウンしたとしても、顧客は調教済みだから問題ない。それよりも普段のパフォーマンスを向上させて、少しでも日常の不満を解消するのがよいだろう。

    5. なんて「悪い」検索プログラムだ。いったん開始したら全部検索し終わるまでキャンセルできないじゃないか。

      応答性は悪いが、安全性と生存性を安易に確保できる方法だ。再利用性は高くないだろう。

    6. このままだと、クラスAとクラスBの両方が、スレッドの排他制御を意識していることになって「よくない」かな。

      再利用を考えるのが面倒だろう。しかし、安全性と生存性を確保するためにやむを得ないのならば避けるべきではない。

終了タグを省略しているので、ブラウザによっては正しくレイアウトの処理をしてくれないかも知れないが、知ったことか。そんなものは対応していないブラウザが悪いのだ。とは言え、時代はXHTMLへと向かいつつあり、XHTMLは終了タグが必須なのだから偉そうなことは言えないが。だいたい、この文書はHTML4.01 Tranditionalの条件を満たしているのだろうか。Operaなら右クリックから検証を行うことができる。試してみるといいだろう。おそらくはダメだ。広告に関しては、僕の手出しできる範囲ではないし。それに、"&"の文字は"&"と記さなければならないのだが、自動で"&"に書き換えられてしまうようだ。

ちょっと検証にかけてみたのだが、どうやらエンコード方式が問題らしい。サーバからエンコード方式はx-euc-jpだと送られているようだ。これでは仕方がないか…。



2004年09月21日(火) なかなかひどいドリコム

2004.9.27

ここからもリンクしているブログなのだから、9月25日あたりからリニューアルをしていた。その結果、なんともひどい有様になってしまった。レスポンスが遅くまともに動作しないだけではなく、横幅が一気に狭くなって画像もほとんど使えなくなってしまった。さらには画像が消失したりもしているらしい。リニューアルして機能が増えたりもしているようだが、まともに動いていないのではまったく意味がないだろう。やれやれである。最近はこういう問題がとてもよく起きる気がする。社会全体に緊張感がなくなっているのではないだろうか。



2004年09月20日(月) 痛い…

2004.9.28

階段を上っていたら、右足の親指を階段にぶつけてしまった。巻き爪気味の右足の内側が思い切りえぐれてしまった。痛い…。これから階段を上るときは気を付けよう…。そろそろ床が冷たくなってくるし、スリッパをはくようにすればいいのかも知れない。



2004年09月19日(日) Opera 7.53

2004.9.30

Operaはライブドアが管理するようになったので、もう無料版は出ないと思っていた。しかし、新しい無料版が出たようだ。Livedoor Operaからダウンロードすることができる。Javaは、使っているページなどほとんどないのでなくてもいいだろう。ちなみに僕のページでは使っているが、見る場合には自動でダウンロードされるように設定している。しかも、SunのJava2のランタイムでない場合はJavaが入っていたとしてもダウンロードを要求するという心の狭い設定方法だったような気がする。Javaの実行環境は、Sun以外だとどこが出しているのだろう。ザッとGoogle検索の1ページ目だけ眺めてみたが、どうやらマイクロソフトとSun以外には、Windows用の実行環境でメジャーなものはないようだ。マイナーなものならあるのだろうが。JavaはWrite Once Run Anywhereがうたい文句であり、PCでなくても動作するのが売りだ。ということで、PCに限定しなければいろいろな動作環境があるらしい。OperaもまたPC以外でも動作するので、まあ、適当に設定すればいいだろう。PC以外のことはよく分からない。



2004年09月18日(土) アクセス向上施策

2004.9.30

施策が変換できなかった。「せさく」だと思っていたのだ。どうやら「しさく」らしい。

で、とほほのWWW入門アクセス向上施策を読んでみた。こいつを見て、つくづく日記やブログってのはアクセス数を稼ぎやすいやり方なのだと思った。

まず、テーマが決めやすい。普通のウェブサイトだと、何がなんだか分からなくてもなんとなく作れるが、日記はその名のとおり日記以外の何物でもないし、ブログも大抵は日記のようになる。読みやすさに関しては、ブログの場合、大抵運営者側からスキンが提供される。それを使っていれば、概ね間違いはない。

しかし、はっきり言って内容はどうでもいい。重要なのは宣伝だ。見に来てもらえなければ、どれほど優れたページも意味がない。逆に、どれほどつまらないページでも見に来なければ内容は分からない。前から何度も書いているような気がするが、そういう意味で日記やブログは優秀なのだ。なぜなら、頻繁に更新したりリンクされやすかったりするブログは、Googleに拾われやすいからだ。Google以外の検索エンジンにも拾われやすいのかもしれない。一人でどれほどがんばっても高が知れているが、ブログは大抵の場合大手が管理しているので、初めから検索エンジンにかかりやすいのだ。

それにしても、最近になっていろいろなサービスが現れてウェブの幅も広がってきた。ブログもそうだが、Wikiも実におもしろい。ブログは見ているほうもコメントなどができるとは言え、基本的には管理者が決まっている。しかし、Wikiの場合は管理者は脇役であり、誰もが内容を書き込むことができ、管理者によって制限されていなければ書き換えることもできる。ブログとは違ったおもしろさがある。また、ソーシャルネットワーキングサービスというのもある。自分のページを持って、コミュニケーションを楽しむってやつだ。グリーが有名だ。ブログとの連携機能もある。まあ、いろいろってことだろう。

話はぽんぽん飛ぶが、ブログにはトラックバックという機能がある。これは誰かの話を引用してコメントするのに使う機能なのだが、その際、引用したことを相手に通知することができる。相手側から見ると、自分の書いたものに対してどういうコメントがされたか分かるのだ。そして、実はこのトラックバック機能、ブログだけではなく掲示板でも使える場合がある。2ch系の掲示板の場合、かなり多くの人が見に来ている場合がある。だから、そういう掲示板に対してトラックバックを使ってやると、一気にアクセス数を稼ぐことが可能になるわけだ。もっとも、多くの人が見に来る掲示板に対してコメントをするというのは、かなり危険なことではある。そこから多くの人が訪れて、いろんな人がいろんなことをする可能性があるからだ。単にアクセス数を稼ぎたいだけなら、やめておいた方が無難だろう。この機能に対応している掲示板の例としては、したらばが挙げられる。いつの間にか管理がライブドアに移ったのだが、その頃から妙に重い。野球の球団を買うのもいいが、その前に自社で管理している掲示板くらいまともに動作するようにしてほしい。僕が使っているブログも、ネットゲームの管理会社である糞会社もそうなのだが、最近はサービスよりもコストを重視する傾向にあるようだ。多少品質が悪くても、客はバカだからついてくると思っているのだろう。実際にどうなのかはよく分からない。もし客がバカでなかったとしたら、プロ野球の保証金が返されると言われる10年後には、ライブドアはつぶれているのではないだろうか。

楽天にしてもそうなのだが、冷静に検討したら、プロ野球球団を運営するには少々危ないかもしれない。球団の所有企業がいきなりつぶれてしまったりしたら非常に困る。だが、今のこの流れだとどれほど正当な理由であるにしろ、参入を拒否することは難しいだろう。個人的には球団が増えることに賛成だが、この点に関してあまりに感情的になると、道を誤るかもしれないような気はする。



2004年09月17日(金) ネタがない…

特に書くことはないなあ…。そうやって書いているといろいろ思い浮かぶものだともるひさんのサイトに書いてあったが…。あ、ちなみにここ、ラグナロクのファンサイトなので、知らない人には何がなんだかさっぱりだと思う。

ふーむ、そうは言ってもやはり思い浮かばないなあ。まあ、書いてあればなんでもいいし、今日はやめておくかな…。



2004年09月16日(木) 検索キーワードの秘密

検索エンジンとして有名なGoogleに、おもしろい特徴があることを知った。常識なのかもしれないが。

それは、検索対象となる言葉が入っていないページも検索してくれるということだ。具体的にどういう仕組みなのかは知らない。だが、要するにそのページをリンクしているページに書かれている言葉によってもヒットするのだ。例えば、僕がこの文章に「日記」という言葉を一言も書いていなかったとしても、誰かが「日記」という言葉を使ってこのページにリンクを張れば、「日記」という言葉で検索することによってこのページがヒットする可能性があるということだ。なかなかよくできている。

このことを知ったきっかけは、「糞会社」で検索した結果という話題を見たからだ。あまり上品な言葉ではないが、通常の場合、自社のウェブサイトに「糞会社」と記述することは考えられない。ところが、検索すると企業のウェブページが検索結果として表示される。キャッシュを見ると、その理由が表示されるのだ。「これらのキーワードは、このページにむけて張られているリンクに含まれています: 糞 会社」とのことだ。今はそんなことはないが、この話題で盛り上がっていた当時は、この糞会社がGoogleによる検索でトップに表示されていたのだ。それが表示されなくなったのは、おそらくユーザの多くが調教されてしまったからだろう。最悪の管理体制に慣れきってしまったのだ。まあ、僕もそうなのだが。しかしそれでも4位を守っているのだから立派なものだ。

ところで今日は、デザインパターンのテキストを購入した。前にも買ったのだが、今度はマルチスレッド編だ。正直に言ってまともにプログラムもしたことのない僕がマルチスレッドを扱うのは無謀なのだが、必要なのだから仕方がない。結城さんの本は、書いてあることはとても分かりやすいから買って損だったということはないだろう。しかし、それと使いこなせるかどうかはまったく別問題だ。困ったものだ。

夏休み後のミーティングは10月12日らしい。その日までにある程度形になるものを作っておいて、プレゼンの準備もしなければならない。本来ならそれなりの時間があると言うべきなのだろうが、いかんせんモチベーションが最悪の状態だ。こんなことでどうにかなるのか、とても不安だ。もしかしたら、就職活動が始まった方が、かえって気持ちの切り替えができるのかもしれない。最悪なのは、就職活動すらやる気がせず、まともに続かないことだが…。とにかく逃げずに考えつづけていくしかないだろう。



2004年09月15日(水) ウェブサイト移設

2004.9.16

これまでぷららのサーバに置いていたウェブサイトを、J-COMのサーバに移転した。これでいよいよ、ぷらら解約の準備が整ったのだろうか。一応知っている限りではメールアドレス変更の通知もしたし…。しかし、知人全員にメールアドレス変更の連絡をするなんて大変だと思っていたら、たいして苦労することもなく、かえって悲しかった。確か、父と弟へ宛てた分も含めて全部で17件だっただろうか。知人全員とメールのやり取りをしているわけではないとは言え、寂しく感じてしまう。

新しいサーバは問題なく動いているようだ。しかし、プロバイダが提供するサーバに自宅から接続すれば、スムーズなのは当たり前だ。こんなとき、大学からチェックするのは便利だ。大学の回線はSINETを使用しているから、大学からスムーズに見られるのなら、一般のインターネットで見る上では問題ないと考えていいのではなかろうか。まあ、僕のウェブサイトなんてたいしたことが書いてあるわけではないから、見られなくても構わないと言えばそれまでなのだが…。ちなみに僕の研究室は、20番ポートは開いているが21番ポートが開いていないというわけの分からない設定なので、FTPは使えない。意味があるのかとも思うが、おそらくは設定ミスではないだろうか。接続はできてもファイル一覧の取得ができない。

あとは、ウェブページに記述したメールアドレスやリンクが古いから、それだけ修正しなければならないだろう。たいした作業ではないのだが、いちいちFTPで転送するのがちょっとだけ面倒だ。慣れればどうってことはないのだろうが。Windowsのエクスプローラで接続できるFrontPage Server Extentions対応のぷららが懐かしく思える。ちなみにぷららは、CGIかこのFrontPage Server Extentionsか、どちらかしか使えない。CGIも捨てがたいと思ったのだが、結局FrontPageの方を使うことにした。レンタルすることもできる掲示板より、やはり利便性だ。J-COMもやってもらえないものだろうか。と思って調べようとしたら、どうやらJ-COMの回線でないと接続できないらしい。不便だがまあ、やむを得ないのだろう。



2004年09月14日(火) メモ

最近物忘れが激しいので、細かいことでもすぐメモをすることにした。とは言え、電車の中などなかなか紙とペンが使える状況ではないので、PHSのメールを使うことにした。自分のPC宛にメールを送るのだ。これで少しは状況が改善されるといいが。メガネを変えたら確かに集中力は増したが、エンジンの掛かりが悪い状況には変わりない。



2004年09月13日(月) 生活のリズム

とりあえず毎日の生活のリズムを作っていこうということで、まずは毎日日記を書くことにした。昔は何の苦にも感じなかったのに、どうして今は、それがきついと感じるのだろうか。

きついと言えば、最近今までにも増して運動不足なので、昼食を食べに行くときかなり速めに歩いてみた。距離は1.5キロ程度のはずだ。その帰り道、驚くべきことに足が筋肉痛になってしまったのだ。たったそれだけの距離で筋肉痛になってしまうとは。これは一つ、意識して運動するようにしなければ、日常の生活が危ういかもしれない。

最近、いろいろなニュースや他の人の日記を見ているとつくづく思うのだが、社会人というのは多かれ少なかれロールプレイングをしているような気がする。ゲームの意味ではなく、本来の「役割を演じる」意味のロールプレイングだ。社会人はそれぞれ、何らかの職について働いているわけだが、それとは別にプライベートの部分は必ずある。どんな会社人間だって、24時間会社員をやっているわけではないだろう。ゲームで必死に砦を取るための戦略を立てて、みんなに通知して、出席を取って…と言った作業と現実の仕事と、やっていることにどれほどの差異があろうか。もっとも違うのはその意味合いだ。同じような作業をしていても、実際にはそれにともなって責任があるだろうし、対価もある。職種によっては日本全体や世界全体に影響を与えることだってある。ただ、本質的にはゲームも現実も変わらないのではないだろうか。その影響する範囲が違うだけだし、ゲームだって生身の人間がやっている以上、多少は社会に影響することもあるだろう。

どちらにしても僕たちはゲームなり社会なりの決められた枠組みの中で、それぞれの役割を演じているわけだ。ただそれだけのことに、一体どんな価値を見出せばいいのだろう。食べるためだとか人のためだとか、ある程度の意味を持たせることはできるだろう。しかし、社会の枠組みの中で仕事をすることで、自己実現や満足を得るということが果たしてできるのだろうか。

それができないと考えると、また好きではない考えが頭をもたげてくる。すなわち、社会の枠組みを破壊することで満足を得るという考え方だ。これは犯罪行為には限らない。たとえば新しい会社を立ち上げることだって、その業界の枠組みを破壊する行為となるわけだ。だが、そうやって既存のものを破壊するしか、満足のための手段はないのだろうか。だからいつの世も争いは絶えず、成功者は常に敗北者を足蹴にしているのだろうか。

いや、成功する人間は好戦的であるとも考えられる。好戦的な人間と厭戦的な人間がいた場合、厭戦的な人間が逃げ切れることは少なく、ほとんどの場合は争いになるだろう。争いを避けることができるのは、厭戦的な人間が世の多くを占めるときだけだ。例えばある業界だとか、決まった人間関係の範囲であれば、この人数構成が変わってくることは用意にあり得る。その場合、争いとなれば、好戦的な人間が勝利することになるだろう。その結果、好戦的な人間が厭戦的な人間を下し、世に大きな影響力を行使するようになるのではないだろうか。大きい社会であれ小さい社会であれ、構成する人間のほとんどが争いを避けようとしない限り争いは起こり、その結果として争いを好まない人間が敗北する。

この考えで行けば、争いではなく日々の生活の中に満足や幸せを見出した人間がいたとしても、それは世の流れによって容易に破壊され得ることになる。しかし僕は、争いによって誰かを敗北させ、勝者として君臨したいとは思わない。それ以前に、おそらくはそれほどの力を持っていないだろう。それでは、僕はいったいどうすればいいのだろう。争いが避けられないのなら争いに勝利するだけの力を得なければならないのだろうか。この手で誰かに屈辱を与えることは嫌だという考えは甘いのだろうか。争いは避けるべきだ。それだけは間違いない。今の僕に、争って勝利することを評価する価値観はない。…いや、本当にないのか。争いは嫌いだが、勝利するのは嬉しいという矛盾はないのか。あるのかもしれない。普段の生活で頭をもたげることはなくても、ゲームで戦いとなれば勝ちたくなる。…いや、それは勝つことがゲームの目的だからだ。勝利は目的達成のための手段で、勝利そのものに価値を見出しているわけではないはずだ。

何か目的を持って、それを達成すればきっと満足できるはずだ。社会の枠組みの中で、達成すべき目的を見出さなければならないのだ。しかし、今さら何があると言うのだろう。多くの職に憧れはある。しかし、長く続けていけば底は見える。いくら続けても分からないという人はいるが、それは業界の中だけで通じることであって普遍的な価値観ではない。いや、普遍的かどうかは関係ない。満足するかどうかは個人の問題だ。どのような世界であれ、自分が十分に没頭でき、目的達成のために全力を尽くす価値があると思えればそれでいいではないか。問題は、それが僕にとって何なのかということだ。

僕はずっとPCに興味を抱いてきた。ゲームが好きだった。では、PCやゲームの世界にその目標があるのか。そうは思えない。すでに底が見えているような気がする。それではシステムエンジニアになるのか。いや、企業社会の枠組みは、とてもじゃないが好きにはなれない。なぜなら、企業こそは勝利を最大の目標としているからだ。資本主義という枠組みは勝利を目標としなければならない。他者を圧倒することがその大きな手段となる世界だ。この日本という国にいる以上資本主義からは逃れることができない。しかし、できるだけ身を遠ざけておきたいというのが本音だ。

満足すること、幸せになること、そのための道は、全力を尽くす価値のあることを見つけるだけではないのかもしれない。守るべき大切なものがあって、そのために全力を尽くすのも一つの生き方だ。それだけではない。そのときどきでもっともいいと思えることを、その時々で追求することだって生き方の一つだ。もっと考える必要がありそうだ。

僕は、安定が好きだ。争いは嫌いだ。目標を定めるのは苦手だ。単純な作業は得意だ。生産的な仕事は苦手だ。多くの情報を編集して一つの形にまとめ上げるのがもっとも得意だ。単純に考えれば編集者か。それではあまりに短絡的だろうか。人と話すのは好きだ。おそらく敵意を与えずに話すことができる。積極的なコミュニケーションは得意じゃないかもしれない。そうだ。考えるべきだ。できないことをやろうとするのではなく、得意とすること、できることを考えていくべきなのだ。それから、選んだ道を歩むのに不足している部分を補うのだ。あらゆる面で完璧な人間などいるはずがない。ひたすら安定を追及するにしても、何らかの目標を追うにしても、あるいは日々の生活の中で楽しいことを選び取っていくにしても、それぞれに必要なことがあるはずなのだ。自分にとってなるべく楽な道を選ぶべきだ。その方が自分を生かして、容易に欠点を補って生きていけるはずだからだ。

楽な方へ流れること、安易な道を選ぶことは罪ではない。例え社会が罪だと言おうとも、友人が罪だと言おうとも、自分自身で楽な選択を切り外してしまっては、もっとも幸せかもしれない選択を失いかねないではないか。楽な道だから幸せにはなれないなんて、誰が決めたのだ。国家にとっては困るだろう。社会にとっても困るだろう。多くの人は、自分以外の人が苦しい労働をして、自分に奉仕してもらったほうがいいと感じているに決まっている。だからと言って、進んで厳しい道を選ぶ必要などないのだ。ただ、自分が進もうとする道を歩むために必要であれば、苦しいことを避けるべきではないだけだ。楽しいことは最大限、苦しいことは最小限にすべきなのだ。当然ではないか。苦しくて幸せだと思う人間なんて、いるはずがないのだ。苦しいことを幸せだと思う人間は、苦しいことを成し遂げた先のことを思うから幸せなのだ。それは苦しみを幸せだと感じることとは違う。苦しみは過程であり、苦しむことが目的ではないのだ。目標もなく苦しむだけで幸せになることなど、絶対にないのだ。



2004年09月12日(日) 韓国のPC観

2004.9.16

オンラインゲームは、知られているのかどうか知らないが、ほとんどは日本で開発されたものではない。その多くは韓国で開発されたものだ。

このオンラインゲームの普及に関しては、韓国人のPCに対する感覚が大きく影響しているらしい。日本では、ゲームと言えば、ファミコンやプレイステーションを代表とするゲーム機が主流だった。しかし、韓国では日本文化に対する規制や違法コピーの蔓延が多かったために、そうはならなかった。コピーが多すぎて、ソフトウェアの販売で採算が取れなかったらしいのだ。だから、韓国でゲームと言うと、いきなりオンラインゲームということになったのだ。なぜなら、オンラインゲームはサーバへの接続に対して課金しているのが一般的で、クライアントプログラムは無料の場合がほとんどだからだ。ちなみに、オンラインゲームでも日本製のFFXIの場合はクライアントプログラムが有料だ。だから僕の好きなタイプであるにも関わらず、食指が動かなかったのだが。

このような歴史的経緯があるため、韓国ではPCを娯楽用のツールと捉える人が日本以上に多いようだ。日本では、情報処理のための機械という見方がまだまだ多いように感じる。だからこそ、PCでゲームをすることに違和感を感じているような意見が聞かれるのだろう。どちらがいいとは言えないが、PCをおもちゃとして見る感覚は興味深いものがある。

日本でもそれに近い状況になりつつあるようだ。家庭にPCがどんどん普及しているが、低年齢の子どもたちが、PCを情報処理の機械として見るとは思えない。その価値が分かるとも思えないし、価値を理解したとしても用途がない。僕はどちらかと言えばPCを情報処理のための機械として見る立場だが、僕のような考え方は、いずれ時代遅れとして駆逐されていくだろう。PCの操作を当然のものとして身につけた世代が、これから多く現れてくるはずだ。それは、韓国の流れに追随していると言えるのかもしれない。

そうなってくると、案外PCは消えないのかもしれない。PCは他の情報機器と比較して操作が圧倒的に面倒だ。PCはかなり汎用性のある機械だが、汎用性は煩雑さに比例する。なんでもできる機械は、それだけ操作が面倒なのだ。だからこれからはより特化した機械に取って代わられるという意見を聞いたし、僕もそんな流れになるのではないかと思っていた。だが、上に挙げたような流れがあることを考えると、そうとも言い切れない気がする。煩雑な操作を煩雑と思わずに使いこなせる世代が台頭してくれば、まだまだPCは生き残れるかもしれないのだ。だいたい、煩雑さを考えれば、言葉や文字はPCのはるか上を行く。言語を習得する難しさは、PC操作の習得の比ではない。しかしコミュニケーションに必須だからこそ、人間は言語を使いこなしているのだ。会話はともかく、読み書きは後天的なものだろう。PCもそう言った基本的な技術となっていくのかもしれない。



2004年09月11日(土) 統計の真実

2004.9.16

統計でウソをつくのは比較的たやすい。統計は数値で物事を表現するから客観的であると思われやすいからだ。しかし、実際にはその統計を扱う者によって、いくらでも恣意的に扱うことが可能なのだ。

僕が最近聞いた例では、大相撲の意識調査というのがある。つい最近の調査によると、女性が土俵に上がるのを禁止するのはおかしいとする意見が、伝統に従って禁止すべきだとの意見を上回ったそうだ。だから、相撲協会の見解はおかしいと言った意見が聞かれた。ここで、いくつかのことを考えなければならない。

まず、どういった人を対象に行われた調査なのか。男なのか女なのか、相撲ファンなのかそうでないのか、そもそも日本人なのかどうか。見るべき点はたくさんある。そして、どういった対象を選ぶべきなのかは一概に言えない。ここですでに、調査者の主観が入る余地があるのだ。なぜ一概に言えないのかはあとで示す。

次に、統計結果に対する解釈も問題だ。意識調査によって多数派が分かったとして、それが本当に正しいのかどうか。単に多くの人が支持しているだけで、それが正しいかどうかは分からない。例えば、増税について調査をしたら多くの人は反対するだろうが、それでも必要な場合はあるかもしれないのだ。

このような問題点を解決するために重要なのは、目的だ。統計を取る目的が何なのかはっきりしていれば、調査対象もその目的に合わせて考えることができる。日本人の相撲に対する意識調査であれば、外国で調査するのはおかしい。日本で調査すべきだ。また、男女の区別はすべきではない。相撲ファンかどうかも無作為にするべきだ。しかしこれが、女性に対する女性差別に関する意識調査ということであれば、当然対象者は女性のみでなければならないだろう。目的によって調査対象は変わりうるし、当然のことながら結果も変わる。

なんだか当たり前のことを言っているような気もするが、目的のないデータだけの統計が多いような気がするのだ。その際、具体的な調査手法も調査対象もあいまいだったりする。これでは統計の信頼性が分からない。考察対象になり得ないのだ。



2004年09月10日(金) 例外によって知る一般

2004.9.16

「一般」だとか「普通」だとか「常識」というものは、結構分かりづらい。誰もが当然としていながら、それが「当然」であるために明確に決めていないからだ。

ここで、日本の文化について考えてみた。日本の文化とは何か。日本文化に関する有名な本として「菊と刀」という本がある。それこそ「常識」かもしれないが、第二次世界大戦中のアメリカによって行われた、日本に対する調査レポートだ。具体的な内容は知らないので偉そうなことは言えないのだが、内容は優れているのだと言われる。

電車の中は、とてもよく日本人の気質が表れているようだ。例えば電車の中で寝られるのは日本だけで、他の国ではみんな警戒して眠るなどとんでもないと言うのだ。また、携帯電話を白い目で見られるのも日本だけのようだ。特に韓国あたりでは、電車内の携帯電話に対してまったく抵抗がなく、みんないつも携帯電話で話しているらしい。

だから他の国と比べれば日本が分かる、とも言える。しかし、これは外国を見なくても、日本の電車の中で携帯電話を使う人を見るだけでも分かる。そういう人を見ると違和感を感じるではないか。つまり、そういう人は電車の中という社会において異分子なのだ。

この世の中には、いろいろな人によって構成されたいろいろな社会がある。その社会の性質は、なかなか知ることが難しいだろう。しかし、その性質を知る一つの手段として、例外を知るということがあると思う。常識を知ることと比べて、禁止行為を知ることはたやすい。ルールとして明文化されていたり、マナーとして人から教えてもらったりしやすいからだ。だから、違反とされていることを知ることで、その社会の性質を知ることができるのではないだろうか。電車の中の社会であれ、学校の社会であれ、職場の社会であれ、ネット上の社会であれ、オンラインゲームの社会であれ同じことだ。

ただ、違反を知ることで社会の輪郭を知るよりも、経験を積み重ねて感覚的に理解する方が自然なのかもしれない。そう考えると、いろいろな社会を知ることはコミュニケーション能力を高める上で役に立つのかもしれない。多くの社会を知っていればそれだけ自分の中に類型を得られるわけで、違う社会に接したとき、その類型を適用すればある程度違う社会を理解できるのではないかと思うのだ。なぜなら、人は多くの場合複数の社会に属しており、自分の既知の社会に、自分の知らない社会の構成員が属していることも珍しくないからだ。そうであれば、彼らを通して未知の社会の知識を得ることができるだろう。例えば、インターネットの社会には老若男女、さまざまな人が存在する。もちろん、若い人が多いと言った偏りはあるだろう。それに何より、PCに対して抵抗のない人しかいないというのはかなり大きな偏りだと思う。それはそれとして、その中には社会人も多くいるわけだから、彼らを通して少しは社会人の事を知ることができる。ネット社会の特質として、参加者が比較的平等ということがある。実社会での立場が、ネットでは関係ないのだ。特に匿名の場合はそれが顕著だ。そうすると、実社会ではありえない、社会的地位のある人との同じ立場に立った会話が可能なのだ。同じ社会に属さなければ得られない知識は多いだろう。だが、違う社会に属するからこそ得られる知識もあるわけだ。

まあ、いくら知っていても、その知識を使いこなせるだけの、最低限の素養が必要になるわけだが…。それぞれの社会で必要になる最低限の技術は、自分で身に付けるほかにないだろう。



2004年09月09日(木) 早起きの功名

2004.9.17

8時なので実際のところそんなに早くないのだが、まあ、早いということにして書いてみる。と言うのも、朝方に日記を書くとどういうことになるのか知りたかったからだ。

昨日の夜は、わけの分からない漫才の相方をやらされるという奇妙な夢を見た。つっこみをやれと言われて、確か、赤と言えば広島の原爆がアップルだとかって「広島アップル」と黒板に書いてあって、それが動画でリアルにイメージされた。で、蒼と言えばモンクのドーピング…だったかな。なんかそれで「それは違うだろ!」とか突っ込んで目が覚めた。わけが分からん。ちなみにモンクってのは修行僧のことを指すらしいが、ここではそんなことではなく、ゲームの中に出てくる格闘家のイメージだろう。

うーん、寝ぼけているかと思いきや、意外と書けるものだ。急激に目が覚めてきているのか、あるいは寝起きがいいのだろうか。どちらにしても、文章の感じもまったく違ったものになるだろうし、おもしろい試みかも知れない。

最近、多くの制約を感じる。例えば、駅の改札口付近には長くいるべきではないと思っている。ガラガラの駅の改札でも例外ではない。広いスペースがあって人が誰もいなくても、早く通り過ぎなければならないと思っている。自分で自分を制限しているのだと思う。そういう制約を感じることが、最近は本当に多くなった。おそらくこれが大人は自分を枠にはめるというやつだと思う。社会には制約が多いから、そうやって無意識のうちにいろいろ制限しないとやっていられないのだろう。みんなが幸せになるはずの社会がそれぞれの人をどんどん押しつぶしているわけだ。

そう言えば、マイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」を見た。最初から最後まで見たわけではないが、言いたいことは何となく分かった気がする。日本でも感じている問題が、アメリカではより大きくなっているようだ。すなわち、力ある人が力のない人を押しつぶす構図だ。日本は徐々にアメリカに近づいているのだから、アメリカにある問題が日本にもあるのは当然なのかも知れない。そして、そのどちらにも共通するのは、弱肉強食の息苦しさから目を背けていることと、弱者への視点が欠けていることだ。似ているようでこの二つは違う。弱肉強食というのは、自分を常に強く保たなければならないから弱者に限ったことではない。むしろ強者こそ常に食われる不安におびえなければならない。しかし、それでも弱者を食いたいがために必死に今の社会を保とうとする。

それが悪いとは言わない。誰かが欲望を礎として富を求めなければ、人間は進歩しないからだ。しかし、それで自分がとばっちりを食うのは嫌だ。進歩なんてほどほどでいいから、もう少しのんびり生きようよとどうして思えないのだろうか…。いや、思えないのだろうな。歴史を見ればハッキリすることだ。穏健を求める人と欲望に満ちた人は、常に相容れない。個々の問題は別として、集団となれば絶対に相容れない。自分の意志を通すためには他人の意志を踏みつぶすこともいとわない。と言うよりも、他人の意志などという細かいことを気にするような人間には、大きな物事を成し遂げることなどできない。それなら僕は、大きな物事など成し遂げたくはない。他人の意志を踏みつぶし、多くの人に嫌われ、一体何をしたいと言うのか。まったく理解できない。そう、理解の対象にならないのだ。

ところでマイケル・ムーアだが、少々内容が偏りすぎだと感じた。そうは言っていないが、大企業は悪で、黒人は善で…という印象を受けた。まあ、大企業や白人を批判する内容だからそう感じるのだろうが。マスコミへの批判は、今の日本のマスコミにも同じことが言えると思う。緊急の第一報だけ報じると、そのまま事件の背景など取材しないで次の事件に向かうあたり、そっくりだ。まあ、沈痛な表情を浮かべていたアナウンサーが、カメラの目がなくなった途端に崩れるのは単なる皮肉だろうが。

しかし、偏ってはいるが、必要だと思った。日本もああいう皮肉がもっと注目されるべきだ。新聞もその役目を果たしているのかも知れないが、彼らは公平性がモットーだ。実際に公平かどうかは別として、その批判は明らかに鈍い。もっと極端に偏った意見でバランスを取るべきなのだ。そうすれば、冷静に考える材料になる。極端に偏った意見であれば、普通の人はそれをまともに受け入れない。受け入れるのであれば、それはその人がどうかしている。大企業や金持ちがすべて悪であり、黒人がすべて善だ、なんて言い方で偏っていないと感じるなら、一度小学校から出直してくるべきだ。いや、こう言った基本的な思考能力の欠如はどこで修正するべきなのだろう。言われて直ることなのだろうか。ただ、意外と多く見られる気がする。みのもんたに人気があるのがその証拠だ。彼の言うことをすべて信じると、世の中健康食品だらけだ、ということになる。つまりきちんと栄養バランスの取れた食事さえしていればいいじゃないかという当然の結論が見えてくる。この結論はあくまで僕の意見だが、みのもんたが紹介する健康食品が多いのは事実だ。この点を認識すれば、彼が何かを紹介するたびに売り切れるなんて現象は起こらないはずだ。一体どうすれば、もう少しまともな思考ができるようになるのだろう。もちろん、みのもんたには害がないからいいかも知れないが、…いや、あそこまで需要に大きな変化をもたらすと、売れる方にとってもろくなものではなさそうだ。ともかく、どうすればもっと多面的な思考ができるようになるのだろう。

まあ、とは言えこれは、自制すべき点ではある。僕も、自分と関係のないことについては比較的冷静に考えられるのだが、自分と関わりが出てくるとなかなか客観的な思考ができない。特に顕著なのが買い物だ。必要性だけをゆっくり検討すればいいのだが、お金に対する価値が本当にあるのか、だとかそんなことを考えてしまう。30000円の化粧品の原価が50円であっても、そんなことはどうでもいいのだ。自分にとって30000円の価値があると思ったのなら買えばいいのだ。その辺の冷静な思考がどうしてもできない。

朝方でも書けるものだ…と思ったが、これはだいぶ前から溜め込んでいた考えだからかも知れない。ともかく、文章にすることでだいぶまとまった感じはする。まったくバラバラだったものを少し整理しただけだからまだまだ読む方にとってはさっぱりだと思うが。今までは、読み直してみれば自分にだけは分かる文章だったが、今回はどうだろうか。実は寝ぼけていて、1から10まで何も分からないかも知れない。まあ、それもおもしろいじゃないか。自慢ではないが、僕は自分以外の読者についてはろくに考えていないのだから。



2004年09月08日(水) 誰だろう?

2004.10.1

しばらく前から、僕のウェブサイトからこの日記に来てくれている人がいる。一体誰だろう…。わざわざ僕個人のページを経由するくらいだから個人的な知り合いではないかと思うのだが。まあ、いいか…。



2004年09月05日(日) CATV導入

ここ数日は個人的に、ちょっとしたニュースがいくつかあった。それでも日記を書いていなかったのだから、もう日記を書く気力なんてすっかり失せてしまったのかも知れない。

まず、自宅の回線をADSLからCATVに変更した。これが9月3日だ。生活の記録としても残しておこうとしていたのに、こんなことも書いていないのでは何の意味もないような気がする。最近大学サボりまくったりで、日記に胸を張って書けるようなことがほとんどないというのが大きいのだが。

僕の家は電話局からの線路長が4.5キロメートルもあるらしい。ADSLが動作するかどうかはギリギリのところだ。実際、速度としてはまあまあ出たのだが、とにかく安定しない。電話がかかってくるとすぐ切れるし、何もなくても割とよく切れた。とても常時接続とは言えない状況だったのだ。

これがCATVに変更したことで、通信速度が向上したのはもちろん、安定性がかなり良くなった。まあ、契約した当日になんだか不安定になっておかしいとは思ったが、たぶん今後はこのようなことはないのだろう。きっと、いや、そうだと信じたい。まあ、僕がお金を払っているわけではないので構わないと言えば構わないのだが。

それから、翌日の4日土曜日に、ルータを買ってきた。今までのルータは、1.5MbpsのADSLならこれでいいや、と言って閉店セールをしていたJ&P町田店で、5000円で買ってきたものだ。

いくつか、と言ってもこんなものか。ADSLのプロバイダを解約したらギルドのウェブサイトを移転しなければならないな。ちょっと面倒かも…。



2004年09月04日(土) ある日のRO告知

これはないんじゃないかと…。


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うぉぉぉ!日記にしてみたら文字化けが直った!プロキシサーバのせいだったのか!


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