(只今編集中)
2013年01月19日(土) |
沙羅双樹ふたたびwithひろこ |
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2013年01月05日(土) |
2013年のお年玉ライブ |
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2013年01月01日(火) |
人を査定しないということ |
2012年は瞬く間に過ぎ、新年を山梨の実家で迎えている。父・母・兄がまあ何とか元気に暮らしているのだが、帰るたびにいろんなことを考えさせられる。 以前にも日記に書いたことだが、私の兄は自閉症という障害を持っている。この世の中を生きていくには相当なハンディを負っているとも言える。知的障害者を健常者よりもランクが下の人間とする価値観が実のところ世間には広く行き渡っている。それは、障害者のきょうだいとして40年以上生きてきた私の実感である。そして、その価値観に実は私自身が翻弄され続けてきたということも告白しておこう。だが、そんな価値観は絶対的なものではなく、世間が勝手に決めた尺度にすぎないのだ。 健常者が障害者より価値ある存在だなんて本気で考えているとしたら、あまりにもおめでたすぎるというものだ。お金持ちが人生の勝者だとか、学歴の高い人間が立派だとかいうのは、ごくごく狭い人間の価値観が作り出したニセモノではないか。そんなニセモノを手に入れて喜んでいるとしたら、あまりに悲しすぎるよ。
この年末年始を兄と過ごして思い至ったのは、兄は他人を決して査定しないということであった。「査定するだけの能力がない」というのが事実かもしれない。でも、他人を査定せずにすませられるなら、そのほうがいいに決まっている。そもそも個々の人間をその断片を取り出して評価するなんていうことはとても思い上がった考えと言えないか。この世界にオギャーと生まれ落ちた人間の誰もが価値ある存在だったはずなのに。そういう私だって他人を知らず知らずのうちに査定している。 私は、査定することすべてを否定しているわけではない。例えば、仕事上業績があった者を他よりも評価し、給料に反映させるというようなことはあってもよいと思っている。ただ、それはあくまでも仕事という限定された中での人間の評価でしかなく、それで人間の本来生まれ持っている価値自体が揺らぐことなどあってはならないはずだ。しかるに現実の社会はそうはなっていない。 人間はあまりに愚かだ。そのことは歴史が証明している。だから、人間の尺度ですべてを推し量ること自体、無理なことなのだ。人間を超越した絶対的存在、それは神とか仏とかかもしれないが、そうした存在を措定してみて、世間の価値をいったん棚上げしたところから判断してみるということが時に求められるのではないだろうか。 兄の醸し出す空気の中から私が今回の帰省で感じ取ったのは、ここまで語ってきたような内容だ。私は、兄の姿を見て、自らを省み、私にないものを兄が豊かに持っていることを感ずることがある。私は、そんな兄が好きだし、学ばされることも多い。けれど、だからといって、兄と私とどちらが優れているのかというような比較すること自体、間違いではないかと考えるようになった。お互いに心が交流し、学び合うということはあってよいが、個々の人間の価値を愚かな人間が決めつけるべきではないと思う。 いろいろと思いはあって、他の人にも伝わるといいなって思ってはいるのだが、うまく伝えられているだろうか?
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