夏撃波[暗黒武闘戦線・歌劇派]の独白

2002年09月30日(月) 「危険なアクロバット」

 現在、職場での仕事は多忙をきわめ、私は(私ばかりでなく、同職の人は皆)用事から用事へと飛び移る「危険なアクロバット」を演じている。自分ひとりで完結してくれれば問題はさほどないのだが、ある仕事はAさんと、別の仕事はBさんと、それぞれ相談しながら進めなければならない、しかもそんな仕事を各々がいくつも抱えているとなると話はややこしくなる。どこから手をつけたものか迷ってしまう。同時期にこなすべき仕事がいくつも重なってしまい、みんながみんなパニック状態に陥っているような状況である。
 このように職員が忙しく気持ちにやや余裕のない時期というのは、施設を利用する「知的障害者」のほうにも落ち着きのなさが目立つ時期でもある。興奮状態が起こり、いわゆる「不適応行動」を起こしやすくなってもいる。
 つい先日は、私の担当する「利用者」のひとりが興奮した末に、施設の壁に穴を開けるという事態が生じた。このような場合、担当職員が「後始末」(本人や家庭への対応、施設長や事務への報告、業者等への手配、各種書類の作成、等々)をしなければならない。「おいおい、ただでさえ忙しい時に勘弁してくれよ」と心の中で叫ぶと同時に、それとほぼ似た言葉が呟き(というより、ぼやき)として思わず口をついて出てしまった。
 普段それはそれは温厚な私であるが、決して聖人などではないし、聖人になりたいとも思わない。それでも職場の人間関係が比較的よい(「理想的」とは決して思わないし、愚痴を言い出せばキリはないが)というのは救われるところである。
 そういえば、職場の皆さんには既に秋公演のチラシは配布しているが、そろそろプッシュしておかなくては。やること、いろいろあるよな~。
 秋は公演とともに過ぎ去っていくんだろうな。めぐる季節のなかで、あなたは何をみつけるだろう?



2002年09月28日(土) 『ボディ・サイレント』と私

 人類学者として確固たる社会的地位を築いたロバート・マーフィー氏は、中年期から老年期にさしかかろうとした時期に、脊髄腫瘍のため身体麻痺者として生きることを余儀なくされた。そして、障害をもって生きる過程で、彼は数多くのことを発見する。
 彼の著作『ボディ・サイレント』では、いわゆる「障害者問題」の本質にも触れられている。だが、私がこの著作に対して何よりも感動を覚えるのは、彼が自らの障害に向き合い、障害をもって生きるという<宿命>をポジティブに受け入れようとする生きざまに対してである。『ボディ・サイレント』を演劇化することでより深い感動をもたらすことができたならば、それは私にとってこの上ない歓びとなることだろう。
 



2002年09月27日(金) 夏至夜夢(まなつのよのゆめ)

   身の中(うち)に
    死者と生者が共に棲み
   ささやきかわす
    魂(たま)ひそめきく
     (鶴見和子歌集『花道』より)

 鶴見和子氏は、私の大学時代の恩師であるが、7年ほど前に脳内出血で倒れ、以後身体麻痺を伴うようになった。以前、マヒを負った後の彼女の生きざまがテレビのドキュメンタリーでも取り上げられたことがあったが、80才をすぎてなお挑戦する気持ちはいっこうに衰えを見せていなかった。そのあたり、『ボディ・サイレント』の著者ロバート・マーフィー氏に通ずるものを感ずる。近年、彼女の社会学での数々の業績が著作集として出版された他、脳内出血で倒れてのち短歌を詠むようになった。次に、私が特に感銘を受けた一首を紹介しよう。

   萎えたるは
    萎えたるままに美しく
   歩み納めむ
    この花道を
     (鶴見和子歌集『花道』より)

 人生の終末にさしかかった時期に身体マヒを負うことになり、障害とともに生きることを迫られた鶴見さんだが、マイナスイメージでとらえられがちな「障害」というものに、そして自ら負った「宿命」に対して、積極的にそれを受け止め、美しく生きようとするその姿勢に、私は大いに感動させられるのだ。
 そして、これからお話しする「劇団態変」に関しても、同様の感動を受けないではいられなかった。

 「第40回全国知的障害関係施設職員研究大会(なら大会)」に参加していた私であったが、その合間を縫って、大阪城公園特設テントでの「態変」による公演「夏至夜夢(まなつのよのゆめ)」を観た。シェークスピアの『真夏の夜の夢』をモチーフにした、主宰・金満里氏の脚本・演出による作品だ。
 以前、「新宿梁山泊」のテント公演を取り上げ、今年私が観劇したなかでのベスト作品として位置づけたが、今回の「態変」の公演はそれに次ぐ作品と感じられた。そして、総合力では「新宿梁山泊」に軍配が上がるものの、舞台上の役者たちの存在感という点で「態変」は「新宿梁山泊」に肩を並べるか、あるいは上回っているようにも思えた。そういえば、テント芝居ならではの演出などの点では、「新宿梁山泊」や「唐組」を思い起こさせる部分もあったし、アングラ的な作り方がされていたと思う。セリフはなかったが、シェークスピアをベースにしていることもあってか、内容的にもわかりやすかった。
 「無言劇」のようでもあり、「舞踏」のようでもあり、「コンテンポラリー・ダンス」のようでもある、「態変」による身体表現は、ひとことで言えば、非常に美しかった。このことは、言葉だけではとてもうまくは伝えられず、非常にもどかしいのだが、スポットライトを浴びて今まさに存在している役者の存在、身体のマヒを伴ってそこにある肉体の美しさに、私は深く感動しているのだった(彼らに「同情の拍手」は無用だ)。
 マヒのからだは、役者の思いとは別の動きをすることもある。床を這って移動する役者の一人は誰の目にも明らかな「身体麻痺者」に違いなかったが、不思議なことに私は彼が「障害者」であることを半ば忘れかけていた。社会において障害を否定的にとらえる価値観が非常に強いが、ここではその価値観の転倒が起こったのだ。金満里氏の演出力に感服すると同時に、役者一人ひとりの存在が私たちに訴えかけてくる何物かの力に圧倒された。強い意志をもってそこに存在する、その生きざまが垣間見られた気がした。

 現在私は「福祉労働者」として生活の糧を得ているが、私が真に追い求めているのは「福祉」ということとはどこか違う気がしている。「福祉の対象」に「サービス」を与えていくことなどではなく、様々なハンディキャップを背負いながら生きる人々のその生きざまに寄り添うようにして生きていくことを望んでいるのだと思う。
 「劇団態変」の今公演では、予想していた以上の感動が得られた。最初に劇評として「美しい」と言ったが、「美しい」と「きれい」は違うものだ(岡本太郎氏が自著のなかでそう言っていた)。例えば、ピカソの絵は決して「きれい」ではないが、大変美しい。そこに作り手の生きざまが垣間見られ、その存在感に圧倒されるのだ。おそらく「態変」の美しさもそれに似た美しさではなかろうか(もしかすると「pH-7」の美意識もそれに近いのかも)。
 「態変」とともに私が注目しているものに「障害者プロレス」がある。障害をマイナスイメージでとらえがちな社会の価値観へのアンチテーゼを提示している点で共通した部分はある。「障害者プロレス」のなかにも美しさを発見する瞬間があるが、一方で、「態変」とはアプローチの仕方も、目指している方向も若干違うように思う。「障害者プロレス」が「芸能」だとすると(エンターテイメント性あるいは大衆性が強い)、「態変」の目指す方向性は「芸術」ということになるのだろう。「態変」の公演に感動した私は、次には「障害者プロレス」を観に行きたいとも思った。
 



2002年09月26日(木) 大和(奈良)は国のまほろば

 「全国知的障害関係施設職員研究大会」というのが奈良で開催され、職場を代表して参加してきた。何でも今年で40回目を迎えるという歴史ある大会だそうな。第6回大会では、糸賀一雄氏(彼の福祉思想は、戦後日本の福祉に大きな影響を及ぼした)が壇上で倒れ急逝した、とのこと。そんな大会だったとは全然知らなかった。
 今回の参加者はおよそ3500名、1会場に収まりきらず、メイン会場に入れない約半数の人達はサブ会場にて「全体会」の模様をモニターで見るという形がとられた。これじゃあ、国立競技場の大画面で「ワールドカップ」を見ている人達と、状況的には一緒だよね(私は、メイン会場組でしたけど)。それから、開会式はVTRやBGMが多用されていて、かなり大仰だった。
 ところで、知的障害者分野では来年度から「制度改革」が実施され、施設の位置づけも、職員の「利用者」への対応の仕方も、変更を求められることになる。老人福祉分野での「公的介護保険」のスタートと同程度のインパクトはありそうだ。
 ここ数年(「われわれの業界」では)「本人主体」などという言葉も盛んに叫ばれるようになってきたが、裏を返せば、これまでは「本人」つまり「障害者」の思いはないがしろにされてきたということでもある。だが、そのことが「制度改革」を機に改善されていくかという点について、私は非常に懐疑的である。
 初日の全体会では、開会式に引き続き、「行政説明」「特別講演」「基調講演」が立て続けにあり、これでだいぶくたびれた。アフターファイブはと言えば、翌日の分科会での講師の方々を囲んでの懇親会。これは自由参加ではあったが、参加してみたところ、なかなか面白かった。講演では語られぬであろう部分も含めてざっくばらんな話もできてよかった。
 2日目以降の「分科会」では「基調講演」「実践報告」「グループ討論」「シンポジウム」と続いた。他の現場の意見などを聞くことができたのはよかったし、それぞれの発表もそれなりに興味深く聞いた。職場を一歩離れ、たまには研修を受けてみるのも悪くない。ただ、同じ椅子に同じ姿勢のまま長時間居続けるということの苦痛をも経験した。
 奈良での研修と聞いて最初は「ラッキー」(「奈良観光が楽しみ」)と思った私だが、結局は観光らしい観光はほとんどしないままに(「劇団態変」のテント公演は観たけどね)奈良を発った。奈良公園を散策してシカを見ることができたことで今回は納得することにした。この時期余裕があれば、奈良ではゆっくりしたいところだったが、諸事情があって断念せざるを得なかった。
 思えば、奈良には数回来ているのだが(中学・高校の修学旅行がいずれも京都・奈良だったし、その他プライベートでも2,3度来ている)、結構この地を気に入っている。何を隠そう、私は「素人・仏像鑑賞家」でもあり、「にわか古寺巡礼者」だったり、「鄙びた場所・愛好家」だったりする。こんな私にとってみれば、奈良は見るべきものがあふれそうなほど沢山ある場所ということになる。これからの季節は奈良観光にはうってつけなのだが、稽古があるから無理やな。いつかまた奈良にいくでえ。
 
 「態変」の公演レポートは、明日の日記ででもお送りするとしよう。どうぞ、お楽しみに。
 



2002年09月24日(火) 明日に備えて

 昨日まで職場の仕事のことはすっかり忘れていたけれど、休み明けの今朝、仕事は一気に目前に現れた。明日から3日間、障害者施設職員の全国研修会のため奈良まで出掛けていく。研修自体はさほど大変ではなく、(仕事とはいえ)ちょっとした気分転換にはなる。でも、研修で職場を留守にする間は当然職場でしかできない仕事はできない。だから、研修の前後はどうしたって忙しくなる。10月の前半はそれでなくても忙しいのだから、今から少し心配になる。
 でも、ここは前向きに考えることにしよう。研修自体、何か面白いこともあるものと期待している。日程的に奈良観光はできそうにないが、その代わり大阪まで「劇団態変」の野外公演を観に行くのさ(奈良と大阪は意外と近い)。今日、研修費を受け取ったけど、そのうち交通費はケチって普通なら新幹線で行くところを「近鉄を乗り継いで」行き、その浮いた分を芝居につぎ込むってハラなのよ。「甲州屋、その方もなかなかのワルよのう」「いえいえ、お代官様ほどではございません」「ワッハッハッハ」、ってな寸法でぇ。
 稽古も木曜は出られないので、次は土曜日。間が空くのは結構心配だけど、致し方ない。

 とか言ってると、風呂場の方からグツグツいってる音がしてきた。しまった、またやっちまった、明日の昼あたりに入るとちょうどよさそうな湯加減だ。明日からビジネスホテル泊まりだから、今日は湯船にしっかりつかっておきたかったのに。
この失敗は数え切れないくらいにやっているんだけどね。
 とにかく今夜は早いとこ寝るようにしよう。では、お休みなさいませ。



2002年09月22日(日) <死ぬこと>と<殺されること>は明確に違う

 17日の日朝首脳会談において北朝鮮側から明らかにされた「拉致」の「事実」を前に、日本じゅうが大きな衝撃を受けた。テレビ等の報道によって伝えられた「拉致被害者家族」の悲痛な面持ちは、それを見ている私たちの心をも重く沈ませ、北朝鮮という国家への不信を一層かき立てることとなった。
 私は、日朝両国民が和解し、隣国としてよい関係を築いていくことを、何よりも望んでいる。だが、その前提として、両国間にある不信の原因を取り除いていく必要がある。その一つとして、「拉致」の事実究明であり、北朝鮮にまつわる様々な疑惑の解明、そして場合によっては謝罪と補償が求められよう。ここで注意すべきは、北朝鮮を「ならず者国家」呼ばわりしている側(日本、そしてアメリカ)には果たして何の問題もないのかという点である。見方によっては、日本やアメリカの側こそ「ならず者国家」とも言えるのだ(この点については、歴史的事実をよく検証しておく必要があろう)。

 結果として北朝鮮側が「拉致」の「事実」を認めざるを得ないところまで追い詰められたということであろう。しかし、同時に北朝鮮側が事実として発表したことは、日本国民に新たな不信をもたらすこととなった。
 「拉致」についての証拠隠滅がはかられた、死んだとされる人は北朝鮮当局によって殺されたのではないか、との疑念はいっこうに晴れない。
 ここで私は、「死ぬことと殺されることは明確に違う」という言葉を思い出す。薬害エイズ被害者の川田龍平さんが、ある雑誌での対談のなかで発言した言葉だ。
死亡か生存かの事実はどうあれ、少なくとも比喩的には、「拉致被害者」は連れ去られた時点でまさに殺されようとしたことに間違いはないのだ。そして、そのことと、かつて大日本帝国が朝鮮半島の人々に対しておこなった数々の犯罪的行為とは通底するものではなかっただろうか。

 誰の上にも、死はやってくる。だが、<死ぬこと>と<殺されること>とは明確に違う。人は、自らの人生を全うすることをこそ求められているのだ。自らが殺されようとした時には(社会的に抹殺されようとした場合にも)、それに抵抗すべきなのだ。その抵抗こそが、生きる証でもある。
 そして、闘いの末には、この上なき人生の歓びがもたらされるであろうことを信じてやまない。



2002年09月18日(水) ポジティブな宿命論者

   もう一度人生をやり直すとしても私は何ひとつ変更しようとは思わない。い  つのまにか私は宿命を信じるようになってしまったかのようなのだ。

 ロバート・マーフィー『ボディ・サイレント』のなかの一節である。人生の中途で身体麻痺を負ってしまった彼だが、自らの辿ってきた道を振り返りながら、変更したいことは何ひとつないと言う。自らの宿命を積極的にとらえようとするその態度に、私は深い共感を覚える。そして、私もそのようにポジティブな宿命論者であり続けたいものだと思っている。



2002年09月17日(火) 元サヨクは、<市井の社会学者>でありたいと願う

 ここのところ、職場の仕事は多忙を極めている。加えて、体調も絶不調のまま、昨日までの3連休に突入した。連休中は、稽古の日々。青白い顔をさせながら、稽古に参加した。今日稽古が休みだったのは助かったのだけど、仕事もしっかりと残業があって、なかなか身も心も休まらない。帰宅して、ほとんど倒れ込むようにして眠った。そして今、夜中に目覚めてこの日記を書いている。

 表題にある「元サヨク」とは、私のことである。バリバリのマルクス主義者ではなく、軽~いノリのサヨクであった。80年代に大学生活(上智大学文学部社会学科に進学していた)を迎えた私だったが、その頃「学生運動」はほとんど衰退していた。それでも、「東京サミット阻止」を叫ぶ、いわゆる一部の過激派による爆破騒ぎなどが見られた。東京での一人暮らしは、地方出身の私には十分過ぎるほど刺激的だった。あの4年間なくして今の私はなかったと言っても過言ではない。
 あの頃、学内においては、大多数のノンポリ学生(あ~、なんて懐かしい響きだろう)のなかにあって、部落差別とか南北間格差の問題とか核の問題とかを論じている一団があった(そんなことを言ってる多くの連中はいいとこのお坊ちゃん・お嬢さんで、卒業後はそんなことなかったかのように「一流企業」に就職していった。でも、一部には骨のある連中もいて、今でも彼らなりのポリシーを持ち続けているようだ)。そんな人達と一定の距離を置きながら、私もその一団に加わっていたのだと思う。「思う」なんて曖昧な言い方だが、そのなかにありながら違和感を感じてもいたということだ。
 一方でその頃所属していたボランティア・サークルにおいても、私はその活動と一定の距離を置こうとしていた。「天下国家」を論ずる連中が具体的な「実践の場」を持たないのとは逆に、ボランティア・サークルの連中ときたら「実践」の一方で「理論」はほとんどなく、「天下国家」には無関心というのがほとんだだった。私は、両方に対して不満であった。
 その頃、私の社会学の師・鶴見和子氏(評論家・鶴見俊輔氏の姉)との出会いがあった。鶴見和子氏は、アメリカ社会学の理論を学ぶ一方で、柳田国男、南方熊楠といった民俗学の巨人たちの理論をも取り入れながら、独自の<内発的発展論>なるものを展開していった。また、学者として、水俣病の「社会科学的調査・研究」にも取り組まれた。彼女の講義は、大変わかりやすく、またはっきりとした物言いをなさる方で、その小気味のいい弁舌は学内でも大変評判がよかった。ゼミでは、かなり手厳しい批評をされるのだが、決して学生を甘やかさないその態度は一本筋が通っていて教育者としてもすばらしかったと思う。その彼女が、数年前突如として「身体麻痺」に襲われた(『ボディ・サイレント』の著者ロバート・マーフィー氏と状況は似ている)。以後、老人ホームで暮らすようになるが、歌集を発表したり、評論集を出されている。今も、彼女の生きざまに学ぶべきところは多い(鶴見和子氏については、今後もまた触れたいと思っている)。

 大学を卒業してからも、いろいろとあった。あれから15年ほどが過ぎてしまった。大学卒業の年(1989年)は「昭和」が終わった年でもあった。天安門事件があり、東欧諸国の革命の年でもあった。そして、91年の「ソ連邦崩壊」は、左翼陣営にとって致命傷となった。そして、その後のバブル崩壊、「失われた10年」と続くわけである。社会主義が敗れ去った一方で、資本主義の矛盾はますます深まりゆくのであった。
 20世紀の終わりに一連の「オウム真理教事件」があった。「政治の季節」はとうの昔に終わっていたのだ。あまりに稚拙な「革命」は失敗に終わったが、その「革命」が新左翼によってではなく、一宗教団体によって起こされようとしたところに90年代を感じた。
 そして、1年前のニューヨーク・世界貿易センタービルで起きた一連のテロ事件は、私たちにこの上もなく大きな衝撃を与えた。あまりに現代を象徴した事件とも言え(起こるべくして起こった事件だとも言え)、非常に不気味な感じがした。あの事件に現代世界の矛盾が、構造的な暴力が、凝縮されているのだとも思った。
 
 社会学は、ひとことで言えば、個人と社会の関係を考察する学問である。矛盾の多い世界の中で人はいかにすればよりよく生きられるのか、究極の疑問に社会学が果たして答えられるのかはわからない。でも、私はこのシャバのなかで生活しながら、<社会学者>となって究極の疑問に対する答えを探し求めたいと思うのだ。
 



2002年09月10日(火) たいへん・です!?

 今月下旬に奈良に出張することになっている。その出張の合間を縫って、「劇団態変」による大阪城公園野外テント芝居「夏至夜夢まなつのよのゆめ」を観に行くことになった。
 「劇団態変」は、主宰・金満里の「身体障害者の障害自体を表現力に転じ、未踏の美を創り出すことができる」という着想に基づき、身障者自身が演出し、演じる劇団として1983年より活動している。
 劇団名の「態変」は、言うまでもなく「変態」を逆にしたものであり、そこに身障者に注がれる社会のまなざしに対する態度というか、ある種の決意めいたものが感じられる。
 それからまた、身障者に寄り添うように存在する介助者(家族を含む)に対して、世間の人々が何気なく発する「大変ですね」という言葉がある。それは恐らく、(「大変」というイメージでしかとらえられていない)「身障者の介助」というものに対するねぎらいの言葉ととれる。介助者の立場からすれば、確かに「大変」というべき側面がないわけではない。「福祉労働者」たる私も、時々「大変ですね」という言葉を投げかけられる。でも、なぜだか違和感を感じないではいられない。例えば、私と「障害者」Aさんとの関係は、決して「大変」などという言葉で括られるような一面的なものではないと思っている。「大変ですね」と気安く言う人に対して、私は言いたい。「大変」とか言われる「障害者」の身にもなってほしいってね。「大変」という言葉への異議申し立てという意味合いが「態変」のもうひとつの由来ではないかと、私は勝手に思っている。
 私は今、東の「障害者プロレス」、西の「劇団態変」の動向を、大いに注目しているところである。
  



2002年09月08日(日) 棘はずっと刺さったまんまだ・番外編

 愛と憎悪とはコインの裏と表だ
 二つの感情は私のなかに同居しており
 それらは互いに反発しあい
 しかし同時に引き合う関係でもあるのだ

 だから私はいつだって
 愛と憎悪とに挟まれて
 双方によって引き裂かれようとするのだ

 私は演劇を愛する
 愛するがゆえに私は演劇する
 私は演劇するがゆえに愛する
 演劇する私を愛する私

 私は演劇を憎悪する
 憎悪するがゆえに私は演劇する
 私は演劇するがゆえに憎悪する
 演劇する私を憎悪する私

 演劇を憎悪する私を憎悪する私
 演劇を憎悪する私を愛する私
 演劇を愛する私を憎悪する私
 演劇を愛する私を愛する私

 そのいずれもが私なのだ
 私は常に変容し
 その微妙なバランスのうえに
 私は立っている

 私にとっての演劇とは
 私のなかに棲みついた
 棘のような存在だ

 私のからだの一部となりおおせた棘は
 最早抜くことはできないものなのだ
 それはきっと
 私そのものに他ならないのだから

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 今日の午後、「ハムレットマシーン」(七ツ寺プロデュース)ワークショップへと出掛けていった(来年1月に「ハムレットマシーン」の公演があるようだが、それには出演しない)。自らが所属する劇団の稽古とは違った雰囲気の場所に身を置いてみることで何かが得られるのではないか、そんな思いをもってワークショップに参加した。
 まずはストレッチから入り、「自分の体が今どんな状態にあるのか」を意識してみるためのいくつかのプログラム、またそれを応用して「他者と出会ったときの体や感情の状態」あるいは「そこでの関係のありよう」に目を向けてみる、ということも行われた。そして、最後に「上演不可能なテキスト」(「ハムレットマシーン」)をいかに上演するかについて、テキストの一部分を抜き出してグループ討論を経て実際に演じてみるという作業があった。
 最後のほうはやや時間が足りなかったようにも思ったが、所属劇団での稽古とはまた違った緊張感があって面白かった。
 
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 我々の11月公演のほうも手探り状態とはいえ、少しずつ形を作り始めている(それがいつまた壊されないとも限らないが)。セリフ憶えは決してよくない私だが、何とかして憶えるようにしなくては。これから本番まで「生みの苦しみ」を味わうことになろう。そのことを指して、演劇は私にとって「棘」だというのだ。
 そうさ、だから、棘はずっと刺さったまんまだ。
 
 



2002年09月07日(土) 新・厳窟王

 今日、女友達とケイビング(洞窟探検)に出掛けた。と言っても、我々だけで洞窟の奥深くまで踏み入っていくのは危険極まりないので、ガイド付きのケイビング体験ツアーを企画している団体にあらかじめ参加申し込みをしておいたわけだが。
 今日は、郡上八幡にある鍾乳洞を2時間ほどで探検。ケイビング・スーツ、ヘルメット、ヘッドライト、ベルト、シューズなどを装着し、洞窟に入る。外の温度とは10度くらいの開きがあって、やや肌寒い。洞窟の中は決して平坦ではない。また、地面は湿っていて滑りやすくもなっている。全身で岩にへばりつくようにしながら、滑って転落しないように進んでいく。時には、幅が狭く、横向きにしか歩けなかったり、うまく体を入れ替えなければ通り抜けられない場所もあった。あるいは、高さがないために腰をかがめて歩いたり、匍匐前進でしか進めない場所もあった。途中、コウモリとも遭遇した。
 縦にも横にもある程度奥深く進んだところでヘッドライトを消してみる。太陽の光がまったく射し込んでこない暗黒の世界。時間の感覚も失われ、外界とは完全に遮断される。方向感覚も失われ、ひとりではこの洞穴から抜け出ることはできそうもない。

 そこで私は空想に浸りきる。ここはかつて王宮のあった場所。「私」は、この国に君臨する王であった。しかし、植民地政策を推し進める隣国の陰謀により王宮は爆破され、瓦礫の下に私は閉じこめられた。敵はしかし、王宮の爆破の際に「私」も死んだものと思い込んでいる。「私」は何度も洞窟の外に抜けるべく動いたが、気が付けばどうやら同じ所を何度も回っているにすぎないのであった。「私」は迷宮に幽閉されたかつての王、それをどこかの覗き穴から何者かに見られているのではないか、そんな妄想にも駆られた。それでも、やがてどこからか差し込む一条の光を頼りに這うように進んでいくと、洞窟の外に出ることができた。太陽の光は「私」にはこの上もなくまぶしく、一瞬視力を失ったかのような錯覚にとらわれた。蜃気楼のように浮かぶ街、そしてその先には新しい王宮とおぼしき建造物が屹立していた。もう長いこと見ることもなかった外の世界を前に「私」は立ちすくみそうになった。時はすでに20年を経過していた(まるで小野田寛郎さんや横井庄一さんの話みたいだ)。「私」はすっかり痩せ衰え、額にはシワが深く刻まれ、かつての黒髪も今は白いものに完全に覆われた。実際は40代半ばではあったが、どこからみても老いさらばえた乞食としか映らなかった。最早誰一人として「私」をかつての王と認識する者はなかった。かつての都は、敵対する隣国の支配下に置かれていた。恐怖政治を行う現在の王の下で、人々は疲弊していた。「私」のなかにふつふつと湧き起こってくる、いかんともしがたい思いがあった。「私」は、自らの命が終わってしまう前に何としても復讐を成し遂げようと、心に誓った。

 2時間のケイビング体験も終わってしまうとアッという間であった。洞窟から一歩外に出た瞬間、私は時間の感覚を取り戻すと同時に、現実の世界に引き戻された。ものすごく楽しい経験で、ちょっとハマリそうだった。
 あなたもぜひ体験してみてはいかが。



2002年09月06日(金) 忙中閑あり

 9月、職場は非常に気ぜわしい。実際に忙しくもある。秋は行事が目白押しとあってこの時期は毎年忙しい(年度末の次くらいに忙しい)のだが、それに輪をかけて出張(日帰りも、泊まりがけも)が多い。場合によっては、休日出勤もありうる。何とかそれは避けたいと思っているが。
 とか言いつつ、一方で遊ぶことにも余念がない。今月下旬に奈良で研修(出張)があるのだが、昼間の研修が終わってから大阪まで出て行きある芝居を観ることを画策中。その芝居とは、「劇団態変」(身障者による舞踏集団)が大阪城公園にて行う野外公演「夏至夜夢まなつのよのゆめ」のことである。「態変」は、単に「障害者」がやってる劇団というのとはわけが違う。あの大野一雄(日本を代表する舞踏家)とも共演したことのある実力派集団である。9月の公演においても、独特の舞台を見せてくれるであろうことを期待している。
 と同時に、その頃、私たちは11月公演に向けてどのような状況に置かれているのか、ということも非常に気になるところである。



2002年09月02日(月) 3日連続・・・

 今日、「少年王者館」による七ツ寺での公演「香ル港」を観てきた。これで3日連続して芝居を観たことになる(多分こんなことは初めてなのだが)。おととい(31日)は「海賊船Ⅱ」公演を、昨夜(1日)は「新宿梁山泊」の公演を、そして今日は「王者館」を、だ。

 「海賊船Ⅱ」についてはこの前にも書いたとおり、あまりに時間が惜しくて芝居の途中で出てきてしまった。そんなことは私にはとても珍しいことなのだが(多分途中で抜けたということは2度目)、途中で帰りたい心情に駆られる芝居は少なくない。今年観た芝居のなかで「海賊船Ⅱ」の芝居はワースト2かワースト3ぐらいに位置する。ダントツのワースト1は果たして・・・。まあ、そんなことでこれ以上字数を費やしたくないので、次の話題に移ろう。
 
 先に、今日の「少年王者館」公演から。
 いつ観ても一定以上のレベルを保っているのはさすが。よくも悪くも(別に悪くはないが)いつもながらに展開する「天野天街ワールド」にどっぷり浸かって、終演の際には、自然と拍手をしていた。これで2~3年は「王者館」を観なくてもいいかな~(あ、誤解しないで)。芝居は面白かったよ。でも、いつも同じようなパターンなんで、例えばこの前観た芝居が「それいゆ」なのか「パウダア」なのか、さっぱり区別がつかねえんでぇ。逆に言えば、それであっても十分に面白く観られる。しばらく「王者館」観ないでいると、「そろそろまた『王者館』観てえよな」って自然と芝居小屋に足が向くんだ。わかるかな、この感じ。「王者館」観たことない人は一度は観てみなせぇ。少なくとも「観て損した」ということはないと思うよ。

 さてさて、ここからが本題というべきであろう。
 「新宿梁山泊」によるテント(紫テント)公演「吸血姫」を、名古屋からはるばると田原町まで観に行ってきた。夜7時開演、10時20分終演、途中休憩をはさみながら約3時間に及ぶ上演時間。結論から言えば、3時間は短くさえ感じられた。今年私が観た芝居の中では最高傑作と言ってよいだろう。できれば、終演後しばらくはその場で余韻に浸っていたかったくらいだ。でもね、三河田原駅を出発する「豊橋行」最終電車は10時41分には出てしまう。しかも豊橋到着11時15分の時点で名古屋方面に向かう最終電車は出てしまっている。というわけで、その夜は豊橋の安宿に泊まり、今朝6時頃豊橋を発ってそのまま出勤した次第。
 話を芝居に戻そう。唐十郎・作、金盾進・演出による今回の作品は、台本、演出、役者のどれをとっても見事としか言いようがない。テントの内外をうまく使いこなし、観客をも巻き込みながら、物語世界は展開した。今公演には、元「状況劇場」の大久保鷹も客演しており、それはひとつのウリではあったと思うし、その存在の仕方は面白かった。だが、それよりも「梁山泊」の俳優陣の力量には目を瞠ったね。もちろん技量もあるのだろうが(その場の空気を敏感に感じとる力とか、「間」の取り方の妙、みたいなものは感じた)、それ以上に私は、役者一人ひとりが発する<気力>のようなものを感じたね。
 寺山フリークの私ではあるが、今回は「唐十郎もいいじゃねえか」と心底思ったね(再認識した)。唐の作品は非常によくできていて、下手な「社会派」演劇(私は「えせ社会派」と呼んでいる)よりも実は「社会的テーマ」を含んでいると思う。それでいて、いかようにでもイメージが広げられるような仕掛けが詰まっている。
 ちょっと話は横道にそれるが、10年ほど前白川公園特設テントでの「唐組」公演(紅テント)を観に行ったことがある(その時は、唐本人も出演していた)。それなりに面白くはあったが、期待が大きかったせいか、あまり感動しなかった。「唐組」はその時しか観ていないので、私のなかでは決して評価は高くなかったし、「唐十郎もさほどのことはない」とどこかでずっと思ってきた。でも、今回の「梁山泊」の公演で、唐に対する私の評価は急激に上昇した。
 「唐組」は1回しか観ていないし、「梁山泊」も今回で2回目だ。そのなかだけで判断するというのは、多分に偏りのある見方であるのかもしれない。だが、私は次のようなことを感じている。現在、<唐十郎の世界>を最も素晴らしい形で表現できるのは、(実は「唐組」などではなく)「新宿梁山泊」ではなかろうか、と。
 菱田さんにぜひご覧いただきたかった。

 さて、他人様の芝居を観て興ずるのは、それはそれで人生の楽しみだけれど、私たちにはこれから「生みの苦しみ」が待っている。稽古はこの上なくきついものだが、その先にあるであろう至福の瞬間を信じて、前進していこう。


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夏撃波 [MAIL]