2002年08月31日(土) |
勝負はすでに始まっている |
11月公演に向けての稽古は既にスタートしていて、それは楽しいと言えば楽しいのだけれど、前回公演以上にハードな稽古の日々になりそうな予感がする。いや、現実にハードになりつつある。この時期、職場の仕事もまた忙しい。今年は例年以上の忙しさになりそうだ。でも、そこのところは目をつぶって11月公演に向けてパワーを全開させていきたい。
今日は稽古に行く前に、「演劇襲団海賊船Ⅱ」の公演「今様義経奧道行」を観に行った。能や歌舞伎といった古典芸能好きの私は、少し期待して行ったところもあった。ところが、最初の1~2分で、私は公演会場までわざわざやってきたことに後悔の念を覚えた。キメのところではしっかり決めてほしかったし、ギャグはギャグで完結させてほしかった。歌も下手くそだったし(下手でも、何らかの味があればよいのだが}、花道の使い方も中途半端に感じられた。何よりも致命的だったのは、セリフがセリフとして届いてこないことだった(皆がそうというわけではないが、単にがなっているだけ、との印象が強かった)。 話の筋そのものは、キチンと演じれば、それなりに面白い内容だと思えた。でも、それだけなら、戯曲を希望者に配れば事足りること。それを観客の目の前で演じる意味は何か? 役者の存在意義が問われるのだ。 観客の側に何かが伝わる。伝わる何かがありさえすれば、観客が席を途中で立つなんてこと、できっこない。上演時間2時間のうち1時間が経過した段階で、ついに我慢の限界を超え、思わず退席した。その際傘も忘れてしまったが、途中退席の私が今さら会場内に戻ることもできず、そのまま会場から遠ざかった。
明日は、田原町(愛知県)での、「新宿梁山泊」テント公演を観に行くことになっている。その日のうちに名古屋に戻ることはできないため、終演後豊橋まで移動し、ビジネスホテルに泊まる。月曜日は、豊橋から職場に向かう。そこまでして観に行った芝居がつまんなかったら話にならない。まあ、「新宿梁山泊」に限ってつまらないことはなかろうが・・・。
9月になれば、職場での仕事はますます忙しくなる。せめて休日だけは、そのことを忘れるようにしよう。そうすることで救われることも多いから。 忙しい時間を縫うようにして、でも私は今回の公演に賭けてみたい気持ちが強い。いつだって一回々々が勝負なのだ。 私はあえて辛い劇評をすることにより、自らの退路を断ちたいとも思う。他人様のことは何とでも言える。他人に投げかけた言葉は、何倍にもなっていずれは自分 に返ってくるのだ。勝負はすでに始まっているのだ。
2002年08月30日(金) |
棘はずっと刺さったまんまだ |
棘はずっと刺さったまんまだ
物心ついた頃には 私のからだじゅうのあちこちに 棘は深く深く刺さっていた
それは痛みをともなって 私の意識は 否応なく その棘に向かわされる 棘はずっと刺さったまんまだ その棘を抜こうと何度も試みた だが 抜こうとすればするほど 棘はますます奥深く 私のからだの中心を突き刺した
棘はずっと刺さったまんまだ
激しい痛みとともに 私は気を失いそうだった 棘は遠慮会釈なく 私のなかに居座った
最早棘を抜くのは不可能だった 私は次の手を考えついた 自らを滅ぼすことにより 棘をも消滅させようと思ったのだ 結局 その計画は実行されなかった
そして今 私はこうして生きている すなわち 棘はずっと刺さったまんまだ
膝を抱え からだをまるめ 身を固くして 痛みに耐えつづけた
痛みに耐え 痛みに耐え 痛みに耐え いつしか私は さほど痛みを感じなくなった
棘はずっと刺さったまんまだ
今や 棘は私のからだの一部である いや 私を私たらしめる徴(しるし)である
これからも 私は生き続ける 棘が私のなかに 息づいているかぎりは
そして 私の命の続くかぎり 私が私であるかぎり 棘はずっと刺さったまんまだ
<解説> 「棘はずっと刺さったまんまだ」は、「劇団pH-7」の役者でもある曽根攻による作品である。 彼は1966年山梨県の片田舎で生まれた。実兄が生まれついて「自閉症」という障害を持っていたことが、その後の彼に及ぼした影響ははかりしれない。 本人によれば、子どもの頃は「学級委員なども務める優等生タイプ」でありながら「内向的」で「自意識過剰な面も多分にあった」という。「兄の『障害』のことで周囲から好奇の目で見られたという経験は、強烈な記憶となって私のなかに残っている」「そうした『被差別体験』が、その後の人格形成において大きな影響があった」と語っている。職業選択にあたって彼は「福祉の仕事」を選んでいるが、そこでも「『障害』をもつ兄の存在」が深く関係していることがうかがえる。あるいは、彼が「演劇」などの表現にこだわろうとする姿勢は、幼き日の「被差別体験」が何らか関係したのではなかろうか。 少年時代の彼は、「親の愛には恵まれていたと思うが」「『障害』をもつ兄の存在をマイナスにしかとらえられなかった」という。特に、小学校高学年の頃の、彼に対する「いじめ」(兄の「障害」を嘲笑するという類の)はひどかったらしく、 大いに悩んだようだ。 それでも、彼は「『障害』をもって生きることの意味」について考えるうちに、 「兄の存在」を肯定的に考えられるようになってきた(だいぶ端折ったが、ここは説明すると非常に長くなる。というか語り尽くせない)。 上の詩では、表題でもある「棘はずっと刺さったまんまだ」という言葉が繰り返し出てくるが、詩の後半部に進むにつれ、その言葉のニュアンスが変化していくのが読みとれる。 もちろん、同じ詩であっても、人によって感じ方やイメージの持ち方に違いはあろう。また、曽根に言わせれば、この詩で表現しようとしたことは「『障害』ある兄」のことだけではない、と言うかも知れない。だが、彼の兄が「障害者」であったことを通じての体験が、この詩を生み出す原動力になったであろうことは、想像に難くない。
図書館から借りていた本の期限が疾うに過ぎている。今日、県図書館に『地球の歩き方(ロシア編)』を返却してきた(閉館日の今日をねらって)。でも、もう1冊、市図書館から借りた本(ホーキング青山『笑え! 五体不満足』)を返しにいかなくてはならない。そこで(?)今日はその本の「読書感想文」めいた文章を綴ってみることにしたい。
言うまでもなく、この本は、あの乙武洋匡『五体不満足』を意識して書かれたものである。著者は、身体障害をもつお笑い芸人・ホーキング青山。「乙武現象」「『障害者』に関する世間の勘違い」等をブラックな笑いで語り、「身障者(自らをも含む)」もお笑いの対象にしてしまう。青山は、決して「立派な障害者」などではなく、とても「ええかげんな障害者」だと思う。でも、そこのところがいいのだ。「障害者」にだって「ええかげんな」ヤツは多いだろう。「ええかげんな健常者」が堂々と生きているのと同様に、「障害者」だって「ええかげんな」まんまでも堂々と生きたらいいと思う。とはいえ、「健常者」と「障害者」とは事情が違うことも確かだ(簡単に言ってしまえば、「俺はひとりでも生きていけるんや」と豪語できる人間と、「他人の助けなしでは生きていけない」という人間との違いだ)。今日の社会において「障害者」が「ええかげん」なままで世間から好意的に見られるということは、ほとんどありえないことだろう。「健常者社会」から好意的に迎えられるためには、乙武のように「いつでも」周囲にさわやかな笑顔をふりまいていかねばならないだろう。でも、それで「障害者」が本来の意味で解放される日は決して訪れない。 私は、一時の「乙武現象」に対して批判的な立場(『五体不満足』には「不満足」なのだ)だが、批判の対象は乙武である以上に、『五体不満足』に満足しきっている「健常者中心の社会」ということになる。この問題は、語りだしたらキリがないので、このあたりにして、最後に青山が「ミゼットプロレス(小人プロレス)」に関して綴った文章について言及して終わりたい。まずは、引用から。
女子プロレスの興行には「ミゼットプロレス」という試合がある。これは要す るに、小人症の人たちがプロレスの試合を披露するのだが、これも「障害者を見 世物にする気か?」ということで、つい数年前までテレビで放映されなかった。 (中略) このミゼットプロレスの試合は本当にクオリティが高く、いつも会場 を大いに沸かせている。初めてミゼットプロレスが紹介されたテレビのドキュメ ント番組でも、選手達は「長年、メディアで取り上げて欲しかった」と言ってい た。 相手の気持ちや欲していることを分からないで、単なる独り善がりで、一方的 に自分の価値観を押しつけることによって、身障側にどれほどの犠牲と被害が出 てると思ってんだ? ミゼットプロレスを「障害者を見世物にする気か?」というが、オレに言わせ りゃミゼットプロレスよりも「24時間テレビ」なんかでやってる身障を題材に したドラマのほうが、よっぽど身障を「見世物扱い」してると思う。
全く同感だ。と同時に「『障害者』とそれをとりまく関係」をテーマとした表現を追求する私にとって、そのことは常に念頭に置くべき事柄でもある。私は、ますます覚悟を決めて、自らの追求するテーマにどこまでも食らいついていこうと思うのだ。
2002年08月25日(日) |
ダンス・ワークショップに参加して |
今日の午後、「山田珠実ダンスワークショップ」というものに参加した。 ダンスに対して苦手意識を持ち続けてきたが、ここらでそれを克服しておきたいと思ったのだ。自分の体なのに、それはなかなか自由には動いてくれない。前半は「自分の体の余計な力を自覚し解放するよう努める」ことに費やされ、後半で簡単な振り付けに合わせてダンスを踊った。必ずしもうまくはいっていなかったが、十分に爽快な汗を流した。
2002年08月24日(土) |
寺山修司を踏み越えてゆけ |
俺は、寺山修司が創りだした世界がとても好きだ! pH-7のメンバーにも、寺山ファンは多い。 だからこそ言いたいこともある。
演劇、映画、詩歌、評論・エッセイ・・・、幅広いジャンルにおいて、寺山は非凡なる才能を発揮した。どれ一つとってみても寺山の足元にも及ばない、と平凡なる人々(むろん俺もその一人だ)は感ずるかも知れない。 でも、俺は、寺山を決して神格化したくない、と思っている(寺山もそんなことは望んでいないと思う)。だいたい寺山の手法をなぞったからと言って、寺山に近づけるわけではないのだ。 寺山の凄さは、その芸術的センス以上に、芸術に対する姿勢にある、と俺は考えている。寺山は、<寺山以前>と<寺山以後>とにはっきりと区分されるような、革命的な事件の「煽動者(アジテーター)」だったのではなかろうか(なぜか寺山は「役者」としてスポットライトを浴びることはなかった)。<寺山以前>に支配的だった「体制」に果敢に挑み、新たなる価値を打ち立てた。そして、死後20年近く経ってなお寺山の影響力は未だに衰えることはない。そのこと自体、もの凄いことだと思う。 あまりに当たり前のことだが、俺は決して寺山にはなれない。でも、寺山の芸術に対する構えに学ぶことはできると思う。そして、表現者の端くれを名乗る身にとっては、寺山もまた、いずれ踏み越えていかなければならない存在なのだ。 生前寺山はボクシングをこよなく愛した(漫画「あしたのジョー」に登場する力石の「喪主」をつとめたこともあった)・・・。たとえマットに沈もうとも、俺は最強のチャンピオンに闘いを挑んでいく。そんな気概を持っていたい。でも、闘うからには勝ちを狙っていくべきだ。そのためには、誰もが(当然、相手も)予想し得ない攻撃を仕掛けていくしかない。正攻法で敵わぬ相手には、<ゲリラ戦>でいくよりしょうがない。実際、寺山はそうして勝ち上がってきたではないか。その意味では「不可能」はないのだ。 新世紀の旗手として、今、立ち上がるべき時なのだ!!
2002年08月22日(木) |
「感動のロシア6日間の旅」(サンクトペテルブルグ編) |
8月16日深夜、モスクワ発サンクトペテルブルグ行きの寝台列車(1等車)に乗り込んだ。1等車の場合2人で1室(2等車なら1室4人)の割り当てとなる。ツアー参加者の多くは家族同士のペアを組めるが、単独参加の私は見知らぬ他人と同室にならなければならないのか。以前読んだことのあるロシアのミステリー小説(現代もの)によれば、単独旅行者がロシアの寝台列車(1等車)を利用する場合、2人ずつを無作為に(性別・年齢等々を一切考慮されることなく)狭いコンパートメントに押し込めていくようだ。つまりは、相手がたとえロシアン・マフィアであったにしても、異議を申し立てることなどできないのだ。逆に、相手がうら若きロシアの女性だったりしたら、それはまたそれで心穏やかに眠ることなどできないではないか。様々な想像を巡らしている私に、JTBの添乗員はこう言った。「曽根さん、この部屋、おひとりで使っていただいて構いませんので」。 寝台列車に乗るのは、恐らく小学校の頃、叔父に連れられて青森に行ったとき以来ではないか(午前零時近くに出る「東京発大垣行」みたいな深夜便はよく使ったが、あれは「寝台」ではないので)。と思いきや、インド旅行(15年くらい前、ツアーではなく「個人旅行」だった)で「デリー発べナレス行」(約19時間の汽車の旅だ)に乗ったことがあった。ただ、あの列車の場合、昼1時に出発して翌日の午前8時くらいに到着するというものだから、昼の間は通常の座席だ。それに「寝台」としては硬くて決して寝心地のいいものではない。まあ、あの時は「2等車」だったけどね。 「寝台列車」と言うと何となく胸躍る感じがするけど、実際はそんなにいいものではない。時々大きな揺れで何度も起こされた。寝ぼけていた私は、地震かと思って思わず隠れる場所を探してしまったではないか。 それに午前7時には車内放送がけたたましく鳴り響いておちおち寝てもいられない。車内放送と言っても、日本でよくあるような、「次は○○駅」とか「○○駅には○時○分に到着の予定」などという類のものではなく、ロシアのポップスが流れたりする。その日流れた音楽で印象に残ったのは、「ダスヴィダーニャ(さようなら)」という曲だった。ただ単に、その曲のサビの部分が、私の知っているわずかなロシア語の単語(ダスヴィダーニャ)のリフレインだったというにすぎないのだが。 ロシア人の乗務員(私の乗った号車の担当は、ロシアのおばさまだった)は一見不愛想だが、結構親切だった。言葉の細かなニュアンスはわからないのだが、彼女の親切心は随所に感じられた。列車を降りる際には、これまた私の知っているわずかなロシア語の単語のひとつ「スパスィーバ(ありがとう)」を彼女に言って別れた。
サンクトペテルブルグは、バロック・クラシック建築が立ち並ぶ、格調ある古き都だ。私は、この街をすっかり気に入ってしまった。ロシア人ガイドによれば、来年が市制300年にあたるようで、あちこちの歴史ある建築物が修復作業に追われていた。 17日午後は、サンクトペテルブルグでの、いや今回のロシア旅行での最大の目玉である、エルミタージュ美術館を訪れた。ロシアが世界に誇るこの美術館は、そのスケールの大きさでルーブル美術館や大英博物館に匹敵すると言われている。収蔵されている絵画、彫像、発掘品などのコレクションは、300万点にも及ぶ。そのすべてを観るにはどれだけの時間が必要なのか、さっぱり見当がつかない。とにかく、あまりに広すぎて迷子になってしまいそうだった。駆け足で歩き回ったが、超一流の芸術品で埋め尽くされた館内を巡っていると、まるで次から次へと出されるフランス料理(ロシア料理でないところがミソ。黒パンやジャガイモを主体としたロシア料理は食べやすいが、高級感はない)のフルコースでも食べているかのようで、感激のあまり思わずため息がこぼれた。 コレクションの質・量ともに申し分ないのだが、それとともにこの巨大な美術館の建物自体が一級の芸術品と言ってよかった。ロマノフ王朝の権力の大きさと絢爛豪華な生活を感じさせる建築に、私は思わず目を瞠った。
その晩、「フォークロア・ショー」を楽しんだ。ショーは、犬山の「リトルワールド」などでも見られそうな感じの(どんな感じ?)ショーだった。もちろん、コサック・ダンスもやってたよ。 ホテルに帰り着いたのが、午後10時過ぎ。でも、さっき陽が暮れたばかりだ。私は、ホテルの周りを一人歩いてみた。「治安はよくないのでは」と思われるかも知れないが、人通りはまだ多かったし、表通りを歩いている分には問題ないように思われた。考えようによっては、東京や名古屋のほうが危ないのかもしれないとも思った。「ケンタッキー・フライドチキン」や「ピザハット」などを街なかに見かけたが、さすがに腹は減っていなかったので、中には入らなかった。 この街でも、CDショップを見つけたので、中に入ってみた。店の棚の多くのスペースがアメリカン・ポップスで占められていた。でも、ロシアに来てまでアメリカン・ロックのCDを買うつもりはなかったので、ロシアン・ポップスの棚の前に来た。そこで、ジャケットに「東大寺のお守り」が描かれたCDを見つけ、衝動的に購入した。今回の旅行で都合7枚のCDを買ってしまった。でも、それでいて1万円もかかっていないんだな。 次の晩は、機中泊となるので、この夜のうちにしっかり睡眠をとっておく必要があった。ホテルに戻って、できるだけ睡眠をとるよう心掛けた。
18日午前は、サンクトペテルブルグ郊外にある、ピョートル宮殿を見学。中心部にある大噴水は、そこを訪れる者の目を大いに楽しませてくれる。また、遊び心たっぷりの「いたずらの噴水」(ある石を踏んでしまうと、いきなり水が噴き出して、そこを通行する人をぬらす、という仕掛けがされている)も面白い。広大な敷地内に様々な庭園を見ることができ、園内を歩き回るのがとても楽しかった。それから、この宮殿はバルト海に面しており、遠くにサンクトペテルブルグ市街を望むことができる。この日サンクトペテルブルグの街は霞んで見え、まるで海底都市が突如海上に現れたかのようにも映った。 その日の午後は、エカテリーナ宮殿を訪れた。ロシアバロック様式を代表するこの宮殿は、エカテリーナ女帝の命により建てられた。荘厳な外観といい、きらびやかな内装といい、それを見る者の目を釘づけにする。
この日の見学は終わり、あとは空路名古屋に戻って行くばかりとなった。楽しいひとときはアッという間に過ぎ去った。サンクトペテルブルグーモスクワーソウルー名古屋と、徐々に「モスクワ時間」から「日本時間」に戻して行かなくてはならない。「非日常世界」へと「離陸」した私も、いずれは「日常世界」に「着陸」しなくてはならない。旅は、あまりにあっけなく終わりを告げる。 名古屋空港に着いて、私は時計を「日本時間」に合わせた。家に帰り着いたのは午後10時過ぎ。次の日から、また「日常」がスタートする。「日常世界」にうまく「着陸」することができるのか、この時点で私はまだ不安でしょうがなかった。
2002年08月21日(水) |
「感動のロシア6日間の旅」(モスクワ編) |
予告通り、「ロシア旅行」をリポートする。
8月14日、朝7時30分に名古屋空港に集合。ツアー参加者の多くは「熟年夫婦」「家族連れ」で、ちょっと場違いな所に来てしまったかとも思ったが、結果的には楽しい旅行になった。 この日は、ソウル経由でモスクワ入り。移動で半日以上を費やし、実質的な観光は次の日からであった。そうそう、モスクワ時間で午後8時すぎにモスクワ空港に到着したのだが、外はまだまだ太陽が照っていて、10時くらいにやっと陽が沈むという状況であった(6月くらいには白夜になるんだってさ)。あ、それから「モスクワはさぞかし寒かろう」と思いきや、Tシャツの上に薄手の長袖シャツを羽織れば十分なくらいだった。 モスクワ滞在中のホテルは、少しおしゃれな感じだった。朝食の場所が吹き抜けになっていて、夜はピアノの生演奏がされていたり・・・(実は、次に泊まったサンクトペテルブルグのホテルは、それ以上に素敵だったのだが・・・)。 ホテルでは、テレビを見たりもしたのだが、アメリカのドラマや映画を放送しているチャンネルも多かった。そこでの「吹き替え」がちょっと面白くて、「音声多重」状態になってたりする。それと、興味本位でアダルトチャンネルも見てみたのだが、たぶんアメリカのAVをそのまま流しているようだった(統制が厳しそうなロシアだが、何と「無修正」であった)。でも、次の日もあることでもあり、程々にしてできる限り睡眠をとるようにした。
15日、16日の2日間はモスクワ市内観光。何と言っても、ハイライトはクレムリン(ロシア最高権力の象徴)とそれに隣接する「赤の広場」であろう。広大な敷地に宮殿や聖堂が立ち並ぶ。黄金のドーム型をした教会は、一見イスラム教のモスクを彷彿させるが、ロシア人ガイドによれば「イスラムの建築をこちらがマネしたのではなく、イスラム世界がロシアの寺院をマネした」のだそうな。 ボリショイ劇場は車窓から眺めるだけだったが、「モスクワ・バレエ」を比較的小さな劇場で観ることができた(「眠れる森の美女」だった)。とはいえ、期待が大きかったせいか、さほど感動はしなかった。 それから、モスクワの地下鉄にも乗ったのだが、これがまた少し運転がワイルドだった。地下鉄のエスカレーターも非常に速くて、思わず足がすくんでしまいそうなほどだった(何故にあそこまで速くする必要があるのか、さっぱりわからないのだが)。 旧アルバート通り(歩行者天国)には露店が立ち並び、人もごったがえしていた(大道芸人も発見した)。そこで私はCDショップを見つけ、ロシアン・ロックやロシア民謡のCDを購入。その他にも、Tシャツや防寒用帽子など、余計な物も買った。
16日深夜、モスクワからサンクトペテルブルグに向けて寝台列車に乗った。 ロシアの旅はまだまだ続くが、今日はここまで(次回は、「サンクトペテルブルグ編」をお送りする)。
2002年08月20日(火) |
「感動のロシア6日間の旅」(予告編) |
COH3 OCAMy / SONE OSAMU / 曽根 攻
JTBのツアーに参加して、ロシアを旅してきた。6日間の旅と言っても、うち2日間は移動日なので、正味4日間の旅と考えてよいだろう。 1日目、ソウル経由でモスクワまでの飛行時間は合計10時間。それにソウルでの乗り継ぎ時間も合わせると半日以上移動にかかる計算だ。その日は、ロシア入国、即モスクワのホテルに直行。ホテルに着いたのが、モスクワ時間で午後10時すぎ、ところが日本時間では午前3時すぎだ(5時間の時差)。行きの飛行機の中ではできる限り睡眠をとったが、体力温存のためにとにかく寝られる時には寝るように心掛けた。 2日目はモスクワの同じホテルに宿泊したが、3日目の夜は寝台列車でサンクトペテルブルグに移動(8時間の列車の旅だ)。4日目はサンクトペテルブルグの一流ホテルに宿泊するが、5日目の夜はモスクワに飛行機で移動した後で、ソウル行きの飛行機にて機中泊。 実質的には、それぞれモスクワ2日間、サンクトペテルブルグ2日間の滞在だった。盛り沢山の内容であったが、6日間は夢のように通り過ぎた。非常に楽しい旅だったが、帰れば現実はどこにも行かずに待っていた。 今朝、少しだけ寝過ごして、危うく遅刻するところだった。連休明けの昨日1日をすでに有給休暇として取っていたので、今日は何としても休むわけにはいかなかった。旅行中は比較的元気な私だったが、さすがに旅の疲れは残ったようだ。仕事中は何とかごまかしたが(自分も他人も)、終業時間を待ってできるだけ早く職場を出た。 今日のところは、とにかく休息をとっておきたい。明日以降、「感動のロシア旅行」をリポートしよう。それでは、また。
あ~、だから今夜だけは君を抱いていたい あ~、明日の今頃は、僕は「飛行機」の中
と、チューリップの名曲「心の旅」のメロディーに乗せてみた。明日からは、待望のロシア旅行。
あした~、私は旅に出ます (狩人「あずさ2号」より)
久しぶりの海外旅行。心はずむというより、何か忘れてないかと心配ばかりしている。
いい日~、旅立ち~ (山口百恵「いい日旅立ち」より)
ちょっとくどかったね。ふざけてる割に、実はナーバスになってたりするんだ。 ホントはロシア語も少しは身につけてから行きたかったんだけどね。何もかもが準備不足だ。 『トラベル・ロシア語会話手帳』、『地球の歩き方・ロシア編』などもカバンに詰め込んで、と。明日はほとんど移動に費やされ、明後日いよいよモスクワ市内観光(「赤の広場」他)。まあ、添乗員同行のパッケージツアーなので心配することは少ないかわりに、「個人旅行」みたいに自由に歩き回るわけにはいかない。オペラを観に行ったり、ロックのライブを楽しんだり、酒場をうろついたり、なんてことはできない。でも、サンクトペテルブルグでは「ロシア料理食べながら、フォークロア・ショーをお楽しみ下さい」とのことなので、少し期待している。 この旅が終われば、翌日からお仕事だ。それも致し方ない。とにかく、思いっきり楽しんでこようっと。 では、皆さん、しばしのお別れ。ごきげんよう。
仕事が終わった。明日から夏休みだ。ロシアへ旅立つ日も近い。旅行準備はまだこれから。その前に実家のある山梨にも帰らなくちゃならない。通常の夏期休暇に有給休暇1日を加えて10日間の連休。でも、ロシアから戻った翌日からは、恐らく時差ボケの身でありながら仕事もスタート。まあ、それは覚悟の上。とにかく思いっきり羽根を伸ばしてこよう。
昨日の一人芝居について。自らも身体障害をもつ文化人類学者ロバート・F・マーフィー氏による著作『ボディ・サイレント』から着想を得て、それを一人芝居にしてみたのだが、結果的にはうまく表現できなかった。 今回「支配ー被支配の関係を、被支配の側から表現する」という課題が出されていた。「支配ー被支配の関係」はいろいろとあるが、私には「『障害者』をめぐる関係」を軸に考えることが求められているように思われた(手前勝手な思いこみにすぎないのだが)。その時ちょうど読んでいた本が『ボディ・サイレント』だったのだが、これが私には大変面白い本に思えた。人類学の専門書を芝居の題材にするのも面白そうだと思った。けれども、長期の休みを控え、職場の仕事も詰まっていた。なかなかうまく構成ができないままに時間ばかりが過ぎ、台本らしきものが出来上がったのが、一人芝居当日の昼(職場の昼休み時間に必死に仕上げた)。急ごしらえの台本をわずかな時間に覚えなくてはならないのだが、結局は覚えきれないまま本番に突入してしまった。本番ではすっかり浮き足立ってしまい、段取りを追うことにばかり気がいってしまい、演技に集中できなかった。 当然のことながら、厳しい意見もいただいた。演劇として演じられる以上、演劇として成立しているか、演劇として面白いかが問われるべきとの意見には、私も大いに賛成する。表現されたものが観客にどう届いたかが一番重要なのだ。その上でテーマがうまく表現されていたか、という順序であり、決してその逆ではないと思っている。 私の失敗は、いろいろと盛り込もうとするあまり、観客に何を伝えたいのか、あるいはメッセージをどのような方法で伝えるかという重要な点を見失ってしまい、ひとりよがりになってしまったということだろうと思う。いろいろと指摘していただいて、嬉しくはあった。でも、一方には悔しさもあった。 今回は「時期尚早」とは思いながらも、自らのライフワークにも大いに関わるテーマにあえて取り組んでみた。準備不足は最初からわかっていた。あるいは、もっと無難にまとめる方法はあったのかもしれない。でも、自分の追求したいテーマに取り組みたいという思いは強く、何とかモノにしたいとは思っていた。結局はうまくいかなかったし、大変悔しい思いをした。だが、このままでは終われないし、終わるつもりもない。ここから再び立ち上がって、もっともっと自分を鍛えていきたい。今回はもしかすると<再起>(大げさだが)に向けてのよい機会にはなったのかもしれない。 秋公演には、きっと一回りも二回りも大きくなって、舞台の上を翔けめぐっていることだろう。
2002年08月04日(日) |
ボディー・サイレント |
アトリエ開きも終わり、合宿不参加の私が次に取り組むべきは<一人芝居>。今日は、そのために楽器を搬入。題材は決まったものの、構成のところで大いに悩んでいる。 今回の<一人芝居>のテーマは、「支配ー被支配の関係」。本来であれば、私にとって得意分野ともいうべき領域なのだが、それを演劇的表現にするには時間が足りないというのが率直なところだ。一時期、まだパソコンが普及する前のこと、私は「個人誌」(「火見子」の筆名で)なるものを発行し、そのなかで「『障害者』をめぐる関係」等の文章を書いてもいた。 今回の<一人芝居>では、そのあたりを盛り込みたいと思い、最初はオリジナル作品を書くことも考えた。でも、ある<作品>(人類学者ロバート・F・マーフィーの著作『ボディー・サイレント』。戯曲でも小説でもなく、人類学の専門書)に出会ってからは、他人の<作品>を私なりに解釈を加えながらオリジナリティーを出せないものかと考えるようになった。ということで、『ボディー・サイレント』やフランツ・カフカ『変身』等々をモチーフに、曽根攻的宇宙・「暗黒のメルヘン」を表現しようと目下奮闘中である。タイトルは「ボディー・サイレント」だ。 「社会的テーマ」を盛り込みつつも、<演劇>として(あるいは、<音楽>として)鑑賞にたえうる作品を創っていきたい。役者として、作家として、飛躍したいとも思う。だが、今回は何よりも時間との闘いだ。追い詰められた結果は、吉と出るか、凶と出るか。既に、賽は投げられている。
新アトリエの片付けもほぼ完了し、明日のアトリエ開きを待つのみとなった。 となると今度は<一人芝居>が気になりだした。今回の<一人芝居>の課題は、「様々な関係性を想定し、被支配の側から表現する」というもの。 日常の中で「支配ー被支配の関係」はあまりにありふれている。それは何も一対一の人間関係だけに限った話ではない。私たちは日々あらゆる社会関係に囲まれながらに生きている。 私たちはそれぞれ健常者だったり、日本人だったり、黄色人種だったり、男だったりする。そして、ある「社会的地位」をもっている。それらが幾重にも絡み合って個々の人間関係を規定していく。例えば、日本人の私がマニラの雑踏を歩く時、周囲から「金持ちの日本人」として私のうえに視線が注がれる。私の意図とは無関係に、「第三世界の人々」にとって私は抑圧者となりえる。社会構造が個々の関係を規定していくのだ。もちろん、<個>としての私が存在しうる形がないわけではあるまい。とはいえ、<個>がさほどに確固たるものとも言い難い。その一方で、常に移ろいゆくのも人間ならば、それを取り巻く関係もまた移ろってゆく、とも言えよう。 アメリカ社会において抑圧され続けた黒人が、ベトナム戦争の最前線において、最も残酷な「抑圧者」となり得た例は少なくあるまい。 俺は死に絶えた町で生まれた 生を受けてすぐにひどい仕打ちを食らい 殴られてばかりの犬みたいにおどおどして 人生の半分は逃げ腰で生きてる人間になっちまった
俺はアメリカ合衆国で生まれた 俺はアメリカ合衆国で生まれた
地元でちょっとしたトラブルにまきこまれ 軍隊に入隊させられ 黄色人種を殺すために外地へ送られた
ブルース・スプリングスティーンの80年代のヒット曲「Born in the U.S.A.」に登場するベトナム帰還兵は帰国後職もなく、アメリカ社会の「敗残者」として日々さまよっている。「抑圧される立場」にあった者がベトナム参戦とともに「抑圧者」の立場に立つが、アメリカ国内のベトナム反戦の流れに押され、帰国後再び「抑圧される」側に置かれることになる。 世界じゅうのあらゆる場所で起こっている紛争は、皮肉にも人間の醜さを如実に表現していると言える。それと同時にごく日常的な場面においても、人々はあらゆる「権力関係」にとらわれながら生きている。だが、そのことは半ば忘却されている。 人間の醜さを全否定するつもりはないが、自らの醜さに意識を研ぎ澄ませていきたいとは思う。聖者であろうとは思わない。美しく生きることは大変だ。しかし、人としてどうあるべきかは、人生通じてのテーマとなる。「人として」と言う時、そのことは当然自らの周りに張り巡らされた<関係>を問う、ということに他ならない。
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