何かと気ぜわしい毎日を送っているが、あと2週間後に私はロシアへの旅に出掛ける。今日は午後休みをとって、銀行で日本円をUSドルに交換(日本国内では、ロシアの通貨・ルーブルに換金できない)。図書館から「地球の歩き方」のロシア編を借りてきた。今はとにかくロシア旅行を励みにしている。
8月8日夜、他の劇団員に先がけて<一人芝居>をすることとなった。別に、新アトリエのこけら落としというわけではなかろうが、pH-7夏合宿に参加できない私に用意された場所が新アトリエというわけだ。 自分なりのテーマはあるが、それをどのように構成して表現するか、非常に悩むところだ。まあ、楽器を何らかの形で用いることはまず間違いのないところではあるが・・・。
今日は、これからグループホームでの泊まりのボランティアだ。 気ぜわしいままに7月は過ぎ去っていくんだね。でも、暑さはまだまだこれからだ。どなたさまもご自愛くだされ。では、また。
2002年07月28日(日) |
太陽が膨張しているのだろうか? |
昨日も今日も、疲れのためか午前中いっぱい寝てしまい、朝日を浴びることがなかった。連日の暑さでバテ気味なうえに冷房による弊害が、俺のからだを直撃しているのかもしれない。もちろん、仕事上のストレス、日々の忙しさ(これは自分でもたらした結果だから文句は言えないが)からくる疲れもあろう。とか言いつつ、午後からは忙しく動き回った。
まず、2時から「NPOプラザなごや」で行われた、なごや自由学校講座「脱カップル社会の未来予想図Ⅱ」シリーズの3回目に参加。今日は、自らレズビアンであることをカミングアウトし「異性愛中心主義」「性別二分法」に異議を唱えている、堀江有里さんが問題提起。その話題をもとに参加者全員でディスカッションすると、それぞれに意見も出された。 そのなかで思ったのは、「同性愛」というとすぐに「性行為」を思い浮かべる向きもあるが、性的関係をも含んだ<関係性>という点こそが重要なことではないだろうか、ということ。つまり、「同性愛者」であることそのものが、恥ずべきことでもなければ、立派なことでもない、と思うのだ。お互いに信頼しあえるような関係の内実があれば、それが「異性愛」であれ、「同性愛」であれ、何ら恥じるべき事柄ではないはず。しかるに、現実の社会では厳然として「差別」は存在し、「同性愛者」は戦略的にカミングアウトという方法をとらざるを得ない状況に置かれている(「異性愛者」はカミングアウトなどという面倒な「手続き」をとる必要がない)。セクシャリティーの問題は、かなり深い問題を内包している。
夕方6時過ぎからは、今池のシネマテークで映画「ノー・マンズ・ランド」を鑑賞。ボスニア紛争を舞台に、戦争の愚かしさを戯画的に描いてみせた作品。ユーモアを交えつつも戦争の本質を描ききった作品として、高く評価したい。
夜9時からは、萱さん・マミオさん主演の映画「砂の記憶」を鑑賞。果てしなく続く砂、砂、砂の世界。そこから様々なイメージが想起させられ、面白く観させていただいた。主演の二人もよかったが、突如現れる菱田さんも異様で素晴らしかった。俺も映画に出たいとアピールして、今日の日記を締めくくっておこう。
2002年07月27日(土) |
大須オペラ&「地方の反乱」 |
夕方、スーパー一座の大須オペラ「パリの生活」を観に行った。オペラといえば、愛知県芸術劇場オペラホールへちょっと着飾って観に行くみたいなイメージがあるけど、大須オペラはビール飲みながら気楽に観られる大衆的オペラ。昔懐かしい「浅草オペラ」(懐かしいというか、俺はまだ生まれていない)の息吹を再現しようと11年前にスタートした大須オペラだが、周囲の人々はテンションが高く、それぞれが大いに楽しんでいるようであった。隣に座った女性二人連れは、「こんな面白いもの、もっと早く観たかった」と興奮気味に話していた。俺も、スーパー一座のロック歌舞伎を初めて観た時、同じような感想を持って、その勢いで一座に入ったので、その気持ちは理解できる。でも、スーパー一座の舞台を何度も観ている俺からしたら、「もっと面白いはずなのに」という思いを少しばかり持った。面白くなかったというわけでなく、もっともっと期待したいということだ。たぶん役者のレベルは年々上がってきていると思う。ただ、なんとなくバランスの悪さ(役者同士のバランスだったり、役者と台本・演出とのバランスだったりするのだが)を感じた。 俺がスーパー一座に所属していた頃は台本の良さが際立っていたように思うが、今回観た感想としては「役者が揃ってる」という点がひとつあった。ベテランは言うに及ばず、俺と同世代の役者たちに関して随所に光る演技というのか、どうすれば役者が光って見えるのか計算されているという印象を持った。でも、実は計算しているというより、長年の鍛錬のなかで自然とそういう演技が身についたということだろうと思う。「継続は力なり」は、一面では真理だと思う。 俺も、pH-7秋公演に向けて稽古に励みたい。
話はガラッと変わって、住民基本台帳ネットワークシステムへの接続拒否宣言をした、福島県矢祭町の話題。国民すべてに番号をつけ住民票情報を管理する、というこのシステムへの接続拒否について、矢祭町の根本町長は次のように説明する。 「住民の情報を守るための担保となる個人情報保護法案が成立しない以上、接続しない。そもそも、セットであることは、国会で小渕元首相が答弁している。それが守られていない」と。個人情報の漏洩を防止するための対策がなされないままに住基ネットがスタートしてしまうことに、疑問の声も多い。自治体の長として至極まともな判断と俺には思えるのだが。 今でさえ、本人も知らない間にプライバシーが侵されている状況がある。今後さらに個人情報が悪用されるのではないか、と一抹の不安を覚えずにはいられない。
ビデオ録画しておいた、NHKにんげんドキュメント「津軽・故郷の光の中へ」(再放送)を見た。 少年時代に「らい」(ハンセン病)隔離政策のために故郷・津軽を追われ国立療養所(群馬県・草津の栗生楽泉園)に強制収容された桜井哲夫さん(本名・長峰利造さん)が、六十余年ぶりに里帰りする様子をカメラが追いかけていた。既にご両親は亡くなられているが、その葬式の際に里帰りは許されなかったという。 昨年5月、熊本地裁で争われた「ハンセン病国家賠償請求訴訟」(国の隔離政策の過ちを認めさせたうえで謝罪と損害賠償を求め、名誉回復をはかろうとして、元患者・療養所入所者によって提訴された)において原告勝訴の判決が出され、その後国側の控訴取り下げにより判決が確定した。原告たちの手によって奪われていた人間の誇りが勝ち取られたわけだが、これで一件落着とはならないのだった。 桜井さんは里帰りを実現することができ、断たれていた人間の絆を取り戻すことができたが、患者の多くは「社会復帰」も叶わず、故郷との関係も依然断たれたままである。 実は4年前の夏、私は「栗生楽泉園」を訪れ、数人の入所者から話をうかがった。その際、桜井さんともお会いしている。桜井さんはその時すでに本名も明らかにしていたが、多くの入所者が「偽名」のままに生き、「偽名」のままに生涯を閉じる。しかも死んでなお故郷に戻ることなく、療養所内の「納骨堂」に遺骨が納められるのだ。入所者の多くは「家族に迷惑をかけられない」と言って、本名を隠し、「もはやこの世に存在しない者」として今もひっそりと生きている。 ある入所者は言う。「親・きょうだいに拒まれようと、私は親やきょうだいを憎む気持ちにはなれない」「この病気に対する差別が、親やきょうだいに及ぼす影響は計り知れないのだから」と。 差別、それは誰をも決して幸せにしない。にもかかわらず、この世から差別はなくなりはしない。人間のなかに闇の部分は必ず存在するのだから。「反差別」を唱える私自身、「差別意識」から自由にはなっていない。私が言う「反差別」とは「差別のない状態」を目指すこととは違う。社会のなかに存在し、自分のなかにも存在する「差別意識」と常に向き合っていこうとする姿勢のことであり、運動(ムーブメント)のことである。そこでは、恐らくひとりの人間といかに向き合うのかが問われているのであろう。
2002年07月23日(火) |
旅ゆけば~犬島・銅精錬所跡 |
7月21日、22日と岡山を旅してきた。主目的は、「維新派」の野外公演<カンカラ>を犬島(瀬戸内海に浮かぶ小島)まで観に行くこと。ついでに岡山市内や倉敷を散策してきたのだが・・・。
21日、朝8時すぎに名古屋から新幹線「のぞみ」に乗車(「のぞみ」は今回初めて)、10時くらいには岡山に到着。午後3時のフェリー(新岡山港発・犬島行き)の時間まで、岡山城(壁板が黒く塗られており、「烏城(うじょう)」とも呼ばれる)、後楽園(金沢・兼六園、水戸・偕楽園とともに日本三名園に数えられる)などを見て回った。そう言えば、市内を走る路面電車にも乗った。
午後3時の犬島行き高速フェリーに揺られ、30分弱で犬島に到着。島内をしばし散策し、5時から「発電所跡」にて舞踏家・岩下徹さんによるダンス公演<みみをすます>を観た。照明・音響効果は一切なく、自然の光の中で、周囲の音に耳をすましながら、ダンスを観る。演じられる場所も固定されておらず、岩下さんが移動するのに合わせて観客も移動した。40分ほどの上演だった。野外公演はリスクも大きいが、その場の使い方でいかようにも面白くなるものだと感じた。率直な感想としては新鮮で面白かったが、踊りそのものについてはさほど感動はなかった。
維新派公演の開場を待つ間、出店で食べ物、飲み物(言うまでもなくアルコール入り)を購入し、飲み食い。 6時半に公演場所である「銅精錬所跡」が開場。おだやかな島の一角に突如として巨大な構造物が出現する。鉄管が幾重にも組まれ、舞台・客席がセットされている。高い煙突や石切場、周囲の森、そういった島の風景が、そのまま舞台のセットとして組み込まれている。 7時開演。その時点で空はまだ明るい。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をモチーフとした新作野外劇。ヂャンヂャン・オペラと名付けられた独特のリズムを駆使した幻想的な世界が展開され、タイムスリップしたかのような錯覚を覚える。そのうちに辺りは暗くなり、空にぽっかり浮かんだ月が鮮明に映った。2時間ほどのパフォーマンスは瞬く間に終わった。理屈抜きに面白かった。迷宮に誘い込まれ、この世のものと思われぬ幻想の世界にしばし酔いしれ、現実世界に引き戻されてなお、直前まで存在したはずの物語世界が入り乱れ、夢の余韻に浸っていた。余韻はフェリーで島を離れる時にもまだ残っていた。 その晩、岡山市内のホテルに宿泊。明くる22日は、レンタサイクルを走らせ、吉備路を旅した。桃太郎伝説にかかわる「吉備津彦神社」「吉備津神社」を見て回った。その後、倉敷市内を散策し、新幹線で名古屋に戻った。 で、一度帰宅してから、泊まりの「ボランティア活動」に向かったのだが。さすがに疲れた~。でも、楽しかった。 その翌日である今日からまた仕事だった。まあ、楽しいこと考えて毎日を過ごしていこう。
今週はいつにも増して急速に過ぎ去ったように感じられる。職場での仕事が何かと忙しかったからかな。少年王者館KUDAN project公演はついに観に行けなかったな(明日、明後日も観に行けやしない)。 明日は、職場の行事(夏祭り)で休日出勤。夏祭り当日の俺の役割はアトラクション係(俺の他、4人の係)。賞品付きの勝ち抜きクイズや抽選会の進行、「ピンクレディー」の振付を踊ったり、「おさかな天国」の歌・踊りで場を盛り上げたり・・・、といった役割。別にそれほど楽しくはないけどね。 翌21日は、「犬島アーツフェスティバル」を観るために、瀬戸内海の小島・犬島(岡山県)に出掛ける。岩下徹ダンス公演、「維新派」野外公演を観に行く他、岡山観光を楽しんでこようと思っている。いずれその報告もできよう。 今月末は他にも、萱さんとマミオさんの主演映画「砂の記憶」を観に行ったり、「スーパー一座」の大須オペラ公演を観に行く予定。 7月も瞬く間に過ぎ去ってしまうのね。8月には、いよいよ待望のロシア旅行に出掛ける。その前に、新アトリエお披露目と、<一人芝居>がある。
俺、実のところ<一人芝居>って好きなんだな。オリジナリティーを追求するのが楽しいからね。 でも、何がオリジナルで、何がコピーかって難しい。「完璧なるオリジナル」ってものがそもそも存在するのかも疑わしいけど。例えば、俺は生まれついて(意思とは無関係に)日本文化の環境下に置かれ、日本語を母語(主に日本語でコミュニケートし、日本語で思考する)としている。生まれ育った時代、場所にも規定されながら、個人的にもさまざまな人、もの、事柄に影響を受け、今日に至っている。だから、他人からの受け売りを「自分の意見」として語ることだって少なくはないだろう。ならば、すべてがコピーかと言えば、それもたぶん違うだろう。少なくともそこで語る俺は俺自身に他ならないのだからね。 表現というものは、他者の存在を前提としながら成立しているようなところがあるけれど、他者にいかなるメッセージとして受け取られるのかが、キーポイントになってくるのではないか。表現とは、<存在のしかた>とも言い換えられそうだ。自らの存在をいかに他者の前に投げ出すのか、そこに果たしてオリジナリティーが感じられるのか。そして、表現はまた<関係>でもある。 俺の表現は、これからどこに向かっていくのだろうか・・・。
この夏、ロシアを旅することになっている。ここ数年は国内旅行ばかりだったから、久しぶりの海外だ。海外旅行にせよ、国内旅行にせよ、旅というものは楽しいものだ。 で、今日のテーマは「東北」。何故って、好きだから。それだけ。先頃、岡本敏子・飯沢耕太郎の監修による、岡本太郎の写真・文集『岡本太郎の東北』(毎日新聞社)が出されたので、早速購入した。まだ読んでないけどね。岡本太郎は優れた芸術家であるが、作家あるいは社会学者としても非常に優れている。彼の著書『沖縄文化論~忘れられた日本~』(中公文庫)でそれは十分に実証されている(おすすめの本だ)。『岡本太郎の東北』も早いとこ読んでおこう。
私が初めて東北を旅したのは、小学校3年生の時。母方の叔父Sに連れられて、青森県の金木町に行った。金木町は吉幾三の故郷でもあるのだが(芦野公園内に数々ある文学碑に混じって吉の記念碑もあった)、津軽が生んだ大作家・太宰治の故郷として知られている。町の中心部に位置する「斜陽館」(太宰の生家、現在は「記念館」として一般公開されている)は当時旅館であったが、そこに私たちも泊まった。Sは、現在甲府市立図書館に司書として勤めているが、当時アマチュアの太宰治研究家として長篠康一郎氏に師事していた。「無頼派」的な生き方とは無縁な、堅実な生活を送る叔父が、何故太宰に惹かれたのかはよくわからない。でも、それをきっかけに私は小説家に憧れるようになり、太宰文学にも触れるようになった(太宰文学については、いずれまた触れたい)。
1999年夏、ついに「大王」は現れなかった(「ノストラダムスの大予言」の呪縛から解放された)けど、あの夏、私は青森を再訪した。「ねぶた祭」を見て回る旅だった。その時は、「斜陽館」にも「寺山修司記念館」にも立ち寄ったけど、恐山(いつか必ず行くつもり)は日程的に無理があって断念した。 で、「ねぶた祭」について。規模としては青森市の「ねぶた祭」が最も大きいが、洗練されているという意味合いで弘前の「ねぶた祭」が私は好きだ。それから、五所川原の「ねぶた祭」が面白いよ。5階建てのビルの高さに相当する、「立ねぷた」が登場して、祭を大いに盛り上げるんだ。 津軽三味線のライブも楽しめたし、いい旅だったな。
2001年正月、岩手県・平泉を訪れる。芭蕉が詠んだ「夏草や兵どもが夢のあと」の句で知られた平泉。奥州藤原氏によって栄えた北の都であったが、源頼朝が差し向けた義経討伐軍によって義経は非業の最期を遂げ、藤原氏も滅亡した場所。藤原三代のミイラが安置された中尊寺・金色堂、「浄土庭園」で知られる毛越寺などの旧跡がある。また、「達谷窟」は隠れた名所である(「毘沙門堂左方の大岩壁に刻まれた大磨崖佛は岩面大佛といわれ、源義家が前九年・後三年の役で亡くなった者を弔うために彫りつけたものとして伝えられている」のだそうな)。 私が平泉を訪れた正月3日は、雪が降りしきり、視界も遮られていたが、なんとも風情があってよかった。その晩は、「ホテル武蔵坊」に泊まり、「レストラン弁慶」にて夕食をとった。 明くる4日は、柳田国男の「遠野物語」で知られた遠野を訪れる。雪に覆われた「民話のふるさと」を歩いて回った。その日、遠野駅の駅舎内にある宿泊施設に素泊まり。ところが、町中の飲食店は軒並み閉まっており(正月休み)、スーパーで弁当を買って一人さみしく部屋でその日の夕食を済ませたっけ。 翌5日は、花巻の「宮沢賢治記念館」に立ち寄り、花巻空港から名古屋に戻った。
2001年7月、出羽三山神社(羽黒山山頂)の花祭りの日に披露された「黒川能」(500年来、民衆の間で伝承されてきた能)を見るために、山形へ向かった。「黒川能」については、まあ、一度見れば十分かな、という感想。森敦の小説「月山」で知られた注連寺(即神仏が安置されている)にも立ち寄った。
まだまだ東北でも行ってみたいところは沢山ある。芭蕉みたいに「奧の細道」行脚してみたい気もする。 もちろん東北の他にも行きたい場所は数知れない。されど、世界中を旅するには、人生はあまりに短いではないか。だから、そこに行けるのも運命、行けぬも運命。縁あれば、今まだ会っていない<あなた>に出会えるかも知れない。そしてまた、まだ会っていない自分に出会えるかも知れない。人生は旅のように。足の向くまま、気のむくまま。すべてはなすがまま、さ。
今朝のどしゃ降りはもの凄く、外出する気を失わせるに十分すぎるほどだった。 今日こそは部屋を片付けようとして古新聞を紐で括ってみたりしたものの、とにかく部屋の散らかりようは凄まじく、どこから手をつけたものかと大いに悩む。気合いを入れてかからないと片付いていかないのはわかっていても、いまひとつ力が入らないのはいつものことだ。とにかく要らないものをゴミ袋に入れていくが、捨てられないものも多い。そんな捨てられないものの数々が未整理のまま積み重なって、今日の状態があることも十分すぎるほどにわかってはいるのだ。 でも、要らないものの処分すら捗らない。「こんなところから、こんなものが出てきた」と驚くこと、頻りにあり、その度に思い出なぞに浸っているからキリがない。忘れかけていたことの断片が出てくる度に手が止まるのだから、捗ることも捗らぬのは道理である。 他人様から見れば、きっと「がらくたが多すぎる」のだと思う。その最たるものが楽器類であり、書籍・雑誌の類、ということになろうか。楽器はとにかく場所をとるし、本にしても棚には収まりきらないのに次々に「読みきれない」(購入時は読むつもりだったし、今日まで興味を失ったわけではないのだが、現実には読めないでいる)本を買い足しているのだから、無理もないのだ。 こんな俺も、高校時代までは見事なまでに「きれい好き」だった。それが今日のように変化したのは、大学入学とともに上京し、一人暮らしを始めたのがきっかけであった。もともと俺は「きれい好き」などでは決してなかったのだろう。それまで「いい子」を演じ続けていたのが、親元を離れ、最早「いい子」を演じ続けるだけの理由もなくなって、ついに本性が現れちまったってことだろう。 自分一人なら片付かない部屋に暮らそうが他に影響もないとも言えるのだが、時に困ることもある。例えば、探し物が見つからない。探し物を見つけだすために掃除がいきなり始まる、という展開も少なくないのだが・・・。 これだけモノがあふれている一方で、時として必要なモノがなかったりもする。 気が付いたら、次の日に着ていくべき服が見当たらなかったりね(俺って、着るモノには無頓着だったりする)。 だけど家に一本も傘がなかった、ということはなかったな。その点に関しては、井上陽水に感謝しなければならない。陽水の初期の名曲「傘がない」は、俺も大好きな曲だ。俺は今でこそ、好きな音楽の幅が広いけど、高校時代から一貫して好きなアーティストはきわめて少ない。洋楽ではビートルズ、サイモン&ガーファンクル。邦楽では(その頃は、民謡などの「純邦楽」には無関心だった)、オフコース、中島みゆきに、井上陽水というあたりだ。とにかく陽水の声にかかれば、どんな曲だって名曲に聞こえてしまう気がする。 片付けの途中で横になってそのまま寝てしまい、夕方近くなって目が覚めた。でも、なんとなく体が重い。今夜は新アトリエの片付けもあったが、その前に行きつけの「クイック整体」に立ち寄る。そこの傘立てには、以前俺が置き忘れたとおぼしき傘がそのままあった。傘2本持って歩くのは邪魔くさかったので、一回自宅に戻って1本は置いて、新アトリエに向かう。 新アトリエも少しずつ片付き始めている。明日こそは、我が家の片付けをしようと思うのだが・・・。
2002年07月11日(木) |
年々歳々、人同じからず |
かつて同じ職場で一緒に働いていたOさんが亡くなられ(50代前半)、そのお通夜に出席。ここ1,2年、世代的に近い40代、50代の方の死が相次いでおり、その訃報に接する度に気持ちが萎えてしまう。 斎場には、かつての同僚たちの姿も多く見られた。その多くの人とは、Fさんの葬儀(彼女も50代前半で亡くなられた)以来ではないか。「こんな時でしか会えないのも悲しいね」と互いに言葉を交わし合う。 いなくなって初めてその存在の尊さを意識する。悲しいかな、そんなことも少なくない。社会的地位など、その際あまり関係ないのだ。あらゆる関係の中でその人がいかにその人らしく生きられたか、という点が問われてくるように思うのだ。それと同時に、私はその人の死に際して心から悲しいと感じられるような関係を取り結んできたのだろうか、とも考えさせられる。急速に思い出がよみがえり、また遠ざかっていく。一見昨日と変わらぬ今日を生きながら、緩やかではあれ確実に変わりゆく日々を私たちは過ごしているんだな。 明日のことは誰も知らない。とにかく与えられた時間のなかで、人生を全うしていきたい。それより他はないのだから。
徒然なるままに、休日を過ごす。
午前中は、洗濯機を動かしながら、テレビを観て過ごした。 TBS系列「サンデーモーニング」では、「長野県・田中知事に対する不信任案可決」を取り上げていた。田中知事に「不信任」に値するまでのことがあったとは思えないし、これはどう見ても県議会主流派が大人げない。田中知事は、公共工事の見直しという公約を実現しようとしているようだし、かなりまともなほうだと思うけどね。小泉首相とか石原慎太郎・東京都知事のような、「改革派」の仮面をかぶった危険きわまりないタカ派連中とは違うしね。俺は政治的には「無党派」だけど、利権構造にどっぷりはまった連中とそうでない人間とを区別する目は持っていたいと思っている。 テレビ朝日系列「題名のない音楽会」には、ハンガリーを代表するジプシー・バイオリン奏者ロビー・ラカトシュと津軽三味線奏者・木下伸市が出演、すばらしい共演だった。木下伸市は、いろいろな演奏家と共演し、津軽三味線の可能性を模索している(同じく津軽三味線奏者・上妻宏光の兄貴分といったところか)。私の敬愛する津軽三味線奏者は故・高橋竹山(いつか彼のことも、私のページで取り上げたい)であるが、若手奏者の活躍を心から応援している。そういえば、3年ほど前、青森のほうへ「ねぶた祭」(あ~、このこともいつか取り上げたいな~)に行った時、弘前の居酒屋で津軽三味線の生演奏(独奏と、5人の合奏)を聴いたけど、すごい迫力だった。青森に行ったら、民謡酒場で津軽三味線を聴くといい。 日本テレビ系列「波瀾万丈」の「本日のゲスト」は、人形師・辻村寿三郎。辻村の人形からは今にも息づかいが聞こえてきそうで、ちょっと恐い。でも、人形によって作り出される、ある種の幻想的な世界は素敵だ。
日記は、まだまだ続く・・・。
午後からは、「NPOプラザなごや」にて行われた、なごや自由学校講座「脱カップル社会の未来予想図Ⅱ」に出席。本日のテーマは、「個人を単位として生きるスタンス」。はじめに伊田広行・大阪経済大学助教授より話題提供、その後参加者全員でディスカッション。話はあちこち飛んで、社会政策、労働政策、ジェンダー論などにも及ぶが、大筋としては、「今日の日本社会において、あらゆる制度が家族単位で思考され、個人単位を前提としないものが多い」「人々の意識の面でも、家族(あるいはカップル)を単位として考える価値観(「ある年齢に達したら、結婚して家族をつくるのが幸せな生き方」)が大勢を占めている」「そうした価値観にあてはまらない人にとっては、暮らしにくい社会である」、「今後は、多様な価値観を認めていくことが求められているのではないか」といった話になった。日頃俺自身が感じていることとも重なるテーマであった。 それが終わって時計を見ると、夕方5時20分。急いで今池のライブハウス「TOKUZO」に向かった。6時からライブ「スペシャル・アイヌ・ナイト」があった(これでしばらくはライブに行く予定はない)。アイヌ音楽のウポポ(歌)とムックリ(口琴)の第一人者・安東ウメ子と、弦楽器「トンコリ」の奏者・OKIの共演。 開演の際には立ち見のお客もあったほど。「TOKUZO」には何度も足を運んでいるが、私の見たかぎりで立ち見はめずらしい。肝心なライブの内容だが、繰り返される単調なリズムに最初は戸惑いを覚える。それでも、観客も手拍子などで参加し、時間を経るにつれて、だんだん波長も合っていったようだ。アイヌ音楽において演奏者と観客という区別はあまりなく、その場にいる全員で盛り上げ音楽を共有していくという感覚が強いのではないか、と勝手に想像した(真偽のほどは明らかではない)。ライブの内容からは離れるが、「TOKUZO」でのもうひとつの楽しみは酒。 毎回違うカクテルを注文してみたり、強めの酒に挑戦してみたり・・・。今日も3杯ほどカクテルを飲んだが、ストローハット(ホワイトテキーラをベースに、トマトジュースとレモン少々で割る)がなかなか旨かった。ほろ酔い気分で家路についた。
遊び疲れて、明日はまたまたお仕事さ。
2002年07月05日(金) |
もののけよ歌え、神々と踊れ |
またまたライブに行ってしまった。仕事の後、大須の「エレクトリック・レディ・ランド」(E.L.L)で行われた「ソウル・フラワー・ユニオン」(S.F.U)のライブに。今回は、S.F.Uのメンバーに加え、山口洋(ヒートウェーブ)も参加していた。 S.F.Uは、民謡(というか民衆に歌い継がれてきた歌)とロックを融合させたサウンドに定評のあるバンドだ。メッセージ色がやや濃いが、一人ひとりの演奏技術も高く、2時間に及ぶパワフルなステージを満喫させてくれた。
S.F.Uを最初に生で聴いたのは、横浜の「寿町フリーコンサート」においてであった。寿町は、釜ヶ崎(大阪)、山谷(東京)とともに「3大ドヤ街(簡易宿泊所の立ち並ぶ街)」と呼ばれる、「日雇い労働者の街」だ。そこには、「社会の矛盾」が凝縮された形で転がっている。でも、決してそればかりではない。寿町もまた、人々が暮らす街であり、そこに住む人にとっては<ふるさと>でもあるのだ。その寿町で毎年お盆の時期に行われるのが、「寿町フリーコンサート」だ。過去には、今は亡き江戸アケミ率いる「じゃがたら」、故・どんとがボーカルをつとめた「ボ・ガンボス」といった伝説のバンドも参加している。他にも私は、南正人、金子マリといったアーティストのステージも観ている。 そのなかでS.F.Uは、民謡を自分たちのアレンジで歌い、オリジナル曲も多く演奏した。当時からS.F.Uは、沖縄、アイヌ、被差別部落等にも目が行き届いており、曲のなかに盛り込んでいた。その後、震災後の神戸で歌い(「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」として、ノー・ギャラで出前ライブ)、北朝鮮や東チモールでもライブを敢行した。彼らの機関誌でも、そうした一連の活動を取り上げている。 いわゆる「社会派」的な活動の一方で、彼らは根っからのミュージシャンだと思う。音楽的な実験を繰り返しながら、最高の音楽を追究しつづけている。 S.F.Uはまた、独自の活動の他、90年代前半、喜納昌吉&チャンプルーズのアルバム「レインボー・ムーブメント」(このアルバムを私はとても高く評価している)にアーティストとして参加している。そのアルバムには、S.F.Uの他にも、ザ・ブーム、ボ・ガンボス、ゼルダ、山口洋、高野寛らが参加していた。当然アーティスト同士で触発しあったことだろう。売れ筋とは言えないところにも(そういうところだからこそ?)上質の音楽がある。
存在の仕方が<土着的>かつ<インターナショナル>であるような、そんな生き方をしてみたい。地を這うように「私は私である」という信念のようなものを持ちつつ、他者とつながる<言語>(回路)を持つ<文化人>でありたい。 難しいことはさておき、酒を飲みかわし、高らかに歌い、もののけや神々と踊り、しばし我を忘れて宴を楽しもうではないか。と、飲んだくれの戯言であった。
私は、実にいろんなジャンルの音楽を聴く。特にジャンルは問わないものの、好き嫌いははっきりしている。好き嫌いについて説明しだしたらキリがないけど、その人でしか表現できない何かを持っている人が好きであることに違いはない。 例えば、中島みゆきは、昔から好きなアーティストの一人だ。彼女の代表曲(一般的な評価も含めて)は恐らく「時代」ではないか、と思うのだが、彼女の知られざる名曲も数知れないのではないだろうか。そのなかで私はアルバム「歌でしか言えない」に収録された「永久欠番」という曲が大好きだ。そのことについて、あえて説明はしない。その詞全体を以下に書き出すので、味わってみて欲しい(中島みゆきの歌声あってこそ、味わい深いものにはなるのだが)。
どんな立場の人であろうと いつかはこの世におさらばをする たしかに順序にルールはあるけど ルールには必ず反則もある 街は回っていく 人ひとり消えた日も 何も変わる様子もなく 忙しく忙しく先へと
百年前も百年後も 私がいないことでは同じ 同じことなのに 生きていたことが帳消しになるかと思えば淋しい 街は回っていく 人ひとり消えた日も 何も変わる様子もなく 忙しく忙しく先へと かけがえのないものなどいないと風は吹く
愛した人の席がからっぽになった朝 もうだれも座らせないと 人は誓ったはず でも その思い出を知らぬ他人が平気で座ってしまうもの どんな記念碑も雨風にけずられて崩れ 人は忘れられて 代わりなどいくらでもあるだろう だれか思い出すだろうか ここに生きてた私を
百億の人々が 忘れても 見捨てても 宇宙の掌の中 人は永久欠番 宇宙の掌の中 人は永久欠番
6月30日、pH-7旧アトリエを完全に引き払う。新アトリエの片付けはこれからだけど、これがまたまた大変そうだ。とりあえず7月のはじめはオフ。 オフということでホッとしたかと思えば、職場の仕事のほうはいろいろとあって・・・。まず、日常的な業務に加えて、職場の行事(福祉施設の夏祭)準備もある。日々の業務も年々忙しくなる一方。だからと言って給料は上がらないけどね。 職場の仕事は、「自己実現」という部分がないわけじゃないけど、「生活の糧を得るため」という部分がだいぶ大きいかな。時には、気が進まないことだってある。でも、「雇われの身」というものはおおよそそのようなものだろう。だからって経営する側が楽とも思えない。いずれにしても「生活の糧」を得るのは楽じゃないよね。 あくせく働く日々のなかで、果たしてこのままでいいのかと思い悩むこともある。「辞めたいけど、辞めたら生活できないよな」なんてこと、多くの人が時々は考えることだろう。でも、だからこそ、仕事を離れ、個人の時間を持つ時に、大きな喜びを感ずることができる。酒が旨く感じられ、美しい音楽に疲れを忘れることもでき、虚構の世界に酔いしれることもできるのだ。 職場の仕事は、生活していくためになくてはならない。けれども、それだけでは、私の生活は豊かにならない。例えば、結婚して家族のために働く、という生き方もある。私は、必ずしもそれを拒否しているわけではない。でも、だからと言って、「マイホーム」だけを大事にする生き方は選択しないだろうと思う。 わがままに生きたい。<わがまま>と「自分本位」「自己中心的態度」とははっきり区別したい。<わがまま>とは、様々な人々が生きるこの社会の荒波にもまれながらも、自分を見失うことなく、自分らしく生きる、という意味である。 そのなかで私は、<反・差別><共生>を追求し、<表現>というものにこだわり続けていきたい、と思う。
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