今週、胃カメラの検査があった。 いやだなあと、いつも思う胃カメラ。 たぶん、他の人よりもえづきやすいので、苦しいことは苦しい。 息子に胃カメラ検査をしろと言っても、無理だろうなと思う。 絶対無理だわ、うん。
以前は、のどの奥にゼリー状の麻酔薬を5分間ほど貯めておいて のどに麻酔する方法だったが、今はスプレー式の麻酔薬をのどの 奥にシュッと数回吹き付けて麻酔する。 のどに嘔吐反射があるわたしは、シュッとされるだけでえづく。 3回くらいに分けて吹き付けられるが、その度にえづいていた。 内視鏡を入れるときのグエッというのもつらいが、まだ麻酔の段 階で3回もグエッとなるのもしんどい。 まあ、本番は比較的早く終わったので、もう終わりですかという 気持ちだった。 空気をげっぷで出さずに済んだのが良かったのかなと思う。 胃が荒れた痕は見受けられるが、特に注意すべき点も無しという ことで、1年に1回の検査で様子を見ることになった。 やっぱり年に1回はやるんだと、少しがっかりしたが仕方ない。
こんな些細なことだが、案ずるより産むが易しのことわざの通り だといつも思う。 検査までは嫌だな嫌だなと思い続けて、実際の検査は10分にも 満たない時間なのだ。 思い煩っている時間の方がずっと長い。 思い煩う時間が、もったいないような気もしてくる。
一事が万事で、まだやってこないことで思い煩うのはつまらない。 例えば、若いお母さんが、一人目の娘がとてもかわいくて、お腹 にいる男の子をかわいがれるかどうか心配だと言っていた。 8月に出産して、どんな感じか聞いてみたら、やっぱり下の子は かわいいと。 生む前に思い煩っている時、わたしや友人たちは、娘のような歳 の彼女に、こう言った。 男の子は、無条件にかわいいから大丈夫だと。 生む前から心配してどうするのと。 まさに、案ずるより産むが易し、なのである。
今の息子がそんな感じ。 何かの危険性を感じた時、まだ起きていないことに対して、どう しようどうしようと、焦り始める。 いろんなことがわかる年齢になって、こういう感覚が出てきたん だなと分析することも出来るが、夫と二人で、起きてもいないこ とをあれこれと考えるのはつまらないことだと、言い続けている。
何十年も生きてきた大人だから言えることだが、そういう経験が 説得力になるのだと思う。
今日は、息子が来年から通う中学校に、支援級の授業を見学に 行った。 見学というより、体験みたいなものかな。 体育と学活(音楽の予定が学活になった)の授業に参加した。 休み時間、中学生とトランプをしたりしていた息子。 休み時間が終わる時間になると、上級生がそろそろだという声 を発し、みんな席に着く。 息子は、たぶん、こういう所が居心地がいいと思ったのだろう。 授業の内容もそうだが、自然と切り替えを促すような感じにな っていて、ごちゃごちゃしている小学校とは違うと感じたよう だった。 中学校から帰るとき、まだ居たいなあ、小学校に帰りたくない なあと呟きながら歩く息子であった。
中学校の支援級に対して不安もあったが、見学に行ってみて良 かったと思う。 片道25分は遠いけどね。(雨だからよけいに遠く感じた。) 帰宅して、へとへとな母である。
息子の場合、低学年の頃からよくわからないものに対する苛立 ちを持っていたように思う。 予測不能な行動をとる人間が不快なのである。 それは、自分自身も傍から見ればそうなのだが、自分の中での 秩序だった行動基準の範囲外にある行動には、拒否反応のよう 名苛立ちが見られた。 だから、4年生、5年生、6年生と学年が上がるにつれて、そ れまでは、特定の人物に対しての苛立ちだったものが、下級生 のわけのわかんない子ども達の行動に、苛立ちの対象が移って きていると感じる。 だからか、中学校の教室はそれなりの秩序があって、心地よい と感じたのだろう。 通常級では味わえないかもしれない独特の雰囲気。 それが良いのかどうかは別として、息子のような子ども達には 必要なものであろうと思う。
楽しそうに授業に参加している息子を見るのは、幸せだ。
エンピツで、どなたかが参照されていた日記を久しぶりに読んだ。 産後2ヶ月のころの日記。 ちゃんと書いていたし、短歌もしっかり詠んでいた。 そこ、大事。 乳飲み子を育てながら、毎日の変化や出来事をちゃんと短歌にし ていた。 自分自身の年齢的なこともあるのだろうか。 40代と50代では気力が違うのか。 それとも、家の中でぽわんとしている時間が長過ぎるのか。
赤ちゃんについて、出産について、病気について。 それらを踏み切り板にして、短歌に跳ぶ感じ。 今のわたしに足りない部分であろう。 短歌に跳ぶ。
日常の光も影も取り込んで三十一文字にジャンプするとき(市屋千鶴)
下の句をもっと生かせる上の句があるはずなのにジャンプが下手だ(市屋千鶴)
ああ、感想まで、5、7、5、7、7になってたよ。
息子に、今月で母は56歳になると言うと、ため息をつかれた。 母が歳をとっていくことに、少なからず不安があるのだろう。
春と秋の一大イベントである、運動会と修学旅行が終わり、一息 つきたい所だが、6年生は今度は連合運動会の練習に励んでいる。 それが終わると、今年は小学校の50周年の記念式典があるので、 おそらくその際の発表会のようなものの準備と、支援級には合同 学芸会の準備もある。 今は、連合運動会に向け、6年の体育はその練習の日々。 支援級に戻ればダンスの練習だったりする。 一年中、何かの練習をしているのが小学生というものなのだろう。
9月のぷらむ短歌会は諸事情があって欠席した。 お題は「跳ぶ」だったが、題詠で4首を送った。 次回、11月のお題は「鍵」。 鍵という言葉も、ありふれた使い方になってしまいがちなので、 案外と作りづらいかもしれない。 ぷらむ短歌会の方が精力的に、短歌の応募をしておられて、感心 するばかりだ。 わたしには、まとめて30首とか期間を決めて作れる気がしない。 すっかり数が作れなくなってきているなと思う。
普段の暮らしの中から、しっかりと題材を見つけて作歌できるの は、感性の問題かもしれないと最近思う。 自分自身の中になにがしかの引っかかりがある時には、自分の歌 がその引っかかりにからんで浮んでくるものだが、そうすると、 この人の短歌ってこういう感じなんだねということになり、それ もどうかと思う。 引っかかりが無くなったら無くなったで、今度はピンと来るもの がつかめなくなってくる。 透析中に短歌が作れると期待していたものだが、ある程度の年数 が経ってしまうと、テレビを見ているか寝ているかということに なってしまうものだ。 考え事はしないようになっているのかもしれない。 ハッとするようなことがあった時、それを作歌につなげる発見と するか、日々の暮らしの中の気づきととらえるかで、短歌に向か うか生活の中にだけ結びつくかが決まる気がする。 最近は、生活の中に結びつけること多く、作歌に結びつかない。
夜は早く寝てしまう分、録画している番組を日中に見るので、そ の分だけテレビばかり見ているような感じだし。 基本的に、わたしはテレビっ子なのだろう。
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