くじら浜
 夢使い







痛いと思うこと   2007年05月31日(木)

血をながしたら痛いと思う

ながれる血を見たら痛いと思う

悲惨なじじつをしり痛いと思う

真実をみつめ痛いと思う

ふれると痛いと思う

雨にうたれて痛いと思う

樹の匂いをかぎ空をあおぎ痛いと思う

親をおもい恋人をおもい人をおもい痛いと思う

いきることは痛いと思う









宇宙の法則 6   2007年05月22日(火)

市電通りを左にカーブしたところに首都高浜川崎の入口があり、ETCを抜けて本線への合流地点までは、やや急でまっすぐな登り坂になっている。週2回は早朝4:40にここを通るのだけど、この時期ちょうどその坂の延長線上に、さっき揚がったばかりのお日さまが真っ赤な顔をだし、坂のてっぺんからぼくの顔を強く照らしてくれるわけです。
そんな宇宙と地上のもたらす偶然と神秘に出会った時。








をばの声   2007年05月17日(木)

老いるとはどういうことなのだろうかと、最近考えているんです。

人は老人になりそして年をとるにつれ徐々に子供に返るといわれますが、もうだいぶ前に観たテレビ番組で長老特集?らしきものをやっていたのです。司会者の愛川欽也が100歳近いお年寄りを相手に話しかけるんですが、その喋り方が、まるで小学生を相手にしているような、時々赤ちゃん言葉を使ったりして、まぁ司会者としてはお年寄りに気を使ったつもりなのだろうが、それにしてもあのときの愛川欽也の過剰なまでの態度にすごい違和感と嫌悪感を抱いたのです。

少年の頃、夏休みやお正月になるとおばさん(父の姉)の家に遊びに行くのが好きだった。おばさんの家はバスに乗って「本茶峠」を越え、更に「浦上」でバスを乗り換え「大熊」というところにあり、ぼくの家からはだいたい一時間強くらいのところにあった。おばさん夫婦には子供はおらず旦那さんとふたり暮らしだった。だからかも知れないがふたりはぼくをことのほか可愛がってくれていた。

おばさんのことをぼくは「をば」と呼んでいた。

小学校の低学年の頃だったと思うが、ぼくが初めてひとりでバスを乗り継ぎをばの家に行ったことがある。をばはバス停の前で待っていてくれて、ぼくの姿を確認すると手を降って寄ってきて「はっげ〜、じゅんぎ!ちゅうりでかんしんじゃが!」(訳:あら〜じゅんぎ!ひとりでよく来れたね、がんばった!がんばった!)と、思いっきりぼくを抱きしめてくれた。そして手をつないでをばの家に行くと、決して豪華ではないけれど、とても味の濃い卵焼きや、甘くて温かいカレーライスや、ご飯の上に鶏肉と刻んだ卵焼きときゅうりと椎茸を乗せ、それにコクのあるスープをかけて食べる「鶏飯」や、それこそ食べきれない程の料理を出してくれるのだ。そして「じゅんぎ!がば食べらんとほでらんど!」(訳:じゅんぎ!たくさん食べないと大きくならないよ)と、強い口調で、でもあたたかくぼくが一生懸命に食べるのを嬉しそうに眺めていた。

5年ほど前にをばの旦那さんが亡くなった。
そしてそれを機にをばはすっかり老けこんだという。
子供のいないをばは今は老人ホームで生活をしているということを、先日の母からの電話で初めて知った。母がをばを訪ねに行くたびに、少し痴呆気味になったをばは「じゅんぎはぬーしよ?じゅんぎはぬーしよ?」(じゅんぎは今どうしてる?じゅんぎは今どうしてる?)と、何度も尋ねるらしい。

少年の頃よく遊んでいたをばは何才位だったのだろうかとふと考える。その年齢に近づきつつあるぼくがここにいる。そしてうわ言でぼくのことを呼んでいるをばは、あの頃から倍の年をとっていることになる。

年をとるということはどういうことなのだろう
老いるとはどういうことなのだろう









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