2011年06月30日(木) |
「論理と感性は相反しない」 |
ビルの頭上から照りつける陽射しはジリジリと容赦なく、 逃げ水に霞む雑踏は儚く見えて黄昏を恋い焦がれる。 枝葉の隙間から降り注ぐ陽射しはキラキラと眩く、 視界の隅を渡るムラサキシジミは戯れるように視界の死角へ。
山崎ナオコーラ著「論理と感性は相反しない」
登場人物たちがそれぞれで重なり合う十四の短編集です。 ひとつひとつが短くてあれよあれよと先に進んでいってしまいます。 不真面目(お気楽さいい加減さという意味で)な自分だからこそ好きでいてくれると思っている神田川は、真面目な理論派の真野くんと同棲をしています。 性格が真反対のふたりですがケンカをしながらも仲良く暮らしています。
神田川の友人で小説家のマユミズは、音楽家の男と恋をします。遠距離恋愛です。マユミズは不器用ながら告白して始まりました。 男はマユミズの小説が好きでした。 マユミズは小説と自分は解離しているので好きな小説家のわたしを、ではなくわたしを好きなのか問い詰めます。
「きみのまつ毛が好きだから、てだからあなたが好きなわけじゃないってわけじゃないでしょう?」
マユミズはふと漏らしてみた友人に言われます。 そして、好きということがよくわからなくても恋をしそれは小説を書いてゆくのに必要なことで、だからわたしと小説家のわたしは同じわたしなんだと決めます。
神田川と真野くんは別れて数年後にまたふたりが暮らしていたアパートが取り壊された跡を観に再会します。 マユミズと神田川はふたりで日本の裏側ブエノスアイレスに旅行にゆきます。
散文的な十四のお話がどこか細い糸で繋がり紡がれてゆくのです。 なんとなく川上未映子さんの作品とも雰囲気が似ているような読後感ですが、サラサラと降って通り過ぎていった通り雨のような不思議な感じでした。
もしもあなたの未来か過去の、そのどちらかを与えてくれるというならば過去を。 今のあなたを形作った大切なものだから。
もしもあなたの未来か過去の、そのどちらかを与えてくれるというならば未来を。 これからのふたりを築いてゆくのだから。
過去ならば、どんな痛みも受け止められる。 未来ならば、どんな苦しみも受け入れられる。
肌にまとわりつくような湿気を孕んだ夜気の中に、動物たちの熱い臭いが溢れかえっています。 額や鼻の下の汗が気付けばじっとりとたまっていたりして、これではシャツなんかすぐに汗臭くなってしまうのではと心配性になってしまいます。
洗濯で塩素系漂白剤を入れ過ぎたらしく、時折ツンと鼻を刺激してきたりする攻撃的なシャツを纏って暮らさねばならないはめに陥ってしまいました。ファブリーズとかで中和出来るのでしょうか?
今年のお盆休みは昨年とカレンダーで一週間分ずれてしまっています。 昨年は、高知県の「よさこい祭り」の期間と重なっていたので念願叶って生の「よさこい」を目の当たりにすることができ、痺れるほど感動することができました。
あれからまだ一年しか経ってないのかと感じています。
「よさこい祭り」は9日から12日という日程は毎年変わらないそうです。 13日が土曜日で実質そこからが今年のお盆休みになります。有給休暇を二日間つければ、本選と全国大会と後夜祭に行くことができるのです。 今年も土壇場、頑張ってみようか迷っています。
徳島の「阿波おどり」が13日から16日あたりまで開かれているので、ちょうどはしごすることも出来るのです。ほかにまだ行きたいところもあるのでそちらに集中するか、今さらながらそわそわしたりしています。
旅先で物見遊山に興じるのも好きですが、いつかは宿にひきこもり文机に向かって過ごすような大人な逗留もしてみたいです。 せっかくここまできたのだからと惜しがる貧乏性と意味のある好奇心かどうかの間で右往左往してしまうのですが。
迷うたびにそれが意味のある迷いでありますように。 それでは。
2011年06月27日(月) |
「もうひとつの シアター!」 |
蛍二十日に蝉三日ーー。 たった二十日の間の為に、生命を睹して瞬く光。 頭上を舞う灯りは儚く強く、激しく柔らかい。 差し出す指に、或いはとまり、或いはすり抜け。 光放つ生命をただ見送る。 やがて草葉に消えてゆくまで。
ああやっぱり梅雨なんだな、と玉にならない汗を拭い、ハタハタと忙しなく扇子で扇いでます。
先日、渋谷区ふれあい植物センターに蛍をみにゆきました。 以前、この植物センターにチャリティーコンサートに連れていっていただいた際に、今回のイベントのことを知ったのです。 正直、あまり人に知られていないものだと思っていたのですが、とある情報番組で毎年入場制限するほどの盛況ぶりだと紹介されたのです。
決して広くはないのですが、三階吹き抜けの高さの温室に星のように散りばめられた光の粒、だったのです。 明かりは蛍の灯りのみ。 髪の毛にとまるのもいれば、ひょいと伸ばした手にとまるのもあり。 真っ暗に怖くなって泣き出してしまう子もいたり。
入場料無料なので、お近くの方はぜひ行ってみてはいかがでしょうか? 夕方四時から夜八時半入場で水曜日までやっております。
さて。
有川浩脚本「もうひとつの シアター!」
作家・有川浩が自著「シアター!」の舞台の脚本を書くことになり、それを小説化したものです。
「シアター!」内で劇団「シアターフラッグ」が地方公演で高校の文化祭にゆく場面があります。 それを、実際の劇団で舞台にしてしまったのです。
小説を書くのと芝居の脚本を書くのでは、明らかな違いがあります。 これは有川さんも書かれていますが、小説は書き手が読み手に直接イメージを伝えます。しかし脚本になると、演出、演者を通して観客に伝え、それは観客によって日々変わることもあります。 そこで思わぬ化学反応といいますか、予想外の面白さが生まれてゆくのです。
登場人物を作者が書くよりももっと登場人物らしく演者が表現してくれたり、シリアスなはずの場面に観客からクスリとこぼれそれがシリアスさをより引き立てることになったりします。
そんなギャップを本作品の中で註脚として有川さん自身の感想として書き込まれているので、読みながら舞台上の演者さんたちの姿と観客の姿を思い浮かべてとても楽しめると思います。
大和田伸也さんが演じた教師・田沼が「全力を出し切ったのか?」と問い掛けます。 転ばない程度の全力しか身に覚えがないような気がします。
蛍は成虫になると、それまでに蓄えた栄養だけで寿命が尽きるまで光を放ち続けるそうです。 どんな蓄えがどれだけあるのかわかりません。 ですが。
どうか転ぶことを恐れずに全力を出し切ったといえるものやことがある日々を、いつか振り返ることができますように。
当たり前だと思っていた夜の色は街の色で、 真の夜の色は自然が生み出す闇の色。 星明りを目指すのは、 闇に溶け出た己が輪郭を取り戻すため。 夜が心地よいのは、 周りとの一体になれる気がするから。
有川浩著「図書館革命」
表現による差別区別不平等をなくすために施行された「メディア良化法」 憲法でうたう「思想・表現・言論の自由」を冒さないため、「出版・流通の前はこれに含まない」とし、良化委員会が「相応しくない」としたものはその実行部隊である「良化隊」によって「検閲・回収」が行われてしまう。
一方、国が組織した「良化委員会」による理不尽な検閲・回収行為に対抗すべく、地方行政組織によって「図書隊」を組織し、かろうじて図書館における図書の自由を守ることだけが希望となっていた。
敦賀原子力発電所がテロに襲われる。その手口が小説と同じだとされ、著者である当麻蔵人が「良化委員会」の査問対象となってしまう。 査問とは名ばかりの、罪を認めさせるための拷問行為から当麻を守るべく関東図書隊が護衛・保護にあたることとなった。
班長の堂上以下、小牧、手塚、笠原、柴崎らは、当麻を守りきれるのか。 表現の自由を守れるのか。 本の自由を守れるのか。 国民は、自らの無関心・無関係としてきた過ちに気付けるのか。
有川浩の代名詞ともいえるこの「図書館シリーズ」ですが、熱く燃え、また萌えて身悶えてしまう心地好さは絶好調です。 気になる堂上と笠原の煮え切らない関係は、今回やっと煮詰まります。そして柴崎と手塚の関係もまた。
「有川浩と角川書店は、表現の規制と戦います!」
三省堂書店の陳列台に表明されていました。 なんといいますか、作中にも、「えっ!?」と目玉がこぼれ落ちるくらいに見開かされた言葉をつかわれていたりもしています。
例えば「盲撃ち(めくらうち)」という言葉は、規制対象用語です。 規制といっても現在は公的指針やガイドラインがあるわけでもなく、出版側の自主規制が出版界の暗黙の規制となっているだけなのです。
小説内の病気の症状が実在のものと似ていて、さらにそれが誤解を招く表現がされている、と指摘を受け回収、改訂をした作品もあります。
本作品では「テロ」を取り上げられました。その対象が「原発」という、文庫化された現在との皮肉はさておき、ミステリーなどの殺人・犯罪手法などが対象ともなりうるのです。
あり得ないことではありません。 例えば、テレビで煙草のCMがなくなって当たり前のようになりました。やがてテレビドラマでも煙草の場面はなくなるでしょう。 残酷さを煽らないように、と流血シーンを自制するのではないテレビドラマ界がいったいどうなのかという疑問もあります。
作品内で度々用いられている言葉で「善意の暴走」というのがあります。 当事者ではないものたちが「善意」で「差別だ」「危険だ」と当事者を差し置いて勝手にすすめてゆくことです。
あなたたちを思ってやってあげているんです。
大きなお世話のありがた迷惑ですね。
あなたは国内でも大変少数の罹患者で、理解者がいなくてとても辛い思いをされてきたでしょう。 さあ、わたしたちが「障害者手帳」を発行するよう訴えてここに持ってきました。 もう、普通のひとと同じように働かなくてもよいのです!
そういってわたしのところに人間がやってきたら、高々の鼻をペンチで挟み潰して、うっとりした黒目を漂白剤で洗浄してやります。
誰が頼んだ?
とその口をホッチキスでバチンバチン止めてあげながら言うでしょう。
とあるヘルパー協会の理事の方にかつて言われた言葉です。
「誰の為に?」を教科書だけで知った知識で、間違いがないかのようにやらないでください。 現場の専門家や当事者の声を、ちゃんと聞いてやってください。
初めて立ち上がろうとする我が子を、危ないからと床に押さえつけて立たせない親はいません。 しかし社会は、危ないからと押さえつける集団です。
どうか明日が、まごころの言葉がひとつずつでも増えていますように。
夢をみたものは三つに分かれ、 ひとつは、また夢を見たいと願うもの、 ひとつは、夢の中へ入りたいと望むもの、 ひとつは、夢を叶えたいと求めるもの。
夏日が続いてます。 そしてどうやら身体が参ってしまっているようです。 暑いのに寒いというわたしに起きている現象は、どうやら熱があることを訴え続けているのだと、認めるに至りました。
濃い味じゃないと味覚が働かないし、肩甲骨の間の真ん中のあたりや、首と肩の付け根あたりがシクリと痛むのは、不摂生や姿勢の悪さが原因だと思っていたのです。
野菜ジュースを飲む量を増やしたり、身体の芯の筋肉(体幹)を意識してみたり。あながちハズレではないのですが、そんなことが効くはずがありません。
風邪というには怪しく、ならば何なのかといえば季節の変わり目に来るいつものやつなのか、はたまた知恵熱のようなものか分かりません。分からないからひとまとめに「熱」ということにしました。
小路幸也著「東京公園」
映画化されただ今上映中です。 小西真奈美さんが出演されているので、思わず原作である本作品を手にとってしまいました。
母親の形見のカメラを手に公園の家族の風景を撮って回る大学生の圭司は、初島という男に、妻の百合香を尾行して写真を撮ってくれ、と頼まれます。
晴れた日は毎日、色んな公園に娘のかりんちゃんを連れて散歩して回っているので、その様子を教えて欲しいとのことだったのです。 東京の様々な公園を散歩する百合香を追い掛けて撮ってゆくうちに、圭司は次第にひかれてゆくのです。
圭司の友人であるヒロ、そして女友達の富永、さらに父が再婚した相手の連れ子だった血の繋がっていない姉の咲実と、ファインダー越しにみれば気持ちがわかると思っていたものが、揺らいでしまいます。
「お姉さんは、圭司のことを愛してるよ」
咲実となぜか仲がいい富永の口から知らされた真実です。 圭司は、わからなくなってしまいます。百合香や富永や咲実への気持ちが。
公園の百合香を追い掛けて撮ってゆくうちに、その答えがわかってゆきます。
公園はやはり素敵なところですね。 公園は素敵なところですが、芝生に寝転んだり、バドミントンをしたりできるような公園は、近所にないのがとても残念です。
咲実役を小西真奈美さんが演じてらっしゃるようなのですが、読んでいてまさにイメージにぴったりなのです。 しかし映画を観てからよりも、まずは原作を読んでもらいたい作品でした。
梅雨の時期は気圧が下がり、身体が寝ている状態に近くなるそうですので、普通の方でも疲れやすかったりぼおっとなりがちだったりするそうです。 そんな原因があるので、皆様もお気をつけください。 では。
2011年06月20日(月) |
「あぜ道のダンディー」 |
青空を白く弾き飛ばしている夕陽はやがてビルの谷間から地平に消えてゆく 海から両手を広げて迫る雲はまだ白々しくやがて水平線から夜の色が染みだし暗灰色にすっかり覆う したたかな夜と未練がましい昼がせめぎ合う一刻
ここにはまだ、朝など存在しない。
朝目が覚めると身体中がコキコキと音を鳴らしそうなほど、冷えて固くなっているような感覚の日が続いてます。薄着で寝るのには気を付けましょう。 シャワーを浴びてやっと火照るような固さが解きほぐされてくると、冷凍肉が解凍されてゆく時はこんな感覚なんだろうかと、おかしくなってしまいます。
落ち着いている仕事をよいことに、遠征してきました。サービスデーでもないのに、映画です。 来る一日のサービスデーに向けて、平日仕事帰りに観られる作品を探していたら、どうしても観てみたい、だけど上映館が有楽町とかではない、という作品を見つけてしまいまして。
ひとり映画の醍醐味といいますか、気軽さといいますかとにかく今日これからなら間に合う、と駆け出してしまいました。
「あぜ道のダンディー」
テアトル新宿にて。 宮田淳一(五十歳)は、十九歳の息子と十八歳の娘を、今年大学入学が決まって東京へと送り出すことになった。 妻を十年ほど前に胃癌で亡くし、配送業をしながら男手ひとつで育ててきたが、どうやら最近、自分も胃の調子がよくない。
「女房とおなじ症状なんだ」
中学からの親友である真田にだけ、そっと打ち明ける。
「死ぬまでにやりたいことがある。いややらねばならない」
子どもたちは自分を無視するかのように、まともに会話をしてくれない。大学受験の結果すら、自分に教えてもくれない。
酔った勢いで部屋を訪ね、
「受かったようだな、よかった、ふたりともおめでとう」
よし、言ってやった。 父さんは、教えられなかったことをウジウジ気にしたりなんかしないんだぞ、どうだ。
「金なら、父さん、いっぱい持ってる。心配するな」
大学の金だって、心配するな、と。
しかし親友の真田の前で、酔っ払いながらこぼす。
「金ないんだよ、どうしよう。お前親父さんの遺産相続したんだよな?」 「わ、わ、わかった。工面してやる」 「俺が死んだらあの家は、女房に見せてやりたかったから買った家だったから処分してもいいからな」 「お、おうわかった」 「ローンはまだだいぶん残ってるけど」
「息子と娘のことは」 「わかってる、俺が面倒みる」
検査の結果はただの「胃炎」だった。
男は、見栄を張る。 男は、弱音を吐かない。 男は、格好をつける。 男は、泣かない。
「たったひとりの親友のお前にまで弱音を吐かなかったら、俺はどうしたらいいんだよ!」
「きみのお父さんは、ダンディー、でいたいんだよ」
そのダンディーを例え格好悪くても、ときに滑稽でも貫き通そうとし続ける宮田淳一(五十歳・父)の姿は、クスリと笑わされながら、じんわりと泣かされる。
上京を前に、淳一は娘の部屋を訪ねる。酔った勢いをつけて。 そうじゃないと、面と向かって話せない。
「ひとを好きになることは、恥ずかしいことなんだ。 舞い上がって、格好わるくて。 だけど男なら、その好きを最後まで貫き通せば、格好いいんだよ」
わけがわからない。
「わたし、好きなひとまだいないし。それに、女だし」 「いいんだ。お父さんはお前が、お母さんみたいに素敵なひとになってくれれば、それだけでいいんだ」
こんな言葉を言えるだろうか。 いや是非、言ってやりたいと思う。
格好悪いこととダンディーであることは、違う。 ダンディーであることは、ときに格好悪いことでもあり、それでも貫き通せば、絶対に格好よくなる。
男たるもの、ダンディーであれ。
過去を語るものは、自分が存在したという確固足る証明を求め、 未来を語るものは、明日が必ず訪れるものだと信じて疑わずにいるから。 未来が過去に変わる刹那にのみ今は存在しうる。 今は常に存在し続けることはない。
だから人は今を今であり続けようと前を見続ける。
辻村深月著「太陽の坐る場所」
高校卒業後十年が経ち、クラス会を毎回欠席し続けている人気女優となったキョウコを、皆がなんとか出席させようと画策します。
それぞれの思惑は、過去に生まれたものであったり、今沸き立ったものであったり、これからの自分に必要だと確信していたり。
アマテラスの天岩戸のお話をモチーフに、それぞれの同級生たちによって語られてゆきます。 誰かの人生の主人公は本人であってそれは当たり前のことなのですが、とても不思議な気持ちにさせられました。
特に登場人物たちが呼び合うその名前が、とても大切な物語の鍵になっているのです。
「太陽は暗闇に閉ざされることはない。あるだけで光に満たされるのだから」
解説の宮下奈都さんが、「掻き乱されてしまう」と辻村深月さんの作品に対する感想を書かれていますが、まさにその通りでした。
さてとても複雑な気持ちになってしまいました。 昨日、プロ野球の巨人戦の試合結果を家に帰ってからみてみたのです。 見事に勝っていました。内海投手は左のエースとして九勝のトップ。嬉しい孤軍奮闘、といったところでしょうか。 見事に勝ってもらえたので、わたしは今日も試合経過をみないように、気にしないように努めました。 天の岩戸に籠ったアマテラスのように、アマテラスの物語を読みふけって過ごしていたのです。 そしてようやく先ほど試合結果をチェックしたのです。
大勝していたのです。
これまでなかなか勝てず不運のルーキーとなっていた澤村投手が勝ててとても嬉しい気持ちになりました。だけど対戦相手の西武・牧田投手は、個人的に是非頑張ってもらいたい選手なのです。ううん複雑です。 千葉ロッテの渡辺俊介投手についで目を奪われてしまったアンダースローのフォームの美しさ。アンダースローの投手はもはや絶滅危惧種といっていいでしょう。生き延びてゆくには成績を残さなければなりません。
周りを見ても自分と同じ姿は見えず。 折れず挫けずにマウンドに立ち続ける。 信じるのは誰でもない自分自身。
負けるためにマウンドに上がる人はいません。 勝敗はマウンドに上がったものだからこそ与えられる結果なのです。
さあ、マウンドへ、です。
久しぶりに開いたページから ハラリと落ちたさくらの花びら。 テーブル下に傘のしずくが海を作り待ち受ける。 花びらはまるで小舟のように、 着水。
浮かぶことなく浸水する姿は、 乾ききった心が求めているのか、 過去に溺れてしまわぬようにとの忠告なのか。 心が波立つ前に、傘の先でかき混ぜる。
しずくはまだまだ海を広げてゆく。
今日もまたお昼寝してしまい、夕方にやっと出かけてきました。 神保町の三省堂へ行き、そしてまたまた「さぼうる」で珈琲をいただきました。
お昼寝をしたせいで、今日がまだ土曜日だという気がなかなかしないのです。これは得した気分だと言い聞かせるようにしました。
今夜はまだ、野球の巨人戦の情報を一度もチェックしていないのです。 わたしが途中経過をみた試合は、ことごとく巨人軍が負けてしまっているのです。これはまさかの悪いジンクスなのではと思い、途中経過をみない、と決めてみているのです。
今はもうとっくに試合結果が出ているはずなので、後でチェックしてみたいと思います。
もしも負けてしまっていたら、わたしは気にせずに明日から試合経過を好きなだけチェックすることが出来ます。だけど勝ってくれていたら。複雑です。明日もみないようにしなければなりません。
たかが無関係な一般の一個人が勝敗を左右するなんて、とは思いますが、それでもやはり気にしたくなってしまいます。
さぼうるで寛いだはずなのに、どこかすっきりしないのは天候のせいなのか、気分そのもののせいなのか。
入谷朝顔市が、今年は震災に対する自粛ということが発表されていました。 朝顔を買ってはいませんでしたが、露店の焼きそばを食べに行く楽しみが今年はなくなってしまいました。 それがとても残念です。 毎年その為に準備していたり、楽しみにしていたりする人たちがいます。 自粛とは「やらないこと」ではないと思うのは、わたしの都合のよい自分勝手な解釈なのかもしれません。
泣いている友に、共に泣いて傍にいることも必要ですが。 肩を叩き、共に笑顔になろうとすることが必要なこともあります。 価値観をはかるものさしが、今あらためて様々なところで試されたり、変わりはじめたりしています。
手を取り合い、歩調を合わせる思いやりと。 手を取って、前へ引っぱってゆくやさしさと。 そのどちらが相応しいか正しく選ぶにはまだまだ難しいところだと思います。
どうか揺らぐことのないやさしさをこの胸に。
今にも泣き出しそうな空模様。 改札へ向かう足音も皆、心なしか急ぎ足で。 靴音が一足さきにやって来た通り雨のよう。
「ええっ?」 「何かあったの?」
昨日と同じ時間に会社を出させてもらい、その足で大森のイ氏の元にゆきました。
大森の駅を出たところで、パラパラポツポツとしずくが袖を捲りあげた腕を叩きはじめました。 駆け足で向かいます。 折り畳み傘はいつも携帯していますが、一度広げると後が億劫になるのであまり積極的に差そうとはしないのです。
田丸さんもわたしの顔を見て「どうしたんですか?」と、パッチリしたきれいな眼をさらに見開いて驚き、パチパチと瞬いていました。
仕事が落ち着いていて、だからいつもより早く来てみたのです、と答えると、いつも最後の八時前に来るのに、と腕時計を捲って確かめていました。
まだ七時前。 髪のカラーリング、赤っぽくしたんですね、と気付いたことをいうと、「ラテン系を入れてみようかな、と」はにかんだ笑顔が、パッと咲きこぼれます。
「コンテストとかが近い、とか?」 「そういうわけじゃないんですけど、髪型を変える前に色を変えとこうかと思って」
田丸さんは社交ダンスを習っているのです。 ラテンと聞くと、あまりダンスに詳しくはないのですが、チャチャチャとかルンバとかも含まれるのでしょうか。
「出会いはありましたか?」
薮から棒の質問に、わたしは何と答えるべきか戸惑うばかり。 藪をつついて蛇を出すのか、はたまた鬼なのか、出てきたのは何のへんてつもない「あったらいいですね」と、後にも先にも続かない言葉。 もう少し気の利いたことを言えないのでしょうか。 えてしてそんなものです。
そして田丸さんが隣室のイ氏にわたしの訪れを告げに部屋を出ていったところで、冒頭の驚いた声、に続くのです。
驚き過ぎです、と言うと、だっていつもよりえらく早い時間なんだもの、と口をポカンと開けて迎えられてしまいました。 早い時間といっても、それは他に待っている方々がいてわたしが最後になる時間ではない、というだけのことです。
ですから、いつものように後を気にせずにゆっくりお話をするわけにはゆきません。 話題は放射線量測定に関して、触れたりする外部被爆よりも食事や呼吸等からの内部被爆の方が重大といったお話などをしました。
年間被爆量と生涯被爆量と、計算根拠の算定量は違うのでしょうか。 生涯を年で割り出したわけではないと思うのですが、人は成長してゆきます。ずっと幼児の身体の大きさではないのです。幼児と大人は許容量がもちろん違いますよね。
そんなことを考えると、その根拠を理解して皆さんは訴えをあげているのか、と悩ましく思ってしまいます。もちろん、眼に見えない蓄積が将来のいつ表面化してくるのかわからないのですから、心配な気持ちにはなります。
もし、わたしに幼子がいたとしたら、やはり心配するのでしょうか。
「見えなかったり、逆に見せられたり、我が身に降りかかっていると実感することがない限り、なんだか全部、作りごとのような感覚になっちゃうんですよね」
イ氏は笑ってました。
諸々の不安を、どうか笑って乗り越えてゆけますように。
朧月夜。 淡く滲んだ月明かりが、ぽっかりと空に浮かんでいます。 それでもきりりとした輪郭に、満ちてしまう寸前のはかない美しさをたたえ、闇の街にやさしい光が降り注いでいるようです。
明け方にまた皆既月蝕によって姿が掻き消されてしまうと知り、今の姿のはかなさ、あやうさが、より一層、感傷を掻き立てられます。
関東以北ではその前に地平に沈んでしまうらしいとのことです。
はかなくはないですか? さびしくはないですか?
問い掛けることすら、出来ません。
今日は、月に一度の「ノー残業デー」でした。 そんなことを言われても、いつもはその通りにゆかないものでしたが、どうしたことか最近は随分と仕事が落ち着いているのです。
定時ちょっと過ぎに会社を出させてもらい、少し迷ったのですが、有楽町で地下鉄に乗り換えて神保町に向かうことにしました。
喫茶「さぼうる」で、贅沢なまどろみのひとときを。
と言ってもそれは「時間が贅沢」という意味で、さぼうるはとてもご親切なお値段で珈琲のみならずお酒も頂くことができるのです。わたしは完全に珈琲派ですが。
さぼうるは近所に大手出版社さんのビルが集まっているので、業界関係の打ち合わせなどを見かけたりするのです。
お隣のテーブルでは、女性ふたりが「久しぶりー」と再会を喜んでいる姿が。
「ご飯食べた? ここのナポリタン、本当に美味しいから」
と注文したのを聞き、やがて運ばれてきた真っ赤なナポリタンに、はじめは鼻をそしてすぐに目を奪われてしまいました。
食事はお隣の「さぼうる2」でとお店側は分けてあるのですが、こちらでも軽食は頼めるのです。
喫茶店といえば「スパゲティ・ナポリタン」ですよね。
フォークでくるくる巻いて、チュチュ、チュー……ルンッ、と口の回りや洋服の胸元にソースを跳ねさせてしまったり。 そういう染みに限って、後家で服を脱いだときに気が付くものだったりします。 とても魅惑的に見えて、手元の文庫本とそちらのナポリタンとを、わたしの意識はチラチラといったりきたりしてしまいました。
すると片方の女性の携帯が鳴りました。仕事の電話でCMか何かの撮影の手配やアポイントなどをちゃきちゃきとその場でしていました。 働いているときの顔と、友人の前での顔と。 彼女はそこに垣根を設けることがない性質のようでした。
そんな光景が、薄明かるい店内でぼんやりと滲んでゆきます。
「なんか、居心地いいんだよねえ」
隣の女性が「さぼうる」のことをを感慨深く友人にいってました。 本を読むには少し暗いかもしれません。ですが、ほんの少しの暗さが、ひとを居心地よくさせる大事なことなのです。
薄暗い店内から薄闇の朧月の下へ。
どちらもあたたかくやさしい闇でした。
布団の上に両足を投げ出して、肌掛け一枚を身体に絡ませて。 だけどやがて、夜気が二の腕や大腿の辺りからさわさわと肌に染み込んできて、首から下の全身を、すっぽりとその頼りない肌掛けにくるまって眠る夜。
あともう幾日かで、満月です。
分厚い雲で見えなくとも、その向こうで月はちゃんと満ちていっているのです。
不忍池も、虫の音で涼しさをとりなしてくれています。
吉田修一著「静かな爆弾」
昨日までの「愛しの座敷わらし」に続いて、この「静かな爆弾」もまた好い作品でした。
なんて幸運なのでしょう。
映画「悪人」が、世間で知らぬものがないほどに話題となりました。 その原作者がこの吉田修一さんです。
テレビ局に勤める俊平は、外苑の公園で聴覚障害で音のない世界で暮らす響子と出会います。
ふたりの間でもっぱら交わされる会話は、ペンとメモ帳による筆談です。 そう簡単に手話で伝えあったりは、出来たりしません。
そうしてふたりの言葉がメモ帳やお店の紙ナプキンに書き重ねられて、時間は静かに流れて行きます。
これは「音があることが普通」な世界にいる俊平と、「音がないことが普通」な世界にいる響子との間にあるからこそ、「静か」に流れてゆくのです。
花見で殴り合いの喧嘩が背後で始まっても気付くことができません。 危険を知らせようにも、声だけでは気付かせることも出来ないのです。
はらはらと舞う桜の花びらを見上げたまま微笑んでいた響子を見て、俊平は怖さのようなものを感じてしまったりします。
ふたりはそれでも、言葉を文字を伝えてゆくのです。 とても穏やかで静かな物語のように。
この作品を読むと、言葉というもののあり方を、いやでも考えさせられます。
筆談となると、ダラダラと長文渡し合うわけにはゆきません。 短文で、いや、単語で伝えたいことを交わしてゆくこともあります。
単語は、ときに直接的過ぎたり、足りなさ過ぎたりして、傷付けてしまったり伝わらなかったりします。
最近、わたしは言葉に詰まってしまうことが頻繁にあります。 頭に浮かんだものを言葉や文字にした瞬間、それがまるで嘘のことのように思えてしまうのです。
これは違う、これも違うと繰り返すうちに、それ自体が嘘になってしまい、その内自分の何を信じたらよいのかを見失ってしまうのです。
例えるなら、「の」をひたすら書き並べてみてください。 確かに「の」のはずなのに、それが「の」だと信じられなくなるような感じです。
同じように、相手のことをわかっているつもりでも、自分は本当にわかっているのかという不安を感じたことはありませんか。
そういった「わかっている」つもりのもののあやふやさと愛おしさを、この「静かな爆弾」は気付かせてくれます。
実をいうと、わたしは著者の吉田修一さんを知ったのは、「つむじ風食堂の夜」などの吉田篤弘さんと間違えていたのがきっかけでした。
吉田の名字だけをみて、買った後に別人だと気付いたのです。 わたしの「つもり」の間違いがなかったら、著作「パーク・ライフ」に続いてこの作品を手にする機会もなかったかもしれません。
次は話題になった「悪人」を選ぶかもしれません。 その前に机に横積みになっている方を、先に読んでゆかないといけません。
言葉遣いを変えてみると、それこそ違うわたしが書いているようで不思議な感じがします。 慣れないので、わたしが次に何を言おうとしているのか、自分のことなのに予想がつきませんでした。
どうやらここまでのようです。 「静かな爆弾」に限らず、吉田修一作品はサラリと読みやすく、それでいてなかなか感じさせられてしまいました。 わたしはまだ読んでいないのですが、著者の作品を「悪人」からでも是非読んでみてください。
それではまた。
2011年06月13日(月) |
「愛しの座敷わらし」 |
荻原浩著「愛しの座敷わらし」
と、と、と。 ふわぁ。
振り向いても姿は見えない。 だけど、たしかにそこに、いる。
ような気がする。
急な転勤で東京から田園と山が広がる地方へと引っ越すことになった一家。
痴呆が始まってきたんじゃないかと心配な祖母と、どうやら学校でいじめにあっていたらしい中学生の娘と、ぜんそくでゼエゼエしていたのがまだ最近に思える小学生の息子。
晃一が会社が用意してくれたマンションを勝手に「男のロマン」といって断り決めてきたのは、はるか昔からある古民家だった。
「広いリビング」「家族の顔が見えるダイニングキッチン」が憧れの史子は、確かに広すぎるほどの居間(囲炉裏つき)に、そこに襖でひと続きの、車庫にも使えるような土間に、まあずっと暮らすわけじゃないし、と渋々ながらまんざらでもなし。
ところが。
娘がある晩、ふと手にした手鏡の中に、ちんちくりん頭に結った紺絣の着物姿の子どもが、映った。
と、と、と、と。
遠慮がちに、襖の向こうで足音が聞こえてくる。
ふわぁ。
けん玉やシャボン玉をみて、ぱちくりくりくりっと目を見開いて見つめる子ども。
そりゃあ「座敷ぼっこ(わらし)」だべさ。 あんれ、あんだだちさ「ぼっこ」が見えんのけ。
ご近所のお婆ちゃんが、ほっほっほっと説明してくれる。
ささやかかもしれないが、それでもそれぞれが抱えている悩みや痛み。
隙間や温度差だらけだった家族が、「座敷わらし」がいる家に住むことになっていったいどうなるのか。
荻原浩は、やはり凄い。
「もしも」だが、重松さんが「座敷わらし」を用いた物語を描いたら、きっと胸をえぐるような、全身の酸素を吐き尽くすような深い感動を味わわせてくれるだろう。
しかし荻原浩は、ぜんたいが茶目っ気に溢れている。 ツイ、ツイ、ツツー、と読み進ませながら、キュッ、と締めてくる。
座敷わらしが、本当に、愛らしく描かれている。
しかし。
作中にも書かれ、またご存知の方もいると思うが、「座敷わらし」とは昔の農家で、産まれて間もなく間引かれた子どもの別の姿である、と言われている。
生活に厳しかった農村では、生まれたとて食いぶちが足りない。 家族が生き残るためには、仕方がなかった。
何も知らないまま、言葉も覚えないまま、だから全てに純粋な好奇心を持った姿として、荻原浩は描いている。
「座敷わらしが住む家は幸福を得る」というのは、この「何も得ることが出来なかった」からこそ、得られなかったものを無意識に集め、結果、その家は幸福を得られるとも言われている。
わたしも遠野(岩手県遠野市)で「語り部」の方や民俗研究会の方などからそのようなお話を聞いたことがある。
座敷わらしは「妖怪」という印象が多いが、これを聞くとそうとは言いづらくなる。 「福の神」というのも、またはばかられてしまう。
怖いものではない。 何も知らない無垢な存在、に近い。
だから好奇心が強く、警戒心も強い。 人見知りで、寂しがりやで。 そして欲得やら、よこしまな感情を好まない。
だから子どもにしかその姿が見えない、と言われることもある。 それでもたまに、大人にも見えるときがある。
作中で、晃一と史子、娘と息子そして祖母が、ファミリーレストランに行く。 五人を見渡して店員が、
「六名様ですね」
と声を掛ける。
わたしはいつも、
「一名様ですね」
としか、声を掛けられたことがない。 いやむしろ、何も言わずとも注文の確認をされたりする。
先日「さぼうる」のマスターに入口で、サッと定番の席に案内するよう店員さんに告げられたときはむず痒かった。
久しぶりにまた行きはじめて、まだひと月、三度目くらいだったというのに。
座敷わらしでなく「お二人様ですね」と、さぼうるに迎えられる日はいつ。
あそこで打ち合わせしたりするようにもなりたい。
「愛しの座敷わらし」
ぜひ、読んでみてもらいたい。
有川浩著「図書館危機」
「こ……れしきのことで騒ぐなバカどもが」
昏睡状態から復活した最初のひと言は、わたしも是非、こう呟きたい。
有川浩の「図書館」シリーズ第三弾である。
ハンカチと、殴りつけても投げつけても大丈夫な何かをお手元に用意して、読んでもらいたい。
徹底して掲げられているテーマである「表現の自由」
大衆の「無関心」が生んだ理不尽な現実。
「守る」ということは「戦う」ことであり、それは「傷付け」「傷付けられ」るということ。
「正義」を語るなら、泥をかぶる「覚悟」がなければならない。
差別や不平等をなくすことを掲げ、様々なメディアに対して理不尽なまでの「規制・検閲」を行う国家行政組織「メディア良化委員会」に対し、図書館における「図書の自由」を守るため組織された地方行政組織「図書隊」
図書隊初の女性図書特殊部隊に抜擢された笠原郁は、実家の近くにある図書館で催される美術館との共同企画展の警備任務に赴く。
メディア良化委員の「検閲」との戦いは、銃火器をもってまさに命懸けの戦いとなっていた。
企画展の目玉は最優秀賞を受賞した「自由」という作品。
メディア良化委員の理不尽な検閲・規制に対する「抵抗」をモチーフにしたものだった。 企画展の主催者側も、苦渋の決断による選考だった。
この作品をやつらは許すわけがない。 必死で「検閲」による「回収」をしにくる。
大規模な戦闘がもはや確定的となったその図書館は、肝心の図書隊組織自体が組織内部自らによって弱体化がなされていた。
「無抵抗主義」を掲げる市民団体と図書館館長によって、武器の持ち込み、武力抵抗はもちろん訓練すらもろくにできない図書隊。
図書隊内部にも、「防衛部」に対して、通常業務を受け持つ「業務部」側の隊員たちによる冷遇差別される体制が出来上がっていた。。
「話ができるまともな相手ならともかく、問答無用で銃撃してくる輩相手に、丸腰でいったい何を守れと?」
防衛支援にやってきた関東図書隊玄田隊長は、呆れ半分、怒り半分で図書館館長をねじ伏せる。
未曾有の戦いを前にして、よもや組織内部にそんな問題がくすぶっていようとは。
図書隊の忘れてはならない出来事「日野の悪夢」が再現されてしまうのか。
「図書の自由を守る」図書隊の象徴が、ついに……。
今回は「放送禁止用語」等に対して取り上げられている話がある。
全国区の人気を誇るタレントのフォトブックで、「床屋」だった祖父を語る部分で「床屋」という表現を「理髪店」「理容院」と直すべきだ、と出版社側の配慮で直したのである。
「祖父は「床屋」だ。誇りを持って、昔からずっと「床屋」だった。「理容院」でも「理髪店」でもなく、「床屋」の祖父を、なぜ言い換えなきゃならないんだ!」
「床屋」という表現のままだと間違いなくメディア良化委員会に「回収」されてしまい、対策や損失を見込んだ結果、一冊が一万を超える高額にならざるをえない。
それでは待ち望む全国のファンの手には届かなくなってしまう。
「床屋」は、ダメだと誰が決めた?
「保母さん」という言葉が「保育士」に置き換えられているこの現実社会にも、思い当たるところがあるだろう。
そして、作中ではこれらの表現の規制はメディア良化委員会によるもののようになっているが、わたしたちの現実社会では、暗黙の了解による「自主規制」によってなされていることが、あとがきで語られている。
疑わしきは黒。反発がありそうならば、使用は避けるべき。
実際のテレビ番組を観ていても、それは感じるだろう。
深夜の時間で流されていた言葉が、七時台だとふせられている。 局などによって違っていたり、また曖昧だったりもする。
なにせ従うべきは「自主規制」という手前みそなのである。
そして、これもあとがきにて告白されているが。
「図書館」シリーズは、フジテレビの深夜アニメ枠「ノイタミナ」にてアニメ化、放映されている。
前巻「図書館内乱」内の聴覚障害を患っている鞠江と小牧のエピソードが、放映には相応しくない、と構成からカットされているのである。
鞠江とのエピソードは、出版社を越えて同じ著者の作品を登場させるなどの、なかなか意味のあるエピソードでもあった。
それでも、である。
DVDには収録されているらしいので、果たして本当にそれに値するのか観てみるのもよいかもしれない。
とかく「不特定多数」が目にする機会があれば、こちらからやり過ぎるほどの配慮をせねばならない場面がある。
ネットで検索してみると、「そんなバカな」と思う「置き換え言葉」が山ほどみつかる。
それをみると、ニュースキャスターの言葉選びに不自然さを覚えていたものが、不承不承ながら頷けてしまうのである。
そんなモヤモヤとは別として、郁と上官の堂上とのヤキモキする恋愛模様も、忘れてはならない。
玄田隊長と「還暦迎えてひとりだったら、俺が迎えにいってやる」と若かりしころ約束を交わしたかつての恋人、今は立場は違えど「表現の自由」を守るため戦い続けている戦友との、惚れ惚れしてしまう繋がり。
守る力のない正義は、他人を巻き込むだけのただの迷惑。 守りたければ、守れるだけの力を養え。
小川糸著「蝶々喃々」
「男女が仲睦まじく小声で語らう様」といった意味の言葉、らしい。
この作品を読めば、きっともう、虜になってしまう。
谷中にアンティーク着物の店「ひめまつ屋」をやっている栞は、お茶会に初めて参加するための着物を探しにきた春一郎と出会ってしまう。
春一郎は妻子を持つ身とわかっていながら、ふたりは逢瀬を重ねて行く。 谷中、根津、湯島、日暮里、浅草、千束(旧吉原)などの街の祭事、名所、実在の店などを舞台に、蝶々喃々を重ねてゆく。
読んでいて、ひどく心地よい。
あたたかく、やさしく、まるで添い寝されて子守唄を唄いながら背中をとんとんされているような感じである。
舞台となっている街は、我が街・谷中。 そして登場する店やお寺や場所は、大体が「ああ、あすこか」とすぐにわかるご近所ばかり。
さらに栞がひとり暮らす「ひめまつ屋」は、場所はあすこでモデルの店は何樫か、と想像がついたりする。
だから読んでいると、栞がうちの前を歩いているような気持ちになってくる。
そしてさらに、登場人物もでしゃばらない程度にお節介で、ざっくばらんにあったかい。
粋なご隠居のイッセイさん、ほわりとやさしい老婦人のまどかさん、カツカツ靴を鳴らしてかしましいイメルダ夫人。
谷中は東京の下町として有名だが、そこでまさに皆が理想に描くだろう暮らしを栞は送っている。
古い木造の長屋に、着物の生活。 それは、アンティーク着物の店をやっているのだからユニフォームだというのかもしれない。
谷中銀座や赤札堂で夕飯の材料を揃えたり、根津神社前のあの店の焼きかりん糖をかじったり。
軒先の水鉢に金魚、小町と名付けた野良猫に、季節毎の祭事行事で毎日が潤い、ふとした隙がないように思える。
しかしそんな日常に、そよりと心に吹き込んだ春風のような春一郎との出会い。
あたたかい日常なのに、読んでいると常に胸に何かが引っ掛かってしまう。切なくなる。
だめだ、と手をひき、引っ張りあげたい気持ちにさせられる。
小川糸とは、こんなに素晴らしい作家だったかと、思わされる。
「食堂かたつむり」で一躍脚光を浴びたのは確かだが、格段に違うように感じる。
谷中を含めたこの界隈は、寛永寺からの大小の寺が百あまり集まっている寺町である。
歴史を紐解けば、寛永寺や根津神社にお詣りしたひとらを相手にした色街であった時期もある。
谷中霊園に跡がある「五重塔」は、叶わぬ恋の男女が心中の際に放った火で焼失した。
のどかで雑多で賑わう街の路地には、影のような世界がひっそりとある。
谷中は、こういった影すらも似合ってしまう。懐が深い、というのだろうか。
わたしが療養のために会社を辞めていた時期、行きつけだった食堂のおやじさんたちに言われたものである。
「無職だってんならツバメ、いやまあヒモだよ。兄さんなら簡単さ、なあ」 「そうすりゃ、小遣いもらって小説書けて、お互い色々補えるって」 「うちの飲み屋で引っ掻けるなら、場所教えてやろっか」 「いやいやいや、自分、酒はダメですから、それに」 「酒なんて飲ませるだけで、自分は飲まなくていいんだから」 「それに、飲んで役に立たなくなったら台無しだよ」 「がっはっはっ」
あっけらかんと、するすると話を進めて行く。
もちろん、その場限りの話で済んでいるので誤解ないようお願いしたい。
もとい。作中の粋なご隠居イッセイさんが、栞を諭す場面がある。
不倫は、それだけで麻薬みたいなもんだ。 やらないにこしたことはない。
一方で、
間違った出会いも、ある。 本当にこの相手でよかったのかと決めたあとで、やっぱりこっちの人が正解だった、て相手と出会ってしまうこともある。
と、やわらかく言い含める。
イッセイさんは、酸いも甘いもひととおりの痛みや喜びを味わってきたからこそ、栞に言えることがある。
また、自分にとって何が正しい気持ちか、それは他人や道徳や理屈ではどうにもならないことも、わかっている。
全体、この「叶わぬ恋」いや「許されぬ恋」を描いているのに、この世界に引き寄せられてしまう。
読み終わると、だからとても穏やかな満足感なのに、しくしくと胸の裏のほうがするのである。
それこそ麻薬のように、尾をひく幸福感を味わわせる小川糸という作家は、稀にみる存在になってゆくかもしれない。
2011年06月01日(水) |
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「なぁんか、やる気がまったくでんなぁ」
古墳氏が、ぼやく。 今日は早く帰ろう、という気の抜け具合である。
「それじゃあ、わたしは早くあがりますから」
ん? 何かあんのん? と尋ねてくる。
今日は「一日」です。 だから? サービスデーです。 なんの? 映画です。
そう。
定時過ぎにチャカチャカとあがり、劇場に行こう。
と、決心したのである。 観てみたい作品は、二つに絞ってあった。 ひとつは前評判も実際の評判も、社会的に大絶賛の作品である。
本音ではそちらに行きたかった。
しかし天の邪鬼が騒ぎだし、「カッコつけ」てみて、こちらを選んでしまったのである。
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を丸の内TOEIにて。
松山ケンイチ、妻夫木聡、忽那汐里出演、山下敦弘監督作品。
予告編だったかで見かけた時は、ノスタルジックかつ情熱的で、期待できる作品だと思ったのである。
主演の二人ともが、実力派として申し分ない。 山下監督は、わたしは観ていないが「青春コケッコー」で評価が良かった記憶がある。
元朝日新聞社記者・川本三郎のノンフィクションを映画化したものである。
東大安田講堂事件の直後、新聞記者の沢田は革命家を目指す梅山と出会う。
先輩記者は梅山を「ニセもの」だと見抜くが、沢田は梅山を信じ、取材を続ける。
「ニセもの」が「本物」になるところを。
梅山は沢田に、そう打ち明ける。
「なぜ彼を信じてしまったのだろう?」
本人にもわからない。
ただ。 夢(未来)と現実を理想と社会に置き換えて、自分が何をやりたいのかわからないやるせなさをぶつけるしかなかった。
作中に、
「ちゃんと泣ける男が好き」
という台詞が出てくる。
「男は泣いたりなんかするもんじゃない」
と笑う。
しかし「ちゃんと泣ける男」とはつまり、核心から目を背けず、理屈で弁護するでもなく、自分をむき出しにできる男のことである。
沢田演じる妻夫木聡が、ラストにボロ泣きする。
しかしそれが、わたしには「涙そうそう」の「にいにい」に見えてしまい、長澤まさみちゃんはどこにおるがや? と思ってしまった。
うむ。 あらためて正直な感想を言うと。
ナタリー・ポートマンの狂気の方を、やはり選べばよかった。
学生運動だ右だ左だ赤軍だ浅間山荘だ、というのが主なテーマではないことはわかっている。
社会派の青春作品らしいことも。
残念過ぎる。
この当時の、その時代の、その世代の、独特な「熱さ」が、感じられない。
それこそが「ニセもの」の表現なのだ、と言われたならば、わたしは「ふうん。あ、そう」と流しておしまいにしてしまおう。
立松和平原作を劇中劇の形で映画化した「光の雨」という作品があり、萩原聖人、裕木奈江、山本太郎らが出ている。
こちらこそ、テーマが違うので比べるのは適してないかもしれないが、「生々しい熱さ」が、ある。そして「残酷さ」も。
「マイ・バック・ページ」
松山ケンイチ、妻夫木聡の二人のファンであるならば、観てみてもよいかもしれない。
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