2011年02月28日(月) |
「好かれようとしない」 |
朝倉かすみ著「好かれようとしない」
恋に奥手だが、男のひととそうなったことがないわけではない。
だけど、すぐに赤面してしまって、あだ名は「ユゲちゃん」だった風吹。 そんな彼女が、鍵屋に恋をした。
たぶん。
恋などとだいそれたことを、自分がしてしまった、などと、おそれおおい。
その声は、まぶたで聞いていたい。
しまった。 のどぼとけを見るのを忘れてしまった。
アパートの大家である老婦人は若々しく。
恥ずかしさを克服すべく通うことにしたベリーダンス教室に、共に通うことになった。
そこの女講師はまた、色っぽく。 きゅきゅっと引き上げた口角と艶めかしく小刻みにふるわす肢体を存分にふるう。
「好かれようとしないことよ」
あわあわあぎゃぁー、と迷走しかける風吹に、大家が人差し指を、ちっちっ、と揺らして教訓めかす。
鍵屋は大家の「イチバン若いボーイフレンド」で、また、ダンス講師のモノ、らしくもあり。
「あれこれ思うのは、ひとのこころ。 ふっと思うのは、神のこころ」
あれこれ思ってても、はじまりは、ふっと、だった。
鍵を、開けられてしまった。
スーツケースが、開かないんです。 暗証番号もあるのに? 玄関の補助錠も、役に立たないんです。 この間つけたばっかりなのに?
お仕事です。 来て下さい。
朝倉かすみが、面白い。
読んでいて、
言い回しや、 飛躍の仕方や、 後戻りや、 踏み締め方や、 うろたえ方や、
いさぎよさや、 往生際の悪さが、
あたたかいものとして、伝わってくる。
あたたかいもの、なんてほんわりしたものではない。
アツく、いや、やけどするようなアツさではなく、汗ばんでいるような、強い息遣いのようなもの、である。
しかしアツくるしいのではない。
絶妙な、アツさ加減で、ヌルいままなのかと肩透かしを食らわされているかと思っていたら、いつの間にか、ぐぐっとこころの真ん中が力んでいたりさせられている。
著者の「肝、焼ける」と似た舞台の作品といえる。
しかし、できればもう少し、「焼ける」ほどのアツさが、わたしは欲しいのである。
「トロッコ」
をギンレイにて。 芥川龍之介の同名短編小説をもとに映画化した作品。
急死した台湾人のお父さんの遺灰を届けに、アツシはお母さんと弟のトキと、おじいちゃんの住む台湾へとゆく。
色褪せた小さな写真を大事に持って。
そこにはトロッコを押し、振り返った少年が写っている。
その少年はお父さんだと思っていたら、おじいちゃんだった。
「このトロッコの先にゆけば、日本にゆけると思っていた」
アツシとトキは、そのトロッコを見つけ、冒険に、日本へ帰ろう、と手を掛け、押し出す。
トロッコの先に、アツシとトキは、何を思うのだろうか。
えらく親日らしく台湾の人々が描かれている。
わたしの日本名は、サトウナニナニ、です。
そこに、歴史が横たわっている。
台湾は中国の文化大革命によって本土から逃れてきた人々が多くいる。
そんな敵の敵は味方、といった見方があるのかもしれない。
しかし。
いやあ。 弟は、なんて楽な位置なのだろう。
疲れたぁ。 もう歩けないぃ。 帰りたいぃ。 えぇーん、えぇーん。
おかーさーんっ。
抱きつくのも一番。 叱られず、慰めてもらえる。
一転、兄は。
泣けない。 放り出せない。 抱きつく前に、叱られる。
我が姉よ。 三十年をさかのぼって。 その頃はたいへん、 すみませんでした。
しかし今も似たようなもので、ぎゃあぎゃあ騒ぐだけの弟なわたしである。
「おかあさん。 ぼくは、大事じゃないの?」
不安で不安で、 怖くて怖くて。
お兄ちゃんとしてではなく。 ひとりの「ぼく」として、おそるおそる尋ねる。
おじいちゃんは、
「息子が死んだ。 こんな、かわいい孫たちを、 あなたは連れて、会いにきてくれた。 それで、十分しあわせだ」
日本に帰りなさい。
きれいな世界に、たかが人間ひとりの心の影が落ちようとも濁ったりはしない。
そんな世界観だろうか。
さて。
夕方からはじまる一日は短い。
短いがそれなりに、寄り道くらいはするのである。
以前、「ブツン」と切れたストラップの小槌のお守りを、神田明神に納めにいったのである。
もちろん、代わりをいただきに、でもある。
行きがけだったので、まだまだ陽は明るい。 寄り道の寄り道で、湯島天神をちょいと抜けさせてもらったのだが、今はちょうど「梅祭り」の最中である。
ぽつぽつとした白梅の花々が、油断をすると空に溶け込んでいってしまう。
空がまだ、多少赤みを滲ませてきたとはいえ白いうちに、神田明神へ急がねば。
巫女さんが引っ込んでしまう。
スタコラと坂を下ってまた上がって、悠々と札所で物色できるくらいにたどり着く。
なんと同じものが、ない。
これは困った。
同じ小槌でも、貝の鈴がくっついてるのである。
それは、申し訳ないが、かさばって邪魔になってしまう。
仕方なく違うものを選んだのだが、真剣な顔で腕組みあごをさすり、じっとねめつけている男の姿は、不気味に映っていたに違いない。
その挙げ句が、ちょろんとひとつだけ、である。
なんとも、ちっさい。
それでも、いっちょ前に手を合わせてぶつぶつつぶやくことは、遠慮なし、である。
小槌でコツンと叩かれそうである。 幸いにも、目を開け一礼したあとでも、頭にたんこぶも、痛みもなかった。
どうやらそれに至らぬほど呆れられてしまったのかもしれないが、呆れたということは聞こえたということである。
わたしの、わけがわからぬ前向きさは、健在、のようである。
2011年02月26日(土) |
「冬の小鳥」と休みにテン |
「冬の小鳥」
をギンレイにて。
パパとよそ行きのお洋服を着ておでかけした先は、カトリックの養護施設だった。
パパはもう、迎えにはこないんだよ。
1970-80年の韓国。
ジニは、年上のソッキと少しずつ心を許しあい仲良くなってゆく。
夜中、ソッキがこっそり血のついた下着を洗っていたのをみてしまった。
「ケガしたならお医者さんにいかなきゃ」 「ケガじゃないの。だけど誰にもいっちゃだめ」 「どうして?」 「生理がきてる子なんて、誰も養子にしてくれないからよ」
ソッキはアメリカで暮らしたい、と願っていた。 頑なに、「パパが迎えにくるからどこにもいかない」といっていたジニに、
「わたしと一緒なら、アメリカにいくよね」
約束をする。
養護施設に養子をもらいにくる、といえば、様々なよろしくない想像ばかりをしてしまう。
そんなことはない。
ソッキは希望通り、アメリカ人夫婦にもらわれてゆく。
「わたしが頼んでみれば大丈夫だから」
約束を果たせず、ソッキはジニに旅立ちの前に心から謝る。
ごめんね。 本当に、ごめんね。
ソッキは、口をきいてくれないままのジニを名残惜しそうに、施設から旅立ってゆく。
そしてジニもやがて……。
ジニ役のキム・セロンが、とにかくかわいい。 チェ・ジウの、松嶋菜々子の、そのまま少女にしたかのようである。
まことに勝手な偏見だが、わたしはキリスト教なるものの思想やらを押し出されると、上唇が歪んでしまう。 ややもすると、片眉がピクピク落ち着かなくなったりもするのである。
文化や芸術、建築など、彼らなくしてのものはなかったかもしれないことはわかる。
だから否定はしない。
そして。
それに限ったわけではないが、信仰あるひとびとのほうが、えてして他人に対してやさしい、ということが多いのを感じたりもしているのである。
手前勝手なわたしは、困ったときはひとにすがり、それに応えてもらえるよう、神に頼むのである。
この神とは、誰だか知らない。 わからない。 知りたくなければ、わからなくてもよい。
まったく、偏屈な男である。
さて。
昨夜、名友から連絡があったのである。
来月に帰省する話を知らせてもらい、これでまた来月、肉のあてをたしかにする。
そして、
「重松さんのお薦め作品って、何がある?」
これはまた困った質問をされたのである。
まず、ずっとわたしのなかで、今ある作品が、あったのである。
しかし。
わけあってそれは、ぐっと飲み込んだのである。
飲み込んだ勢いで、次に「げっぷ」と出てきたのがあったのである。
「その日の前に」かな。
「おおうっ。そうじゃないかと思ったんだよ」
なんとも嬉しい返事である。 さすが名友、いや真友。 いやさ、心の友。
ジャイアンがのび太に言うものでは、決して、ない。
腐るほどの月日が流れ、すっかり発酵している。
いい醸し具合である。
そんなことがあり、すっかり油断してしまったのである。
タモリ倶楽部の美尻舞う画面を最後に、次に気付いたのは、朝だったのである。
当然、舞姫抜きである。
およそ八時間、しっかり寝たはずであった。
が。
それが通用するならばわたしは鳴子を返上しよう。
おもむくまま。
録りたまっている名古屋はCBC放送の「スジナシ」(TBS深夜にて放映中)を、ゲストを選びつつ観てゆく。
吹石一恵、佐野四郎、船越英一郎、寺島しのぶの回である。
「スジナシ」とは、笑福亭鶴瓶とゲストが、事前の打合せなど一切なしに、すべてアドリブでドラマを演じる番組である。
ディレクターの「カット」の声がかかるまで、つまり、終わりが役者たちにもわからないのである。
目安は二十分前後の時間のみ。
演じる側がどう動くかわからない。 それでも、カメラワークがついてくる。
リハーサルを重ねてカメラ位置やカットやスイッチを決めて撮るのが通常のドラマである。
役者が一発本番ならば。 カメラも一発本番である。
それなのに。
まったくそれを感じさせない。
「CBCのカメラは、日本一のカメラ」
笑福亭鶴瓶がたびたび番組内で絶賛していたが、船越英一郎もまた、大絶賛であった。
「台詞に陰影のある演出をしたくて、隅のほうにいったら、すうっと照明が。 すごいですね。素晴らしいスタッフですよ。 思いつきで、何も知らせてないのにですよ?」
当たり前のように観ていたその技術に、あらためて感心させられる。
そうして昼までは記憶にあるが、次にあるのは、「所さんの目がテン」からであった。
「炭水化物抜きダイエット」
の検証。
ここでタイミングよく目が覚めた自分に、天晴れ、である。
女性に是非、伝えたい。
「炭水化物抜きダイエット」は、女性には効かない。 効くのは男性に対してのみであった。
ということである。
身体のつくりが違うのだ。 このダイエットで燃やす脂肪は内臓脂肪である。
女性は内臓脂肪になるより皮下脂肪になるよう、身体のつくりがなされているのである。
苦しい思いをしても、炭水化物抜きで減らせる内臓脂肪など限られている。 しかもそこに脂肪がつくのが先ではなく、皮下脂肪につくのが先なのである。
医師もキッパリ言っていたのであるから、確かである。
そうしてようやく。
残されたわたしの一日の時間に、ギンレイにいって、それでおしまいである。
まあ、そんなものである。
2011年02月24日(木) |
「ブランケット・キャッツ」の夢想 |
重松清著「ブランケット・キャット」
二泊三日だけの猫のレンタルペット。
「とても賢いコたちです。 ストレスがかからないよう、寝床の毛布だけは、うちの毛布を使ってください」
たしかに、猫たちは賢い。 まるで昔からいたかのように思わせ、振る舞う。 猫たちが借りられていったその先で、それぞれの物語が、それは猫のではなく、人々の風景が、少しずつ、あるいは大きく変わってゆく。
日常のなかにある種の異物が紛れ込むことで、それはきっと、否定的な存在としてではなく必然的なものとして、できごとや思いを浮かび上がらせてゆく。
七つのそれぞれの日常に、ぽつぽつと足跡を残してゆく。
そしてそれは、とどまることなく通り抜けてゆく。
あとがきで著者は、
この物語は、「桃太郎」や「かぐや姫」のような物語に。
と語っている。
おじいさんとおばあさんに、突然、桃太郎やかぐや姫という孫ほどの子どもができる。
彼らは「すくすく」と成長し、鬼退治や結婚の年頃となり、物語は進んでゆくのである。
親からすれば、その「すくすく」の間こそ、「すくすく」のひと言ではすまされないことを知っている。
しかし「すくすく」で表わせることが、また感慨深く感じたりもするのである。
「異物」という表現が相応しくないかもしれない。
「闖入者」が、それまでの変わらないだろう明日を、変えてくれる「きっかけ」を与える。
久しぶりの重松作品という感覚で、まるでパブロフの犬状態で胸の栓がゆるゆるだったのが、どうやら多少、かたくなってくれたようである。
はうぅっ。
と突然突っ伏してしまうようなことまではなくてすんだのである。
しかし、
うぐっ。
と息が詰まる。 それは間違いない。
それは読みながらの想像によってもたらされるものであり、想像さえしなければそうはならない。
いかに想像させるか。
である。
ああ。 あたたかい毛布にくるまり、そして気のおもむくまま眠るのはとても心地よいものである。
どかんとまとまった休みのときにしか、残念ながらそれをやる機会と、覚悟ができないのである。
次の土日は、それに臨むことができるかもしれない。 いや。 それをするには、リスクが高い。 いやいや。 やはりするべきだろうか。
葛藤である。
2011年02月20日(日) |
「洋菓子店コアンドル」 |
「洋菓子店コアンドル」
蒼井優、江口洋介、戸田恵子主演
鹿児島から、パティシエを目指して上京した恋人を追いかけ、働いているはずの「洋菓子店コアンドル」を訪ねてきたナツメ(蒼井優)。
しかし彼はそこに居なかった。 すぐに修行のやり方に不満を覚え、他店に移ってしまっていた。
彼を探しつつ、コアンドルで住み込みで働き始めるナツメだが、先輩の真理子とことあるごとに衝突を繰り返す。
根拠なく向こうっ気の強いナツメの言動が、イチイチ、技術も意識も誇りを持って努めている真理子の癇にさわるようなものばかりなのである。
そんななか。
シェフ(戸田恵子)が大仕事である、晩餐会の依頼を前にして事故に会い、店自体を閉めなければならなくなる。
バラバラになりかけるコアンドル。
ナツメは、かつて伝説のパティシエと呼ばれ、シェフとも古くからの付き合いである戸室(江口洋介)に、助けを求める。
しかし戸室は、幼い娘を事故で亡くしてから厨房に立つことがずっとできないまま、評論家や講師の仕事ばかりで八年間を過ごしていたのである。
コアンドルは、シェフを欠いたままで晩餐会を無事、やり遂げることができるのか。
素人のケーキレベルしか作れない「地元のケーキ屋の娘」にしかすぎないナツメは、パティシエとして成長してゆくことができるのだろうか。
物語のなかに、感動は、おそらくない。
ただパティシエ姿の蒼井優が、凛々しい。 鹿児島弁で強気な蒼井優が、愛らしい。
常連客の加賀まりこが、素晴らしい存在感を出している。 まるでメリル・ストリープのような、といってよいかもしれない。
さらに戸田恵子が、落ち着きと安心感のある存在で、物語を支えている。
そして。
ショーケースにキラキラと彩られた、さまざまな洋菓子たち。
端から端まで、ぜんぶ、ください!
と、叫びたくなる。
しかし、惜しい。
もう少し、物事の成り行きの背景が、きちんと伝えられればよい作品だと素直に思えたのに。
しかし。
蒼井優、恐るべし。
一途で、不器用で、頑なで。 そして強くて、弱くて。
彼女は、目でそれを表現している。
そんな女優が、日本で今、いったいどれだけいるだろうか。
先日、ブルーリボン賞、日本アカデミー賞が発表された。
松たか子、深津絵里らは、好きである。 それはつまり、見た目だけではなく、女優としてでもである。
作品賞を受賞した「告白」や「悪人」が、テレビ局とタイアップとかではなく、純粋な「映画作品」として賞を勝ち取ったことが、さらに嬉しい。
単館・ミニシアターが閉館の憂き目をみたりしている昨今に、邦画が踏ん張り、立ち上がる力を、わたしは信じていたい。
いや。
信じている。
2011年02月18日(金) |
大森とめがねのみなみ |
昨夜、久しぶりの大森である。
久しぶり過ぎて、といっても三週間ぶりという中途半端な間があいただけなのだが、それでも、その三週間の密度がひと月以上に濃く、重たく、まとわりついていたようなのだから、やはり久しぶり過ぎて、という感覚は間違いではないのである。
田丸さんがいつもより身近に感じる。
これは、近くないからこそ近く感じるもので、そのあたりから、内心そわそわしはじめたのである。
そっと、田丸さんがわたしの手を取り、みつめる。
部屋で、秒針だけが動いている。
わたしはなされるがまま、力を抜く。 そして息を吐いて、目を閉じる。
こくん、と唾液を飲み込むと、
「いつもと変わらず、ほとんど同じなんですね」
手を離し、くしゃりと笑う。
脈拍は、揺るがず、高まらず、淡々と脈打っていたらしい。
体は平常、しかし内心は浮き足立っている。
「何か読んだ?」
イ氏の問いに、「七つのなんたら」と「折れないなんたら」と、これは課題図書で飛ばし読みで、それで内容は十分で。
「対照的な「もしドラ」を読んでしまいました」
へえっ、ずっとベストセラーにランキングれてるよねぇ、と少し興味深いイ氏に、わたしは釘をさしてみた。
「映画化、されるんですよ」
へえっ。 AKBの前田敦子さん主演で。 ほうほう。
作者は、AKBのたちあげに、ちょいと関わってたひとらしいんですよ。 ドラッカーのマネジメントをわかりやすく小説に取り込んだ、てことだけで既にヒットさせてたそのあとに。 AKB主演で映画化、ですもの。 ファンだけでなく、ちょいと興味がある普通のひとたちでも、それが女の子の表紙の本でも買いやすいですもの。
わたしは、物語の人物のモデルになったAKBのメンバーがいるらしいことや。 わたしの膝元に放り込まれた白球の存在や。
それらのことはおくびにもださず、ソラニンを排出してみたのである。
テトロドキシンになりきらない。
やはりどこかカラカラと空しく歯車の回る音がする。
揺り返し
のようであることに、はたと気付いたのである。 そうに違いない。
アクセル踏み込んで、クラッチをスコンと切ったようなものである。
といってこの表現自体が現代のエコカー社会に、はたしてわかってもらえるかどうかあやしいものである。
しかし。
とにかく、エベレストは越えた。 あとは、ギアナ高地かわからないが、そこをえいこらと渡ってゆくだけである。
健康診断の結果をイ氏に知らせると、
あらあ、それは高いねえ、とコレステロール値を下げる薬を処方してくれた。
毎度お世話になります。 肝機能とかは平気だった? 胆石の心配がありましたけど、違いました。大丈夫みたいです。 石はうちのせいじゃないからねぇ。気をつけなさいよ。
ええまあ、と胆汁を噛み締めてみる。 いや、それは噛み締められない。
さぞかし苦かろう、という意味の表現である。
空回っているわたしの顔をみたイ氏は、早々に話を切り上げる。
ああ、ありがたい。
やむなくではない、ぼおっとするひとときが、できる。
ようし、ぼおっと、エケビでもみるとするか。
そんなはずは、ないのである。
2011年02月15日(火) |
「トイレット」流してしまえ |
とりあえず、仮アップを迎えたのである。 仮というのは、まだまださらに、すべからく必要な修正や追加やらをしてゆかねばならないのである。
たとえ三日後以降のことだとしてもそれはさておき。
さすがに提出を済ませた直後は、とりあえず休みましょう、とのことで昼のお八つの頃に早上がりしたのである。
明日は代休。
早く帰って寝てしまうのはもったいない。
そうだ、映画に行こう。
行く先は我がギンレイホールである。
六時からの回に十分間に合う。 ならば、と水道橋のいつものカフェで珈琲を一杯。
そうしておいて、よかった。
気が抜けたのもあり、ひたすら、落ちまくる。
はじめは、珈琲にミルクをたらし、チョンっチョンと滴を切ったそのままで、ストン。
どれだけ最後の一滴まで注ごうとしてんねん。
律儀にカップ位置はキープ。 これは基本である。
おおっ、と三省堂で見かけて読んでいたぐいん外伝を、次のページに指をかくたまま、落ちる。
どれだけ丹念に読んでんねん。
あーやばい。やってもうたー。ねむー。
と天井を仰いだまま、ストン。
口半開きで、どれだけ絶望に暮れてんねん。 プラトーンか。 ショーシャンクの空か。 エイドリアンか。
そうして気付くと、ギンレイの上映時間に間に合わない。
断っておこう。
わたしはきちんと普段用に、いや普段プラスアルファでモテ男を足してあるのである。
境界線上の詐術師、ここに落ちる。
気を取り直して、代休をとった今日。
ギンレイ・リベンジである。
「トイレット」
もたいまさこ主演。 荻上直子監督作品。 「かもめ食堂」「めがね」の強力タッグである。
母が死んだ。 残されたのは、家と、パニック障害で四年間ひきこもってるピアニストの兄と、生意気な学生の妹と、日本から母が呼び寄せていた「ばーちゃん」だった。
ばーちゃんは、英語が通じない。 いつも黙っている。
だけど毎朝、トイレから出てくると、深ぁいため息をついている。
家族は、言葉が通じなくても、家族。
ばーちゃんと孫たちの、「トイレット」からはじまる足漕ぎミシンな日常の物語。
「ウォシュレット」(TOTOの登録商標)は日本の偉大なテクノロジーだ。
一般名は「温水洗浄便座」などである。 作品中、しっかりとTOTO製品であるNEORESTが、使われているのである。
それはさて置き。
とにかく、観て損はない作品である。
全編英語で日本語字幕。
もたいまさこが、存在感が、素晴らしい。
まるで「漬物石」である。
今の家庭で、見かけることはあるのだろうか。
原っぱや川原や道ばたで見かければ、石蹴りには使えない、チョーク代わりにも使えない。
しかし、それがたちまち「漬物石」となると、特別な石と姿を、形を、存在感を変えてしまう。
しかし。
だからといって漬物石は、何も己の在り方を変えることはない。
黙って、飾らず、腰を低く務めるだけである。
家庭が浮ついてしまわぬよう、ずしりと必要な存在感。
個と子ばかりを尊重する家族像がはびこる現代日本。
大黒柱としてあった父親ですら、頭があがらなかった存在の「ばーちゃん」。
ばーちゃんは家族内で肩身狭くあるか、はたまた別居でもとからいないか。
共に暮らす暮らさないかの形をいうのではない。
家族の在り方として、いうのである。
家族のなかに、重みある存在は必要なのである。
荻上監督作品「かもめ食堂」「めがね」も秀逸なのか、確かめてみたい気持ちである。
2011年02月14日(月) |
「もしドラ」と七つの習慣 |
岩崎夏海著「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら」
略して「もしドラ」
である。 昨年、ポイント有効期限が目前に迫ったときに、それで買い置きしていた作品である。
会社の課題図書である「七つのなんたら」を手にしたまさにこのときのために、であったのかもしれない。
「もしドラ」は、高校野球部の女子マネージャーが、勘違いから手にしたドラッカーという経営学のカリスマの著書「マネジメント」を手にしたところからはじまる。
これは勝間和代さんのてある番組でしていた解説であるが、
小難しい「マネジメント」の理念を、わかりやすく、身近な、しかも見当違いに見える分野で見事に紹介していて、かつ、物語としての小説の形をとっている、なかなか珍しい作品です。
とのことである。
先の「七つのなんたら」に比べて、こちらの方がよっぽどよいように思ってしまう。
目新しい収穫を感じられなかった「七つのなんたら」は、とかく分厚さで威圧しているのである。
しかしそのようなもの、わたしにかかれば斜め読みならぬスキップ読みである。
だいたいが欧米人の文化、思想、社会関係の話である。 ぐろーばりぜーしょんとやらの世界ではためになるだろうが、ぐろーばるのそのもっと前の成功が必要なのである。
なに。 もっと人間一個体における考え方のことが書かれてあるから、役に立つだろう、だと。
そうかい、それならわたしもやぶさかではないねえ。 それにあまり読みもせず知りもせず、無下に扱うのも、器のちいさいやつだと体面がたたない。 さっきの器とは器違いなんだよ。うるさいねぇ、しのごの抜かしてあげた足をかつさらってゆくんじゃないよ。 あんたはトンビかい、ええ?
おっとと、こちらの話である。
さあどれどれ、と指をなめなめ、ページを繰っていったのである。
そんなことは、とっくに考えてある。 それを実行にうつす気力がないだけである。
えてして、この類いの著書に指摘されている内容は、わたしたちが先輩、上司から小言戯言として折々に聞かされ教えられてきたことばかりである。
ただそれだけだと振り返ると、分厚さに、それはかさ増しした結果の中身のない鎧であって、半分以下の厚さで再編したもので事足りただろう、と思う。
ハンドブック版なるものがあるらしいが、会社はなぜ、そちらを選ばなかったのだろうかと疑問である。
「もしドラ」に戻ろう。
わたしは最近、本作品が映画化される話を聞いていたのでる。
著書は、AKB48の立ち上げにも関わっていたらしいとどこかで聞いてもいたのである。
誰がどの役か詳細はわからないが、大泉洋とAKBから前田敦子と峯岸みなみが出るらしい。
いや。 出るのである。
「ここにもいた」 「何が?」
寺子屋に、ため息をつかれたのである。
年齢を考えずに、AKBにはまってる男が。 まだはまったりは、しとらん。 エンターテイメント性の秋元康の手腕に感銘を受けてだな。 さらには地元愛、てやつさ。 なんで地元愛なの? 同じ台東区やし、なにより。 なにより? 何かのプロモーションビデオで、「男坂」で撮ってあったCMを観たからね。 万世橋や、神田明神とか。 ……。
しばしの沈黙の後、寺子屋が教え諭すように口を開いたのである。
「好きなひと、いるでしょ?」 「……いる」 「いいの?」 「何が?」 「本気?」 「……」
しばし黙考――。
「小西真奈美への好きな気持ちと、同じ気持ちなの?」 「違う」 「違うでしょ?」 「はい、違ます」 「だったら……」
やめときなさい。 はい、自粛します……。
そんなことが、以前あったのである。
しかし。
わたし個人の見方としてであるが、AKBというブランド名として、全国区になった。
全国区になったのとメンバーの顔が、現在は重なっている。 だから、衣裳や観たことのある顔によって一般人が彼女はAKBだと認識できる。
これは、「モーニング娘。」の初期の頃もそうだった。 PVなど、歌うよりも魅せる、印象づける。 観てる側は、楽しい気分にさせられた。
「AKB」というブランド名を外したとき、もしくは、メンバーの入れ代わりによって一般人の認識していたメンバーと実際のメンバーとの違いが大きくなったとき。
一般人はついてゆくだろうか。
彼女ら自身も、AKBという看板、衣裳を脱いだらただのひと、だと。
例えが正しいのかわからないが。
「劇団四季」は全国的に有名である。 だからといって、役者の名前を知って観にいっている一般客は、数少ない。
しかし、その舞台に惹き付けられる。
同じようなことを、AKBといういわば質を保証するブランドを、この先ずっと確立しようとしているのかもしれない。
なんにせよ。
夢や目標に向かってゆく若き一途さは、嫉妬するほど、美しい。
2011年02月13日(日) |
「絲的炊事記」に竹的衰弱記 |
絲山秋子著「絲的炊事記」
著者が雑誌「Hanako」にて連載していた料理エッセイである。
料理が描かれるというのは、まさに垂涎のものかはたまたため息ばかりのものか、当たり外れが大きい。
個人的には、川上弘美が描く食事の表現が、大好物である。
もう、よだれが既にあごの付け根で待機万全、虎視眈々と準備体操をはじめてしまうほどである。
絲的料理は、惜しかった。 いまいち、食い付けない。
結局は酢豚かエビチリになるのに、パラパラと何ページもめくって最後まで見てみる街の中華料理屋のメニューのようであった。
ましてや、忙しないなか、なかなか、書くのはおろか読むことすらかなわない毎日に、不満と苛立ちを抱えている真っ最中である。
食生活も、時間がなく、いけないとわかっていても買って帰って食って寝るだけが続いているのである。
米研いで、炊く。
申し訳ないが、こんなわたしに、その余力すらないのである。
ひとよりさらに、器がちいさいのである。
またタイミングが悪いことに、社内課題図書の二冊目、セブンセンシズならぬ……。
七つの子でもなく……。
七つのなんたら……とかいうタイトルのぶ厚い本を読まねばならなかったのである。
あまり機嫌がよくなるものではないことくらい、予想がつくのである。
たいがい、
ああ、そうですか。
と、著書にではなく、これまでに巡り合ってきた先輩、上司、有職者の言葉をなぞったものばかりなのである。
もちろん。
それらをわたしに聞かせてくれた諸兄諸氏が、著書から学んだものであったりするかもしれない。
しかし、わたしは著書の、
わたしとは何の関わりも現実味もない清書されたものよりも、
わたしの関わるところで、身をもって身をつまされたり身を粉にしたりしてきたそのひとから、諭されたり叱られたりなじられたり、そして尻をたたかれたりしてきた言葉こそが、第一である、と思うのである。
ちょいと不出来なものに対すると、どうするのがよいか、伝えるべきことや伝え方などを、自然に考えるようになる。
そのようなことの恩恵かもしれない。
それらのことについては、また次の回にするとして。
竹的炊事記――。
を、ちと述べておこう。
なに、たいそうなものでないのである。
一月は、片手で足りるくらいしか、料理をしなかったのである。
いただいたお肉をすき焼いたりしたのは料理から外すとして。
さらに、料理といってもわたしの場合、以下のようなもので、人様に料理してますとは口が裂けてもいえない程度の低さである。
・野菜を切る ・炒める ・「味覇」や塩胡椒醤油オイスターソースやらを適宜適当に振りかける
以上である。
そんな十分くらいの作業すら、片手の数くらいしか、だったのである。
米を研いでタイマー予約しとくなど。
朝、出勤前にそんな余裕はなく。 夜、寝る前はもっと余裕はなく。
近所にコンビニはない。 オリジン弁当ならある。
しかし、高い。
さらに帰ってくるのは深夜である。
玄関をあけたら、寂しくテーブルの上でラップがライトアップされていたって構わない。
それがどれだけ羨ましい風景に思えたか。
外食などもってのほかである。 財布の紐は、十重二十重に固結び、である。
そこにあるわたしのひと筋の光明が、「デリカ ぱくぱく」という弁当屋である。
二十四時間営業で、弁当はどれでも、二百五十円(税抜)なのである。
場所は鶯谷、正岡子規や林家三平にゆかり深い根岸にある。
会社から品川で山手線に乗り、乗り換えなしである。
普段は御徒町でおり、徒歩でてくてく、不忍通りを上野動物園や不忍池を通り過ぎながらのぼってゆくのだが、最近はめっきり、頻度が低くなっているのである。
玄関開けたら、五分でご飯。
弁当をレンジに入れ、着替え、手洗い、どっかと座り込む。
パックの野菜ジュースをカップにたっぷり一杯、弁当を頬張る。
満腹感の眠気が、ただならぬ状態のわたしにさらなる追い討ちをかけだすのである。
すでに薬効は切れている。 しかも通常より増やしてあるものだから、反動が強い。 それでも舞姫を忘れずに眠りに入らねば、翌日がもっとつらいのである。
いったい何ができよう。
普通に普通の同僚らと同じように、こうして働き続けるのは、さすがにしんどい。
過密さが一時的、というのが二、三日まで、いやせめて一週間が限度らしいことが、今回わかったように思うのである。
矛盾しているが、つくづく、ひとりでよかったとも感じてしまうのである。
2011年02月10日(木) |
「緊縛」緊迫、切迫、誘爆 |
小川内初枝著「緊縛」
太宰治賞受賞作である。 タイトルをみて「そちらの趣味があったのか」と、誤解をしないでいただきたい。
三十代独身の美緒は、ふたりの妻帯者と不倫の関係を続けていた。
自分の社会や人間関係における存在があやふやであいまいであることを感じており、どこかで不安を抱えていた。
何かで自分を縛り付けておかなければ、あいまいであやふやなまま、かたちすら失ってしまいそうな不安。
ある日、心許せる友人が自ら命を断ってしまった。
自ら命を断つのは、思いの外気力を要する。 そんな気力すら自分にはない。 そこまでの自分すら、ない。
美緒は、何かに縛り付けられてたい自分に気が付く。
不倫相手に別れを切り出すが、切られないことを望み、なんの足しにもならないがそこに自分を縛り付けられる答えを男が返し、それに安心を覚える。
日常の、なんの生産性も持たないルーチンワークでさえ、自分を縛り付けておくことには欠かすことができない。
ただひたすらに、頑なに。
一方、同じく収録されている「見ていてあげる」では、ルーチンワークからすっぱりと手を離している。
父が事故で亡くなり、母とふたり暮しになった男と、男と付き合っている幼なじみの女の物語である。
父を亡くし、がむしゃらに働かねばならないのかと思えば、じつは家賃収入だけでしっかりと暮らしていける男は、仕事を辞め、引きこもり同然の暮らしをはじめる。
幼なじみの女が遊びにくるときだけが外と関わりを持っているようなもので、女の訪問を、母親はどうしようもない日々のなかのささやかな楽しみにしていた。
家賃の管理業務を不動産屋とふつうにやり取りし、しかしそれ以外はなにもしない。
女は、ふつうに仕事をし、同僚と付き合ったりもしていた。
しかし、そんなふつうはどこか居心地の悪さを感じている。
落ち着くのは、なにもしない幼なじみの男が、やがてゆっくりと、そのまま腐って堕ちてゆくのだろう過程を見ているときだけだと、気付く。
二者択一できるものではないが、いったいどちらの側に自分が属するのか。
何かに縛り付けられていないと不安になる。
あるがまま、ただなにも生み出さず、残さず、朽ちてゆくことすら厭わない。
太宰治賞を受賞する作品は、大概がやはり退廃的な姿を描くものが多い。
しかしそこには、はじめから無努力無気力があるのではないのである。
足掻き、圧し折れ、跳ね返され、やるせなく、観念する。
しかし観念してしまって、そこではいおしまい、ではないのである。
観念することを、ある意味、堪能するのである。
つまり、無駄を無駄にしないのである。
「この世のすべてに無駄などない」
ということにも通ずる、といえるのである。 これはもちろん、真正面からではない見方である。
真正面ではないから、それがよろしくない、ということもないのである。 必要なのは、
それが真正面ではない
と認識できることである。
さて。
当面の瀬戸際は、もはや開き直るしかないところまでやってきている。
とりあえず、三連休を駆け抜けるしかないのである。
2011年02月05日(土) |
折れないようにしなればいい |
課題の本、読んだ?
金曜のことである。 お多福さんが、ぷふう、と吹き出しながら訊いてきたのである。
社内で催されている次回の「人材育成・自己啓発促進GW」に向けて、課題図書が二冊出されているのである。
一冊目は、折れない新人のなんたらかんたら、いや、折れちゃうわたしの育て方、だったかもしれないが、それはざっと流し見たのである。
「何てタイトルだったっけ?」
七つの、なんとかがあったとか。
そうだ。
「セブン・センシズだっけ?」
燃やせ、体内の小宇宙(コスモ)!
「オーム!」
お多福さんが、呆気にとられた顔をしている。 隣にいる木谷くんは、きょとんとわたしを見ている。
懐かしの車田正美原作「聖闘士星矢」である。 しかも乙女座の黄金聖闘士・シャカを選んでみたのであった。
セブンセンシズとは第七感のことで、超感覚のことである。
ふたりは、蠍座の黄金聖闘士・ミロの「スカーレット・ニードル」をくらったかのように、硬直化したままであった。
「知らんのん?」
お多福さんは女性とはいえ同世代である。 知らないはずはない。 木谷くんは十年弱わたしより若いので、しかし男の子であったなら聞いたらことくらいあるはず。
「ああ。着せ替え人形みたいにできる、アレ、ありましたね」 「着せ替え人形っ?」
お多福さんが一瞬、ぎょぎょっとした顔になる。
「鎧みたいなのが、ガチャガチャって変形して着られるんですよ」
そうそう。
「着せ替え人形なんだ……」 なにやら誤解をしているお多福さんである。 いやそうではなくて、と説明しようとすると、
「変な趣味のおじさんはほっといて、さ、行こっ」
お多福さんが先を制し、木谷くんを促してゆく。 木谷くんは、じゃあすみません、と頭を下げながらお多福さんについてゆく。
うむ。 なにやら誤解されたままのような気がしてならない。
ここは二十階である。
……鳳凰幻魔拳!
精神をズタズタに破壊する恐ろしい魔拳である。
さて。
「三連休の金曜日に、図面チェックの最後をやるから」
お休みに申し訳ないけれど。
津市が、チームを集めて緊急スケジュール会議を開いたのである。
「14日まで、なんとかみんなで頑張ろう」
とりあえず、そこで終わるから。
BIMチームは、終わらないのである。 従来の二次元図面でアップした後、三次元に与えられなかったものを盛り込んで、モデルデータとして整えなければならないのである。
それでも、いったんの仮休息はそこで取れる。
「やっぱり、独り暮らしはいかんよぅ」
土曜出勤の古墳氏が、つぶやいた。
家庭がある皆さんは、こんな状況でも休んどるやん。 出てきてるのはうちらみたいなのばかりやない。
古墳氏は名古屋から単身赴任で、来てくれている助っ人である。 であるから、月に一度だけ会社の報告を兼ねて、週末夜行バスに乗って名古屋の奥さんと息子さんらに会いに帰っている。 そして月曜の朝に夜行バスから直行で出社、という過酷な週末である。
しかし、家族がいるから、と仕事をサボるのがよいと言っているのではない。
休日を仕事に使う歯止めが、ゆるくなってしまう。
割り切りが、寄り切られてしまう。
やらねばならないことを、あくまでも保険として休みにやらねばならないかもしれない「心配」をするのではなく。 保険であるはずの休みにやらねばならない「つもり」になってしまう。
それでもまだ周囲が、「休み」は休むべきだ、という考えを口にしあえる組織体質であるから救われているところはあるのである。
皆と同じようにとわかっちゃいるが、仕方がない。
仕方がないなりに、振る舞わねばならないのである。 まさに休日なしの始まりの一日目。 土曜の夜はあとわずか、である。
2011年02月03日(木) |
「シアター! 2」とひとかわ |
有川浩著「シアター! 2」
弟の巧が宰相・脚本を務める劇団シアター・フラッグの、三百万の借金を肩代わりしたかわりに、裏の鉄血宰相となった兄の司。
プロの声優・千歳の加入で集客力、そして脚本、演者自体の力が発揮されはじめ、わずかながら利益がひねり出せるようになってきたのであった。
演技派美人看板女優、中途半端な二枚目俳優、熱血俳優、どじっ子、ネガティブ男。
それぞれが、まさに役が立っている。
自分たちの舞台を侮辱されることは、舞台を楽しみに観に来てくれているお客さんたちをも侮辱されていることと同じ。
しかもそれは、単なる個人的な趣味の憂さ晴らし。 閉じた世界で、あぐらをかいた自己満足。
「自分の名前で稼ぐってことは、常に矢面にさらされてるってことだ」
具体的に個人が特定できるなか、その名前で世間の向こうを張ってたつ。
ごまかせない。 逃げられない。
会社や組織の名前なら、それが個人を守りもしてくれる。 しかし、個人は、直接石を投げつけられもする。
「それを、名前を出していないものが一方的に羨ましがって、妬んだりするんじゃない」
名前という商品価値に対する対価と代償。
有川浩作品といえば、ツンデレ人間劇場である。
ツンは、恋愛要素だけてはなく、シビアな社会風刺にもある。
前作のあとがきにも書かれているが、演劇界は独特な表現に難しい閉ざされた社会でもある。
商業的収益を出せる団体組織はほんのひと握り。 だから、
儲からないのは当たり前 自腹で持ち出し当たり前
そんなデレが蔓延している。
鉄血宰相・司の影響がメンバーに浸食しはじめ、泣き虫宰相・巧も意識が変わりはじめる。
借金返済期限も残り一年。 一年後にシアター・フラッグは全額を司に返済し、存続できるのか。
司が劇団から手を引いたあと、そのまま運営を続けてゆける体制になれるのか。
次巻が最終巻、らしい。
王道だが、展開の緩急の巧さ、人物の役回り、さすが「ラノベ界の女王・有川浩」である。
さて。
手の指先の皮が、ひと通り向け替わりました。
人間としても、ひと皮むけたでしょうか?
負荷がもはや、ピークを更に越えてやろうと背伸びをし続けています。
ていっ、小外刈り。 技あっ……有効!
一月の残業時間が、およそ百時間になってしまいました。
「二月はこんなに働かなくて済むようにしようね」
管理者の、そして大学の先輩にあたる小道さんに、慰め顔で判子を捺してもらったのである。
指の皮同様、ボロボロである。
「休みたいですねぇ」 「うん、だからなんとかしてこう」
小道さんも我々の三次元のみに限らず、プロジェクト全体のひずみはわかっている。
設計業務をまずきちっとまとめたい設計部と、三次元設計の結果を求めたいBIM推進部と。
わかっていても、出来ることとそうでないことが、あるのである。
出来る限り捌いてもらえるよう祈るだけなのである。
先行している他企業は、このような行って来を、すでにあらかた乗り越えているのだろうけれど。
仕方がない。
二次元チームの二佐木さんが、わたしの後ろを通るたびに、ちょっかいを出すようになってきたのである。
不意に、肩こう骨のあたりを、
チョイチョイ チョチョイ、チョイっ
と連突きしてくるのである。
「なにふたりで、じゃれ合ってるの」
目ざとくはまぐりさんが、そう冷やかす。
ブンッ、ブンッ。
わたしはこれ以上ないほどに強く、首を振る。
「ご、ご、誤解せんでくださいっ」
二佐木さんは四十半ばの男性である。
しかも、ちょくちょく、舌戦を重ねている相手でもある。
ぜんたい、二佐木さんは我がしっかりした、詳細が詰められていないことが嫌いな方で、正反対に近いわたしとは、どこかで必ずつばぜり合いから火花が散りかけたりするのである。
「あれ。いつの間にふたりはそんな仲に?」
古墳氏が、油を注ぐ。
「……にやり」
大分県が訳知り顔で、無言でうなずく。
「ちょ、そんな、いつの間に」
わたしがあわあわへきえきしているのを余所に、
チョイチョイ チョチョイ、チョイっ ダダダダダっ
「えい。いい大人が、やめてください」
後ろ手でその突き指をむんずとつかむ。
「ちぇっ、つまんねぇの。で、はまぐりさん」
なに俺に用だったの、とはまぐりさんの方へさっさといってしまう。
散々、突っつかれ。 あらぬ誤解を招くような振る舞いに晒され。
ポイと捨て去られたわたしに、
「さてと」
と同情も見せずに古墳氏は前に向き直る。
皆、もうとっくに限界を超え、壊れだしているのである。
とりあえず二十日過ぎまで。
まだまださらに酷な日々が続くのである。
「ブツッ」
携帯のストラップが、千切れる音がしたのである。
千切れたのは、神田明神で買った「打出の小槌守り」であった。
「開運招福」
の金の小槌である。
あ……。
ここで動揺を起こすようなわたしでは、もうない。
「身代わりに厄をはらってくれたということもあるんですよ」
京の麗人が、にっこりと教えてくれたのを思い出す。
いや。
正しくは文字で教えてくれただけなのだが、行間の向こうで、わたしが勝手に微笑んでもらっていることにしているのである。
タイミングが、まさに絶妙に千切れてくれたものなのである。
午前中のことである。
金曜日健康診断の結果が、わたしだけ特別先に、知らされたのであった。
「至急検査結果のお知らせ」
このお知らせは、検査値が極めて正常値を外れた方に特別お知らせしております。
あらためて至急精密検査を受診され、結果をご報告ください。
「至急」である。
わたしは急かされることに、異様に逃避願望をかきたてられるのである。
落ち着いて異常値なるものの正体を見定める。
なぁん、いつものことがあ。
へたりと肩を撫で下ろす。
「なん、どうしたの?」
隣席の古墳氏が、どれどれと顔をのぞかせる。
血ぃが再検査の値ぃだといわれゆうがです。 わしもいつもいわれとるよ。 そうですか、仲間やないですか。
ついでに、千切れた御守りのことも話す。
「血管が、ぶちっ、と破裂するん違うの?」
ニヤニヤとうかがってきたので、脳溢血とか脳梗塞とか動脈硬化とかですか、と答える。
「十五分で動脈硬化かどうかとかがわかる新しい検査機器があるんだけど、やってみない?」
以前、イ氏に勧められてやってみたことを思い出す。
「まったく問題ないって出てますね」 「弾力に富んだ若々しい血管と?」 「そこまではわからないですけど」
あれは田丸さんではなく別の方だったと思うが、そんなことを話したのを覚えていたのである。
「脳みそはわかりませんが、血管は大丈夫な血管らしいですよ」 「じゃあ、脳みそはヤバイんじゃないのん?」
「オー、ノー!」
……。
さ、仕事仕事、と古墳氏は顔を前に戻す。
今月はまるっきり、弁当ばかりの晩ご飯だったのである。
作り置きも作る余裕なく、帰るのは日付が変わる前。
せめてもの野菜ジュースがせいぜい、である。
勝手だがこういう余裕がない時期だけでも、帰れば飯があるようなことを、ついつい望んでしまうのである。
「妖怪アパート」に出ているるり子さん(手首から先しかない、しかし絶品料理を作り出す幽霊)が、我が家まで出張してきてくれれば万々歳なのであるが。
かなわぬ妄想である。
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