「剣岳〜点の記」
をギンレイにて。
未だ地図にて空白の立山の剣岳を測量せよ。 国家自身を知らねば、世界に覇を唱えられぬ。
明治時代の陸軍測量部が、厳命を言い渡される。 しかも、民間の新興である登山学会が、陸軍より先に登頂せん、と対抗してきたのである。
国家が民間の道楽連中に遅れをとってはならぬ。 何が何でも、初登頂せよ。
しかし測量部は、測量のための三角点を測定し、打鋲しながら登らねばならない。
かたや登山学会は、登頂のみを目指せばよい。
しかし、ただひたすら、鋲を、点を打ちながら登ってゆく。
何の為に、地図を作るのか? どんな意味があるのか?
葛藤する。
そしてついに、剣岳を制覇するが……。
主人公の浅野忠信、妻役の宮崎あおい、案内人役の香川照之、とにかく役者がよい。
とくに、やはり宮崎あおいは、もはや犯罪者である。
罪名は「窃盗罪」
わたしのこころを、あざやかに、盗んでしまったのである。
あのような妻ならば、わたしならば決して命の危険があるような、家をあけねばならぬような仕事など、してたまるか。
「二十二日お仕事ということは、二十二日目に、帰ってくるの?」 「いや、二十三日目に帰ってくるよ」
そんな答えなど、わたしはしない。
二十二時間目、いや二十二分後に、すぐさま帰ってきてしまいたくなるような、なんとも愛らしい細君ぶりなのである。
大作ではあるが、とかく宮崎あおいにこころを盗まれたいものは、観てみるべき作品である。
罪滅ぼしのため、エスプレッソ・ティーをガコンと買い、「ギュウ〜」と顔をしかめる蒼井優を思い浮かべ、噛みしめる。
「ヒマラヤほど〜の♪」
いかん。 これまた「あおい」ちがいである……汗
阿部公房著「砂の女」
なかなか、秀作である。 阿部公房は「箱男」に次いでの二作品目であるが、じつは本作こそが、わたしにとって阿部公房作品で最もはじめに惹きつけられた作品だったのである。
僻地の砂丘地帯にひっそりとある砂だらけの集落に、男が迷い込む。 男は教師で、趣味の昆虫採集のために、休暇を利用してこの地を訪れたのであった。
しかし男が気づくと、すり鉢の底のような砂の底に隔離されたボロ屋に、村の女とふたりで閉じ込められていたのである。
女は毎日砂を掻き出さねばその重みでつぶれてしまう家で、男との暮らしを淡々と、続けてゆこうとする。
男は、村ぐるみの犯罪だ、と脱出・逃亡を試みるが、まるで蟻地獄のようにさらさらと、掻けば掻くほどただ崩れてゆくだけ。
男は、砂こそ常に流動し続ける唯一の存在、と特殊な感情を抱いていたが。
皮肉にも、流動し続ける唯一の存在によって、閉じ込められてしまうのである。
男は、砂に、女に、村に囚われ、そして……。
虚脱感とは、倦怠感とは、エロティシズムと表裏一体である。
なすべき単純作業の繰り返しの日々。 報われぬ虚しさ。 諦め。 渇望。 餓え。
そして。
満たされようとしてなるのではなく、ただ満たされてゆくこと。
流動し続ける砂の海は、すでに貴君のすぐ足元で蠢いているものなのかもしれない。
「さまよう刃」
をギンレイにて。
この作品。
東野圭吾が原作とあり、おそらく東野圭吾作品(読んだことがないので以下は憶測)として、第三者の視点から当事者の心情を浮き彫りにしてゆく手法なのだろう。
だからこそ、揺らぎを垣間見る場面、余白がある。
無粋だが、重松清さんなら、当事者の視点からどのようにこの事件を描いただろう、かと想像してしまう。
おそらく、重松さんも当事者の視点は選ばないのだろう、と思いながら。
事件とは、子、とくに娘を持つ親にはとても苦しい事件である。
父娘ふたりきりのささやかだが幸せな日々に、突如悲劇が訪れる。
友人らと別れ、
「もうすぐ家に着くね、晩ご飯? うん、食べる」
と電話をしたそれが、娘の最期の言葉だった。
電話の直後、若者らに車で拉致され、やがて荒川で傷だらけの遺体となって、発見される。
「犯人は……」
被害者の父である長峰の電話に、密告が入る。 密告に従い、犯人の若者を追いかけ、追い詰め、復讐を果たそうとしてゆく。
娘が、暴行され、薬を打たれ、それをビデオで録画され、
「お〜い、いっちゃったのぉ!?」 「よすぎたのぉ〜?」 「うっひゃひゃひゃぁっ」 「おい、やべんじゃね?」 「動かなきゃあ、捨ててくればいいべ?」
そんな会話が、軽い調子の無責任な声で、録音されている。
それを、観てしまう。
復讐の炎は、消せない。
しかも、被害者は娘ひとりではなかった。
犯人であるはずの無責任な未成年を、被害者の父の殺人犯から守り、保護しなければならない警察。
竹野内豊が、刑事を好演する。
長峰の復讐をとめようと、ペンションを父娘ふたりきりで経営する娘が、説得しようとする。
「亡くなった娘さんは、お父さんの未来を奪うようなことは、望んでいないと思います」
これを聞いた瞬間、僭越ながらわたしは、鼻で笑ってしまいそうになった。
間違っている。
言ってることは間違いではない。 が。 言うことが間違っている。
娘のために復讐するわけではない。 己のために、復讐するのである。 それに、娘を失った時点で、己の未来など、これっぽっちも残されては、いや、ありはしないのである。
さすが本作品。
それを絶妙のタイミングで、答えるのである。
ペンションの父のほうが、長峰の真実の気持ちに、答えるのである。
それはきっと正しく、しかし、間違っているのかもしれない。
あなたは、誰が、どれが、正しいと思うのか。
なかなか、じわりと、深く、染み入ってこさせられる作品である。
「グラン・トリノ」
をギンレイにて。
クリント・イーストウッドの、これまた素晴らしい作品である。
アメリカの頑固で堅物な親父をイーストウッドが演じる。 これがまさに、
ひねくれ者
のいい味をだしているのである。
隣家に引っ越してきたモン族の一家を、イエローと差別的な目で厭っていた。
それだけではない。
イタリア系の馴染みの床屋の友人はイタリアのイカレ○○やら、とかく口が悪いのである。
しかし、堅物で口が悪かろうが、それこそ魅力としてしまうのである。
話を戻そう。
朝鮮戦争で生き残り、帰還したウォルトは、それで「英雄」と勲章をもらっていた。
しかしそれは、彼にとって、
赦されない罪
として、深く生涯にわたって残されていた。 老妻が亡くなり、ひとりきりになった彼は、息子らの誘いも断り、家に残り続ける。
息子はトヨタの販売会社で働いており、ウォルトは、フォードの工場工であった。
「米食い人種のケツもち」
と、これまた口悪いこと然りだが、技術者としての誇り、愛着心である。
そんな彼が生涯大事にしている名車「グラン・トリノ」を、隣家の息子タオが、盗もうとするのである。
ウォルトがそれに気づき阻止するが、タオがその盗みを、同族の恥さらしとされているチンピラたちから強要されたことを知るのである。
タオの姉であるスーが、ウォルトに弟の罪を詫び、償いとしてタオを好きに働かせてくれ、と訪ねてくる。
やむなく引き受け、ウォルトとタオの奇妙な組合せができあがり、そしてスーも、さらにモン族の一族とまで、つきあいがはじまってゆくのである。
タオをトロ助、腰抜け、意気地なしと不甲斐なく見ていたウォルトの手伝いをはじめ、やがてタオが徐々にだが男らしさを磨くよう、ウォルトが教育しだすのである。
それがまた、愉快なのである。
イーストウッドがやるからこそ様になるのを、まだ少年のタオがそれをそのままやろうとする姿は、なかなか滑稽かつ微笑ましい光景である。
さてタオに悪いちょっかいを出してくる同族のチンピラに、ウォルトが、ついに一発をお見舞いしてしまうのである。
二度とタオにちょっかい出すんじゃない。
しかし、それが悲劇を呼んでしまったのである。
ウォルトの家ではなく、タオの家を、夜中にマシンガンで襲い、
そして。
スーをさらい、親戚であるはずの彼女を、乱暴して、ボロボロのまま帰すのである。
自らの行為が招いてしまった、やさしき隣人たちに対する不幸。 タオは復讐にいきり立つ。
が。
ウォルトは、「一度頭を冷やして、それからだ」とタオをしずめる。
そして夕方。
タオに見せたいものがある、と地下室に呼び、朝鮮戦争でもらった勲章を取り出し、タオの胸につける。
「お前と同じくらいの少年を、命令でもないのに撃ち殺してしまった」
生きるためなら仕方ない、とのタオを制する。
お前にはわからない。 わからなくていい。
ウォルトは、タオを地下室に閉じ込め、ひとりで連中の家に向かうのである。
身内の恥、ましてスーには酷な証言をさせねばならない、とだんまりを決め込んでいる一家に、警察も手を出すことはできないのである。
ウォルトは、復讐を果たすのか。
作中のウォルトをはじめ、台詞のそれぞれが、とても味わい深いのである。
亡くなったウォルトの老妻に頼まれたというカトリックの若い神父とのやりとりも、深い。
生と死をわかったつもりで、新人神父マニュアルにある通りしゃべってるだけだ。 本当の死を、お前は知らない。 俺は目の前で散々みてきた。
奇麗事じゃあないことに、神父もうなずかざるを得ないのである。
しかし、立場上それでも奇麗事である生と死を説かねばならないのである。
堅物だが生真面目な若い彼と、堅物で頑固者なウォルトの、ふたりの距離感が微妙に近づいてくるところにも、さすが憎い演出が施されてある。
なかなか、やはり、クリント・イーストウッドの作品は、侮れないのである。
太宰治著「パンドラの箱」
本編は表題作と「正義と微笑」の二編が収められている。
それぞれ書簡形式、日記形式でつづられており、どちらも十代の若き悩める青少年の、嘆きや叫び、卑屈と高慢、複雑と単純、それらが散りばめられているのである。
とりわけ、表題作である「パンドラの箱」は、友人への書簡という表現に、うむうむ、と読まされてしまう。
「健康道場」と名うたれた結核療養所が舞台である。
ひばり、と呼び名をつけられた青年が、看護や身の回りの世話をしてくれるいわゆる看護師の女性ふたり、マア坊と竹さん、のふたりに対する様々な考察や出来事を、友人に書いて聞かせるのである。
この作品は映画化され、かの女流作家、川上未映子が、どちらか、おそらくマア坊を、演じているはずである。
とかく、ふたりそれぞれの描写が、ひばりの筆策によって、いいようにあしらわれてしまう。
男子に限らずままあることだが、いわゆる「聖子ちゃん派」か「中森明菜派」か、といったようなことを、クラスの派閥をはっきりせんがために、ふたりを知らぬ同級生にそれぞれを語り紹介しようとしたのを、皆さんも記憶にあられるかと思う。
好きだが、我がものをまたひとの我がものとされるのに、わずかばかりの抵抗や反骨があり、かたや「ぶりっこ」、またかたや「不良娘」、と少々乱暴な形容詞で紹介するものである。
わたしは幼少のころから、もはや今の気質ができあがっていたのであろう、片方をかわいらしいと周りが口にするほど、涼しげで物静かで冷たげな中森明菜をよしとしていたのである。
もとい。
さような筆者の心情の吐露が、なかなか面白く書かれているのである。
書簡のやり取り、という形式であれば、三島由紀夫の「レター教室」が、軽妙で、人物たちそれぞれの書簡を通して様々な人格思考考察を面白く書かれている。
が。
本作は、ひばりというひとりの、若き青少年の書簡のみの、吐露告白である。
そうか、そうか。
と読みながら、青少年の心情とおなじ歩調で、あちらこちらへとさせられてしまうのである。
一方向からだからこそ、しかも若き悩める青少年の視点だからこそ、の人物像の想像の面白さが、ある。
「陽の当たる方へと蔓をのばそうとするのではない。 のばした方に、陽が当たるものなのだ」
金原ひとみ著「ハイドラ」
金原ひとみは、やはり、スゴい。
好き嫌いは、はっきりと、分かれる。 エロ、グロ、それらの精神世界的な描写。
違う。 逆、である。
精神世界を、エログロに直接的に投影させるからこそ、見るものは嫌悪感や背徳感によって、目を背けるか、あるいは目が離せなくなるのである。
しかし本作は、そんな描写が、まったくといってよいくらいに、ないのである。
とりわけ売れてはいないモデルのサキは、人気カメラマンの新崎と同棲し、彼のために、そんな自分のために、物を食べては飲み込まず、そのまま吐き出す拒食症によって体重三十五キロの体型をこそ、新崎と自分をつなぎ止めるものと信じる。
新崎はやがて失ってゆく姿をこそ求めているのだと。
新崎への奴隷的な関係。 しかしそれは自ら従っているものであり、新崎は決して口にしたり求めたりはしていない。
しかし、まるで正反対ともみえる松木というインディーズのミュージシャンと出会う。
真っ直ぐに、サキを求め、思う松木。
松木と新崎の間で、サキは自分のアイデンティティ、存在意義、それらのある場所、在り方を確かめる。
どこかの本作品のレビューに、
「ネガティブの強さ、 ポジティブの儚さ」
と評されていたのである。
なるほど。 名文である。
儚いからこそ、ひとは強く求める。 強いからこそ、ひとは安堵を得る。
愛と絆と存在を、今までとは違う形で確かめたいならば、ご一読いただきたい。
……東京ドームでB'zのライブがあった。
ぞろぞろと満たされた人々が、小雨のなかを早足で、それこそ、今の熱い気持ちを雨などで冷まさせたくない、と駅へと流れてゆく。
わたしは彼らの決して邪魔にならぬよう、気に障らぬよう、広げた傘をすぼめる思いで、白く巨大な卵の殻の脇をすり抜けてゆく。
歩道橋を渡り、見上げると、巨大な肋骨がすべてきれいに抜け落ちた背骨が、寂しげに、無言で横たわっていた。
さらにその上を、赤いネオンの大輪の花が、寒さに面倒くさそうに、ゆっくりと緩慢な動きで花弁をゆらしている。
その花弁に、心と体が火照った、または凍えを癒やそうと乗り込んでゆく男女の姿が、見える。
緩慢に、諦観の態で花弁の輪は、濃い灰色の空の頂上へと彼らを運んでゆく。
わたしは背を向け、交差点へと階段をおりてゆく。 肩をそびやかし、はああ、と白い息を吐き出したとき、火花が、わたしの横を飛び散りながら追い越していった。
流れ星のように、白く純粋な、温度のない、優しさと神聖さのかけらなんかじゃない。
熱く燃える、赤い、命を削る激しさと儚さのかけら。
ゴツン。
およそ嘲笑うかのような、鈍い音。
停車中の緑のタクシーの点滅しているテールランプのオレンジ色の中に、黒いヘルメット姿が、遮る。
灰色帯びた薄い湯気が、小さな蒸気船のような小気味よいエンジン音とともに、もやもやと蒸発してゆく。
車体と道路に挟まれていた原付バイクの胴体を、降りてきたタクシーの運転手が引っ張り出す。
別のタクシーの運転手が降りてきて、左腕を肩ごと抱えるようにしてガードレールにうずくまるヘルメット姿に、歩み寄る。
信号待ちしていた歩行者たちは、青に変わると途端に目をそらし、横断歩道を渡ってゆく。
運転手が携帯電話を取り出す。
わたしが背を向けて坂を上りだしたとき、その先の大学病院からだろう救急車が、わたしが吐く息よりも真っ白な車体に、鮮血より鮮やかな赤い光を瞬かせながら、通り過ぎていった。
すべての当事者、目撃者よりも、真摯で、切迫したその姿が、まさに現実の構図をあらわしていた。
わたしは冷たいまま、爪先にだけ、最低限の力を入れて、坂をのぼってゆく。
「レスラー」
をギンレイにて。
ミッキー・ロークの復活作品、といわれた作品である。
かつての名レスラー、ランディ(ミッキー・ローク)は、その二十年経った今もまだ、現役としてレスラーを続けていた。
平日はスーパーのパートで日銭を稼ぎ、週末はレスリング。
しかし。
肉体の衰え、さらに、酷使し続けたツケが、回ってくる。
試合後の控え室、心臓発作。
バイパス手術で一命をとりとめるが、現役続行は不可能だと医者に宣告される。
レスリングのために、すべてを、家族をも捨ててきたランディには、ほかに残されたものはなかった。
「娘さんに、会って話すべき」
そして、娘に、会いにゆく。
今さら、何も求めたりしない。
ただ。
「お前に嫌われたくない」
勝手な父親で、レスリングのために捨て去っておいて、ムシのいいことだとわかっている。 頼らせて欲しい、というつもりなんか毛頭ない。
今さらだけれども、少しずつ、すき間を埋めてゆきたい。
しかし、娘とやっと取り交わした食事の約束を、すっぽかしてしまう。
「期待した私が馬鹿だった。もう二度と、あんな思いをするのは、うんざり」
お願いだから。
もう二度と、 顔を見せないで。
ランディは、己に唯一残されたもの。
レスリング。
己が己である、唯一の場所。
無謀な現役復活。
「俺の引退を決められるのは、ほかの誰でもない。ファンだけだ」
試合の最高潮、発作がはじまる。 様子がおかしいことに気づいた対戦相手の、「そろそろ幕を引こう」との言葉。
ランディ、ランディ! ランディ、ランディ!
ファンの大歓声に、ランディは、満たされる。
立つのもおぼつかないランディに、早く試合を終わらせようと働きかけるレフェリーと対戦相手。
早く俺をフォールしろ、対戦相手はマットでダウンしたまま待っている。
ランディは、発作で苦しい胸を押さえ、コーナー・ロープを上りはじめる。
ランディの必殺技「ラム・ジャム」
ファンの歓声に耳を傾け、そしてとうとう、トップ・ロープを踏みきる。
この作品、とにかく「泥臭い」のである。
これだけ人間臭い作品、そしてミッキー・ロークの姿は、とても素晴らしいものである。
どうやら人事考課、の時期であるらしい。
長である火田さんから、評価シートなる書類を一枚、皆が渡されたのである。
各自で五段階評価を、各項目に自分でつけてください。
A4の中ほどに項目が並べられているのを追いかけながら、火田さんが続ける説明に、ついてゆく。
自分を客観的に評価する機会を、これで得てみてもらいたい、というのが大きな本音です。
なので、
過大評価や過小評価を自分でしたからといって、深刻な評価点になるならない、という心配はしないで大丈夫です。
追いかけた項目は多分に漏れず、利益的に貢献云々やら、切磋琢磨に研鑽に云々やら、調整や円滑や効率化云々やら、さらりと答えにくいものばかりである。
直接社内での評価としてわかりやすい業務を、わたしはずっとしていない。
火田さんにわかりやすいような、火田さんと一緒の仕事というものも、ない。
親会社の革新的事業推進研究室、的なものなど、当座の我が社にはなんの利益ももたらさないのである。
はてさてどうしたものか、とあごをさすりながら、ふむふむとわかっているようなそぶりでうなずいていたのである。
「竹さん、なにかある?」
火田さんが、不意打ちである。 うなずくそぶりをしていたのだから、とくにありません、と素直に返せばよいものを。
「はい。そうですね」
と、さも待っていたかのように、返事をしてしまっていたのである。
この、あまのじゃくちめがっ。
さりとて、個人的な諸事項は、皆の前でするものでは、ない。
大分県が、さて竹さんは何をいうのだろう、と、市川海老蔵そっくりの顔で、パチリと、にらんでいる。 馬場さんは、自分は何か聞いておくべきことがなかろうか、と真剣に書類とにらめっこをしている。 リョウくんは、とりあえず、ほわっとしたようすで黙っている。
火田さんが、ねえ何でもいいから、何かいってよ、とわくわくした目でわたしをみつめ続けているのである。
えいっとぉ。
残された行を急いで追いかけ、何かないか探しはじめる。
おや。
評価判断事項の最後の一項目に、目と思考が、はたと立ち止まったのである。
「どれだけ、笑わせましたか?」
大真面目に、書いてあったのである。
「あのぅ」
わたしはそこを指差しながら、ずずいと火田さんににじり寄る。
これは試行回数と成功数を記入するための、斜め線でしょうか。
つまり、たとえば二/三と書いて、笑わせた成功率が六割強、と如実にわかってしまうのである。
不況による就職難を就職率の低さで盛大に騒ぐ世間のように。
百回洒落を言って十回笑わせるのと、 十回洒落を言って十回笑わせるのとでは、
事実であっても、真実ではないのである。
わたしがどちらか、というのは言うまでもないことである。 であるからさして心配すべきことではないのだが、わたし以外にこの項目について質問しようとする人間が、おそらく誰もいないだろう。
であれば。
火田さんがせっかくこの一行に、身を挺して、我が身を顧みずに払った犠牲が報われぬままになってしまうのである。
それは、しのびない。
「えっと、それは」
たとえば、の冗談で加えてみたけど、それに対する五段階評価はなしね、という意味の斜線で。
「つまり、書いたけどやっぱりなしね、の意味の斜線って意味ですよね」
馬場さんがフォローをいれる。
「うん。まさか、そうくるとは思わなかった」
火田さんが、嬉しさと恥ずかしさが入り混じったような顔で、笑う。
「じゃあ」
一日何回だったかを見込んで、さかもどって数えなおさないと、と大分県。
「えっ。じゃあ、とりあえず竹さんは、今日の分は一回クリア、じゃないですか」
やにわに、冷静な口調で割り込んだのは、リョウくんである。
「ちなみに」
火田さんが楽しそうに、付け加える。
新人さんとか若いひとが新しく入ってきたら、その項目が変わります。
「何回、つっこんだか」
つまり、上に立つ人間は、如何に下のものがツッコミやすいように接するか、が大事になるんですね。
じゃあ竹さん。
大分県が、やれやれという顔でため息を、ついたのである。
「今まで、つっこまずに流してきてしまって、すんませんでした」
いやなに、気にはしとらんから、以後は、よきにはからってくれたまえ。
「ちぇっ」
舌打ちした大分県に、皆が笑う。
むむむ。
これは、わたしが笑わせたのか大分県が笑わせたのか、判別がムツカシイところである。
人事考査とは、なかなかムツカシイものである。
2010年03月01日(月) |
「おとうと」に、おっとっと |
今日は何の日か。 毎月一日の、「映画サービスデー」である。
千円で観られるこの機会を、久しぶりに得てみたのである。
仕事帰りの手頃なところ。
なんせ帰り道に、銀座有楽町を通り抜けるのだから、映画館に事欠くことはないのである。
しかし、そこはさすがである。 とにかく、混む。 それは目に見えているのである。
それよりも、作品、である。
ハリウッドの甘木有名作品などは、わたしが寄る術もない天の邪鬼であるから、選ぶはずがない。
しかし、手頃な作品が、なかなか、ない。
七時以降の上映作品、混雑具合などなどを鑑みて、我が地元上野を選んだのである。
なかなか穴場で、混雑している姿を、あまり見たことがない。
しかし、作品はなかなかのものをかけていたりするのである。
そこで。
「おとうと」
を上野東急にて。
主演吉永小百合、笑福亭鶴瓶、蒼井優、加瀬亮ら、そして監督は山田洋次である。
吉永小百合は、たいへん結構である。 年上の方であるならば、むしろ好ましく望ましい方である。
しかしやはり、わたしのお目当ては、蒼井優である。
最初の、
「お母さん、長い間お世話になりました」
の台詞を聞いたときには、許されるならば「卒業」よろしく、花嫁姿の彼女を奪いにゆくか、泣きむせぶ叔父役の小林稔侍の傍らで、鼻水垂らし、嗚咽どころでなく、全身を震わせてしまうところである。
バツがついて帰ってきたとき、加瀬亮と一緒に、
「やったあ!」
と手を挙げてしまったところである。
さてさて、そんなうすらとんかちのこんこんちきなことは置いといて。
たまには真面目なことを話そう。
山田洋次作品は、どうにもほめそやす気持ちになれないのである。
物語やらは、よいと思うのである。
玄関で靴を脱ぐときに、隣の加瀬亮に、つと自然によろめいて腕を掴もうとする描写は、ふたりの見えない繋がりを暗示していたり、なかなか乙な演出が、そこかしこにある。
が。
台詞や言い回しが、どうにも、よろしいとは思えないのである。
「日本語を大切にしている」
との物言いはあるが、そんなことではない。
台詞のすべてが、役者の肉声に聞こえなくなる瞬間が、あるのである。
「〜だけれども」 「〜するわね」 「〜したわ」
まるきり、「小説」ならではの言葉遣いを、そのまま台詞としてはっきり読ませているのである。
であるから、ややもすると、言葉に「体温」や「臭い」を感じないのである。
人物が言葉を喋っているのではなく。
人物が台詞を読み上げている。
ように、聞こえてしまうのである。
勿論、これらはわたし個人の感じ方であり、他者もそうであるかというと、必ずしもそうではないのかもしれない。
役者が役を演じている感が、どうしてもわたしは好ましいとは思えないのである。
役者は役を演じるのではなく、役になりきり、役を感じさせない。
それをこそ好ましいと、じつはそれがどういうことなのかわかっていないくせに、そう思ってしまうのである。
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