ダメダメちゃむ日記
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1年間の全ての授業が終了しました。 体調はかなりよくなっています。 学年部、生徒とも割とうまくいっているつもりです。 そして、 「担任」 という言葉をずっと逡巡しています。 ダーもこの1年は一緒に暮らせるし、助けてくれる。 長女もまだ本校には入学してこない。 通勤の負担はほぼゼロ。 生徒の質はありえないほどよいです。 もちろん、様々な事情を抱えた生徒はいますが、 前任校の比ではありません。 そして何より1年間教えた可愛い「2年生」なら……。 体力的に「3年担任」はまだ無理かもしれないけれど。 チャンス……かもしれない。 でも、迷っている。 できるのか? 私でいいのか? 悩み始めたらきりがありませんが、 やっぱり私は臆病であり、慎重過ぎるのかも知れません。 ドクターは、 「僕はまだ早いと思いますが、最終的に決めるのはあなたです」 と言った。 あとは、管理職+上層部の判断に任せよう。 担任希望で書類を提出した……と思います。<ヾ(ーー )おいおい?
「もっと忙しければいいのに」と毎日思う。 時間さえなければ、余計なメールを送信しなくて済むのに。。。_| ̄|○ いや、今日は割と「用のある」メールしか……<ヾ(ーー )一緒一緒 授業時間が少なすぎる(--; 卒業式後、特に空き時間がまずいよ( ̄_ ̄lll) 今の教材は頭に入っているし、 相棒の授業数が減って、相棒が進んで仕事してくれるので、 採点とかプリントチェックとか、 作文の朱入れなどをできるだけやろうと思う。
夜は子供会の役員打ち合わせだったので、 時間がつぶれてよかった(;-_-) =3 フゥ まぁ、役員の仕事で何かと忙しそうなのでいいか(^^;)ゞ
携帯電話って……暴力的な通信手段だと思う。 いつ、どこで、相手が何をしていようと、連絡がついてしまう。 私は元々携帯メールが苦手だった。 Sさん、Miさん、Maさんくらいとしか携帯でメールできなかった。 携帯で文章打つのは超苦手、でした。 新車と同時に(バイクとの事故で揉めてナーバスだった頃)、 ダーリンのお奨め最新携帯?を買った。 使い方はほとんどわからなかった。 ただ、メールが少し打てるようになったのも、 画像を見ることができたのも、 ……実はHさんのおかげ?なんだよね(--; そのため、Hさんに散々ストーカー行為繰り返した( ̄_ ̄lll) 昨日、連絡くれるように頼んだのに、電話もらえなくて<ヾ(ーー )自業自得 ほとんど強迫まがいの「グレルぞ↓」メール送信してしまった。。。_| ̄|○<自己嫌悪 仕事が一区切りついた時間帯だと思い込んでたんです。。。_| ̄|○<m(。-_-。)m スイマセーン 実は歓送迎会の真っ最中だったそうです。 それを抜けて1週間ぶりに電話くださって、寒い外で、約1時間くらい、お話をして下さいました。
「僕が先週『担当は替えません!』と言ったのは、こうなるのを予想していたからですよ」Σ( ̄∇ ̄lll!? 「僕は、人には優しくしたい人なんですよ」(・-・)(。。)(・-・)(。。)ウン 「だから、僕は『焦らないで、ゆっくりゆっくりいきましょう』と言ったのに、それを勝手に『迷惑だ』って思い込んで、店長まで巻き込んだのは先生でしょう?」Σ(。。lll)ガーン!? 「一切連絡取らないで下さい、と先生が(メールで)言ったから、僕はずっと連絡を我慢してきました。それなのに『グレルぞ』なんてメールするなんて、言ってることとやってることが矛盾しているでしょう?」Σ(゚Д゚;≡;゚д゚)
怒り電話ではありません。(;^_^A アセアセ 病気と思い込みで暴走してしまった私を懇々と諭してくれる電話でした。 私が(ノД`)出すと、 「泣いちゃダメですってば。男と女が社会的な立場で話そうという時に、女性に泣かれると何も言えないんですよ? 男は」Σ(・ω・ノ)ノ!? 「卑怯ですよね、すいません。……泣きやみました」(ノД`)<ヾ(ーー )おいおい? 「病気で苦しんでいる人がいる、僕はできる範囲で優しくしたいんですよ。そういう性格なんです。だから、優しくさせて下さいよ」Σ(゚Д゚;≡;゚д゚) トップ営業マンの力(スゲー!?)で、一旦変更した担当をHさんに戻してくれるそうです。
『店休日には連絡しないこと。 夜8時以降には連絡しないこと。 仕事で滅茶苦茶忙しいから、 電話・メールできないこともあると理解すること』
先週、その条件を言われた時、「ヤバイ!」く(""0"")>と思った。 それは仕事を超えてまで私の依存症を受け入れるという意味だから。 「私はなかなか簡単には治りませんよ?」 「だから、ゆっくりいきましょうってば!」 いいのかどうか、迷いました。 でも、多分私はまたメールを送ってしまうだろう。 「また迷惑たくさん掛けますよ?」 「だから『迷惑だろう』っていうのは先生の勝手な思い込みです!」 ∑( ̄□ ̄;)!? 人生観が変わる一言だった。私はずっと『自分は迷惑な存在だ』と思い込んできたから。 「今のままじゃ、僕は(私から)クウガ(DVD)も借りられないじゃないですか?」(笑) 「それは……夫の交番経由で」(--; 「そういう筋の通らないことはできませんよ」 結局、 「ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」 と半(ノД`)しながら、ご好意に甘えることにしました。
でも、本当にこれでいいのか、ずっと悩んだ。 今朝、空き時間にNさんに携帯でその件を話した。 「その人ってすっごい究極のお人好しなんだね~」^^ 「それでいいと思うよ、甘えてもいいと思う」^^ Nさんには経過をずっと日記&メールで相談してきたから、 正直(;-_-) =3 ホッとした。 自分が道を踏み外しているんじゃないのか、すごく不安だった。 でも、 「友だち」と呼べる人が極めて少ない私にとって、 これから本気で治療していく上で、多分Hさんは大切な存在だと思う。
店休日と夜遅くは数少ない休養と家族団欒の時間だから、 今日は踏ん張って(笑)Hさんにメールを送信しなくて済んだ。(;-_-) =3 「転移」ではない。 理解者として、共感してくれる友人として、 Hさんに少しだけ? 元気をわけてもらおう。
間違ったら、またやり直せばいい。
依存症を自覚してから1週間。 ブラボーなまでに、快方へと向かっています(o^-')b ダーリンの分析力はすごいですv(≧∇≦)v♪ アイ ラブ ダーリン フォーエヴァー♪(はぁと)です(*^o^*)
今回の転移の原因は「冬のソ○タ」でした。。。_| ̄|○ チュンサンはダーリンそのものです♪<愛に目が眩んでますからd(^-^)ネ! そして、Hさんがミニョンさんだった訳ですよ ┐('~`;)┌ かと言って、Hさんがペさんに似てるかと言えば、これがもう 全っ然似てない!<さりげなく失礼です(;^_^A 実は先月の土日、お店でイベントやっていた時に、 Hさんの写メを1枚撮っていたのです。<忘れてた 携帯は新車とほぼ同時に買った新機種ですので、私はよう扱いまへんが。 一昨日かな、画像を見ることができたのですが、大変安心しました! 「よし、萌えない!!」(≧ ≦)Ω <失礼にもほどがあるぞ(笑) じゃあ、何がミニョンさんだったかというと、 「眼鏡とスーツと優しくて甘い台詞と笑顔」(人のよさ)ですね(^^;)ゞ う~ん、新採用の頃から、眼鏡萌えなんですよ(;^_^A アセアセ それと、「仕事ができる優秀さ」とかかな? ……なんてお手軽なんだ!?>自分。。。_| ̄|○
で、さっきカローラの店長さんに電話しました。 「あれから家族(夫)ともじっくり話し合いました。Hさんが徹底的に無視して下さったおかげで、転移の方は治りました。まだHさんにメールを送ったり依存してご迷惑はお掛けしていますが、店長さんの適切な判断で助かりました。まだまだご迷惑をお掛けするかもしれませんが、これからもよろしくお願いします。Hさんにもよろしくお伝え下さい」m(_ _)m
これは嘘じゃない。自分でも「転移は治った」実感がある。 何故なら、今日(日曜)、久し振りのダーリンのスーツ&眼鏡姿にo(☆∇☆)oきらりーん♪と ダーリンに萌えまくり! ストライクど真ん中!! ヾ( 〃∇〃)ツ キャ~~~~♪ だったからです!o(^^o) (o^^o) (o^^)o キャアキャア♪ いつもの制服姿もいいけれど<割と制服フェチ(笑) 毎日のご馳走よりも、ごくたまの大好物(眼鏡&スーツ)が新鮮でした!(*^o^*) ちゃむ&ダーリン、これからもラブラブの毎日が送れそうです♪o(^^o) (o^^o) (o^^)o キャアキャア♪
昨日分の日記「激痛」は実は今朝書きました。
で、一番肝心なところを書き忘れてますd(^-^)ネ!(笑)
はい、ダーリンの反応ですが……(--; じつはもう年末の夫婦喧嘩の以前から、 私以上にダーの方が理解していたようです、転移状態( ̄_ ̄lll) ダーが「転移」という言葉や概念を知っているのかは定かではありませんが。 「だって、僕の時と懐き方のパターンが同じだったもん」Σ( ̄∇ ̄lll!?えぇ~っ!?<犬扱い!?(爆) というのは、半分冗談(?)として、 ダーリンと出会った頃のネギカモ(ガスコンロに替えボンベまで持参)状態!?ε=ε=ε=ε=ε=ε= ΩΩΩΩへ(^∇^)┘Ω 。。。_| ̄|○<全く気づいてなかった自分
つまりは、恋愛感情は全くない「依存症」&「転移」であること、 それは誰が悪いわけでもない「病状の一つ」に過ぎないということ、 ダーリンは理解してくれたのです!!v(T∇T)v♪ ダーリンは宇宙一のアンビリーバボーマイスイートハニーオンリーワンパートナーです!!。(T∇T) そんでもって、最後に一言。 「でも、Hさんと『僕』は今まで通り友だちでいいんだよね? そうじゃないと向こうも気を遣うでしょ?」(ToT) すごいよ! ダーリン!! 何かもうあなたってスーパーマンですか!? いえ、ダーはスーパーマンではありません。 実のところここ何ヶ月か、彼は不眠症だったのです(--; 。゜゜(´□`。)°゜。ワーン! 「仕事のストレスかな~?」とか思っていた「私」が原因だった訳ですm(_ _)m やっぱり、私にはもうこの人しか要らないでしょ!?ヾ(≧Д≦)〃 ってな朝を迎えたのが昨日です(T∇T)
そして、天罰のような歯痛ですよ(--; もう絶対天罰ですね。。。_| ̄|○ 抗生物質と痛み止め飲みました。
今朝、再度ガリガリくんやってもらって、痛みは相当ひきましたが……。 むしろ「おいらにもっと天罰くれ~~~~っ!!」て感じです。。。_| ̄|○
ただ……。 「激痛」を書き込みながら、私の中に初めて「治りたい!」(T∇T) という気持ちが沸いたのです!(≧ ≦)Ω これは昼前にNさんに、そしてその後迷いながらHさんにもメールしました。 発病以来18年、私は初めて心底「治りたい」と思うことができました。
ダーと出会った27歳の時、薬はあまり飲んでいませんでした。 薬はなしでも、アルコール依存で、異性関係が派手で、 フラフラしていました<ヾ(ーー )おいおい? 元婚約者との価値観、人生観の違いの悩み、 支部代表としてレポートを発表するプレッシャー、 いろんな不安は、不幸な生い立ちを持つダーリンにすぐ転移しました。 彼に「家族」を創ってあげられるのは、私しかいない!ヾ(≧Д≦)〃 1ヶ月もかからない内に、完全にダーなしでは生きていけないほど転移して、 いきなり別れを切り出された元婚約者の恨みによる強迫・恐喝、 母親と兄の猛反対、 突然現れた意味不明ストーカー女、 抗議に電話につられて結婚反対か辞職を迫る彼の上司。Σ(゚Д゚;≡;゚д゚)!? いや、ものすごい騒ぎでしたよ(笑) それをきっぱり断ち切って、見事に1年でゴールイン!ワーイ ( ^_^)o-o<※ ☆ パンッ♪ 私とダーリンの絆は決して揺るぐことはありません!!<( ̄^ ̄)> でも……。 それでも「生きたい」という意欲はどうしても私にはもてなかったのです。 娘sが健康に生まれてくれた後のうつ病再発。 「私のうつ病はもう一生治らないだろう」。。。_| ̄|○ ずっとそう思ってきました。 治療しながら、ダーと私と、自分たちが親からもらえなかった 「絶対的な無条件の愛情」を降り注ぐようにして娘sを育てた。 娘sの自尊感情は今のところばっちりだ(^-^)v そういう風に育ちたかったように、私とダーの生まれ直しは順調だ。 でも、 心の奥底ではまだ「早く死にたい」という気持ちがあった。 3年(多分それ以上)前からの拒食傾向、 家事という労働力再生産労働への拒否、 どこかで「私の仕事(ダーリンに家族創り)はもう終わった」と思いたがっていた。 結婚12年での自殺未遂の回数は半端ではない。 娘sも深層心理では 「いつお母さんがいなくなるかわからない((((;゚Д゚)))ガクガクガクブルブルブル」 という不安でいっぱいなのだ。。。_| ̄|○ 仕事についても同様で、 「私なんかより普通のいい先生の方が生徒のためになる」 と、ずっと不安だったし、そう思ってきた。
しかし、3月1日以来の迷走状態の中で、 私は自分の中に「自尊感情」(自己肯定感、セルフエスティーム)が育っていることに気がついた。 「治りたい!」 うつ病が治った「私」って、どんな人間(教師・母親)になれるんだろう? 今、初めて私は自分自身の「うつ病」と依存症に向き合おう。
「活動限界 後、 再起動」
って、エヴァかよ!?(笑) うん、でも今は、そんな気持ち。 自分の中で、今でも泣いている小さな子どもをサルベージしてあげよう。 そして、大人になった私が抱きしめてあげよう。 「つらかったね、さびしかったね、でも本当によくがんばって生きてきたね」 トップページに貼った「甦える魂」に書いてあった、 私が本当にやらなければならなかったことを、今から始めよう。 もう「私」は逃げ出さない。
天罰なのでしょうか?(笑) 朝から右上奥歯が猛烈に痛い! 昼休みに帰宅して、ヘルニアだった頃に買った腰痛・関節痛の薬を飲んだら、 これがまた嘘みたいに痛みがなくなった……4時間だけ(;^_^A 勤務終了後、急いで診察券探して、 以前お世話になった近所の歯科医へーーーーーーーーーーヽ(;´д`)ノ 大学生の頃に治療と噛み合わせのために被せていた奥歯の中に 「おできができている」そうで(??) はい、キュィ~ン!ガリガリガリガリ! と削っていただきました(ノД`) ええ、本当に痛かったっすよ!ヾ(≧Д≦)〃 「ああ、私は今天罰を受けているのね(ノД`)」とか思う余裕もなく、 被せていた金歯を取ったところで一応終了。 腫れているので、これ以上は明日、ということで、 抗生物質と痛み止めを処方していただきました(T∇T) 「お酒は飲まない方がいいですよ」 とは言われましたが、依存症まっしぐらのちゃむさん、 そんな聞き飽きたアドバイスごときで<ヾ(ーー )おいおい? 我慢できるわけありません<( ̄^ ̄)><ヾ(ーー )威張らない もちろん、飲みましたよ。。。_| ̄|○ タバコも発泡酒もガンガン! 炬燵で居眠りしてたら、 午前2時頃歯痛で目が覚めました(T∇T)<10日(土) 就寝前と夕食後と痛み止め飲めた(;-_-) =3 フゥ でも、本当に忘れたい、解きたいのはもう一つの依存症(T∇T)
実は今朝、5時頃起きたところ、 ダーは既に娘sのお弁当(お別れ遠足)を作り終えているところでした。 「おはよ~う、わぁ! すごい、もうお弁当ができてる!?」 「眠れなかったから……」 Σ(ノ°▽°)ノ!? そして、 「何か僕に隠していることあるでしょう?」Σ(・ω・ノ)ノ!? 遂に来ちゃいましたよ、Xデー!!∑( ̄□ ̄;)!?<ヾ(ーー )おいおい?
7日(水)にいきなり 「病院に薬もらいに行くから午前中休む」とか言い出したし、 その日は結局学校行かなかったし、 このところずっと台所の換気扇でタバコ吸いながら、 携帯ばっかりいじってたから、わかったんだと思いました。 もしかしたら、私のメール見たのかもしれない。 Hさんからの受診メールは最後の1つしか残していなかったけど、 それを読んだだけでも明白だし、 何よりN子さんへの相談メールも受信メールもほとんど残していた。 携帯のメールを読まれることには別に抵抗はない。 こうやって、誰にだって(ダーにも娘sにも)読まれる形で日記にだって書き残しているのだから。 隠したかったわけじゃない、ダーを傷つけたくなかっただけ。 だから、全部話した。
5日(月)の店休日にメールを3回も送って、 「事故かと思ってドキッとするので、そこはわかって下さい」 ってメールもらってから、自分がHさんに依存しているのに気づいた。 ヤバイ! と思って「担当替えて」ってメール送ったら、割と怒りメールが届いた。。。。_| ̄|○ 6日(火)の午前中空き時間、お詫びメールを送ろうとしたら、 ほとんど同時にHさんからのお詫びメールが届いた。 携帯に電話したら、 「僕も今メール送ったところなんですよ。やっぱり気が合いますね! 僕も昔うつだったことがあるからこそ、先生の力になりたい! 何しろ僕は今滅茶苦茶ポジティブシンキングだから、先生の助けになれますよ! 今ここで僕が手を離すのが一番いけないと、僕は思います。先生の担当は絶対僕ですからね! 焦らないでいきましょう」 とか言われて、泣きながら「うん」と言ってしまった時点で、 私は「転移」してしまったようだ。 その日は夕方車の点検に行く予定だったので来店したが、 忙しいHくんは外回り中で会えなかった。なんだ、つまんないなーと思った。多分、ここが決定的にまずかった!
ダーが感動して泣いた前任校の答辞を読みたかったし、 前任校の先生方にもご挨拶したかったので、 教頭と事前に約束していた前任校に行った。 わざと夕方6時過ぎにしたのは大好きな生徒たちに会うのが辛かったかもしれない。それでも、部活帰りの数人とは挨拶だけした。皆とても喜んでくれた。私も嬉しかった。 自分たちのいたらなさを反省し、それでも見捨てなかった先生たちに感謝し、1年しか頑張れなかった最上級生としても自分たちを恥じながらも、後輩たちへ母校を頼んでいく、私の勤務校のとは180度違う答辞だった。元同僚から、彼女ら彼らのこの1年間の様子も聞けた。本当に嬉しかった。 ちょうどダーから「今日は遅くなるので夕飯の買い出しを」頼む電話が入った。……これも、間が悪かったとしかいいようがない。 幸せ気分で前任校の近くのスーパーで夕飯の買い出し。 気がついたら、多分食事もろくに取っていないだろうHクンへ、お菓子の差し入れを買ってしまっていた。 「今お店ですか?外回りですか?」 とメールを入れたが、(商談中だったので)返事が来なかった。
家へも店へも迎える道を運転しながら、はたと気づいた。 何故こんなにHクンに会いたいんだ!?∑( ̄□ ̄;)!? 「転移」という言葉はその時思いつかなかったが、 帰路の信号待ちの間にメールを入れた。 「やっぱりヤバイ! 担当替えて!!」 帰宅後、娘sに食事をさせながら、ひたすらメールの応酬で(ノД`) Hクンは頑として担当を替えさせてくれなかった。<担当替えは確かに相当大変らしいのだが(--; そして、↓8日(木)日記「削除」へと続くのです(ノД`)
メールしては削除。返信を見ては(ToT) そして削除。 送信、削除。着信、削除゜(PД`q)゜。 昨日はそんな一日でした( ̄_ ̄lll)
「(恋愛)転移」は精神科用語で、一般にはほぼ知られていないし、 メンタル患者自身もほとんど知らないのではないだろうか? 数年前、たまたま「うつチャット」の流れで「転移」という言葉を見て、 真剣に検索して調べて、 自分とドクターが「転移」と「逆転移」だったことに気づいた。 その言葉を最初に発したのは多分Mさんだったと思うが、記憶は曖昧。 ものすごい勢いで、転移のことをコピペして、 その場にいたうつ仲間に説明した日があった。 専門用語が多くてなかなかうつ仲間も理解できなかったが、 自分の心の整理のためにアップしたのが、 うつ病掲示板の過去ログ88~95です。<読まないこと推奨(笑) この流れに従って、「転移」を相談するのはドクターとN子さんしかいなかった。
まず、昨日は朝起きて、職場に年休と自習課題の連絡を取り、ドクターの病院へε=ε=ε=ε=ε=ε= へ; ̄_ ̄)┘ ドクターには隠し事はしていないので、 「例のディーラーさんと……(略)なメールを散々交換して、 昨日の朝、電話で『僕も昔そうだったから気持ちがよくわかります! だからこそちゃむ先生の力になりたい! ここで手を離すのが一番いけないと思います! 先生の担当は絶対ずっと僕ですからd(^-^)ネ!』と言われて、 ……転移してしまいました」(若さって罪よね ┐('~`;)┌ ) もちろんドクターは専門家なので転移の危険性を十分承知しています。 「ご主人以外の男性に転移しては大変ですよ。すぐにその関係を切りましょう」<( ̄^ ̄)> ……ホントはね、 ドクターに「それくらい大丈夫ですよ!」(^-^)vって 言って欲しかった(┰_┰) でも、Hさんと関わり始めてからの経緯も夫婦喧嘩も全部知っているドクターは、 最初からかなり心配していたのでしょう。 それを、「絶~対! 色恋とかには発展しませんってば!」(^∇^)vと 誤魔化してきたのは自分。 うん、年末の夜更けに携帯で相談して(ノД`)ながら「大好き♪」って言った時点から、ダーもドクターもこの展開を予想していたんだろうな(┰_┰)
そのまま連絡なしでお店に行った。 Hクンがいなかったのは本当にラッキーだったと思う。 店長さんに全部話した。病気の特性、転移という擬似恋愛感情依存症の危険性、家庭崩壊の危機。 「Hには自分が責任をもって話します」 さっすが本店の店長さん(前担当だった店長さんは異動したので初対面)! ビシッとHクンに話をつけてくれたようです。 「私と連絡を取らないように!」 それで、「店長さんにお任せしました」というメールをHクンに送信。 本当は最後にお礼とお詫びを直接言いたかったのですが、 店長さんは「それもしない方がいい」と言って下さいました(ノД`)
昼頃帰宅し、年休を1日にする旨、職場に連絡して、 メール送信(ノД`)、メール着信(ノД`)、削除(ノД`) × ∞ とにかく「最後に直接会いに行けないように」ビールを飲んで寝逃げしました。 とにかくさびしかった。 自分が決めたことなのに、家族を守るためなのに、 何がどうしてこんなに切ないのか、自分でもわかりませんでした(┰_┰)
「夜回り先生」こと水谷修先生も講演会や著書でおっしゃっていましたが、「依存症」とは本当に怖い「病気」です。 でも、「転移」については水谷先生はお話されなかったから、 もしかしたら、ご存知ないのかもしれません。 亡くなった子どもたち、または現在水谷先生が関わっている子どもたちの大半が「水谷先生に転移してること」を。 いえ、きっとご存知なのでしょうね、だからこその水谷先生の人生なのでしょう。
番号もアドレスも削除……したのに、 名刺から番号拾って、夕方携帯に電話してしまいました。 Hクンは出ませんでした。留守電でした。 これまでも仕事中は留守電だったことは多かった。 でも、今日は多分そうじゃないと思って……、 娘の携帯から電話してみました<ヾ(ーー )おいおい? Hクンが電話に出ました。元気な声でした(┰_┰) そして、自分なりの最後のお礼とお別れの挨拶をした……つもりでした。 直前に新店舗の整備担当さんから連絡があって安心した、と言ったら、 「じゃあ、もう会っても大丈夫じゃないですか!?」<ヾ(ーー )おいおい? 店長の目が光ってるらしくて、 「店長の指示で、僕は『はい』しか言えないんですよ……」 と、時々小声で話すHクン<ヾ(ーー )おいおい? 「依存症とか転移って病気は、そんな簡単なものじゃないんだよ!」(笑) やっぱ素人さんにはそう簡単には伝わらないんだな、と(T∇T) 娘の携帯から履歴削除して、名刺をシュレッダーにかけた。 私の携帯に残ったのは、彼の娘さんの名前をもじった携帯番号とアドレス、 そして最後の「いつか病気が治ったら、絶対連絡して下さいね。先生とご主人と僕、ステキな人間関係が作れるはずです!」 ってな、甘ーーーーーーーーーーーーーい!!メール(自爆☆)
今は病気より向精神薬の薬物中毒の方が怖い。 だってこんなに副作用も禁断症状も出ている((((;゚Д゚)))ガクガクガクブルブルブル ダーへの依存も、タバコ、アルコール、薬物依存も、ドクターへの転移も、拒食症も、リバウンドも(笑)何一つ解決していない。 「もう18年?」「まだ18年?」 何もかもが混乱のまま、Nさんに携帯メールして、この日記読んでもらって、相談に乗ってもらった(ノД`) 本当に嬉しかった! ドクター以外で転移のこと知ってるのはNさんしかいないから。
そして、ダーにはやっぱりどうしても転移のことは話せない。 私にとってダーの過去恋話は笑い事なんだけど、 ダーにとって、私の過去話はキツイらしい(--; もちろん「愛されているから!<( ̄^ ̄)>」なんだけど(;^_^A アセアセ 一番信頼しているドクターと「転移&逆転移でした(*^o^*)」なんて言えないよーーーーーーーーーっ!ヾ(≧Д≦)〃 ああ、一番愛する人に愚痴が言えないって、結構つらいわ(;-_-) =3 フゥ
今日も何回もNさんにメールして、頑張ったつもりだったのに、 放課後、やっぱりHクンにメールを送ってしまった。。。_| ̄|○ 「依存症」って、マジで怖いよ。((((;゚Д゚)))ガクガクガクブルブルブル 明日がもっと忙しければいいのに(ノД`)
ちくしょう! 絶対治ってやるからな!!>うつ病・依存症・転移 メンタル患者甘く見るなよ!!>H 絶対いつか2家族でまた笑って呑み会やるからね!>みんな
Hさんに転移しそうなので、 いや、今朝の電話からもう転移しているから、 担当を替えてもらおうとしたけど、 今朝メールして電話して、 逆に温かい言葉に涙して、 更にヤバイ状況になったので、 夕方から改めて担当替えてもらうように散々メールしたけど、 無理だそうなので、 携帯からアドレスも番号もメールも全部削除した。 自分が連絡取れないように。 車がどうにかなった時だけ、 会社に電話すればいい。 そもそも私は車に興味はないのだから。
「転移」については、 うつ病板の過去ログ88~95に書いてあります。 相当「<<過去の発言」に戻らないと読めません。 というか、そこまで遡るのは正常な人にとっても かなり危険な行為ですので、見ない方が身のためです(笑)
私を理解して支えて力になってくれるのは ダーリンとドクターだけでいい。 私にとって一番大切なのは何よりも家族だから、 影で他の優しい異性に頼るようなことはできない。
私は多くのモノに依存している。
まずタバコ。 これはもう超ヘビースモーカーだ<( ̄^ ̄)><ヾ(ーー )威張れない
次に薬。 私は23歳でうつ病を発症したので、かれこれ18年(その内約5年は薬なしで生活できた)、抗精神薬、睡眠導入剤を毎日服用している。 特に睡眠導入剤の方だろうか? 就寝前の薬を飲み忘れると、必ず翌朝禁断症状が起きる。震え、不安、渇望感……いや、人間として生活することができなくなる。仕方なく朝服用すると、禁断症状は治まる。 ドクターは「うつ病は治ります」と18年間言い続けてきたが、この薬物依存から本当に脱出できるのか、かなり不安。
そしてダーリン(連れ合い)。 16歳辺りから私にいわゆる彼氏がいなかった時期は少ない。 常に男に依存してきた。 性交するようになったのは大学からだが、避妊はきちんとした。 躁鬱病でアル中で借金持ちだった父(長年の離婚調停の果て、高3の秋に離婚成立)を、 家族3人(母・兄)で口汚くののしった2週間後、 大学合格発表前夜に轢き逃げ(私は長年自殺だと思っていたが、ダーが検分書を見て、事故と断定したのは去年)で亡くしてからは、 情緒不安定が続いた。 ダーリンの前は主治医に依存していた。(精神科用語では「転移」) 私のうつ事情は過去日記とうつ病掲示板に書いていますが、 うつ病板は放置していた間に散々エロカキコされたので、 過去ログ4~515くらいまで遡らなければ読めません(--; モトが素直で純粋な人間なもので(笑)、 彼氏がいなくてふらふらしていた時期には性被害に数回以上遭い掛けましたが、 奇跡的に一度も赤の他人にレイプされることなく、 K官だったダーリンに終身補導されました(笑)
あと、アルコール(--; 抗精神薬に眠剤飲んでいるんだから、アルコールは悪いに決まっている。 でも、やめられない。 来週からもう一度ノン・アルコールビールに戻してみようと思う。
それから漫画。
それに生徒(笑)
更に、カーディーラーのH田さんへの依存。 顧客の常識を越えて、H田さんには公私混同でご迷惑をお掛けした。 用もない電話とか、友だちになったつもりのメールから。 今夜、最後のメールを送った。アドレスも履歴も削除した。 「誰か若い人に担当を変わってください。これ以上H田さんにご迷惑を掛けたくありません」 私は、これ以上トップで過労状態のH田に迷惑を掛けたくない。 H田さんからは「引継ぎはできません。冷静になってください。僕は迷惑とは思っていませんが……」という返信が来たが、 私が自分を許せない。 明日夕方行く予定だった1ヶ月点検、H田さんが居ない隙を見計らって、 部長さんか店長さんにお願いしようと思う。 H田さんは本当によくして下さって何も落ち度はないけれど、 私自身がこれ以上H田さんに甘えられない、と H田さんとは絶交になるかもしれないが、 彼が過労死するよりずっといい。
((((;゚Д゚)))ガクガクガクブルブルブル かなり久し振りに怯えております。 何てシンクロしやすいんだ、自分。。。_| ̄|○
全国教研に参加して、いつきさんや珊士クンにシンクロして、 「夜回り先生」こと水谷修先生の講演会に行き、全書籍にサインしていただいて泣いて、 前任校の卒業式の様子をダーから聞いて゜(PД`q)゜。大泣きし、 水谷先生の書物を読み耽って、日記アップして、 気がついたら自分にとってタブーな筈の2004年3月~7月の日記を読んでしまった。
まずい。。。_| ̄|○ 明日は休まなければならないと思う。
ヤバイ。。。_| ̄|○ 2日で水谷修先生のご本を6冊読もうとしている。 これは「私」のペースじゃない。
先週から呑み会の度に「いつもの私なら絶対しない」触法スレスレ行為を繰り返している。 大好きな先輩1人と地元の教育を守るために。 夕方無茶をやったら、すぐ本田ッチ(トヨタカローラトップ営業マン)から電話が入った。 「ちゃむさん、やめた方がいい。今あなたがやろうとしていることは、何よりもあなたのためにならない。だから先週僕は止めたんです。他のお客さんなら言いません。でも、あなただから僕は言うんです。ソレはやめないといけません」 。。。_| ̄|○ ありがとう、本田ッチ(ノД`)
……↑ここまで書いたら、過去がフラッシュバックしたのか、 12月以来シンクロしたり依存してきたモノが噴き出したのか、 ここ数日のハイテンションに嫌気がさしたのか、 久し振りに吐き気を感じてトイレで思い切り嘔吐した。 休養 が必要だ。せめて1日。
今の学校で過ごせたからこその平和に感謝しなければならない。 「もっともっと」なんて思っちゃいけない。 私はいつだってギリギリ、 いつだって精一杯頑張っている。 これ以上無理をしてはいけない。
私は「私」でしかあり得ない。 もちろん成長は必要だ。 しかしそれにはもっと時間も必要だ。 まだまだ私は全然治っていないのだから。
昨日の「卒業」(長い!)の続きです(*^o^*)
もう一つの忘れられない卒業式。 卒業式の日、担任は幸せだ。3年の担任という激務の果ての慶びの日である。 副担任は淋しい。正直、涎が出るほど担任が羨ましい。 しかし、再発以来私はドクターからもダーからも担任禁止令を受けている。 事実、1年生担任の姿を見ていても、「私には無理だ!」とわかる。 うつ病と共に生きていく以上、私に担任はできない。特に3年担任は。 ある年、図書館主任をしたことがあった。 その年の3年生には読書好きの女の子が多かった。 すぐに昼休みは彼女たちと私の読書サロンになった。 昼休みに職員室にいるなんてもったいない。 私の友は図書館におり、仲間は図書部員だった。 彼女たちのリクエストでガンガン本を買った。 彼女たちが続きリストを作ってくる。その通りに私が買う。 私が図書館サロンのマダムであり、毎日本を借りていく常連客(笑)がたくさんいた。彼女たちは読書に逃げなかった。読書と受験勉強を見事に両立していた。 授業でこそ教えたことはなかったが、私たちは読書で繋がった仲間だった。 その子たちが、卒業式に手紙の束をくれた。 「大好きなちゃむ先生へ 図書館愛好会より」 あんなに嬉しい卒業式はなかった。あんなに大切な宝物はない。 教師をやっていてよかった。図書館で君たちと出会えて本当に嬉しかった。 私の教師人生の中で最高に幸せな卒業式でした。
そして昨日。 今年1年の選択授業で100人前後は教えただろう3年生の卒業式。 素晴らしい3年生だった。 「非の打ち所のない」生徒に出会ったのは教師人生で初めてだった。 心が豊かで、感性が豊かで、基礎学力があり、授業にも百人一首にも全力投球だった。 生徒会はもちろん、体育大会、文化発表会、こんなに完成された中学生を見たのは生まれて初めてだった。 もう(ノД`) ただ(┰_┰)ウルウル 何の心配も不安もなく迎えられる、こんな卒業式も初めてだったな。 卒業式はもちろん厳粛にマタニティフォーマル。 2月14日に着て校長から怒られた服だが、流石に今日は文句言われなかったゾ<( ̄^ ̄)> そして、在校生全員で卒業生を見送る花道では、 冬休みに校長に注意された、「ハ○ー・○ッター」のグリ○ィンドールのローブにグリ○ィンドールのマフラー巻いて、外掃除用の箒を持ってコスプレでお見送りv(≧∇≦)v♪ 在校生も「先生、飛んで!」と大騒ぎだったが、あいにく私はマグルなので飛べません(笑) 3年生にも保護者にも大受けさ! わぁいヽ(∇⌒ヽ)(ノ⌒∇)ノわぁい♪<自分解釈(笑) 職員集合の後の昼休憩、まだ卒業生がたむろしている近くの公園へε=ε=ε=ε=ε=ε= へ; ̄_ ̄)┘ 「後で写真撮ろうd(^-^)ネ!」 と約束した生徒たちのために(箒抜き)の偽魔女参上撮影大会だ!O(≧∇≦)O イエイ!! 本当に君たちはサイコーな3年生だったよ。 でもね、今の1年をあと2年で、君たちと同じかそれ以上のレベルまで、 私たち育てるから。安心して母校を巣立っていけ! 羽ばたいていけ、その素晴らしい翼で(o^-')b
そして、同じく昨日。 もっと忘れられない卒業式に、ダーリンが出席した。 昼には携帯に電話が入っていた。 「ちゃむちゃん、○中の卒業式、素晴らしかったよ。服装も頭髪も起立着席も式の態度も完璧で、答辞も歌も最高で僕も涙が出たよ! 生徒も来賓もみんな泣いてたよ!」 祝電を贈っておいた、私の前任校の卒業式に、地域の交番所長として、ダーリンは来賓で参列したのだ。 (┰_┰)滂沱~~~~~~~~~~っ!! あの学年が!!!!? ゜(PД`q)゜。<ホントこんな感じ
1年の時4クラス教えた学年だった。 かなりヤバイ3年生がいたけど、タバコ仲間として悪の3年生とは通じていた。でも、彼らは荒れ過ぎていた。 もちろん彼らには暴れるだけの理由があった。もう決して口外したくないほどの。 彼らは大人に傷つけられ過ぎた。 親に傷つけられ、そして教師にも傷つけられていた。その心の痛みが、彼らを荒れさせた。もう思い出せないような荒れっぷりだった。 当時の3年部がどんなに大変だったか、この目で見たし、 その心の痛みにリンクしてしまった私には、彼らの作り出す大音響(ドアや廊下を蹴る、叫ぶ、他)は耳にきつすぎた。 7月に1ヶ月の病休を取った。1学期の評定を出してから。 復帰した2学期には、1年生の1部の女子が荒れ始めた。 彼女らもまた家庭の犠牲者でもあった。 そこには力の暴力はなかったが、言葉の暴力という恐ろしいほどの破壊力を持っていた。 その辺りの過程は2004年度の日記やうつ板に書いてあると思うが、 今の私には読み返す勇気はない。 書き込む気力もあまりなかったかもしれないが。 まず、女性担任が1人やられた。メンタルだ。2004年度3人目のメンタル病休<一人目は私ですが(*^o^*) 誰が荒れ果てた●組の新担任になるか。荒れの中心にいたのは(勝手診断)自己愛生人格障害のT。私はそのクラスに授業に行っている副担任の1人だった。 校長、教頭、学年長、副学年長単位の相当な会議があったと思われる。 年齢的、条件的には私のはずだった。 しかし私は赴任時にうつ病をカムアウトしていたし、その学校ではメンタル疾患が十分理解されていた。私がそのクラスの担任になったら命の危険があった。 ベテランがかなり無理な条件でそのクラスの新担任になってくれた。感謝してもしきれなかった。
そして、ほぼ同時に家庭のトラブルを抱えていた女性担任も倒れた。こちらもメンタルとなった。年休消化での復帰を待っていたが、彼女のストレスも大き過ぎ、こちらも病休となった。私はそのクラスの副担任であり、彼女が休んでいる間中、担任代行をやっていた。生徒ともうまくいっていた。 どう考えても「私か!?」く(""0"")> 悩んだ。相当に悩んだ。ドクターともダーリンとも相談した。論点は、 「私に担任ができるか!?」 という物理的精神的身体的な条件だった。 校長たちも相当な話し合いをしたに違いない。 ある日、遂に校長室に呼ばれた。 「●組の授業を私(校長)が受け持つから、○組の担任をやってくれないか」 そう、女性教師を2人倒した後、Tの攻撃は今や私に向いていた。 ●組に行くのがきつくて辛くて仕方がなかった。Tとその仲間による教師いじめの矛先は今や私を標的としていたから。校長の奇策だったに違いない。 「……医者からも家族からも言われています。現在の状況で担任をもつ気力と体力が私にはありません。ましてや、●組の授業を校長先生にお任せするなんて、私にはできません」m(_ _)m 実は、若くて元気な臨時講師が1年部にいた。あと3ヶ月と少しのこの1学年部を無事に乗り切るには、彼女にお願いするのが最も無難だった。 実は校長もそのつもりだった。若くて元気な彼女が第1候補だったと後でダーから聞いた。ただ、副担任で適正年齢の教諭である私の意志と立場を尊重してくれたのだった。 担任交替が発表される月曜日、私は学校に行けなかった。 Tらの攻撃は続き、遂に私にも限界が来てしまった。 「今すぐから少なくとも3月末までの休養が必要」 それがドクターと私たち家族の選択だった。 本年度5人目のメンタル病休。しかも同じ学年の女性教諭3人。それほど彼女らの言葉の殺傷能力は壮絶だった。 1月、私はうつ病になって初めての精神病院入院となった。春からの拒食症が激し過ぎた。2月には退院したが(笑) 3人の内、私が最も早く4月に復帰できたのは、ひとえに私には信頼できるドクターと十分にうつ病を理解してくれる家族の存在があったからだ。 4月復帰。でもあの学年からは離れる必要があった。命の危険が大きいからだ。 そして新しい生徒とチームワークばっちりの素晴らしい学年部に恵まれた。 しかし、校内人事の関係で例の学年を私が2クラス受け持たなければならなかった。 学年長は全クラス名簿を見せてくれて、 「ちゃむさんが行きやすいクラスを選んで」 と言ってくれた。 自分で選んだ2クラスの授業だけしか私は関わらないようにした。 例えトイレ前に10人座っていようが、私は自分のクラスの授業だけしか関わらなかった。そして、決して彼女たちに指導しなかった。 ~お互いに無視する、指導しない、干渉しない~ 彼女たちと暗黙の間にできた私ルールだった。 そのおかげで無事に1年間を過ごすことができた。病休も取らずに済んだ。 でも、次に最高学年となる彼女らとあと1年間を過ごすには、 私の状態はまだまだ整っていなかった。 かなりの無理をお願いしての2年での異動。それは緊急避難に近かった。 「かなりよくなったよ」 という風の噂は聞いていた。でも、彼女ら彼らを信じ切れなかった。 2年になって1週間で男性教師も1人倒したヤツラだったから(--; もう1人の男性が倒れる寸前に私が気づき、私のドクターを半ば無理矢理紹介した。 校長と学年長にも進言した。彼、今ヤバイです。彼のための学年編成をしてやらないと、また犠牲者が出ます。これがあの学校での最後のお節介だった。
あの学年が「素晴らしい卒業式!?」Σ( ̄∇ ̄lll!? 「僕も見ていて涙が出たよ。来賓もみんな泣いてたよ」Σ(゚Д゚;≡;゚д゚) ダーが帰宅して卒業式次第を見せてくれた。 名簿を見ながら、1人1人の顔が浮かんだ。1年の時、●組だった子、○組だった子……2年の時は……ほとんど全員思い出せた。 ああ、こんな風にクラス編成したのか、○○先生たち頑張ってたもんね。 Tの対策にはあの人が立ったのか……。 そして微笑みうつ病だった彼にこんないいクラス作って支えたんだ……。 ゜(PД`q)゜。 ゜(PД`q)゜。 ゜(PД`q)゜。 ダーから卒業式の様子を聞きながら、夫婦2人で泣いた(ノД`)(┰_┰)ウルウル 「答辞が○○と◎◎……」∑( ̄□ ̄;)!? ダ「僕も感動して、ほら、思い出し涙が止まらないよ。帰り際、校長先生としっかり握手して『感動しました! 校長先生、教育って本当に素晴らしいですね!』って言ってきたよ。ちゃむちゃん、教育って本当に無限の可能性を秘めている素晴らしい仕事だよ!」 と、私とも熱い握手。まるで選挙の候補者のような力のこもった両手握手にまた泣いた(ノД`) 「あいつら、がんばったよ。1年で変わったよ」電話したら携帯で教頭先生やU先生たちが教えてくれた。 「先生たちに苦労かけた分、しっかり答えて行ったよ」゜(PД`q)゜。 本当におめでとうございます。本当にありがとうございました。
見られなかった卒業式が、 教師人生で忘れられない4つめの卒業式になった。
忘れっぽい私だが、忘れられない卒業式が2つあった。 それが今日、4つになった(ノД`) 最初の「忘れられない卒業式」は2001年の3月だ。 2004年3月30日の日記「離任式」に書いてあります(〃 ̄ー ̄〃) 2000年秋、私はうつ病で初めての病休、そして春から休職を取った。
次女が生まれ、12ヶ月取れるはずの育児休暇を私は途中で切った。 どうしても、4月から現場復帰したかった。 1999年4月、0歳児の次女と3歳の長女を信頼できる保育所に預けた。 ダーは当時単身赴任だった。 4月、いきなりの椎間板ヘルニアに襲われた。 ほぼ3ヶ月毎夕整骨院に通った。 朝は眠たがる娘を無理矢理起こし、保育所へ預けて出勤する。 2年部だった……んだろうか?(記憶が曖昧)うん、多分2年部。 妊娠するまで持っていた学年に復帰させてもらったのだと思う。 授業は楽しかった。生徒が大好きだった。 そして夕方整骨院で治療を受け、娘sを保育所へ迎えに行った。 夕飯を食べさせ、風呂に入れて、洗濯? ……家庭生活の記憶はほとんどない。 近所に住む実母が手伝いに来てくれていたはずだ。 そう、椎間板ヘルニアで次女のおむつを替えるのも激痛だった。 生まれて以来布おむつを使っていたが、 4月からは紙おむつにしたような気がする。 不思議ときつかったとか辛かったとかいう記憶がない。 イヤなことは忘れる質なのでだろう(笑)
夏休みに県サークル集会があった。 尊敬する部長さんが、 地元新聞の差別記事に何度も抗議している話を聞いた。 彼女1人に闘わせてはいけない、素直にそう思った。 その直後、地元紙のコラムにとんでもないセクハラ推参文章が載った。 私は怒り狂った。 レポート用紙5枚に殴り書きした抗議文書を新聞社に送った。 翌日、少し落ち着いてからワープロで清書して再度送った。 質問項目への返答と、社をあげて対策をとり、謝罪記事を掲載せよという趣旨だった。 何日も総務部長と連絡を取り、 経過をワープロで記録していった。 ひどい風邪をひいた。 きつい抗生物質を飲みながらたった1人きりでの闘争だった。 当時の信頼していたA校長には報告していた。 個人として、新聞社に抗議し、対応させています。 もしかしたら校長先生にご迷惑をお掛けするかも知れませんが……。 と言った私に、A校長は「ああ、どんどんやりなさい!」と励ましてくれた。 質問状への回答は大変不満足な代物だったが、それが彼の会社の現実だった。 そして、謝罪を装ったコラムが数日後掲載された。 私は小躍りして喜んだが、校長と社会科のベテラン教諭は鋭かった。 「これ、全然謝ってないよ。前と同じ言葉を繰り返して茶化してるだけだよ」Σ(。。lll)ガーン!? その通りだった。 更なる謝罪記事を改めて掲載して欲しいという再抗議には、 「弊社といたしましてはこれ以上の対応をする意志はありません」 の一言だった。。。。_| ̄|○
ここから逆襲を始めた。 女性部はもちろん、県下各地のベテランサークル部長たちに、 ファックスで資料を送付した。 「ちゃむさん、どうして1人でやったの? 最初に声を掛けてくれれば手伝ったのに」 と何度も聞かれたが、私は「1人の読者」がどこまでできるのか試してみたかったのだ。
ダーはかなりの無理をして、何度も帰宅して家事育児を助けてくれた。(K官は勤務地外に出るときには上司の他行許可が要るんですヨ) 週末にダーの赴任地に運転して行く元気は私にはなかった。
秋。 ふと気づいた。 「娘が笑わない!!!」く(""0"")> 結婚前に治ったはずのうつ病が再発した! と直感した。 確かに私は多忙で過労状態だった。 自主的に再通院し、カウンセリングと投薬治療を受けた。 今度は私1人の生死の問題ではない、娘sの人生が係っていた。 ドクターと話し合い、ダーと話し合い、それでも仕事は続けたかった。 朝、空き時間、昼休み、夕方、私はいつも職員室の外で煙草を吸っていた。 この頃、既に同僚とはうまくいっていなかった。 副学年長のW先生からはいつも怒られていた。
ある呑み会の2次会で。 私は1人で飲んでいた。語り合う仲間はそこにはいなかった。 S先輩が隣に座った。 2年前、飛び込み3年副担任をやった時の、数少ない1人だった。あの時の学年部は最高だった。今でも機会あるごとに焼き肉パーティーをやる団結力ある「仲間」だった。 S「最近、お前に対する風当たりがきついの、わかってるな?」 ち「はい……」 S「W先生が何故お前にだけきつくあたるのか、わかってるか?」 ち「……わかりません」何故私だけ!? と理不尽な閉塞感で一杯だった。 S「お前に期待しているからだ。俺だけは2年前のお前を知っている。あの荒れた3年部に飛び込みで入って、大きなお腹抱えて(次女入り)、それでもふうふう言いながら、お前は生徒たちの間を飛び回っていた。」 ち「……」Hちゃんと一緒に学年通信書くの楽しかったな。 S「他の先生は知らなくても俺だけは知っている! お前は『こんな風』(多分無気力ってこと)じゃなかった!!」(≧ ≦)Ω ち「……『あの頃の私』とは違うんです。……うつ病が再発して、きつくてきつくて動けないんです」(┰_┰) S「……!? 何故お前はそれを仲間に言わないんだ? お前は仲間をそんなに信頼できないんか!?」 『信頼できません!!』く(""0"")> 本当はそう叫びたかった。 今とは違って、1999年当時うつ病はポピュラーな病気ではなかった。 新採用の時、私は既にうつ病だったが、母から「絶対に誰にも言ってはいけない!」と箝口令が敷かれていた。 『うつ病だと話して、誰がわかってくれる!?』く(""0"")> 私は恐怖でいっぱいになった。特にその学年部ではS先生以外に信頼できる先生はいなかった。 S「お前が言えないんなら、W先生だけにでも、俺から話してやろうか?」 ち「……考える時間を下さい」(ノД`) 記憶があまりない。 しばらくして、私はまず学年部にうつ病をカムアウトした。 多分校長と教頭にも。 W先生からの厳しい指導は途端に止まった。多分S先生が話をしてくれたのだと今でも思っている。 そして、3月にS先生は異動した。
新3年部。1年間教えた子どもたちを私は大好きだった。 でも、うつ病は理解してもらえなかった。 朝起きて、どうしても学校に行くことができない日があった。 急な自習、自習課題のない自習監督の増加による多忙化。 負担という名の愚痴は、私の聞こえるところで、聞こえよがしにささやかれた。私以外は皆健康だった。 私は現実から逃避するために、チャットにはまっていた。 朝、「行ってきま~す♪」とチャット仲間に話しかける。 「いってらっしゃ~い。無理するな~」とチャット仲間が答えてくれる。 子どもを保育園に送迎、授業、最低限の家事育児、睡眠。 それ以外の時間、私はずっと娘sに背を向けてPCでの仮想家族と会話し続けていた。 完全なるチャット依存症だった。
そして、忘れもしない10月。 弁論大会の事前指導として、 私は昨年の新聞コラム闘争を授業した。4時間扱い。 既に昨年度の3年生の3学期に実践済みであり、手応えも感じていた。当時の校長にも報告したし、生徒の感想も読んでもらっていた。校長は応援してくれていたが、その年の3月に定年退職して、校長が替わっていた。 1,新聞のコラムを読み、感想を400字以内で書く。 2.ある女性の抗議文書と社の回答を読み、感想を400字以内で書く。 3.新聞社曰くの訂正コラムを読み、感想を400字以内で書く。 4.再抗議文書とその返答を読み、感想を400字以内で書く。 その過程で、今でも憎むY担任がかみついてきた。 生徒の作文を返そうとした時に読んだらしい。 Y「ウチにはこの新聞を配っている生徒もいるんだ! この新聞社に親や親戚が勤めている可能性もある。コラムに載っている事件の関係者もいるかもしれん。あんたは事前にそれを調べたんか!? あんたのやっていることは新聞社差別や!」 ち「最後まで授業をやらせて下さい! そして生徒の変容を見て下さい。関係の生徒にはきちんと謝りますから」 次の時間、配っている子、家族親族に社の関係者がいる子に謝った。 「あの新聞社自体が悪いんじゃないんだよ。主筆といって、誰も文句も意見も言えない立場に恐ろしいほどの差別と偏見をもった偉い人がいる。そして、その人が差別記事を流し続けることに、私は抗議しただけなんだ」<自白?(笑) 昼休みだったか、放課後だったか、またYが噛みついてきた。 Y「俺があんたに文句を言ったから、あんたが謝ったことになってるやないか!?」 ……私はY先生の名前は決して出していませんし、 事実その通りですが、何の問題が……?(??) K「そんな授業やるんなら、事前に担任に断ってもらわなきゃねぇ~え」 (多分当時分会長。「年休って権利でしょう?」と言った私に「限度があるけどね」と冷たく答えた働く子持ち女性教師) そこからは、もうわけがわからなくなりました。 そして、そこがもう私の活動限界でした。。。_| ̄|○ 全てのクラスで最後まで授業実践した私には、 もうこの人たちと働く気力も体力も残っていませんでした。 ドクターとダーリンと何回も話し合いました。 私が受け持っているのは3年生です。受験生です。そして私は受験教科です。 でも、もう私はその学年部で生きていくことができなかったのです。 校長とも相談し、ドクターに書いてもらった「うつ病のため病気休暇が必要」という診断書の前日まで、笑顔で生徒たちと授業をしました。 生徒たちと離れたくなかった。 でも、あの教員集団とではもう私の命が限界だったのです。 あの生徒たちの卒業式が「2004年3月30日(火)離任式」に書いてあります。あれが一番忘れられない卒業式でした。
長くなったので、明日に続く。
「夜回り先生」こと水谷修先生の講演を聴いてきました。 涙が止まりませんでした。 講演前に全書物購入していたので、 一番乗りで全部の書籍にサインをいただきましたm(_ _)m ありがとうございます 私、死にませんから 私も子どもたちに「生きる力」つけてもらうために学校で授業してます 家庭が崩壊していたので うつ病ですけど それでも私には「生徒たち」と「娘s」とパートナーがいますから 絶対に自分からは死にません 私にできる分だけ ガンバリマス
最後にもう一度並びました。 最初にサインをいただいた教員です 私のために、とパンフレットにサインをいただきました そこには
「いいんだよ 水谷修」
と書いていただきました。 「たれに捧げん」の主人公が恋した修さんと同じ名前ですね 偶然ですね あなたのようにはできませんが、 私は私にできることを、私なりに 教師としてしっかりとやっていきます
ありがとうございましたm(_ _)m
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