ダメダメちゃむ日記
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2003年01月31日(金) 生きるために

総合的な学習「地域福祉」学年校内研修発表を
「私がやります!」
今日、私は学年会で言った。
――何故私が!?―― 
私の内なる小さな子どもが叫ぶ。
私は語り掛ける。
「だって、あなたが苦しかったでしょう? だから私がやるんだよ」

傷ついた子どもは言葉を失う。
失った言葉の代わりに大人に必死にサインを送る。
その子なりの方法で。
行動で信号を送る。
そして、ほとんどの信号は大人に届かない。
「わがままだ」と「だらしない」と「どうしようもない」と
SOSは無視され、更に絶望の淵に突き落とされる。
私はそれを知ってしまったから。

だから、あの子が気にかかる。
私は普段そのクラスには行かない。
授業者でないから、副担任でないから。
だからこそ、ここのところ目につくあの子が気になった。
何故あの子はあんなにも職員室に呼び出されているのか。
何度も叱られているのに。
また何事かで叱られる。
その度に叱られるのに、
また何事かをしでかす。
他愛無いあの子の悪戯に、
先日私はとことん怒った。
謝りに来たあの子に、敢えて私は
「私は絶対許さない!」と言った。
指導の一環として。
謝ってちょっと叱られるのを我慢すれば、それで済む。
その意識に石を投げ掛けてみたかった。
それはそれは見事なほどにあの子は反省に足る行動を取った。
それでもあの子は別の場面でまた繰り返す。
職員室に呼ばれる。叱られる。
何故!?
総合的な学習のクラスに行くとあの子がいた。
何故、私の話が聞けないのだろう?
ダウン症の、自閉症の話をしているのに、
何故笑っていられるのだろう!?
「あなたは耳が聞こえるのに、私の言葉はあなたの心に届かない?」
敢えて名指しであの子に問うた。

自分自身を生きるがきつくて、
小1の娘が初めて自分の不安な気持ちを語った昨夜、
ダーと口論になったのがいたたまれなくて、
夫婦で深夜までお互いの心の傷を語り合うのが苦しくて、
これから娘にどう関わるか自分の言葉で語ったのが痛くて、
どこまで書いたか記憶もなく、乱れた文章で日記を記し(@改訂しました)、
今朝は動くこともできないほど疲れ果て、
代わりにダーに職場に電話してもらう自分が惨めで、
それでも授業に間に合うように学校に行く自分が哀しかった。

何を語ればいいのか、
どこまで語っていいのか、
何を生徒に投げ掛ければいいのか、
計画すらも立たない中で教壇に立ち、
迷いながら、悩みながら
あのHPの言葉を、
あの本の言葉を、
あの人の想いを生徒に語り、
「けんり」を
「権利意識」を板書し、問い掛ける私自身は
本当にわかっているのかが不安で、
私は言い間違えた、生徒の名前を。
生徒の容赦ない嘲笑が教室で炸裂した。
私の怒りが爆発した。(@教師としてあるまじきことだ)
「そんなに、おかしいか!?
 間違えるのが、そんなにおかしいか!?
(この辺で私自身の状況やきつさも断片的に語った)
 そうやって、間違えたクラスメイトを、
 いつも忘れ物をする、提出物が出せんクラスメイトを、
 あんた達は笑ってきたよな!?
 じゃあ、笑われる者の気持ちになったことがあるか!?
 クラス中に『また○○やぁ~!』と笑われるクラスメイトは、
 「あんしん」して「じしん」をもって「じゆう」に(板書@権利の解釈)
 学校に来て過ごせるの?
 笑われて、バカにされる子の生きる『権利』(板書)はどうでもいいの!?
 みんなと顔付きや行動が違うから、
 みんなと違うことをして笑われるから、バカにされるから、
 だからこの人たち(@板書「知的障害」:自閉症・ダウン症 など)は
 社会に出てこられないんじゃないの!?
 だからこの人たちの家族は、社会に出てこさせないんじゃないの!?」
自分の書いた板書を叩いて示しながら、私は泣いて生徒に問い掛けていた。
自分が誰のために泣いているのかもわからなかった。
教室が生徒が静まり返った。もう誰も笑わなかった。笑えなかったのだと思う。
心のスイッチをすぐに切り替えた。授業中に自分の感情を即座に替えるのが私は得意だ。授業中の怒りはすぐに平常心に戻せる。@いや、本当に忘れられる。
三度目の「個人テーマ」と今日の授業(私が1人でしゃべっただけだが)の感想を書かせた。
何かが変わった。生徒の感想を読んで私は感じた。

放課後の学年会で、誰もが敬遠する今回の総合的な学習の研究発表者に私は立候補した。(純粋な立候補ではない。私に押し付ける当てこすりの発言もあった)
例え成果が現れずとも、例え検証軸のあの子(今日決めた。私は体調と娘の病気で2回学年会を欠席していたので共通理解が欠損していた)に変容がなくとも、これ(地域福祉:障害者理解教育)は、私がやるのだと思った。
「私でもできる」んじゃない。
「私だからできる」んだ。
障害を身をもって生きているから。
私が生きていくために、今、そうすることが私には必要だ。


2003年01月30日(木) 疲労と絶望の果てにあったもの

現実。
哀しい哀しい現実。

私の(私たちの?)悪いくせ。
例えどんなに無理解な言葉であっても、
善意で与えられる「がんばって!」という言葉に
素直に従ってしまうこと。
善意なら応えなければならないと思ってしまうこと。
どうして私は(私たちは?)こんなにも懲りないのだろう。
傷つくだけだとわかっているのに、
何度も信じようとしてしまう。
そうして「がんばる」姿にしか与えられない「理解」。

昨日も、一昨日も、心底!!疲れ果て、
パソコンは点けていても打ち込むことすらできず、
眠りの中に吸い込まれた。
睡眠障害を持った、
薬を飲まなければ眠れないはずの、
就寝前の薬を飲み忘れると禁断症状が現れる私には、
充分過ぎるほど危険なほどの疲労。
案の定夜中に目が覚めた。
どんなに身体的に精神的に疲れても、
薬なしでは熟睡できない私の睡眠障害。
禁断症状(首の神経がビリビリと痛いほど張り詰める)が恐くて
慌てて飛び起きて薬を飲んだ。
「7時に起きる! 7時に起きる! 7時に起きる!」
と、自己催眠をかけた。
快適な目覚めなど、昼まで眠れる休日以外に私に訪れることはない。
「遅刻してはいけないのだ!」
という切迫感で無理矢理に起きた。@勿論誰もがそうなのでしょうが。
気分は最悪。体調も最悪。
それでも「遅刻しては許されない」のだと言われたから、
無理をして少し早めに家を出た。
2日目に出勤印を押していたら、G教頭に言われた。
「2日も遅れんで来られたやない。ちゃんとやればできるんや。これからもがんばらな」

その瞬間に謎が全て解けた。
何故、学年部が私の連日の遅刻に過敏に反応したのか。
何故、2人の子どもが病気の日に「午後の授業に行きましょうか?」と電話した私にいつも優しいはずの学年長が「頼むわ」と言ったのか。
何故、他学年の障害児学級担任(分会長の1人)がわざわざ私に話をしたのか。
何故、遅刻しなかっただけで教頭が誉めるのか。

私が「担任」を希望したからだ。
ちゃんと担任ができるようにみんなで指導する態勢に入ったのだ。
そして、学校とは規律の指導が要求される場でもあるのだ。
学級担任はまず始業時間より早く教室に入るものだから。
「もういい!! 私には無理だ!!」
心の中で私は叫んだ。誰にも言わなかった。誰にも言えなかった。今も言っていない。
総合的な学習で障害者理解教育を学ぶ以前の問題だ。
教員とはがんばってきた人たちだ。がんばってがんばった結果として大学で教員免許を取り、教員採用試験に通り、教科とクラスと部活を持ち、時には家族を犠牲にしながらがんばって生徒に関わってきた人たちだ。
私には無理だ。やっと私本人が行きなおしを始めた段階だ。40人もの生徒の痛みと苦しみに「もっとがんばれ!」とは言えない。担任を持ってしまうと、私は彼女ら彼らが背負った辛さの為に家庭に入り込んで語ってしまうだろう。
しかし、まだ私自身が回復過程なのだ。娘はまだ幼い。親としての絶対的な愛情という生きる基盤を育てる段階だ。クラスの40人を背負うほど、教科の200人を背負うほど、私はまだ回復していない。
職場のほとんどは無理解だ。
ただ1人理解してくれるのは、私と違う病を抱いた○○先生だけだ。
「体調はどう? 無理しちゃあいけんよ。手抜きでいいんだよ」
苦しんでいる人しか理解してくれない現実。
メンタル疾患で休職したことがある同僚すら過去を忘れたいのか、私とコミュニケーションさえ取ろうとしない現実。

自分を愛することができず、自尊心すら持てない沢山の生徒。@しかもほとんどが自覚がない
立ち向うのか? この無理解な職場で……。傷ついた生徒を、教員全体が守ろうという態勢に、私がどこまで孤独な闘いを発言を続けなければならないのか!?

無理して無理して放課後の教室を回り、早朝指導(遅刻指導)で私が発見した悪質な文書。選りにも選って私が発見した――いじめ――
疲労に鞭打って放課後教室の戸締りに回った。暗い廊下で偶然見かけたある生徒。
「他の先生みたいにがんばらなくちゃ!」と早朝指導で昇降口にいた時、遅刻した生徒との靴箱に手紙が入っていたのを本人と一緒に見つけた。不審な手紙だった。訝る生徒が封を開くのに立ち会った。信じられないほどの殺意と言えるほどの悪意がその中に書いてあった。見せてはいけない! 開封した瞬間に私は取り上げた。
「先生、見せて下さい!」
「こんなもの見る必要ない!」
副学年長・学年長にすぐに見せた。副学年長と担任が生徒のフォローに当たった。朝の打ち合わせで学年部に知らせた。学年全体としての指導態勢を話し合った。
傷ついた生徒が懸命に涙を隠して笑顔を作ろうとしていた。
担任と話し合う中で本人が疑惑を抱いたのは友達。
その理由と本人の家庭状況。
疑われた生徒の生活の様子、交遊関係。
そこまで追い詰められた2人が哀しくて哀しくて涙が出た。
聞けば聞くほど切ない学年会の中で、報告せざるを得なかった。
疑われた生徒を私は昨夕の見回りで靴箱のそばで目撃していたと。
無理しなかったら、私はその生徒を目撃しなかっただろう。
私が無理しなかったら、その手紙はただ1人の心を孤独に絶望に突き落としただろう。
ちくしょう! やっぱがんばんなきゃいけないのかよ!(><)
ダーが帰宅した後、わんわん泣いた。切なくて切なくて、可哀想で可哀想で、本当に救わなきゃいけないのは、そこまで追い詰められた手紙の主なのではないのか? 傷ついた生徒も傷つけた生徒もどちらも救わなければいけないのではないか!?
2人の為に、子どもたちの為にただひたすらわんわん泣いた。

わかったよ! 私は歩き続けることを、決して諦めない!


2003年01月27日(月) 素敵なもの優しいもの

心の中に大切なものを持てた私はとても幸せなんだと思う。
「仮面ライダークウガ」
そして葛山信吾さん。
とてもとても大切な存在。
心の中が涙でひたされ温かくなれる存在。

「いつもふたりで」を先週の3と今週の4を見ました。
嬉しくて嬉しくて嬉しくて!
信吾さん!信吾さん!信吾さん!と
心の中が温かい気持ちでいっぱいになりました。

お身体を大切になさって下さいね。
いつまでもいつまでも
お元気でいて下さいね。

本当にありがとうございます。
あなたと同じ時代に生きられた私は
あなたの優しさに触れられた私は幸せ者です。

さて、Winユーザーの皆さん(--;
PCの調子は調子は調子は如何ですか?
ウチは激ヤバ状態です(8_8) グスグス


2003年01月26日(日) 肩の力を抜いて

私はインドア人間。
アウトドアは大嫌い。

そんな私がどうして大学時代
野外活動サークルに入ったのか
自分でも不思議で仕方がなかった。
混乱し、喪失された記憶の中で
どうしてあの時代だけが私の中で輝いて見えるのか
不思議で仕方がなかった。

でも、今やっとわかった。
私にはあの時、あの活動が必要だったのだ。
だから、私にとって苦手なはずの
アウトドア活動、
自然と触れ合える生活を
私は本能から必要としたのだと。

大学の合格と入学、それは哀しい記憶。
それは父の死と共にある。
大学の合格は、家族からの離脱は、
父の死という喪失という形でしか
私には訪れなかった。

私は「自分は大切な存在」と感じることも
「何があっても決して裏切らない」愛情も
絶対的な世界への信頼も与えられずに育ってしまった。
いつも「自分は嫌われているのではないか」
という不安がつきまとっていた。
そして、私の希望は夢は
父の死という犠牲と入れ替わりでしか訪れなかった。

信じてきた世界に裏切られた時、
誰もがそうするように、
私も絶対的に信じられる何かを探した。
その時の私にとって、それが「自然」であった。

山に登り、緑の中で、
風を浴び、日光を浴び、雨に打たれ、
大地を踏みしめ、大地と共に眠り、大地と共に起きる。
青空を見上げ、星空を仰ぎ、
花を愛で、緑を慈しみ、天候という自然の営みを知り
自然を感じることを私は自ら欲した。
初めて大雪山に登った時の感動は
今も私をとらえて離さない。
「ああ、私が欲しかったものはこれなんだ!」
大雪山のカルデラの展望が開けた瞬間に私に満ち満ちた
言葉にできないあの感動は、
そう、思い出せば今でも私と共にある。
絶対的に信じられるものを私はあの瞬間に手に入れた。

そして、その世界への信頼は2年半後に
先輩という何人もの男性達によって
裏切られることになる。
そして私は孤独な放浪の旅に突き落とされた。

私の友人の名誉のために言う。
友人は決して裏切らなかった。
今でも彼女・彼らのことは心友だと信じている。
私を裏切ったのは、
先輩という強者の立場にあり、
男性という強者の立場にあった人たちだ。
そう、本当の友人は決して裏切らない。

レクリエーションを私に教えてくれたのも友人。
レ・クリエーションとは、再生だ。
疲れた心を癒し、そして新しい生命を創造するために
人間にとって必要不可欠なものだ。

私が生きるためのレ・クリエーション。
特撮番組を見ること、
葛山信吾さんを大切に思うこと、
インターネットという画面に向かって自分を語ること。
それは決して恥じることでも悪いことでもない、
私が生きていく為に本当に必要なこと。
それは、私と私の理解者だけが知っていればいい。
職場に公言して傷つけられる必要はない。

肩の力を抜いて
大きく大地の大気を吸い込もう。
そしてゆっくりと一歩を踏み出そう。


2003年01月25日(土) 私はダメな人間じゃない!

さて、↑の表示はいつ頃「ダメダメちゃむ日記」から「私の生きなおし日記」に変わるんでしょうか? ちょっと楽しみな私です。

そう、私は決してダメな人間なんかじゃない。

ドクターとダーリン以外の誰にも理解されなかった
傷ついたままだった私の内なる子どもを初めて私は赦そう。
私はあまりにも「学校の先生」によって傷つけられ過ぎた。
実の母からさえも愛されなかった。
何故なら実母が「小学校の先生」だったから。

もう自分を偽らなくていい。
道化の仮面をかぶることで
周囲の反応に目を閉じることで
血を吐くような想いで自分を守らなくていい。
自分の性を否定し、「僕」という一人称を使わなくていい。
私は充分に傷ついた。
自分を更に傷つけることはない。

「みんなと一緒」でなくていい。
「他の先生ほどがんばれ」なくても構わない。

例え目には見えなくても
悩み、苦しみ、自分さえも愛せない
そんな混乱と孤独の中で一生懸命に生きてきた。
それだけでいい
それだけで私には生きる「権利」がある。

まだダメだと、
もっとがんばれると、
もっともっとがんばれと、
女のくせに、
妻のくせに、
教師のくせに、
母親のくせにと、
私を傷つける評価を下し続けた「先生」たちから、
私を解放してあげよう。
涙とともに私は初めて自分を赦そう。

生きていっていいんだよ


2003年01月24日(金) 子どもたち!!2

次女のインフルエンザは日曜から悪化の一途をたどっていた。
私が校内で初めて「その他の休暇・子の看護休暇」を取った水曜は熱は下がったが衰弱が激しく、一歩も歩けない状態だった。
長女も咳が激しく、発熱したので小学校を休ませた。
いきつけの小児科に再び診察を受けに行った。次女は動けないのでパジャマのまま、上着を着せて車に抱いて乗せた。
次女は明らかな脱水症状で点滴を受けた。注射針の痛みに次女は泣き叫んだ。私と長女がそばに付き添ってなだめる、やっと落ち着いた。
長女は次女と症状が異なるので、レントゲンを撮った。念の為インフルエンザの検査(鼻の奥に長い綿棒をつっこみ、鼻水からウイルスを調べる)で、長女も痛みに泣き叫んでいた。
次女の点滴に長女と私が付き添った。点滴が入っていくと、見る見る次女は元気になっていった。チョンチョンと私の手や頬をつついたり、おしゃべりもし始めた。
「ほら、次女ちゃんがチョンチョンしたよ。お話したよ。よかったねぇ、元気薬(点滴)がどんどん次女ちゃんに元気パワーをくれてるよ」
長女と次女と一緒に喜んだ。
長女は喘息性気管支炎。インフルエンザには感染していなかった。咳を減らす為に、日曜とは違う少し強い薬をもらった。
次女は苦いインフルエンザの薬をがんばって飲んだので、お薬はおしまい。血液検査・尿検査の結果、貧血気味なので、好き嫌いなくご飯を食べるよう先生とお約束して、歩いて(T∇T) 病院を出た。食欲も出た。4日振りに次女は食事を取り、ジュースを飲んだ(T∇T) 歩いていたずらもできるほど元気になった(T∇T)
そんな状態の娘を次の日保育園にやれれるもんか!?
木曜日の分まで自習課題は用意していたので、教頭に電話し、校長に事情を話し、木曜も「子の看護休暇」を承認された。それぞれの学年長に準備してある自習課題をさせてもらうよう頼んだ。

木曜日、娘たちの体調は落ち着いた。昼食も薬も飲ませた。容態は2人とも安定し、それぞれ好きな遊びをしている。
ふと、不安になった。午後2時間の授業は私の学年部の2クラス。授業の進度が中途半端で、今の授業に合った自習課題が用意できなかった。2クラスとも少なくともあと1時間授業しなければ、今の学習の練習問題を解くことも無理だ。(--;
「お母さん、ちょっと中学に行って2時間だけ授業してきていい?」
娘たちは遊びながら、いいよと言った。
買い物に行く間2人で留守番したこともある。授業して、W先生と総合の打ち合わせして、金曜の自習課題用意して、2時間半くらいで帰れるのではないか。
学年長に電話すると
「頼むわ」(授業やってくれ)
と言われた。他学年の学年長でさえ「ちゃんと看てあげなさい」と言って下さるというのに……。
着替えていると、激しく咳き込んだ長女がむせて少し吐いた。自分でそばの洗面器を取ってさっき食べた物を少しもどした。
「何かあったらお母さんの携帯に電話してね」
娘に携帯の番号を書いたメモを渡し「何故ここまでしなければならないのか!?」と自問しながら家を出た。

学校につくと、学年日課表には私がお願いしたはずの自習には自習監督の名前すら入っておらず、ただ自習であったはずの私の教科・クラスが斜線で消されていた。他の自習には赤マジックで自習監督が記されているのに、見事に私のところだけ空欄。
そこまでイヤですか!? 私の授業の自習監督が!?(><)
ばたばた授業の用意をしていると、
火曜日に私に忠告して下さった障害児学級の先生が、
「ちゃむさん、チビちゃんは大丈夫なの?」
と聞いてくれた。そう、私の学年部が誰も聞かないから敢えて昼休みの職員室で声に出して聞いて下さったのだ。
「はい、昨日脱水症状を起こして点滴を受けたら少し容態が落ち着いたので、今はお姉ちゃんと留守番させてます」
「あ~、うちもそうよ」(^-^)(。。)(^-^)(。。)ウンウン<言ってあげてよかったと満足そうな笑顔。
Σ( ̄ロ ̄lll) ハァ!?
それが「がんばる」っていうことですか!?
あなたのお子さんが何年生なのかは存じませんが、病気の4才と小1の子どもに留守番させて授業をするのが「がんばる先生」なんですか!?

生徒の方がよほど反応がまともだった。
「先生、子ども大丈夫なん?」
「大丈夫じゃないけど、置いてきた」
「先生、ひでぇ!」
「これが働くっていうことなんや」
バレー部の生徒はうちの娘を知っている(練習や練習試合に連れて行ったので)
「先生、上の子?下の子?」
「インフルエンザは下の子。上の子は咳がひどくてさっき吐いた」
「○○ちゃんと××ちゃんがかわいそうや!」
「でも、今君たちにここを教えるのが私の仕事なんや」

未来をこんな社会にしないで! 困っている人がいたらサポートするのが当たり前の社会を作って!! 声にならない声で私は祈った。


2003年01月23日(木) 子どもたち!!

次女(4才)は日曜日に発熱し、咽喉の痛みを訴え、インフルエンザに罹患した。吐いて、吐いて、吐いて、水すら飲めなくなった。
それでも、ダーに連絡し、年休を取ってもらい、ダーの当直交替と入れ替わりで、月曜日、学年百人一首大会にかけつけた。私が体育館に着いた時、既に「小倉百人一首」は国語科のK先生と学年の先生方によって詠みあげられた後だった。
全体の指示をするK先生に代わって、急いで個人とクラスの集計をした。勿論担当の生徒と共に。やっと、学年長による表彰にこぎつけた。

それでもダメですか?(T_T)

火曜日、日曜に当直だったダーが敢えて代休を取ってくれて、看病疲れで充分に睡眠が取れていなかった私は35分遅れて出勤した。年休1時間と休暇欠勤簿に記載して提出した。授業をし、恐らくは休むであろう翌日の為に自習プリントを用意していた私に、背中(所属学年部担任教諭の机の島)から浴びせられた声
「賞状はまだかな~ぁ?」
慌てて賞状をラミネートした。あるクラスが集計ミスで入賞だったことには月曜日の放課後、担任から指摘されて気がついた。急いで賞状を追加プリントしようとしたが、印刷ミスでプリントできなかった。
「すいません! クラス賞状はちょっと待って下さい!」
個人表彰の賞状をラミネートし、3年生の授業に急いだ。

「2年生が百人一首大会やったんだよ~。みんな~! 百人一首やりたいかぁ~?」
「やりた~いっ!」
「じゃあ、やる気を見せてもらおうか~?」(^。^)
生徒が持っている国語資料集のいわゆる「試験によく出る漢字」原稿用紙縮小複写×裏表(1600字)書けるプリントを冗談のつもりで3年生のクラスに配った。
「全員提出したら、百人一首やるからねぇ~♪」
いや、もうホントm(_ _;)m ゴメンナサイ! マジで冗談だったんだよぉ~!
「じゃあ、(百人一首なんか)やらなくていい~っ!」
って言ってくれると思ってたんだよぉ~(滂沱)。
カリカリカリカリカリカリカリカリ……。
教室中に走るシャープペンシルの音が、先生はマジで恐かったよぉ~っ!!(T_T)
「ね、ねぇ、みんな? たかが百人一首じゃない?」
カリカリカリカリカリカリカリカリ……。
「●●、ちゃんとやれよ!」@生徒
カリカリカリカリカリカリカリカリ……。
Σ(ノ°▽°)ノヒィ~~~~~ッ!?
「そ、卒業までにクラスでできればいいじゃん?」
カリカリカリカリカリカリカリカリ……。
「◎◎、ちゃんと書け!」@生徒
カリカリカリカリカリカリカリカリ……。
Σ(ノ°▽°)ノ ヒェ~~~~ッ!?
「お互いを責めるのはやめようよ。励まし合おうよ」<説得力まるでなし(--;
●●くんと◎◎くんには軽度の学習障害があるんだよぉ~(;-_-) <言えない

もうホント、マジで
「百人一首なんか200でも300でも読んでやるよぉ~っ!?」
って感じですよ(_ _;)
受験生、これまで何回も担当してきたけれど、
ここまで追い詰められていたんだね?(T_T)>君たち
たかが1時間「百人一首をみんなでやりたい」がために、
漢字1600字書くのも厭わないくらい、
(それ以前にそういう課題を出す方がどうかと思うが)
みんな娯楽に飢えてたんだねぇ~~~っ!?[壁]TT)ダー「ひゅうま……」<しかもまだ明子姉ちゃん状態@傍観(笑)<担任には報告相談はしましたA^^;
うん! 「全員出したら」(一旦出した条件は引っ込められないのよぉ~!!)みんなで百人一首やろうね! 図書館で(T_T) だから頑張って出してね! ●●くん、◎◎くん!!<やっぱ出させるんかい!?

ははは~! こんなこと書いてたらもう午前4時ざんす~(^^;) 起きてきたダーリン(普通の日まで当直交替せんでよろしい!)に叱られました~。はい~! 「就寝前」のお薬飲んで、今から寝ます! 明日の午前中は年休で自習の手配してますので、午後の総合的な学習の為に、いやいや我が子の為、自分の為に眠ります~!
(T¬T)/~~~オヤスミナサイ・・


2003年01月22日(水) 何故私は語るのか

それは、まだ私が回復していないからだ。
母に対して、職場の無理解に対して、
まず私は怒ることができた。
その次に私の回復の為のステップ、
「語る――自分が救われるために」(@穂積純著「甦える魂」より)
に入っているからだ。
今、私は自分に語ることで、「生きなおしている」(@同)
これが本当の私だと、書くことで
「半分しか生きてこなかった、生きた実感がない、その無念さ」(@同)
を語り、
「泣いたり怒ったりして、自分の感情を外に出せれば、過去はその支配力を少しずつ失っていく」(@同)
ことを実感している。

組合という名の無理解。
「みんな同じ」であることを要求する学校現場。
「○○さんだってがんばっているんだから、ちゃむさんもきちんとがんばらなきゃ」
と、善意で与えられた私への助言。しかもその助言を下さったのが、私への陰口を職員室で聞くに耐えられず、私の空き時間にこっそり呼び出して言ってくださったのが他学年の「障害児教育担当」だというこの現実!?
○○さんは過労から病気になった。身体的症状が大きいため、未だに通院が欠かせない。けれど、○○さんは学校にいる時はその学年の為に、私にはとても真似できないほど、いろんなことを頑張っていらっしゃる。
けれど、前任校で一緒だった私は知っている。
○○さんは教師の中でも抜きん出て「できる先生」であることを。
だからこそ、がんばりすぎて彼は過労から病気になったことを。
そして、彼と私の病気とは全く異なることも。
それでも、彼女は善意でもって私に言う。
「遅刻しないように自己管理しなきゃ」
「○○さんみたいに、学年の為にがんばっているところを見てもらわなきゃ」
これは善意なのだ、わかっている。この人に悪気はかけらもない。隠し事がいやだから、わざわざ面と向かって私に言って下さっている。
「それができないのが、私のうつ病(あくまでも私の場合)なんです」

通じないだろう。3年前にカムアウトしても、周囲の人の心は少ししか変わっていない。そして、同僚にうつ病患者がいても、うつ病を勉強する時間の余裕も心の余裕も教員にはない。そして、興味もない。
ただ、私が突然休むことで、「自習監督の為に自分の空き時間が減る」のが迷惑だから、私を冷たい目で見る。○○さんはあんなにがんばっているのに、全くちゃむさんときたら……。
周囲の目がそう言っている。これは被害妄想ではなかった。わざわざ他学年の先生が見かねて助言を下さるくらい、学年部において私への無理解と偏見は大きいのだ。

このメンバが「共生」を「障害者と共に生きる」総合的な学習を進めるのだ。
同僚の「うつ病」というハンディすら受け入れない教師によって、生徒は「障害」と「共生」を学ぶのか!?
最早、ため息しか出てこない。
知的障害を学ぶ27名の訪問可能な施設を探していた私に、総合的な学習の担当者S先生は言った。
「そんなの、養護学校にでもやりゃあいいじゃん?」(発言のまま)
頭が沸騰した。
「養護学校の知的障害児はまだ療育過程です! 病気も症状も嫌悪刺激も一人ひとりで全く異なります! 何も予備知識もない中学生が集団でどかどか入り込んだら、向こうの生徒さんがパニックを起こします! そんなご迷惑なことできません!」
S先生は私の発する単語の意味すらわからなかったのだろう。きょとんとしながら、
「あ、そうなの? じゃあ……がんばってね」
そう、これが、現実。

だからこそ、私は歩くことをあきらめない!


2003年01月20日(月) ざけんじゃねぇよ!(-_-メ)

(ふ)ざけんじゃねぇよ!?>教員集団

ざけんじゃねぇよ!>組合員

ざけんじゃねぇよ!>分会長

ざけんじゃねぇよ!>総合担当

ざけんじゃねぇよ!>両性の自立と平等推進委員

ざけんじゃねぇよ!>校長・教頭

あんたら自身が、自分達を、生徒達を、保護者達を、私達を
生き苦しくさせてるのに、まだ気付かないのかよ!?

「権利」はあって当然だと思っている教員の何て多いことだろう。
これまで、先輩達が赤字(減給処分)で染めて獲得した権利が
天から授けられたものだと思い込んでいる若い教員の
何と多いことだろう?
何故教員がこんなにも学習しないのか?
何故こんなにもゆとりのない教育現場になったのか?
「ノー!」と言える教員の、
「ノー!」と言える生徒の、
「ノー!」と言える市民・県民・国民の、
何と少ないことだろう!?

今日の分会会議(組合員会議@加入率100%)で、
無理を承知で私は1人で
ジェンダー・フリー教育の公務分掌化に挙手した。
「私がやりますから!」と。
それでも圧倒的多数、1対全で否決(笑)。
「まだ学習してない」
「もっと学習してから」
そんな言葉は聞き飽きた!
「次のテストはがんばる」と言う生徒以上に進歩がない。
いつ学習するんだ!?
誰が学習を進めるんだ!?
やろうとする者を、何故元支部執行委員が止めるんだ!?
目先の行事と(勿論私はできる範囲で応援している)
停滞している現場の、いやあなた(F先生)の意識の変革との両立は
そんなにも無理なことですか!?

「障害」「福祉」の総合的な学習に対して、
どうして私はこんなにも必死なのか?
ネットで調べた情報を総合担当S先生に渡し、
福祉用品販売店に実情を説明して
関連施設を紹介してもらうよう奔走したことすら、
余計なお世話なのですか?
「それぞれのコースの先生に調べてもらうから」
S先生の冷たい言葉に、唖然としながら
「だって、他のコースの先生方はお1人だから大変でしょう?」
と添えた私に向けられたのは、
「あなたのコース以外はみんな1人よ」
 ……………。
私は、うつ病を患い時々年休を取る私は、
そんなにもこの学年部では邪魔ですか!?
だからこそ、HPを持つ私が他のコースのお手伝いをしようとするのは
そんなにも邪魔ですか!?
空いた口がふさがらなかった。

両性の自立と平等を目指す教育推進委員でもある同S先生に(私は支部の推進小委員。委員会の運営そのものと論議する)、
「資料をコピーさせてもらえますか?」(仕事が忙しくて委員会に出席できなかった)と頼むと、
「ああ、たいしたことねぇわ(この資料)。悪いけど、そんなこと(!?)やってる暇ねぇよな。それより、どうしたの? その手は?」
「あ、これは病気の症状です。震顫(しんせん)っていって手が震えるんです、発病した時から。症状か薬の副作用かよくわからないんですけど」
「あ、そうなの。ごめんね」@即他の話題。

「心が病気」にyaさんが書き込んで下さったことが
今、目の前にあった。
『障害は見て見ないふり』!?
「あなた」が、進めるのか!?
この「地域福祉」という総合的な学習を!?
目の前がクラクラした。
そう、これが現実。これが社会の縮図。
S先生だけが特異な例なのではない。
これが「普通」なのだ。
不登校のMちゃん(「心が病気」参照)に宛てた封筒を
そわそわと抱えて急いで学校を出たそうなS先生。
S先生の「母親なんだから、ご飯くらいちゃんと作らなきゃ!」
という好意という名のジェンダーの押し付けに
勝手に傷付いた家事ができないうつ病の私。

「普通の人」の何と恐ろしいことだろう!?

次女ちゃんがインフルエンザです。
高熱が続き、ぐったりしています。
当直明けのダーリンが年休で帰宅して、
やっと学校に行けました。
教頭と、学年の国語担当のK先生と、授業がある3年部の学年長には、
日曜の段階で連絡をしておきました。
それでも、国語科のくせに学年百人一首大会に遅れた私には
「連絡したにも関わらず、伝わってない」学年部の先生方からの
冷たい視線があったようです。
W先生が教えてくれました。
「ちゃむちゃん、今日遅れたのは、ご家族に何かあったんじゃないの?」
「はい、次女がインフルエンザで、連れ合いと交代でやっと来れました」
「それ、きちんと皆に言わないといけないよ?」
クランクランクラン?(。_゜)?

分会会議で出された県教組新聞で
「子の看護休暇」が昨年7月から実施されていると知った。
って、誰も知らないよ!? 誰からも通知なかったもん!
急いで教頭のところに言って、聞いた。
「その他の休暇に『子の看護休暇』ができたんですか?」
新米A教頭「不勉強で知りません」
熟練G教頭「ありますよ。但し、お子さんは何才ですか?(小学校未満に限る) 校長の承認が必要なので、証拠となるものを提出すれば校長から承認されます」
私「証拠……って、診断書ですか?」
G「そんな金の掛かるものでなくていいですよ」
私「じゃあ、どんなものが証拠になるんでしょう?」
G「…………………」<昇任試験の為の知識しかないらしい。
私「薬袋とか、処方箋でいいですか?」
G「ああ、そうそう」

なんかもう、全てに対して
(ノ`´)ノミ┻┻がっちゃ~ん!


2003年01月19日(日) パンク寸前

①PC(これ)のCドライブ
 固まる~! マウス動かない~! 止まる~! パンク寸前状態です。

②家族
 ダーリン当直~! 次女インフルエンザ(?)~! 吐く次女ちゃん、着替え・布団替え・洗濯に追われる自分~A^^;  明日は百人一首大会~! 3年生の調査書〆切~! (@@;))))~~(((((;@@) うろうろ


2003年01月13日(月) あっぷあっぷ

「信吾系」「性と生」「心が病気」「おしゃべり」@独り言等各コンテンツをアップしました。

そして、信吾さんの「いつもふたりで」出演も公式にアップされましたね。

んで、僕は卒業テストの採点にやっぱりあっぷあっぷ(笑)

始業式の日に出勤できず、おかんの言葉に傷付いて口論になって、おかんが怒って帰って、そのままにしてたけど、おかんから夕方電話があった。
「今日はダーリンが当直だから、できれば明朝来てくれたら助かるけど?」
と言うと、おかん上機嫌。
「いや、別に用はないんやけど、○さん(@ダーリン)が当直の日は『私が行く行く』って言ってるのに、あんたからそうやって連絡がないとねぇ。わかった、明日やな」
そして、始業式の日起きられなかった理由を説明した。不可抗力だったのだと。薬の飲み損ねによる禁断症状なのだと。でも、わかってもらえなかった。
「明日から仕事だというのに大事な薬を飲まないで(一錠の飲み損ねさえ責めるのか?)、ビールを飲んだり、パソコンに向かうあんたの自己管理のなさに、私も言いたくもないことを言うのが情けないけど。私が言わなきゃいけないと思うから言いたくないけど言うんよ」とおかんは主張する。
「そうやって『情けない』っていう言葉や態度にさえ、私は傷付くんだよ。始業式に(昏倒して)出勤できなかったことで私は自分で自分を責めてたのに、お母さんにまで責められたら、私はもうどうしようもなくなるんだから。もう言わないでよ」
「あの日、私は『情けない』とか一言も言ってないわよ! それに、あんたはあの日少しも自分を責めたりしていない!」(傍目にはただ眠ってるだけだろうけど、ふと目覚めた合間には自分を情けなく思ってた。そんなの横で「起きたら何か言ってやろう!」と張り切っている人に伝わる訳がない)
「今『情けない』って言ったじゃない!?」
「あんたはすぐ人が言ってもいないことを『言った』と言い張るくせがある!」
「私はまだそんなに回復してないの! わかった、これ以上私に何か言うつもりなら、明日は来ないで!」
「またすぐそうやって……」
「お母さんが何か言う度に私が傷付いて、私がお母さんに言い返して傷つけ合うのはもうイヤなの! もう来ないで!」(ガチャン!)
はい、もうギブアップです。

おかんと私、DV(ドメスティック・バイオレンス「近親間による暴力」)の典型みたいな関係だね。一方的に傷付けて、ほんの少しの優しい言葉に「この人もやっとわかってくれたかもしれない。本当は優しい人なんだ。私がいなくちゃこの人はダメになっちゃうかも?」って、また信じてはまた傷付けられるの繰り返し。そう、お互いにね。
それってね、「愛という名の従属」っていうんだよ。
「諦めた」って何度も日記に書きながら、やっぱり心のどこかで期待してたんだよね。おかんが私の病気の特性に気付いてくれることを。でも、ギブアップ。

うつ病になって15年。私が結婚して10年。いいえ、その前におとんが躁鬱病だった10年も、あなたは何も変わらなかった。そう、あなたは何によっても変えられないほど、強固な意思と自信を持って生きている人だったよね。でも私はもう娘をギブアップします。これからもあなたの娘でいられるほど、私は回復していません。
あなたの娘は、「娘をドクターのところへ連れて行った日に死んだのだ」と思って下さい。私も「あの日に私の母は死んだのだ」と思うことにします。
職場の親睦会もダーリンの都合がつかない日は行かないことにしましょう。もう、娘をあなたには預けません。職場の親睦を深める飲み会に行く、ただそれだけの為に、親睦の為に話をしようと2次会に行くことで、何度あなたに責められたでしょう。「母親だから」「子どもの為に我慢するのが当たり前」だと言うのなら、そうしましょう。もうあなたには頼りません。

虐待も、セクハラも、いじめも、ジェンダーも、性被害も根っこはみんな同じ。
加害者がどういうつもりだったかなんて問題じゃない。受け取る側がどう受け取ったかが問題なのです。
そんなこともわかってくれないならあなたが父の親族にそうしたように、私もあなたと「縁を切り」ましょう。さようなら、私の「お母さん」。


2003年01月12日(日) リニューアル

新年に新しくしたもの。

①サイトの運営方針
 まだまだ試行錯誤状態ですが……r(^^;)ポリポリ

②「教育・子育てWeb Ring」への登録
 子育てでも落第の僕ですが、できることから始めたいと思いました。

③ケーブルテレビの契約内容
 ただただ、テレビ東京系番組を(「男と女のミステリー」「ヒカ碁」他)お友達の手を煩わせずに録画したかったので、激安特約から基本契約に変更しました。

④メインページカウンター
 表示されてますか~?(^_^;)<意味わかりますか~?

⑤プリンター
 使っていたプリンタが旧型になり過ぎて、インクすら取り寄せ状態@しかも激高になった為、ダーお気に入りの最新型に。但し、まだ接続してない(--;

⑥キーボードカバー
 これもPCが旧型になり過ぎてお取り寄せだったのですが、ヘニョヘニョだったのと交換したらキーボードがはっきり見えて幸せです~(*_*)

まぁ、相変わらず全然大丈夫じゃない管理人ですが、一歩ずつ前に進んで行けますように、皆様これからもご意見ご指摘のほどよろしくお願いします。


2003年01月11日(土) テスト

受ける側の生徒も大変だけど、作る側の先生も大変なんだよぉ~。採点だって200人分くらいしなきゃいけないんだよぉ~。教科によっては全校生徒の採点・評価をしなきゃいけない先生もいるんだよぉ~(* ̄o ̄)ゝ@誰にともなく(笑)
一昨日の2年生の課題診断テストは割に簡単に(宿題の中から)作り、手分けしてさくさくっと採点・訂正も終わった。
しかし、3年生はそう簡単にはできない。何せ、3年生が昨日受けたのは「卒業テスト」だ。これがラストチャンスでいわゆる内申書(調査書)の点数が否応なく出ちゃうんだよ。学校の評価のあり方が変更になりつつある昨今だが、今年の受験生に対しては我が県ではまだ過渡期なので、いやでも点数に限界がある。
あの子もこの子も頑張った結果がでますように! 今まで散々注意してきたミスを再びやっていませんように!( ̄人 ̄;)
祈るような気持ちで卒業テスト、この三連休で採点させていただきます!(≧ ≦)Ω ヨッシャ!


2003年01月10日(金) やってみなきゃ!

自分にもう一度問い掛けてみる。

「買わない宝くじは当たらない。
 叫ばなければ聞こえない。
 行動なき思索は無だ」

高校生の頃だったか、何かに悩みながら自分で作った詩をもう一度自分に突きつけよう。
仲間内だけの研究会でギャーギャー言いたいこと言って安心したり、自分だけこそこそ実践しても駄目なんだ。広げなければいつまでも現状のままだ。広げなければ運動じゃない。みんなに語り掛けなきゃ、学校も社会も変わらない。そして、弱い者がいつまでも辛い思いをし続けなきゃならない。

「両性の自立と平等を目指す教育推進委員会」を運営する小委員会が夕方あり、参加した。僕が集めたぶ厚い資料持参で(笑)。運動を各学校組織に広げる学習を来年度推進する為の学習会を目指す為の話し合いだ。
何故広がらないのか、何故定着しないのか。それは、学習に10年関わり続け実践もし、でもその度に傷付いて広げることをサボっていた僕にも責任がある。仲間内で安心するのでなく、仲間を増やさなければ運動じゃない。語り掛けなければ、先駆者である意味がない。そんな宿題も突きつけられた。
だからやめられないんだよなぁ~、この学習(笑)

冬休みのラスト三日間を薬1錠節約して飲まなかった為に、始業式の日ぶっ倒れて(寝坊とか熟睡とかいうレベルでなく最早昏倒)学校に行けなかった。(おかんに罵倒(?)されて、泣きそうになって「そんなに責めないでよ!」と叫んだら、おかん怒って帰った)
親にさえわかってもらえない病気。こんなのきっと誰にもわかってもらえないだろうなと思ったけど、昨日と今日出勤してから、
「ちゃむ(仮名)さん、身体は大丈夫なの~?」
と心配して下さった方に説明すると、
「薬はちゃんと飲まなきゃダメよ~」
と言っていただけた。
叫ぶまでもなく話せばわかってくれる人もいるんだと思った。……おかんもそうなのかな? 僕達の運動に嫌悪感を表す方々もそうなのかな?
話さなければわかってもらえない。落ち着いて話せばわかってもらえるかもしれない。心の病気のことも、何故今ジェンダー・フリー教育が必要なのかも。

当たり前のこと。でも臆病だったね、これまでの私。でも、いつまでも過去に囚われてちゃいけないね。未来を見よう。

『明日になれば 心の氷が溶けて
 君に逢えると信じたい』
(@作詞・作曲・編曲 板倉雅一 Bricks「明日になれば」in「Boy's Life」)

葛山信吾さん、毎朝車の中でこの歌を聴きながら、
「毎日頑張って仕事していけば、また次のイベントで信吾さんに逢える」
と思って元気をもらっていたけれど、そうじゃないんですね。@いや、それは勿論これからもあるけどA^^;
「君」って、僕の周りにいる人々のことなんですね、板さん。

ゆっくり行こう。のんびり行こう。少しずつ話していこう。みんなの「心の氷」という現実をまっすぐ見つめて。

『眠れぬ夜を 幾つも
 過ごしてきたんだ 今まで
 どうしていいのか わからずに
 時の流れを見送っていた

 一人きりじゃ 悲しすぎる
 もう一度 探そう
 すべてが輝いて
 何も怖くなかった あの頃を

 きっと二人 巡り会える
 その時が来ると
 今も思いたい
 明日になれば 心の氷が溶けて
 君に逢えると信じたい』
(@作詞・作曲・編曲 板倉雅一 Bricks「明日になれば」in「Boy's Life」)

そう、今年は「Carry On」(@Bricks)! だったよね、私♪


2003年01月07日(火) 明日になれば(2)

明日になれば、楽しい@(T_T) 3学期。
それはいいんだ、それは!
取り合えず、再度プロバさんに電話相談して、基本メールアドレスは復活した。一安心。友達に送りたかったメールも送れた。後は、メインページのカウンターの復帰だが、時間がない! 時間が!!ヾ(≧_≦)じたばた!
休み明けのテスト、まだ作ってないんだよぉ~!(TωT)ブヒー 全く生徒と同レベルにいる俺って……ーーーーーーーーーーヽ(;´д`)ノ <逃げないで早くテスト作れ!


2003年01月06日(月) [壁]TT)ダー

プロバイダさんに電話相談して、やっとネット復帰。
急いで「メモ帳」から1月3日・4日分の日記アップ。
o(><;)(;><)o ジタバタ! もう書きたくて書きたくて書きたくて!
ダーが悪い訳じゃない。配線はできても、PC用語には全く知識のない彼に罪はない! 適当にいじくって妙な接続設定してしまったスキルのない私が原因だった。
う~ん、わかってたんだけどね、わかってたんだけどね、3日間笑顔でいるのはかなり努力が要ったわ(笑)
そしたら、今度はメール関係(アウトルック・ホットメール)が完全に沈黙!(ノ_<。)うっうっうっ。普段メール使わないけど、せっかく「子育て・教育talk Web Ring」様からの通知メールも見られない。( p_q) シクシク


2003年01月05日(日) 七五三

……の写真撮りましたε=ε=ε=ε=ε=ε= へ; ̄_ ̄)┘

レンタル写真店にて、次女ちゃん4才6ヶ月にして「3歳の女児」専用の前掛け(?)みたいな着物(お好みで選んだピンク)着て、地毛で日本髪結って、かわゆい写真撮影です。あの人見知りしない次女ちゃんがカメラの前でガチガチに固まってるの姿に笑えましたけど<いや、笑わなかったけどねA^^;
「ご姉妹も無料で着付け」サービスに、長女ちゃん(@もうすぐ7才)まで着物着ました。しかも長女ちゃんが選んだ着物は黄色に緑。帯だの小物を私が選ばされ、ショートカットの長女ちゃんに付け毛してでき上がったのは、激渋の大正ロマンあふれる新人演歌歌手!?<(^w^) ぶぶぶ・・・密かにもれる笑いを必死でこらえた両親。

やっと親としての義務が終わったです~''r(^^;)ポリポリ いや、去年も今年も両親に心の余裕がなくて、次女ちゃんの七五三できなかったのがず~っと気になってたんですが、これで一つ心の荷が下りました。
ホント、m(;∇;)m ゴメンネ>次女ちゃん


2003年01月04日(土)

正月早々ネット落ち~(T-T) グスッ@復帰後に記述(笑)

3日に叔母ちゃんちで昼飯までいただいて、帰りに新型のプリンターを買った。@5年前のプリンタのインクは既に取り寄せ状態という旧式になっていた為(T_T)
ほっと一息ついた後、夕方買い物に出掛けたまま、ダーは3時間くらい帰って来なかった。
見事に携帯はトイレに忘れていた。まぁ、いつものことだし、正月だし、好きなようにさせて差し上げましょう。
( -_-)旦~ フゥ 落ち着いて茶など飲みながら待っていたら、8時頃( ̄▽ ̄)V←こんな顔してしてダー帰宅。
「ちゃむちゃんにお年玉をあげよう♪」
と差し出したのは、「ワイヤレスブロードバンドル○タ」( ̄ー ̄)ゞ<得意満面(笑)
これを繋げば、今はほこりをかぶっているノートPCで、こたつでもベッドでもネットができるのだと言う。
いやな予感はしたのだが(ダーのお便利グッズの山のおかげで、我が家は大変狭く、不便だ(--;)、まぁ好きにやらせてみようと、
「配線なら任せて!」
と張り切るダーに任せたところ、見事にウチのPCはネットからもアウトルックからも完全に落ち陸の孤島と成り果てた。
┐('~`;)┌@やっぱり<予想通りの結果に怒る気にもなれない。
年末に届いたプロパイダからのメールには、サービスは1月6日からになるので、年末年始にあまりいじるでない、というようなことが書かれていた


2003年01月03日(金) ふるさと

ε- (^、^; はぁ~~
叔父ちゃんちに親族が集まり、ビールにご馳走にすっかり弾けてしまいました。
こんなに素で酔っ払うのはオフ会以来(笑)
しかも、ウチの家族の事情まで知ってる身内だからねぇ、僕の愚痴大会ですよヾ(´▽`;)ゝ ウヘヘ
途中で泣き出した僕に、叔父ちゃんが言った。
「いいじゃねぇか。お前は37年掛かって、やっと自分と故郷(帰るべき場所)を取り戻したんじゃ。いつでも子ども連れてここに帰って来い。ここには自然もある、子どもの相手をする身内もおる。安心して帰って来ていいんじゃ。」
泣けた。親父そっくりの叔父ちゃんと叔母ちゃん達に、懇々と甘やかされて泣けた。
6才年下の従妹Mちゃんに、初めて僕は聞けた。
「子どもの頃のあんたから見て、『私』はどういう風に見えた?」
「何か偉い人。Tちゃん(私の兄)みたいには気安く甘えてはいけない人」@記憶曖昧(笑)
ああ、やっぱりそうだったんだね。母から育てられた通りに、従妹弟達にもわかってたんだね。あの頃の僕。

「ホーム」いつでも帰って来られる場所。
昔読んだ「エイリアン通り(ストリート)」でシャールくんが欲しがっていた場所。最後に見つけた場所。
僕にもあった。それは、僕にとっての「実家」である母の家ではない。
祖父母が住んでいたあの田舎。叔父が立て直したあの家。今でも親族が集う家。そこが私の帰る家。

酔っ払って薬飲んでそのままこたつで寝ちゃった僕に、叔母ちゃんはそっと毛布を掛けてくれていた。
僕らが泊まるというので、折角客間に敷いてくれた布団3つに寝たのはダーリンだけ。
「お母さ~ん」
と布団から抜け出した娘2人が僕と一緒にこたつで寝てしまっても、この家では誰も責めたりしない。
したいようにしていい、それがこの家のルール。
何て温かい家(ホーム)。

この家からすら、僕は母によって遠ざけられていた。
父母の不仲が決定的になった頃から、この家に来た記憶がない。
僕がこの家と再び会えたのは、祖父の葬儀が先だったのか、自分の結婚式が先だったのかすら思い出せない。

離婚が決定し、僕の親権者が母になってからは、ここは「僕が行ってはいけない場所」なのだと思い込まされてきた。
結婚式にすら、父方の親族を呼んでいいのか、悩んだ。母は、
「ばあちゃんを呼ぶんなら、私は結婚式には出ないからね!」
と永年の怨念を僕にぶつけた。父が他界した僕に、母の出席しない結婚式が挙げられる訳がない。27才の娘の門出にさえ、容赦なく怨念をぶつけた母。
兄に叔父叔母招待の件を相談すると、
「お前が『世話になった』と思うなら呼べ。そうじゃないなら、呼ばなければいい」
世話に……なった。僕が安心できる場所にいたのはあの叔父叔母達だ。
悩んだ挙句、母方の叔父叔母・会話すらしないいとこ全員は無条件で招待。父方は父の実弟妹である叔父叔母のみ招待した。
ちくしょう!
10年経った今初めて思う。私は自分の結婚式ですら、母に支配されていたのか。
祖母はどんなに、孫娘の晴れ姿を見たかっただろう!? 孫娘である僕の保育園への送り迎えをし、愛し、嫁との不仲で長男の家を出て行った祖母は。
姻戚関係とはいえ、子どもの頃からの僕を知っていた血の繋がらない叔父叔母だって見てみたかっただろう。
田舎で一緒に遊んだ従弟妹だって、見てみたかったに違いない。「あの」ちゃむ姐が結婚するなんて!?(笑)
でも、僕には許されなかった。できなかった。
主治医の手を離れ、薬もカウンセリングもなしで、職業生活を送っていたはずの僕がそこまで母に支配されていたなんて。
10年間、思い出しもしなかった。
僕にとって、結婚披露宴なんて恥以外の何物でもなかったから、考えもしなかった。
あの時叔父がどんな思いで一生懸命ホームビデオで撮影していたか。
招待できなかった従妹が何故わざわざ隣県から、披露宴の合間のお色直しに僕に会いに来てくれたのか。
どうして叔父が撮ったビデオをばあちゃんと親族一同が何度も見ていたのか。
僕達のキャンドルサービスの写真を叔母が、何故わざわざ飾り皿に刷ってくれたのか。
母に「縁を切った」と宣告された親族のみんなが、どれほど僕を愛してくれていたか。
そんな気持ちを僕は何もわかってなかった。それは考えてはいけないことだったから。
結婚生活、家を建てる過程で、僕はダーから気付かされた。僕はもう母に盲従しなくていいのだと。いや、盲従していたのだと。

こんなことまで書くつもりはなかった。
穂積純さんの「甦える魂」が媒介となっているのか。
忘れていた筈の過去が感情を伴って蘇えって来る。
疲れた。
今日はここまで……。


2003年01月02日(木) 「心の防波堤」

新春早々凝りもせず、またも葛山信吾さん’sソングタイトルです(^^;)

心の防波堤。それはおかんの言葉を聞き流し、父方の田舎に疎開して癒してもらう僕の精一杯の自己防衛だろうか? 今日(1月2日)に当直明けのダーと子どもら、兄貴を引き連れて田舎に行き、お泊まりしてきます。つまり、夫婦共呑むぞ!と(爆)
当直だったダーの分まで年賀状の宛名、差出し人住所氏名書きました。知人友人に宛てるのとは違った緊張感がありました。
いや、すごい疲れたけどね、娘たちが早く田舎に行きたがってるのよ。だから、当直明けのダーの負担を減らしたかった。娘も幼心にもわかったんだろうな。自然と、条件なしの愛情の温かさ。ありがたい。

おかん、父の家族は学歴も教養もない人だったかもしれないけれど、人間として一番大切なものを持っているよ。あなたは心底嫌って縁まで切ったけどね。
「人を愛する心」
だから、私も娘たちもダーも父の田舎が好き。爺ちゃんも婆ちゃんも亡くなったのに、叔父ちゃんや叔母ちゃんや、30近いいとこ共々盆正月に集結するのは何故か!? そこには愛があるからだ。

元旦に「今から遊びに行っていい?」と電話した長女(小1)と次女(4才)に、
「あけましておめでとうございます。去年はお世話になりました。今年もよろしくお願いします」
と電話口で、玄関で強要するあなたの神経が、私には理解できないよ。(T-T) グスッ。もっともっと、大切なことってあるんじゃないの? 心のこもってない形式だけの挨拶を無理矢理させることで、子どもが何を学び取れるの!?(TロT) エーン!

だから、私は家族を父方の田舎に連れて行く。本当に癒されるのは、おかんの実家ではない。親族が集まる愛に満ちた祝宴だから。ってことで呑んで泊まって来ます。では、また明日♪(*^ー゜)v マタネ~~♪


2003年01月01日(水) 元旦早々(涙)

元旦早々ダーリン当直(涙)

元旦早々長女は宿題をやり、丸付けさせられた。小1には「お正月だから」という言い訳は存在しないらしい。誰に似たのやら、生真面目な娘である(涙)

ダーが不在なので、やれ助かったと元旦早々年始に行くことにした。(おかんは私に文句言うくせに、ダーリンにはそれ以上に『あれもしなさい! これもしなさい!』と要求が多いのだ。全く母子揃って苦労をかけてごめんよ(T-T) グスッ>ダーリン) 正直言って、とぉ~っても行きたくなかった。でも、兄貴に渡したいモノ(日記の一部をプリントアウトしたの)もあったし、年始参りに行かなきゃ行かないで後がうるさいので、仕方なく賀状の印刷しながら、ビール呑んだ勢いで娘2人と歩いて行った。
 ……五月蝿い(-_-メ) 一時間も経たない内に、やれ「そんなにタバコ吸って授業は大丈夫なのか?」だの「子どもも放って一人でお酒呑んでから……」だの。つーか、アンタの手作りのシソ酒も私がお歳暮に贈った日本酒も、私に勧めたのはアンタじゃい! 正月に実家でのんびり酒飲むのがそんなに悪いんかい!?(ー'`ーメ)ムカッ! あまりに腹が立ったので、
「こんなまずいもん飲めん!」
とシソ酒も日本酒も途中で飲むのをやめちゃったわ(ノ-o-)ノ ~┫:・'.::・@こんな家で正月が過ごせるかいっ!? 「仮装大賞」だけ見て三時間で帰っちゃったわい。歩いてね! ( ̄へ ̄)フン! ったく、元旦早々なんて実家だよ?(涙)


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