けんたのプロレス&演芸論
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2002年02月21日(木) 第5回 団体論 FMW

 FMWが倒産。「ついに」という感もある。FMWが進めてきた「エンターテイメント路線」の是非をこの段階で問うのは早いのかもしれないが、やはりその路線での限界を感じてしまう。僕は基本的にアメ・プロを見ないのだが、今度WWFが日本上陸ということもあり、テレビ東京でやっていたWWFの特番と、深夜帯での放送を見てみた。見ながら考えていたのは、FMWのこと、大仁田厚氏(以下各人名・敬称略)のこと。

 FMWを映像で見る機会はなかった。生観戦は大仁田引退直後に二回。だから最近のFMWは雑誌やネットでしか知らない。ただその範囲だけでもわかるのは、「エンタメが徹底できない」FMWの苦悩。一番苦しんでいたのは間違いなく、ボス・冬木だ。WWFに置き換えればビンス・マクマホン+HHHくらいの立場である冬木。エンタメとして引っ張っていくために、柄にもない(といってはかえって失礼か)ワルぶりを随所に見せつけるのだが、彼のワルぶりが見えるのは非地上波のテレビと、専門誌くらいなもので、一番露出が多いスポーツ紙において、彼はどうしても「リーダー」の顔が出てしまう。そこでの冬木は「悪いボス」ではない。これは冬木のせいではなく、FMWのワル乗りに付き合わない感のあるマスコミに問題があるように思う。むろん、それもマスコミのせいだけではなく、エンタメ路線を日本でやることへの難しさなのだろう。

 思えば、IWAジャパンもゴージャス松野を使ってのエンタメに走っている。こちらはFMWと違い、苦しい台所事情や選手の素顔が露出してない分うまく行ってるようだが、こちらはこちらでどうもマスコミに「遊ばれている」感がある。TBSのワイドショー系での扱いは「エンタメ」ではなく「イロモノ」。せっかく地上波で目立てても、ファン拡大にはつながらないだろう。

 話をFMWに戻そう。くわえて冬木に、FMWにとって痛かったのは相次ぐ主力の怪我。一番のスターであるハヤブサが入院、FMWのリング上でのストーリーよりもハヤブサの容態のほうが注目される。そこへ冬木が見舞いに行く。見舞いに行くのはリーダーとして当然だろうが、その部分が露出されるとエンタメは死ぬ。

 結局、日本ではプロレス団体は企業である、ということをみんな意識しすぎている。だから経営面をみんなが気にしてしまい、バックステージが見え見えになる。バックステージが見え見えのエンタメはきつい。リング上でマイクもって罵り合っている、裏では仲良し、それは実際にそうであるのは構わないが、見えてはいけないことだ。しかしFMWはそれが見えてしまった。

 大仁田時代はどうだったか。今ほどエンタメに走ってなかったせいもあったが、大仁田はその辺が上手だった。日本ではバックステージを隠し切れない、だからバックステージをも巻き込んだエンタメをつくった。そう、「ミスター・ライアー」大仁田は、いわゆる「プロレスの領域」を離れた「企業の部分」でも嘘をつくことで、エンタメを守っていたのではないか。

 冬木による新団体、僕は非常に楽しみにしている。FMWをリセットするチャンスだ。今度こそ、突き抜けてほしい。


2002年02月16日(土) 第4回 レスラー論 安田忠夫

 旬な選手も書こう。とかくと、西村選手やラッシャー選手に怒られてしまいそうだが、まさにリアルタイムで旬な選手なので勘弁してほしい。そう、今日IWGPヘビー級王者になったばかりの、安田忠夫選手(以下敬称略)だ。IWGP史上、もっとも不器用な王者の誕生、といっても差し支えないだろう。とはいえ、この「不器用」、立派な誉め言葉である。

 借金王、なんていわれている。確かに博打に手を出したのだから、借金は多いのだろう。でもこのエピソード一つとっても、彼の不器用さが見て取れる。プロレスラーを含むスポーツ選手、さらには芸能人、政治家も含めて、「大物」が「借金」していることは決して珍しいことではない。そして「大物の借金」には明るいイメージが付きまとうものだ。借金の原因が何であれ、「芸の肥やし」「将来への投資」「借金は財産だ」となる。そうできない借金であれば、公にならないよう隠す。渡辺謙の借金が明るみになった。おそらく彼は、病気による借金を公にしたくなかったのだろう。「病魔と戦う悲劇のヒーロー」扱いされたくなかったのだろう。だから隠した。一方、安田忠夫の借金は暗いのだ。笑いの対象になってるともいえるが、それは芸人が笑いをとるのとは違う。嘲笑に過ぎない。レスラーとしてのキャラクター、というのも後からつけたものだ。借金に至る経緯が不器用、その始末の仕方が不器用、その見せ方も不器用。そしてそれがなぜか、支持されている。

 ファイティングスタイルも不器用、言い換えれば武骨そのもの。一直線ファイト、高い技術を持っていない、持とうとしてないようにも見える。純プロレスをやってたころ、ダブルアームスープレックスもジャイアントスウィングも下手だった。でも客は沸いた。そのときの安田の目が真剣だったからだ。声援を送りたくなるくらいに一所懸命だからだ。これは「同情」ではなく「共感」だったのだと思う。エリートレスラーには出せない、「不器用」というカラーを持っているのが、この安田忠夫というレスラーの持ち味だった。そしてそのカラーは、あのころの新日本には必要でなかった、ということなのだろう。

 猪木のもとへ行き、格闘技戦に乗り出す。結果がなかなか伴わないが、だんだん自分のカラーを出せるようになってきた。感情が見えにくくなりがちな総合に、彼は「顔面を真っ赤にして」臨めるようになった。前回にも書いたが、僕は中途半端な「プロ格」マッチは好きではない。ただ、安田忠夫のファイトは好きだ。使う技術はプロレスと少し違えど、安田は安田のまま総合系のリングにもプロレスのリングにも上がる。そして、いつのまにか、どちらでも光れるようになった。IWGPのベルトを巻いてもいい選手になっていた。

 馳浩相手のデビュー戦、プロレスでは「先輩」のヤングライオンたちが必死に安田に檄を飛ばした。その一人、永田を破っての堂々の戴冠劇。これからのカード、安田忠夫が歩む道は、僕には想像もつかない。何しろ不器用な選手だから。でも、不器用だからこそ、あらゆる可能性を秘めている。次は天山だ。その先には何がある。藤田か、小川か、橋本か。あるいは高田か、クロコップか。秋山、小橋、三沢も見えてくる。それぐらいこなさないと、借金返せないぞ、安田忠夫、がんばれ。


2002年02月14日(木) 第3回 レスラー論 ラッシャー木村

 プロレスは「見世物」である。いやこれは、真剣勝負だの八百長だのというような議論にからむことではなく、ただ単に「客から金をとって見せるもの」である、ということだ。この点において、プロレスも総合格闘技もK−1も同じである。僕はプロレスが八百長だのガチだの、そんなことには興味はない。むしろ、今あげたような「見世物」で完全真剣勝負のものってあるんだろうか、と思っている。客がいれば客を意識するのが当然だろう。野球だって、客がいなけりゃもっと敬遠が多くなるだろう。相撲だって、客がいなけりゃ横綱・大関がもっと立会いの変化を使うはずだ。客がいるから、客のニーズにこたえる(あるいはいい意味で「裏切る」)。「プロ」ならば当然のことだ。

 昨今の「格闘技っぽいプロレス」は僕は好きではない。それは、これまで敢えて触れずにきた領域に足を踏み入れたからではなく、それがあまりにも中途半端だからだ。「ガチ」なるものを求めるファンが多いのは理解できる。しかし昨今のプロレスが、それらファンに応えようとしているのはわかるが、応えきれてないのだ。プロレスファンは、一方で、「観客論」を重く見るプロレスを望んでいる。それらに対しても、今の風潮は逆らっているように見える。これは堕落なのだろうか、それとも新時代への「産みの苦しみ」なのだろうか。

 話がそれた。ラッシャー木村選手(以下敬称略)である。彼の若かりしころを知らない。僕が知っているのは「はぐれ国際軍団」として大ヒールだったころからだ。「歴史」で知った「金網デスマッチの鬼」、「はぐれ国際軍団」「第一次UWF」「馬場との抗争」「ファミリー軍団」、このちぐはぐな流れに、彼の波乱のレスラー人生を思い浮かべても良いかもしれない。

 しかし、僕が思うに、これらの流れには一本筋が通っている。彼はただ「プロレスラー」でありつづけただけではないかと。金網にしても、斜陽の国際プロレスを救う「最後の見せ方」だったろうし、軍団にいたっては、当時求められていた「猪木に対する絶対的なヒール」として最高の成果をあげた。そして今に続く、「ファミリー軍団」。今のラッシャー木村の年齢・肉体からして、これだけ「見せる」ことができるのは特筆していい。中途半端になっている「半格闘技レスラー」に比べれば、はるかにいい「仕事」をしている。

 寡黙な人、のイメージがある。テレビ番組でゲスト出演しても、黙ってニコニコしている。喋れば不器用、しかし求められればマイクを握る。客を相手にする、プロレスラーとして、その姿勢はもっともっと学ばれていい。


2002年02月09日(土) 第2回 レスラー論 西村修

 レスラー個人個人について語ってみる。最初に誰を書こうか、と考えたときに、不意に西村修選手(以下敬称略)が浮かんだ。それ自体が僕にとっては意外なものではあるのだが、浮かんだからには何かあるのだろうから話を進めてみる。

 西村修を生で見たことはない。僕の数少ない生観戦には新日本が入っていなかったからだ。だからライガーも蝶野も武藤も健介もない。新日の人間で見たことがあるのは猪木だけだ。しかも見たときは僕は赤ん坊だったから記憶はない。話がそれた。西村修については、生観戦がないのはおろか、テレビ観戦も数えるほどしかない。表舞台に立つ機会が少ないように思われる。

 僕が最初に西村修を知ったのは「ヤングライオン」時代。みんながみんな「とんがっていた」中で、妙に落ち着きさえ感じたのを覚えている。そしてその後、彼がガンで戦線離脱するあたりまで、僕の中で西村修はほとんどゼロの存在だった。

 週刊プロレスのインタビューなどで、彼のガンとのかかわりを読むにつれ、そして彼がやたらと発する、現代文明への警鐘、「ファンはバカです」、そして「無我」。それらのメッセージを受け止めきれない自分に気づいたあたりから、僕の西村修観がおぼろげながら現れてきた。

 西村修は稀有なレスラーである。

 それは、彼が全身プロレスラーであることによる。リングを離れてなおプロレスラー。彼自身がそうであろうとしているのか、あるいは自然に生きている結果そうなっているのか、もしくは僕からそう見えるだけなのか、はわからない。かつてリック・フレアーはリングを離れてもなおチャンピオンでありつづけたという。そんな空気を、西村修に感じる。
 ガンとの闘いが、彼に光を与えたのかもしれない。正直言って、彼が戻ってくるとき、僕は心配でしかなかった。どこまでプロレスラーでいられるのだろうか、と。壮絶な闘いから復帰して、並み以下のレスラーでおさまってほしくはなかった。その心配はまったくの杞憂であった。

 新日本プロレスは、西村修を大切にしなければならない。彼を切り捨てる、あるいは彼に切り捨てられるようなら新日本プロレスに先はない。「蝶野革命」はプロレスをやろうという革命だ、と僕は読んでいる。ならばこの全身プロレスラー、西村修を活かさない手はない。
 西村修はプロレスラーだ。骨の髄までプロレスラーだ。だからこそあえて言いたい。「無我」を離れるべきだ、と。西村修の理想が「無我」に全て詰まってるとは思えない。もっと高みを欲していい。その高みとは「無我」ではなく「プロレス」そのものなのではないだろうか。


2002年02月07日(木) 第1回 僕とプロレスの距離 〜はじめに〜

 プロレス、というジャンルほど、人によってかかわり方が極端なジャンルもないのではなかろうか。知らない人はとことん知らないし、人によっては知りすぎるほど知っている。僕の場合どうか。プロレスに興味のない人(たとえば妻)に言わせれば「マニア」なのだそうだ。でも僕に言わせてもらえば、「マニア」を名乗るにはあまりにも僕は程遠い。生観戦は4回しかないし、TV中継を欠かさず見るわけでもない。サムライTVもGAORAも加入していないし、ルチャドールの名前を10人と言えないし、持ってるグッズといえば「カクタス・ジャックの直筆サイン入りTシャツ」くらいなもんだ。こんなのは「マニア」はおろか「プロレスファン」とさえいえないのではなかろうか。もっとも、4回も生観戦、しかも2回がFMWでくどめの電流爆破を見ているとか、1・4ドームを録画して見ながらテレ朝批判をしてみたりとか、サムライTVの存在を知ってるとか、ルチャドールという言葉を知っているとか、カクタス・ジャックのTシャツを保存しているとか、もうその時点で「カタギ」から見れば「マニア」なのだろう。週プロ買ってたし、その週プロを母や妻が捨てようとすると怒ってたし。

 でも、そんな僕の、プロレスとの距離がやや変わってきた。旧知の友とばったり再会したときのことだ。彼は僕以上の、いや僕なんかと比べてはいけないレベルのプロレス者で、ルチャリブレを見るためにメキシコに行ったりするほどなのだが、以前の僕はそんな彼に連れられて川崎球場へ行ったりしたものだ。彼から見れば、僕があの「ターザン山本」(週刊プロレスの元編集長)の高校の後輩だということが親近感を起こしたのであろう。そんな彼と再会したとき、話題は当然プロレスの話になった。彼は当時の最新ネタを僕に振り、僕の意見を求めたのだが、僕は十分な回答を出せなかった。そのときの僕の言い訳は「最近週プロあまり読んでないんだよね」、だったのだが、それを聞いた彼はそうだろうな、という顔をしたのだ。そのときの彼の言葉は今も焼きついている。

「結婚すると、みんなプロレスから離れちゃうんだよなあ」

 彼いわく、他の彼のプロレス愛好仲間も、結婚を機に離れていく人が多いらしい。そりゃそうだ。特殊性の強いジャンル、限られた情報源しかないために、それを漁る、その漁る姿に特異性が見られる。週プロを毎週買うだけでも月に2000円くらいの出費、増刊やらスペシャルやらまで買えばそこそこの額になる。増してや生観戦、ともなると出費が大きな上に、休日をまるまるつぶし、家族サービスがないどころか、わけのわからないお土産を買ってくる。これでは円満な家庭は築けまい。もちろん、妻となる人に理解があればいいのだが、理解してもらう努力をする前にこちらが迎合してしまい、話が先に進まないのだ。おそらく、旧全日本ファンほどその傾向が強いのではなかろうか。なんとなくそう感じる。

 というわけで、僕もその一人、現在のプロレスとのかかわりは「ニッカンスポーツ・ドット・コム」と「夕刊プロレス」「朝刊プロレス」の2つのメルマガ、に限られている。週プロはたまに立ち読みする程度。

 そんな僕の視点で、プロレスを語ってみたい。これを機に再びのめりこめるのか、それともこの文をつづることが僕のファイナル・カウントダウンになってしまうのか、それは猪木さえしらないだろう。馬場さんは知ってそうだな。


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