2005年01月30日(日) |
ベルリンフィルと子供たちその3 |
子供たちが本当に変化したのは、ベルリンフィルとのはじめての顔合わせ。うまくいかないことへの不満、何でこんなことしなきゃならないのという疑問、どうせできっこないとのあきらめ。そんな気持ちをもちながら劇場に入ってオーケストラの音を聴くうち、知らず知らずのうちに身が前に乗り出している子供たち。かっこよくない、といっていた春の祭典にのめりこんでいく。この音楽とじぶんたちが競演する。恐さよりも今までに味わったことのない興奮が一人一人を支配していく。 すっかり、ロイストン、とサイモンの術にはまり込んでいく。しかしそれは、強制ではない、自らの意思。 そしてリハーサル。うまくなどとは誰も思っていない、ただ、からだのうちからこみ上げる興奮に身を任せているようだ。それこそが輝ける才能の発露。 こんなにも自然に人はじぶんの能力を発揮できるのか。そう思っているだけで、彼らの踊りが、とてつもなくすばらしいものに思えてきた。なんと、なんと。
2005年01月27日(木) |
ベルリンフィルと子供たち・その2 |
まだ映画を見ていない人のために。 驚くべきは、ロイストンの情熱。集中しない子供たち、やってもうまくできない子供たち、どうせできやしないと投げやりな子供たち。そういう子供たちを前にして、ロイストンの意欲は衰えない。かれは、信じている。ここにいる中で誰一人駄目な者はいない、全員が輝ける可能性を秘めている、かれらにはパワーがある。 この人間への信頼が250人の子供たちを最後まで引っ張っていく原動力になる。すごい。コーチングをしている立場にありながら、ここまで信じているだろうかと、ふと、じぶんを振り返る。 指揮者サイモンの信念。クラシックはみんなの音楽、リッチな老夫婦のためにものではない、感動を生み出す場所だ。音楽にはもっと可能性がある、音楽にできることは、人々を分断するのではなく1つにすること。 この2人の信念が、この素晴らしい出来事を実現させた。人の可能性を信じ、人が好き。その思いが、子供たちに伝わっていく。その場にいて、私も踊りたかった。
2005年01月23日(日) |
ベルリンフィルと子供たち |
”ベルリンフィルと子供たち”という、ドイツのドキュメンタリー映画を見た。一言で言えば、これこそが人に人の可能性を気づかせる最高のコミュニケーション。コーチングをしているものとして衝撃を受けた。 音楽がダンスが芸術が、人を自分の力で歩き始めさせる。なんということだ。ベルリンフィル・オーケストラの主席指揮者サイモン・ラトルと、ソーシャル・アーティストという名を持つ振り付け師ロイストン・マルドゥームの2人がたくらんだ新しい形の演奏会。ストラビンスキーの春の祭典をテーマに、ダンスなどやったこともない8歳から20歳代の子供たち250人が、わずか6週間でベルリン・フィルをバックに春の祭典を踊る。その6週間のありのままの姿が描かれている。25カ国から集まった彼らは、多くは難民。家族、人間関係、人種に問題を抱え人生に懐疑的になっている。ベルリンの学校に行くことだけが生きている証拠。しかしそこでも、自分の可能性を信じることができない。 ロイストンがはじめたのはまず、声も出さずに集中すること。その難しさに閉口するが、じぶんを律することこそが向上への一歩と信じる彼は厳しく彼らを練習に集中させる。 映画を見ていることさえ忘れさせる映像の集中力。私もそこにいた。そして彼らは動き始める。続く。
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