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Mi Pensamiento Diario

積木の箱

今日は久しぶりに家でゆっくりしちゃった。ここのところ外出してばかりだったから、1日中家にいたのが何か変かも。昨日はかなり遅くまで起きてたので、って実際に寝たのは今朝なんだけど、今日はお昼過ぎまで起きなかったの。寝たのが遅かったせいか、起きてからも何となくボーっとしてたけど。で、起きて何をしていたかというと、今日は1日中本を読んでたんだ。先日から読み始めた三浦綾子の「積木の箱」の上巻をどうしてもこの週末に読み終わらせちゃいたいような、そんな衝動に駆られちゃって。今日は上巻の3分の1くらいのところから読み始めたんだけど、どうも集中しなくって、途中で何度本を閉じたことか。時には、読み始めたらおトイレに行くのも忘れ、本に没頭しちゃうときだってあるのに。今日はちょっとお腹が空いたって思っては、お勝手に行って、ご飯を作ったり、何か飲んだり。そんなことをしていたせいか、読み終わるまで意外に時間がかかっちゃったかな。っていっても夕方過ぎには読み終わっちゃったけど。そして今日はそのまま下巻にも突入。もうお腹が空くこともなかったから、下巻は上巻を読むのに比べたら早く読み終わっちゃったかな。ここ最近読んだ「泥流地帯」や「天北原野」の時代設定が大正から昭和にかけてとやや古かっただけに、この「積木の箱」を読み始めたときはちょっと戸惑いを覚えたの。なぜかっていうと、この「積木の箱」の時代設定は現代だから。現代っていっても、この作品が世に出たころだから昭和40年代前半くらいなんだけど。それと今まで読んだ三浦綾子の小説は比較的時代設定が古かっただけに、ムースの頭の中でやや古めの時代の小説だろうっていう先入観があったの。だからちょっと戸惑っちゃったかな。でも話は三浦綾子特有の人物設定のもと、自分自身にいろいろと問いかける姿を描いているので読んでいて楽しかったけど。この小説では「天北原野」に出てきたようなムースの涙腺を緩ませるところはなく、読み物として楽しんじゃった。

その中で1つ思ったのがやっぱり家族のあり方かな。家族がてんでんばらばらで、顔をつき合わせることなく食事をしているところを読むと、何となく寂しいなぁとも思っちゃう。ムースは1人で暮らしているし、いつも1人で食事を取るけど、こんな味気ないものはないからね。美味しかろうが、まずかろうが、お腹がふくれればいい。ただ単に空腹を満たすために食べるって感じで。それが故にときに食べるのが億劫になっちゃったり、自分のためにご飯を作っても楽しくないなぁって思ったりもするの。昔からご飯はみんなで顔をつき合わせて食べていただけに、ムースの中ではそれが普通だと思うけど、今の世の中を考えると、家族がバラバラに食事をするのが普通のようにも思えてきちゃう。だって小学生だって、中学生だって、高校生だって、今は塾へ行くのが半ば当たり前のようになっているし、学校から帰って来たら塾に行ったりしていたら、夕食時になんか家にいられないかもって思っちゃう。お父さんはお父さんで残業続きの人もいるかもしれないし、仕事が早く終わっても郊外に住んでいるから家についたらもう8時過ぎなんて人もいるかもしれない。お母さんはお母さんで家計を支えるためにパートに出ていて、忙しいかもしれないしね。そう思うとみんなの生活のリズムが本当にバラバラなんだよね。食事を一緒にする時間もなければ、話をする時間もないかもしれない。だから1つ屋根の下に暮らしていても、お互いまったく何も知らなかったりするかもね。

ムースが昔聞いた話では、父親が箸に手をかけるまで、家族誰1人としてご飯を食べれなかったっていうのも聞いたことがあるけど、これは星一徹のようでちょっと行き過ぎかもしれないけど、やっぱり食事は家族そろってから食べるっていうのは自然じゃないかなって思っちゃう。それにこれって世界中どこへ行っても同じだと思うし。やっぱり家族がそろって、みんなで食事をしながら、いろいろな話をするっていう光景は自然だと思うんだ。たださっき書いたように、今の日本でそれをやろうと思うと不可能なようにも思えるし。今の日本の景気と一緒で、これも悪循環の一種なのかなとも思えるんだ。だってお父さんが遅くまで働かないと、家は買えない、旅行も行けないって感じだし、お母さんがパートに出ないと塾にも行けないってことになりそうだし。子供は子供で塾に行かないと試験にも受からないってことになりそうだもんねぇ。じゃ、受験を楽にして、土地の値段が下がって家が買いやすくなったら、万事解決かって思うけど、実際今の世の中は少子化で受験が一時に比べれば楽になってる訳だし、家もデフレの影響で安くなってるけど、何1つ解決せず前のまま。もしかしたらもっと悪くなってるかもしれない。それにいつも1人で食事をしてきた人たちが大人になって家庭を持ったところで、みんなでご飯を食べるってことを知らなければ、1つ屋根の下に住んでいても個々がそれぞれに食事してるのが当たり前だと思うんだし。こう考えると、1つ1つの小さなずれが今こうして家族のあり方に変化をもたらしたのかなって思えるんだ。ただこういうものって壊すのは得てして簡単だけど、直すのは倍以上の苦労をしなきゃ直らないんじゃないかなって。

今の世の中では家族団欒なんて簡単なようで難しいかも。ちょっと寂しいなぁって思うけど。もちろんみんながみんな忘れてしまってる訳ではないだろうし、今でも晩御飯くらいは家族そろって食べるっていう家だってたくさんあるだろうし。ムースはいいことだと思うから、続けていって欲しいと思うんだ。今日は本を読んでそんなことを思っちゃった。


2003年04月06日(日)




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