今朝起きて、ボーっとした頭のままパソコンの電源を入れ、メールをチェックすると鼠丼の管理人であるねずみさん(正式には鼠ホ-57号さん)からメールが入っていたの。実は昨日の日記に書いた「カルピスの思ひ出」の参加表明を知らせるメールをすぐに返信しなきゃいけなかったんだけど、日曜日になってからゆっくり書けばいいやって思ってたら、先に「毎度!」と軽快な挨拶と共に「告知ありがとうございました」っていう内容のメールが届いてるんだもん。ビックリしちゃった。ボーっとしていた頭も一気に覚めて、すぐに返事を書いちゃった。ここ最近のムースのものぐさげな行ないを反省しなきゃいけないって思っちゃった。って、ここのところ反省しなきゃいけないところばかりだよね。 そのメールで「カルピスの思ひ出」のサンプルとしてねずみさんの書かれた「ピザパイの歌」があると知り、朝の巡回を始めたの。この「ピザパイの歌」のなんだけど何ともせつないお話だった。ムースは転校をするっていう経験がないから転校先の学校で新しいクラスに馴染んでいくってことがどれだけ大変かわからないけど、この作品を読んでるといろいろと苦労があるんだなって思っちゃった。ムースの実家のある下町は信じられないくらい閉鎖的な街なので馴染もうとするのは他の地域より大変じゃないのかなって思っちゃう。だって近所の人は大体父と同じ小学校を出ているし、昔の話をしてもみんなわかっちゃう。ムースが前に地元の人と飲みに行ったときも、同級生のお父さんの話が出て、誰々と同級生だったとか。そんな話が出ちゃうくらい親の代、もしくは祖父母の代からこの街に住んでる人が多くどこか閉鎖的なの。もし、こんなところに地方から転校してきたら生き地獄だろうなって思ってしまうのはムースだけかな?今は街もだいぶ変わり、新しい人が住み始め、閉鎖的な範囲はどんどん狭まってきてるけど、でもムースの家の周りは今だに閉鎖的。といってもムースの両親が住む荒屋(あばらや)は昔からあるので閉鎖的な環境でも何1つ不自由はないんだけど。もしかしたら今のムースが転校生の気分かも。ちょっとそんな気もしたりして。 さて、「ピザパイの歌」を読みながらゆっくりと画面を下に移動させていくと、そこには素敵馬鹿コラム日曜版というのが書かれていたの。これを読んでふと思い出したのが、昔、父がお酒を飲みながら話していた「ぎなた読み」のこと。ぎなた読みって何かわからないですよね。ぎなた読みの例をあげると、「弁慶が/なぎなたを持って/刺し殺したとさ」と読むところを「弁慶がな/ぎなたを持ってさ/し殺したとさ」って読んで訳のわからないものにしたり、「ここではきものをぬいでください」のように読点がないと間違った読み方をしてしまう。こういうのをぎなた読みっていうの。実はこの読み方の正しい名称を知らなくってさっきからネットで検索してたんだけど。「ここではきものをぬいでください」っていうのは2つの解釈が出来るよね。「ここでは着物を脱いでください」っていうのと、「ここで履物を脱いでください」という2つ。これの他にも有名な例があるの。それは近松門左衛門の「二重にしてくびに掛ける数珠」。「二重にして首に掛ける数珠」か「二重にし手首に掛ける数珠」か。このように日本語って読点がないと読み違いを引き起こしやすい言語なんだよね。どこかのHPには、句読点を使うようになったのは明治に入ってからって書いてあったから、まだ100年くらいの歴史しかないんだね。考えてみればお習字をやっていて、仮名を書くときに句読点を打った記憶がないし、京都へ行っていろいろな人の書簡を見ても句読点が打ってあったのなんて見たことなかったかも。たった100年しか経っていない文法だし使い方が間違っちゃうのはしょうがないよねっていって自分にいい訳しちゃおう。ムースの書く文章の句読点が間違っていても昔の人だから句読点っていう概念に馴染めないんだなって思うか、これは古文を読んでるだって思って下さぁ〜い。ところでねずみさんが書かれたぎなた読みのコラムですが、どんなことかは「ここ」をクリックして読んでください。 このぎなた読みと一緒に父がよくいってたのは、重言と呼ばれるもの。「いにしへの昔、箱根の山の山中で、男の武士の侍が、馬から落ちて落馬して、女の婦人に笑はれて、顔を赤らめ赤面し、家に帰って帰宅して、仏の前の仏前で、短い刀の短刀で、腹かっ切って切腹す」っていうのをよくいってたの。読んでおわかりのように同じことを繰り返していうこと。これが重言っていうんだって。でも「馬から落ちて落馬する」は重言ではないみたい。なぜなら「馬から落馬する」が重言だから。この重言なんだけど、よくない表現とされていたんだって。TVを見ていて1番ムースにとって耳障りな重言は「あとで後悔する」。この言葉、とっても多くの人が使ってますよね。あとで悔いるから後悔なのであって、先に悔いることはないんですよね。あとで後悔するなんていうと、さも先にも後悔するんじゃないかって思いませんか?どうもこの言葉だけは馴染めなくって。そんな訳で、ムースはあとで後悔するって言葉だけは人一倍敏感になっちゃって。他の重言はムース自身、平気で使ってるのに。例えば、一番最初、いまだ未確認、一緒に同封、今の現状、一番ベスト、本当の正体、犯罪を犯す、被害を被るなどなど。でも重言ってやっぱりおかしいよね。特に、このように文章にすると変だなぁ〜って思えるものがたくさん出てくるよね。 最近ネットを巡回しているといろいろな言葉を見るの。中には今までに聞いたこともないような難しい言葉を使っている人もいるし、ムースのように話し言葉をそのまま文字にしている人もいる。書き言葉と話し言葉が違うのはどの言語でもそうだし、それ自体が変だとも思わない。ただ、今はかけ離れている話し言葉と書き言葉がだんだん近くなっていくこともおかしなことではないんじゃないのかなって思ったりもするの。なぜなら言葉は時と共にどんどん変化をしていくから。重言だって今はとても耳障りだと思うかもしれないけど、いつの間にか重言を容認するようなことがあるんじゃないのかなぁって思う。もし、重言が耳障りでおかしいって思うのであれば、ちゃんと修正していかないと必ず容認される日がくると思うから。特に小学校、中学校でやっていかないとダメかな。なぜかっていうとその時代にたくさんの言葉を覚えるし、言語体系をしっかりとしたものにさせていくから。ムースが小学生や中学生の頃、重言やぎなた読みなんて習わなかったけど、これは日本語としておかしいんですよって教えていけば美しいとされる日本語を後世に伝えていくことが出来るんじゃないかな?フランス人のように日本人も自分の言語に誇りを持って正しいとされている日本語を使えるようにするのも文化を向上させる手段としていいんじゃないかなって。これだけネットの中でたくさんのテキスト系と呼ばれるサイトがあるってことは、老若男女が文章を書くこと自体は苦に思ってないのでは?あとはどれだけ質の高い文章が書けるようになるかの話で。ムースが見てるサイトの人の多くは駄文だ、駄文だといいながら、いつの日にか質の高い文章を書こうとしてるように思うんだけど。それが故にいろいろなサイトを巡っていろいろな文章を読んでいるように感じるの。いつの日にか多くの人が美しい日本語でいろいろなものが書けるようななるといいなぁって思う。日本人の多くが日本語は美しい言語だから習った方がいいよなんていえる日が来たら、出る単の代わりに尾崎紅葉かなんか読んじゃったりしてね。それで英語を母国語としてる人に教えちゃったりして。「何で金色夜叉の中で尾崎紅葉は高利貸しのことをアイスって読ませているのですか?」なんて聞かれたら、偉そうに「そんな洒落もわからないの?アイス→氷菓子→高利貸しだよ」って答えちゃったりして。いじわるなムースだぁー。 何かまとまりがなくなってきたからそろそろやめないと。言葉を覚えるには口に出していわなければ覚えないと思う。文章がうまくなるにはやっぱり書いて書いて書きまくらなければ上手にならないんじゃないかな。書くってことはそれだけ頭を使うことだし、言葉を知るにはとってもいいことだと思うの。もしかしたら今書いている日本語は文法的に間違ってるかもしれないし。じゃ、一体何を書いたらいいのって思う人は「カルピスの思ひ出」に投稿してみて他の人の文章と読み比べてみるのもいいのでは?何か人のふんどしで相撲をとってるみたい。自分じゃ面倒臭がって企画なんて絶対にしないのに…。そんな訳で今日のムースの日記も終わりにいたします。相変わらずまとまりのない文章だなぁ。何がいいたいか全然わかんない。 |