人はそれぞれに消化できる量っていうものがあると思うの。食べ物の話じゃなくって、何かをやった時にそれをやりこなせる量。消化できる量のことね。1度にたくさんのもの、たくさんの量を上手にこなしていける人もいると思うし、ムースのようにちょっとずつしかできない人もいると思う。1度にたくさんのことができる人にとっては、ムースのような人はまるで何もできない人のように見えるかもしれない。歯痒く思うことが多いと思う。でも、その人にとってはそれでいっぱい、いっぱいだから。 人生ってちょー長距離のマラソンみたいなものじゃないかな?たった100mだけでどちらの人が速いとか遅いって比較したら、短距離の得意な人の方が早いと思う。でも、距離が伸びていったとき、どちらの人が速いかといったら、それは誰にもわからないよね。うさぎと亀の競争みたいなものなのかな?速くかけてばかりいたらいつかは疲れると思う。いつかは休みたいと思うの。でも、もし休むことができなくて、走り続けなければいけないっていうのなら、そのうち脇腹が痛くなるかもしれないし、脱水症状になるかもしれない。倒れちゃうかもしない。本当はそうなる前に休めればいいんだけどね。 いつも走ってるんだか歩いてるんだかわからない人を見たらイライラするかもしれないね。イライラしない人もいるかもしれないけど、イライラする人が多いんじゃないかな?それは自分が速く走ってて、相手にも速く走ってもらいたいって思うからイライラするんじゃないかな。もしかしたら、自分がこれだけ速く走れるんだから、相手も速く走れるって勘違いして急かしちゃうのかもしれないね。でも期待したほど速く走ってくれないからイライラしちゃうのかも。 遅い人には遅い人のペースってあると思うんだ。もしかしたらゆっくりと歩いて、小さなことも見逃したくないのかもしれないね。 野原の中をかけている時、見渡す限り同じ景色だと飽き飽きするかもしれない。速く走って景色が早く変わってくれることを期待するかもしれない。でも、その時にゆっくりと歩いて道端にひっそりと咲く花に目を向けることができれば、速く走らなくても、先を急がなくても、いつもいつも楽しいと思うの。それ自体は小さな変化かもしれないけど、いつもいつも新しい発見をしているから。毎日、新しいものに巡りあってるから。だから飽きることはないと思うの。もしかしたら速く走っている人より、楽しいかもしれないね。 都会という無機質なところに生まれて、そこで育って、いつも新しいものを追うのが当たり前のような生活がずっと続いた。周りを見渡しても、みんながみんな走っていたから自分も走るのが当たり前だと思ってた。いつも大きな変化を追い求めて。みんながみんな速く走ってたから歩くってことを知らなかったのかもしれないね。でもこれはこれで幸せだったのかな。だって走ること以外知らなかったら、そうするしかないんだから。いつもいうことだけど、何も知らなければ幸せだから。選択肢があるから悩むわけで、選択肢がなくて、与えられたもの、自分の目に見えるものがすべてであれば悩む必要なんてないんだから。 今、歩くことも知った。今まで走らなきゃいけないって思ってたからゆっくりと歩くことがとっても新鮮に感じるの。息切れすることもないから楽ちん。少しばかりではあるけれども、余裕も持てるから楽しい。だから今は自分のことも周りのことも見れるかもしれない。一生懸命走ってる人が横を猛烈な勢いで駆け抜けていくのが見える。苦しそう。息切れしてるのに、もう走ることに飽きてるのに、でも走ることしかできないから。その人を不幸にしてしまうかもしれないけど、そんな人には教えてあげたい。歩いていいんだよって。 うぅ〜ん、いつものようにまとまりがなくなってきたから、この辺でやめます。
今日で発音矯正のレッスンが終わったんだ。たった2ヵ月半くらいのレッスンだったけど、ムースにとっては役立つことばかり。まだまだ知りたいことはたくさんあるけど、今の所はこれくらいでいいのかな?前へ前へってことしか考えられないから、いつもあせっちゃって、今だに何1つ自分のものにできてないけど…。英語を速く話す人の前へ出ちゃうとどうしても速くしゃべろうとしてムチャクチャになっちゃう。どうしてこうも周りの速さにつられてしまって、自分を見失うのかって思うけど…。早く前へ進むことしか考えられなかったから、いつもあせってばかり。最近はゆっくりでいいって思うけど、まだまだ自分のペースがつかみきれてないかな?ラグビーをやってるわけじゃないんだから、前へ、前へって急ぐことないのにね。 ここ8ヶ月は英語の特訓をしたようなものだったんだ。8ヶ月前と比べると何にも進歩してないように思うけど、もしかしたら後退したかもって思うけど、実は少しずつだけどいろんなことを知ったんだよね。それに気がつかなかった。今だに英語でなんてものは書けないけど、エッセーの書き方だけは習ったから。もしTOEFLを受けるようなことがあったら、今度はエッセーを書けるかもしれない。あくまでも可能性だけだけど。TOEICはもう受ける気ないから、よっぽどのことがない限り受けないと思う。ムースができない発音もわかったから、英語を話す時、どういうことに注意すればいいかもわかったし。8ヶ月前と今では何1つ変わってないけど、何ができない、どこがいけないってことがわかったから次へ進みやすいのかな。今までだったら、そんなことより早くいろいろなことができるようになることにしか目がいかなかったから。原因なんて知らなくてもいいから、早くいい結果が出て欲しかったから。 言葉なんて所詮はコミュニケーションの道具って人はいう。どこかのHPで、「フランス人が英語を話せばフランス人訛りがあるのと同様、日本人には日本人訛りがあって当然。だから英語の発音なんて直さなくていい」っていう感じのものを読んだの。確かに訛りがあってもいいと思う。でもそれは正しく発音ができてるときのこと。だって正しい発音をしてたら相手に通じるもんね。コミュニケーションできるもんね。 サンフランシスコにいる友達と電話で話した時、彼女が友達の話をしてくれたの。その人が英語で「トラベル」といってるのにアメリカ人には「トラブル」って伝わってるんだって。不思議に思うでしょ?ムースにとっては不思議な話じゃないけど。だってムースのできない発音が入ってるんだもん。BとVの違い?ううん、違います。「トラベル」のラの部分の発音。Rじゃなくって母音の方。ムースが「トラベル」っていっても相手は「トラブル」って思うだろうね。だって「トラブル」のラの発音をしちゃうから。しかもラの部分強勢を置くから、相手はここの母音で何をいってるか判断しちゃうしね。BとVの発音ができなくたって、この場合ではラの発音さえあってたら通じちゃうんだよね。コミュニケーションとれちゃうんだよね。これって訛りじゃなくって間違ってるってことだもん。だからムースは発音の矯正をしてるんだけど。 もちろん、日本語にはない発音だから一朝一夕では直らないよ。でも、ムースが求めていたものは結果だった。だからあせってたよね。いつも、いつも。 スペインでよく先生にいわれたのは「ムース、Poco a poco(ポコ ア ポコ)」少しずつって。何も早く走ることはないんだよね。少しずつ、ゆっくりと。それが今のムースにとって大切なことかな。 |