│←長い文章を書けないけれど、あたしは死にたくない。→│
あたしの好きな日記作家さんが、日記にやっと帰ってきた。 彼女は幸せそうで、あたしは安心しています。
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愛の意味を考えた。真実の愛とは、一体何なのか。 正体が判らなかったからだ。 それを解き明かせるのか判らないけれど、抽象的にでも、 此処へ書き記したいと思う。
聞いてくださる方は、どぅぞ、先へ御進み下さい。
真実の愛。その名の通り、偽りの無い崇高な愛。 人間なら、最終的には辿り着くであろう、理想的な愛の形。 しかしながら、 人間はその愛に辿り着くのでしょうか? 否、愛そのものに気附いているのでしょうか? 愛に気附いていないのに、愛だの恋だの語っているのでしょうか? 愛とは、何? それは切ないもので。 もの?いいえ、ものではないのです。愛は形で表すことは出来ないの。 例えば、このような表現があります。
『私のこと愛してるんだったら、形で示してよ!』
よく三流ドラマや小説などで使われている言葉。 この場合、2人の愛はこの時点で終わっているのです。きっと、 いいえ、絶対に、修復不可能な状態なのです、2人の愛は。 既にその場に愛は形として存在していないのだから…。 勝手な想像から作り出された偽りの愛。それに近いような実例が 沢山あるのが現実なのです。
愛に近づくには、まず、恋を経験しなければならない。 恋を飛ばして愛に近付こうなど、机上の空輪。全くの無意味なのです。 まず、恋を育むこと。愛など無いものと同じで。恋が育つなら、 自分でも気附かぬ内に、恋が、愛に変わっているはずだから。
様々なことを経験する。 告白。失恋。成就。 そう、様々なことを経験するでしょう。 その流れの中で自分が本当に大切だと思える人を見つけることが出来るのか? 大切な人を守ることが出来るのか?大切な人を誇りに思えるのか? そうして、大切な人を守って誇りに思える自分を認めることが出来るのか? それが大切なのでしょう。
ただ、何気なく過ごしているのであれば、恋なんてしないほうが良い。 成就なんてするわけも無いのだから。 でも。あたしは、成就などしなくても、愛に変わる瞬間が来ないとしても、 人を好きになりたいし、恋をしていきたいと思う。
愛には様々な形があるのだけれど、一番現実的な愛は、「純愛」だと あたしは感じています。 「純愛」こそ「真実の愛」に近付ける道なのではないか、と。 しかし、此れが正しいか、どうかは判りません。
結局は、自分自身で探すしかないのだけれど、間違った探し方は決してしないで欲しいです。無駄な時間を過ごしてしまうような気がするから。 そうして、後悔の無い恋愛をして欲しい。 今の自分を全て出しても良いのです。 心から、願っています。
しかしながら、あたしは、もう一つの「真実の愛」の意味を。
真実の愛。誰もが辿り着けない最終的な愛の形。 誰もが辿り着けない最終的な愛の形。 本当の愛の姿を追い求め、答えを出せぬまま朽ち果ててゆく。 長い歴史の中で人間は絶えることなく真実の愛を追い続けているのでしょう。 どんなに偉い学者や知識人が追い求めても答えを出すことは出来ず、 ありきたりな答えだけが、戻ってくるのでしょう。つまり、 答えを出すのはあなた自身だということ。 誰にも限られたことではないのだから。 でも。 今の現世を見ている限り、答えを出すものは居ないのではないのでしょうか。
本当の愛なんて、どうでも良い。という考えが充満しているこの世界で。 そう。現代では『今が楽しければ』という腐り切った画一的な考えで覆われているのです。 確かに、『今が楽しければ』なら、満足することでしょう。しかし、 それは、表面的な満足感であり、心に虚しさを抱く切っ掛けになるはずで。
真実の愛とは、『今が楽しければ』ではない。『その瞬間を大切に』なのです。 人を何故、愛するのか。 人を愛したその瞬間を大切にするのだ。 人は、人を、何のために愛するのでしょうか? 投票ありがとう★ つまり、人を愛するということは「生きる」ということであり、愛そのものが 人生に組み込まれていることになるのです。 生きることに、愛することに、充実感を得たとき、一つの答えが見つかるのでしょう。
『人を愛したその瞬間を大切に』
この言葉を心に刻んで欲しいのです……。 そうして、あなたが恋に落ち、その人を愛するようになったときに、 真実の愛の本当の意味を知ることが出来ますように…。
随分と説教臭く、叫んでしまいました。 こんな珠恵を、これからも宜しくお願いします。(ぺこり)§2003年03月28日(金)§ |