│←バースディを迎えて。→│
勉強ができるようになんてなりたくなかった。全部全部、親に褒められるため、おばあちゃんに褒められるため、友達に見捨てられないため、親族の期待を裏切らないため、それだけのためだ。そして、その「見捨てる」なんて感情は誰も私に抱いてさえいなかった。私がただ妄想を膨らましていただけだ。私が可愛くなくても、優れていなくても、可哀想でなくても、見捨てなかった人たちは大勢いる。そう、そしてリストカットなんてしたくなかった。最近は過食嘔吐も全然しなくなった。もっといえば、家出も、夜の都会をふらつくなんて愚行も、全然したくなかったのだ。ただ、「可哀想」になりたかっただけで、見捨てられることが怖かっただけだ。 「可哀想」でなければ、見捨てられると思っていた。同じ人種でなければ、同じ苦しみを持っていなければ、すっかり一緒でなければ、見捨てられると思っていた。全くの空回りだったことに今更気付く。私はいつも、彼よりひとまわり遅れて色々なことに気付くのだ。
最近、日記の反響があって少し嬉しい。書き込んでくれるひとが居て、ただの自己満足サイトなのに申し訳ない気持ちになる。返事を書くことができない自分を、いつもに増して、憎悪する。日記はつらつらと思いを綴っているだけだし、もちろん誇張して書くこともあるけれど。悲しかったり凹んだりしたときはそれをリアルに表現しようとするし、だから文章も、えげつないというか、痛々しいものになる。詩なんて、調子が悪くなった時の捌け口にすぎない。落書きに過ぎない。あたしは何もスキルを持ち合わせていない。もしあたしに、何か才能があるとすれば、自分の内面を吐露することを苦に思わないという才能だろう。露出狂ともいう。 だが、そう考えると「本音」というのはどこにあるのだろう、とか最近思ったりする。何を表現するにしても、何かを通して表現するのだから結局、修飾や誇張などが入るわけだ? わけが分からなくなってきた。
母方の祖母が、あたしの手を見て、急いで買って来てくれたのでした。 ご迷惑おかけしてます。すみません。本当に。。 和歌山に良い病院があるらしいです。 「一回診てもらい」 と祖母は、炊事をする母に言っていました。 複雑な気持ちです。 切っちゃいけないと言われたので、手の甲を噛んだり、腕をつねったりしています。§2002年12月14日(土)§ |