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2002年06月16日(日) ぐぁっくぉ

朝霧夏の気配で目が覚める。
霧夏は一時限目から授業。
俺は四時限目から授業。
でも置いてけぼりは嫌なので即行用意。

学校まで送って頂き。
朝マックで飯食ってレポして。
その後暇ぃのでゲーセンへ。(朝から…
タイピングのやつとスロットを。

気づくともぅすぐ四時限目。
学校に行って授業受け。
ロビー行って霧夏と合流。
と、思いきや、お帰りになられると霧夏殿。
はええええ。
ってか俺まだ一つしか授業受けてねぇええ。
つーことでミナちゃんと残る事に。

んで五時限目に国語。
授業聞かずに教科書読んでた。
ってかすんげぇ面白い。
ラスト何気に泣けそうになった。
ビバ国語の教科書。謎

授業終わってミナちゃんを探す。
中庭で寝てた所を発見し、ゲーセンへ。
そして俺はひたすらスロット。
すると出るわ出るわ。
ビッグが五回にバーが二回。
凄。
隣にミナちゃんが居てくれたからだと心底思った。
幸運の女神様!!
これがホンマモンのスロットだったら…。
いつか一緒にホンマのスロット行こう。笑>ミナちゃん

そんでそこで稼いだコインで遊ぶ。
延々と無くなるまで遊んで気づけば五時。
すげぇ。笑
使い切って一旦学校に戻って回数券発行してもらう。
んでマックに行って飯食いながらトーク。
恋愛って大変ねぇ( ´∀`)(おばさん風味(謎

んで又ゲーセン。笑
セガの無料で500円分(25枚)のやつを使って遊ぶ。
もぅホンマにギリギリまで切り詰めて遊んでたら最後の一枚くらいで当たり出て、
そこでコツコツ増やしていると…機械がぶっ壊れた。笑
お詫びって事で60枚くらい頂いて更に遊ぶ。
霧夏から暗くなる前に帰っておいでってメールを貰ったが、
コインが無くならず、7時くらいまで遊んでた。
もぅそろそろやばいって事でコイン預けました。
無料の25枚から126枚まで増やしましたとさ。
デメタシデメタシ。

んで駅まで一緒に帰って霧夏宅に行って荷物整理して、
父の日お寿司を頂いて帰りました。
長い事お邪魔致しました。m(_ _)m

電車の中で暇だったので国語の教科書を読む。(又
授業中途中まで読んでたやつの続きを。(授業中に授業の内容とは違うお話を読)
…おもしれぇ。すげぇ。これ誰が書いてんだろ。

〜夏目漱石〜

………千円札?

いつも何気なく目にしてるけど、そういやこの人物書きだ。(ぉぃ
我輩は猫である。だ。
俺読んだこと無かったんだよね。すげぇ…。
すっごい身近な千円札の夏目漱石をすっごい身近な教科書で発見。
今度本借りて読んでみよっと。
…となると福沢諭吉と新渡戸稲造は…?

検索かけた。


〜福沢諭吉〜

明治時代の啓蒙(けいもう)思想家、教育者で、慶応義塾(けいおうぎじゅく)大学の創立者。
 1834年、大阪の中津藩(なかつはん)蔵屋敷(くらやしき)で生まれる。55年、緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾(てきじゅく)で蘭学(らんがく)を学び、江戸に蘭学塾を開く。これが後に慶応義塾大学に発展する。その後、英学に転向。幕府の遣外使節団に随行(ずいこう)した経験などを生かし、「西洋事情」を記す。

 明治維新(いしん)の68年、これまでの家塾を改革し、慶応義塾と称した。71年に記した「学問のすゝめ」は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云えり」という名文で、ベストセラーとなった。75年刊行の「文明論之概略」では、西洋文明を目的とし、自由な交流と競合が日本を文明国にすると説いた。82年「時事新報」を創刊。新聞人としても成功を収めた。1901年に没(ぼつ)。


〜新渡戸稲造〜

文久 2年(1862年)
9月1日新渡戸十次郎の三男として盛岡で誕生。

明治10年(1877年)
札幌農学校に入学、クラーク博士の教えを受けキリスト教に入信。

明治16年(1883年)
東京帝国大学に入学、英文学、理財学、統計学を学ぶ。

明治17年(1884年)
アメリカへ留学。 ジョンス・ホプキンス大学入学。

明治20年(1887年)
ドイツに留学。農政学、農業経済学、統計学などを研究。

明治32年(1899年)
農学博士となる。英文「武士道」を刊行。

明治39年(1906年)
法学博士となる。第一高等学校の校長に就任。

大正 2年(1913年)
東京帝国大学教授に就任。

大正 7年(1918年)
東京女子大学初代学長に就任。

大正 9年(1920年)
国際連盟事務局次長に就任。

大正15年(1926年)
貴族院議員に勅撰される。

昭和 3年(1928年)
本学の前身「女子経済専門学校」の初代校長となる。

昭和 8年(1933年)
10月16日カナダのビクトリア市で没す。享年71歳。勲一等瑞宝章を受ける。


〜夏目漱石〜

1867(慶応3)年、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)に生れる。帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学した。留学中は極度の神経症に悩まされたという。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、「吾輩は猫である」を発表し大評判となる。翌年には「坊っちゃん」「草枕」など次々と話題作を発表。1907年、東大を辞し、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから」『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。


…凄い人たちなんだね。(何
まぁ…普通の人がお札に載る訳無いわな。笑

帰り際コンビニでビールを買って父にプレゼントしました。(しょぼ
以上。(あー…疲れた


mocco