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2005年01月18日(火) きりんのおはなし

麒麟物語 〜お笑いとはなんと自由な世界なのだろう〜
 
 1979年、京都府宇治市の川島家と、大阪府吹田市の田村家に、それぞれ次男が誕生しました。両方とも、ごくごく普通の、ほのぼのとした家庭。川島家の次男は明(あきら)、田村家の次男は裕(ひろし)と名付けられ、ともにすくすくと育ちます。この2人の男の子が、様々な紆余屈折を経て漫才コンビを組むことは、神様以外、誰も知りませんでした。

川島明は、ちょっと内気な子供でした。絵を描いたり、粘土遊びをしたり、自分の世界に入り込むのが好き。幼稚園時代は、寝る前に必ず、洗濯バサミをパズルのように組み合わせて、動物やモノの形を3個作るのが日課でした。幼稚園時代の数少ない友人が、小学校に入ってたくさん友だちを作ってくれたので、小学校時代は大勢の友だちに囲まれて楽しく過ごしました。お笑い好きの両親の影響でテレビのお笑い番組をよく見ていて、中でも中田カウス・ボタンの漫才が大好きでした。よくそのギャグを真似しましたが、友だちは誰もカウス・ボタンを知らず、小学校ではあまりウケませんでした。

中学に入るとサッカー部に。ちょうどJリーグが発足し、空前のサッカーブームが盛り上がっていた頃で、女の子にもよくモテました。両親が明という名前に込めた「明るく育って欲しい」という願いに応えて、実によくしゃべる元気な少年時代でした。転機が訪れるのは、中学卒業の時。高校に入学するまでの休みの間に読んだ本に影響されたのです。それはアドルフ・ヒトラーの著書「わが闘争」、そして坂本竜馬を主人公にした漫画「お〜い竜馬」でした。歴史に名を残す人間に比べて、自分は何と小さくて、カッコ悪いのだろう。仲間内で笑いをとって、はしゃいでいる自分が、バカに見えました。すると、誰とも話したくなくなります。

高校に入ってすぐの交流会で、展示物を破ってしまったのをチクられて、ボクシング部の顧問の先生に、歴史の資料集でボコボコに殴られたこともきっかけとなって、高校時代は突然、無口で暗い人間に。授業中、先生の話など一つも聞かずに、ずっと空想の世界に入り込んでいました。「今ここに怪物が入ってきて、クラス全員を食べてしまえばエエのに」そんなことばかり考えていました。卒業写真に写るのも拒否するくらい人との交流を断ち、人の目を気にしなくなったので服装もどんどん汚くなりました。いつも何かに腹を立てて、「みんな死んだらエエのに」と思い続けていました。

それでも、「俺が今考えていることは、他には誰も考えていないのでは?」と思うと、不思議なもので、頭の中で空想し続けていたことを、誰かに知って欲しいという欲求が生まれます。頭の中のことを何かで表現してみたい。どうやればいいのだろう?そこで思い出したのが、小さい頃好きだったお笑い。そうだ!吉本の学校に行こう!・・・突然、そう決意するとバイトでお金をため、勝手に願書を取り寄せてNSCに20期生として入学したのでした。彼のことを、お笑いとは無縁と思っていた高校時代の同級生たちは、とうとう気が狂ったのだと噂し合いました。

一方、田村裕は、製薬会社の課長の息子として、何不自由なく、明るく活発に過ごしていましたが、小学4年生の時に、人生がガラリと変わってしまいます。母親がガンで亡くなったのです。父親がギャンブル好きで、借金をしていました。それを母親のパートの収入で返していたのですが、当然、それも返せなくなります。妻を亡くした悲しみもあってか、父親のギャンブル狂いはさらに激しくなり、借金は膨らんでいくばかり。とうとう中学2年のある時、1週間のうちに家財道具が次々と売り飛ばされてしまいます。クーラーがなくなり、コンポがなくなり、テレビがなくなり、そしてとうとう家がなくなってしまいました。

父親は蒸発。突然、家を失った兄と姉と3人兄弟は途方に暮れます。大学生の兄はバイト先のコンビニで寝泊りしました。高校生の姉は、家がなくなったことが恥ずかしくて友だちに告白できず、公園で野宿。中学生の裕だけは事情を話して友だちの家を泊まり歩きました。そして、泊めてもらった友だちの家の人が「やっぱり兄弟そろって暮らしたほうがいい」といろいろ手を尽くしてくれて、やがて生活保護を受けながら3人で暮らすようになります。

極貧生活の中で、しかし、高校にも進学し、バスケットボール部にも所属しました。兄が「俺が親代わりや」と頑張ってバイトして、「クラブはやめるな」と意地になって続けさせてくれたからです。しかし、やがて生活保護も打ち切られると、1日の食費は300円に。朝晩の食事で精一杯で、お昼の弁当代もありません。昼休みに食堂に行くと、みんなが楽しそうに笑っています。「何がおもしろいねん!」と腹が立って、1人、体育館でバスケの練習をしていました。5時間目の始業チャイムがなると、冷水機で思いっきり水を飲んで、それで空腹を癒していました。

そんな毎日が続くうちに、ごく自然にこう思うようになります。「早く死にたい」「死んだら楽になる」「もう15年も生きたんやし、これで十分や」。すべてに絶望しかけた時、彼を救ってくれたのは担任の女性教師の手紙でした。「笑っている田村くんも、悩んでいる田村くんも好きです。先生もクラスのみんなも・・・」。自分のことを心配してくれている人がいる。それに励まされ、もう少し生きてみようと思いました。そして、「いつも笑っていよう。そうすれば死んだお母さんも喜んでくれる」と考えるようになります。

とにかく人を笑わせるのが唯一の楽しみでした。人を笑わせることに、貧しさも、不幸な生い立ちも関係ありません。お笑いの世界は自由でした。「お母さんの子供が、しっかりと生きた証を残したい」「何でもいいから、名前を残したい」そんな思いが強くなった高校3年の時、やっぱり選んだのはお笑いの世界。彼はNSCに入学したのです。

こうして、たまたま同じNSCの20期生となった川島と田村。その第一印象は、お互いにあまり良いものではありませんでした。川島は相変わらず「みんな死んだらエエんや」という思考を引きずっていて、服装も実に汚らしいままでした。田村は「何やコイツは」と思いました。でも、ネタの発想は面白い。悩んだあげく、田村のほうから川島にコンビ結成を持ちかけました。川島は田村の積極性がイヤでした。明るくて、どんどん前に出る人間が苦手だからです。しかし、断る勇気もなく、ズルズルとコンビを続けることになりました。

ネタを作るのは川島。高校時代、授業中にずっと空想していたシュールな世界を、コントで表現しようとしました。田村をはじめ、周囲の人間にはウケるのですが、NSCの先生にはまったくウケませんでした。NSCは実力の世界。面白さのレベルでA、B、Cと3つのクラスに振り分けられます。20期生は特に不作で、Aクラスは1組もなし。BクラスとC1、C2クラスに分けられましたが、川島と田村のコンビは、ずっとC2クラス。それも「お前ら、やめたほうがエエで」とずっと先生に言われ続ける、最低の生徒でした。

それでも何とか卒業しました。「いつかこの先生を見返してやる!」そんな思いでコントを続けますが、全然、芽が出ません。そんな時、あるオーディションに出場するために漫才をやってみました。やりたいのはあくまでもコント。なぜならコントは何をやっても自由で、漫才だといろいろ制約があるように感じていたからです。しかし、その場しのぎで作った漫才が実によくウケるのです。2人は開眼しました。「漫才という型にはめることで、自分たち独自の発想が観客にも分かりやすく伝わるのだ」。初めてお客さんというものを意識したのでした。

ところが、お笑いの世界は奥が深い。自由な発想を漫才という枠にはめこむだけでは、まだ何かが足りないのです。お笑いコンクールのオーディションにも受かったり落ちたりが続きました。壁にぶつかって悩みました。どうしたらいいのか。でも、考えても分かりません。ある時、ほとんどヤケクソで、川島はお客さんの目を忘れ、自分がやりたいことだけをネタにしてみました。すると、これが大ウケだったのです。以前、自由にやっていた頃にはウケなかったものが、漫才という制約のある不自由な(と自分たちでは思った)世界を通過し、再び自由にやってみようと思った時に、輝きを増したのでした。

ちょうどM1グランプリという優勝賞金1000万円をかけた漫才のガチンココンクールが開催されることになり、彼らも出場することにしました。目標は3回戦に残ること。途中で落とされても別にテンションは変わらないし、という気楽な立場での参加がよかったのか、のびのびと漫才を披露した2人は、あれよあれよという間に決勝進出を果します。ちょうど伸び盛りの時期というタイミングもあったのでしょう。NSCのC2クラスの劣等生が、わずか数年で、賞金1000万円を狙う2600組の中のわずか10組に残れたのです。

「麒麟」という漫才コンビの話です。朝日放送のナイトinナイト「ナンバ壱番館」という番組でM1グランプリの特集をすることになり、それで彼らを取材しました。22歳の若者2人に、そうたした話はないだろうと思っていた僕は、彼らの歪んだ青春時代の話に夢中になってしまいました。それにしてもです、何とお笑いの世界の自由なことでしょう。「みんな死んだらエエのに」と殻に閉じこもり空想の世界に逃避していた若者と、「早く死にたい。死んだら楽になる」と思っていた若者が、こうして出会え、そして一緒にコンビを組むなんて。他ではなかなか考えられないのでは?




ふみひこ |MAIL