【情報の津波に翻弄される一日】 - 2006年07月21日(金) 頭の中で「めぐりあい宇宙」がリフレイン。 ↓この記事を見たときはビックリしたさー。 昭和天皇「私はあれ以来参拝していない」 A級戦犯合祀 昭和天皇が死去前年の1988年、靖国神社にA級戦犯が合祀(ごうし) されたことについて、「私はあれ以来参拝していない それが私の心だ」などと発言したメモが残されていることが分かった。 当時の富田朝彦宮内庁長官(故人)が発言をメモに記 し、家族が 保管していた。昭和天皇は靖国神社に戦後8回参拝。78年のA級戦犯 合祀以降は一度も参拝していなかった。 A級戦犯合祀後に昭和天皇が靖国参拝をしなかったことをめぐっては、 合祀当時の側近が昭和天皇が不快感を抱いていた、 と証言しており、今回のメモでその思いが裏付けられた格好だ。 メモは88年4月28日付。それによると、昭和天皇の発言として「私は 或(あ)る時に、A級(戦犯)が合祀され その上 松岡、 白取(原文のまま) までもが 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と記されている。 これらの個人名は、日独伊三国同盟を推進し、A級戦犯として合祀された 松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐伊大使、66年に旧 厚生省からA級戦犯 の祭神名票を受け取ったが合祀していなかった筑波藤麿・靖国神社宮司 を指しているとみられる。 メモではさらに、「松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々(やすや す)と 松平は平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らず と思っている」と続けられている。終戦直後当時の松平慶民・宮内大臣 と、合祀に踏み切った、その長男の松 平永芳・靖国神社宮司について 触れられたとみられる。 昭和天皇は続けて「だから私(は)あれ以来参拝していない それが 私の心だ」と述べた、と記されている。 昭和天皇は戦後8回参拝したが、75年11月の参拝が最後で、78年の A級戦犯合祀以降は一度も参拝しなかった。 靖国神社の広報課は20日、報道された内容について「コメントは差し 控えたい」とだけ話した。 ◇ 《「昭和天皇独白録」の出版にたずさわった作家半藤一利さんの話》 メモや日記の一部を見ましたが、メモは手帳にびっしり張ってあった。 天皇の目の前で書いたものかは分からないが、だいぶ時間がたって から書いたものではないことが分かる。昭和天皇の肉声に近いもの だと思う。終戦直後の肉声として「独白録」があるが、最晩年の肉声と して、本当に貴重な史料だ。後から勝手に作ったものではないと思う。 個人的な悪口などを言わない昭和天皇が、かなり強く、A級戦犯合祀 (ごうし)に反対の意思を表明しているのに驚いた。昭和天皇 が靖国 神社に行かなくなったこととA級戦犯合祀が関係していることはこれまで も推測されてはいたが、それが裏付けられたということになる。私に とってはやっぱりという思いだが、「合祀とは関係ない」という主張を してきた人にとってはショックだろう。 ◇ 靖国神社への戦犯の合祀(ごうし)は1959年、まずBC級戦犯から 始まった。A級戦犯は78年に合祀された。 大きな国際問題になったのは、戦後40年目の85年。中曽根康弘首相 (当時)が8月15日の終戦記念日に初めて公式参拝したことを受け、中 国、韓国を始めとするアジア諸国から「侵略戦争を正当化している」と いう激しい批判が起こった。とりわけ、中国はA級 戦犯の合祀を問題視 した。結局、中曽根氏は関係悪化を防ぐために1回で参拝を打ち切った。 だが、A級戦犯の合祀問題はその後も日中間を中心に続いている。 昭和天皇は、戦前は年2回程度、主に新たな戦死者を祭る臨時大祭の 際に靖国に参拝していた。戦後も8回にわたって参拝の記録があるが、 連合国軍総司令部が45年12月、神道への国の保護の中止などを命じ た「神道指令」を出した後、占領が終わるまでの約6年半は一度も参拝 しなかった。52年10月に参拝を再開するが、その後、75年11月を 最後に参拝は途絶えた。今の天皇は89年の即位後、一度も参拝した ことがない。 首相の靖国参拝を定着させることで、天皇「ご親拝」の復活に道を開き たいという考えの人たちもいる。 自民党内では、首相の靖国参拝が問題視されないよう、A級戦犯の 分祀(ぶんし)が検討されてきた。いったん合祀された霊を分け、 一部を別の場所に移すという考え方で、遺族側に自発的な合祀取り 下げが打診されたこともあるが、動きは止まっている。靖国神社側も、 「いったん神として祭った霊を分けることはできない」と拒んでいる。 ただ、分祀論は折に触れて浮上している。99年には小渕内閣の野中 広務官房長官(当時)が靖国神社を宗教法人から特殊法人とする案と ともに、分祀の検討を表明した。日本遺族会会長の古賀誠・元自民党 幹事長も今年5月、A級戦犯の分祀を検討するよう提案。けじめをつける ため、兼務していた靖国神社の崇敬者総代を先月中旬に辞任している。 ◇ 《靖国神社に合祀された東京裁判のA級戦犯14人》 【絞首刑】(肩書は戦時、以下同じ) 東条英機(陸軍大将、首相) 板垣征四郎(陸軍大将) 土肥原賢二(陸軍大将) 松井石根(陸軍大将) 木村兵太郎(陸軍大将) 武藤章(陸軍中将) 広田弘毅(首相、外相) 【終身刑、獄死】 平沼騏一郎(首相) 小磯国昭(陸軍大将、首相) 白鳥敏夫(駐イタリア大使) 梅津美治郎(陸軍大将) 【禁固20年、獄死】 東郷茂徳(外相) 【判決前に病死】 松岡洋右(外相) 永野修身(海軍大将) ソース:朝日新聞 NHKのニュースでやってたのも観ました。うわーすげー、でも サヨクがこれに食い付いたら天皇発言をワッショイしなければならなく なるし、微妙な燃料だなー。しかし、真偽を巡ってネット上では 議論が活発化するだろうなー、こりゃ数日様子見だ。 ・・・と思ってたんですが昨日のうちに某掲示板では下記のような まとめが作成されますた。仕事早すぎw ↓ 【東亜まとめ】 1975年 8月 三木首相「私人として」参拝(以後「私人か公人か?」が 論点になる。) 1975年 11月20日 ※社会党が参議院内閣委員会で天皇陛下の参拝 は憲法第20条第3項「国及びその機関は、 宗教教育その他 いかなる宗教的活動もしてはならない」の問題になるのでは ないかと追求。 1975年 11月21日 昭和天皇の靖国参拝(6年ぶり。不定期で計8回。 結果としてこれが最後) 1978年 10月17日 ※A級戦犯合祀 (判明は1979年4月19日) 1985年 中国の靖国非難開始(←中国の非難はここから。合祀から7年も 後) 1986年 中曽根参拝中止(首相の参拝が途切れる) 1987年 9月22日 歴代天皇で初めての開腹手術。 1988年 4月28日 「私は、或る時に、A級(戦犯)が合祀され〜私はあれ 以来参拝をしていない。それが私の心だ」という天皇の発言 メモが当時の宮内庁長官、富田氏の『手帳に張り付けられ る』(←今回の) 1988年 9月19日 天皇が大量の吐血、以後重体が続く。 1989年 1月7日 昭和天皇崩御 【重大な疑問】 1 「昭和天皇と交わされた会話を日記や手帳に克明に書き残していた。」 のになぜかこの部分は手帳に貼り付けてあった。 2 「だから私はあれ以来参拝していない。」 天皇陛下は75年(社会党批判時)から参拝していないのに、 「私は あれ(3年も後の78年のA級戦犯合祀)以来参拝していない」では 辻褄が合わない。 3 あったとされる「発言」が合祀から十年後の昭和63年(1988年)の4月。 崩御の前年。 4 天皇陛下が自分の(個人的な)意思で参拝したり、参拝を取りやめたり することはそもそもできない。 それをできると思うのは、外国人か日本 の官僚機構を知らない人達。 5 何故、毎年、天皇陛下はABC級戦犯も追悼の対象となっている全国 戦没者追悼式に毎年参列して、御言葉も述べているのか。 6 白鳥を白取と誤字。普通間違えるか? 7 論理構成、概念、時系列が中国共産党にあまりに都合が良すぎる ステレオタイプのような文章。 「平和に強い考え」?何それ?中国 共産党の影響力の強い旧社会党や社民党がいかにも使いそうな 言葉。 8 「松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と。」 「筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」 合祀された78年ならまだしも、合祀から10年経った崩御の前年の 88年に語ったとするとあまりに不自然な発言。 9 当時の侍従長でA級戦犯の合祀に大反対だった、徳川義寛氏の 発言と考えれば、内容はすべて辻褄が合う。 http://www.tv-asahi.co.jp/n-station/cmnt/shimizu/2001/0816num90.html 【物的な謎】 日経に電凸済。どうやら物的検証はなされていない様子。 紙 色が白すぎ ⇒変色しない中性紙は比較的新しい技術。1982(昭和57)に 発明はされているものの国や地方公共団体の刊行する官庁 出版物における中性紙使用率も、1997年頃までは50%前後と 低い値 http://www.shiroki.com/paper/chuseishi/index.html メモ紙に使うような場所にあったかどうか。前後のメモが中性 紙ならありうるかも。 挟んであった元の手帳に変色の跡がない ⇒良い言い訳が思いつかない。手帳ごと中性紙だったとか? インク インクの色が鮮やか過ぎ ⇒ブルー及びブルーブラックのインクは劣化が激しいはず。 他の部分は黒色なのにメモだけ青 止めの部分にインクたまりがない。 ⇒インクカートリッジペンだとありうるかも。インクペンは特許 1954年発売1957年。 糊 20年も閉じられたまま開くことのなかった紙はあんなに浮く ものなのか。 糊付けされたにしてはしわがない。 ⇒スティック糊? http://www.kokuyo.co.jp/yokoku/100/mania/03.html スティック糊の走り「プリット」(1970〜)というのがあるから 18年経ってりゃそれなりの糊はありそうだから両方とも問題は ないのかも。 更に今日になって「テレビのキャプチャー画面から3ページ目の裏に 写った文字を反転と画像補正で鮮明にし読み取る事に成功」した 猛者まで現れるw 以下その内容。↓ 63.4.28 〔■〕 4.28 〔4〕 ☆Pressの会見 前にあったね どうしたのだろう [1] 昨年は 中曽根の靖国参拝もあったか (1) 高松薨去間もないときで 藤尾(文相)の発言. 心も重かった =奧野は藤尾と違うと思うが (2)メモで返答したのでつく バランス感覚のことと思う していたと思う 単純な復古ではないとも. (3) 4:29に吐瀉したが その前で やはり体調が充分でなかった 私は 或る時に.A級が それで長官に今年はの記者 合祀され その上松岡.白取 印象があったのであろう までもが、 =(2)については記者も申して 筑波は慎重に対処して おりました くれたと聞いたが ○ 松平の子の今の宮司がどう考 [2] 戦争の感想を問われ 余そ えたのか 易々と 嫌な気持を表現したが り う 松平は平和に強い考が それは後で云いたい 閣で あったと思うのに 親の心子知 そして戦後国民が努力して 僚す らずと思っている 平和の確立につとめてくれた もが だから 私あれ以来参拝 ことを云いたかった 知か していない.それが私の心だ "嫌だ"と云ったのは奥野国土庁長 ら多 の靖国発言中国への言及にひっか ずい ・ 関連質問 関係者もおり批判けて云った積りである になるの意 ↑これを踏まえた上で更に下記のようにぶった切り。↓ ※3ページ目と4ページ目を続けて読むと次の事が判ります。 1.メモはプレスの会見を筆記したものである。 2.昭和63(1988)年4月28日の記述である。 3.質問に対るす答えは率直な感想を述べているように読み取れる。 発言内容を事前にチェックされる立場の人間ではない事が判る。 4.高松宮様に対して薨去という言葉を使っている事から宮家ではなく 仕える立場の人物の発言と読み取れる。 5.「(3) 4:29に吐瀉したが」のくだりは客観的な表現で自身の事ではない。 6.戦争の感想を問われた時「嫌な気持を表現」している人物である。 7.あまり閣僚を知らない人物である。 8.会見時の発言に「そうですか」が多かった。 9.靖国神社の松平永芳宮司を松平の子と呼ぶ事から近親者で年配者で ある事が判る。 以上の事から考えて、このメモの発言者として最も適当な人物は徳川 侍従長である事は明白です。 理由は以下の通りです。 a.徳川侍従長のが勇退日は昭和63(1988)年4月末日。 (会見の有無は確認できず) b.徳川侍従長の以前からの発言と相似している。 c.前出の1〜9の指摘事項に全てあてはまる。 では昭和天皇陛下の発言とした場合、以下の矛盾点が生じます。 イ.この日に昭和天皇陛下の会見は報道されていない。翌29日の 天皇誕生日での会見は記録に残っている。 ロ.記者が天皇陛下に対してこのような質問をするとは思えない。 又、質問する機会もない。 ハ.発言者は自身を「私」と言っている。天皇陛下であれは公式な場は 「朕」と言う筈である。 もうね、仕事早すぎて追いつけませんよw 楽しむ間もなく矢継ぎ早にザクザク看破材料が挙げられております。 えー、更にスクープ元である日経新聞の記者にインサイダー疑惑が かかっておりまして、それを潰すための『見出し記事』だったのでは ないかという憶測まで飛び出してきております。 確かに個人的にも「天皇陛下のお考えであったのか否か」よりも 「日経が捏造しちゃった!?しかも天皇陛下を使って!?」という 方が面白くなってきておりますw 日経本社への電話突撃部隊も編成されており、いくつか報告が 上がっておりますがかなり混乱している様子。 方向は逸れてきてますが、なかなか目の離せない状況に なって参りました。今年は靖国行くしかないなぁ、終戦記念日に。 ...
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