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2016年01月04日(月) まだここにいます

まあ、生きてる限り。。


6月追記:

ああ、ずいぶんと遠くまで来てしまったなー><

友から苛められたり親兄弟から虐待を受けたりした人は、その後よほどケアをうまくしてあげないと、今度は他の人に同じことをしてしまうことがある。
辛い思いや悲しい思いをしたはずで、傷ついていて、そこから「自分は絶対人には優しくするんだ、自分がされたくないことは人には絶対しないんだ」という心が芽生えてくる人はいい。が、そうはならない場合があるのだ。

どういう理屈かというと:
・自分の時は誰も助けてくれなかった。
・自分が傷ついたのだから人も傷ついたって構わない

………
という調子で、人を傷つけても「自分も傷つけられた。何で同じことをして自分を傷つけた人は注意もされず叱られもしなかったのか。何で自分は叱られるのか」といった屁理屈を言い始める。

いや、単なる屁理屈でもないかもしれない。本人はそこを根拠として主張を展開しているわけだが、やはり、人はそういう時、間に入って何か言うべきだったのではないかと、私は思ったりもするのである。誰かが傷ついたり傷つけられたりするのに気がつかない人もいようし、そういう場合もあろうが、そこの部分を誰も気遣えなかった、そういう点に対する、これは怒りであるように思える。


しかしどう考えてみても、簡単に言えば自己中心的な発想でしかないのだが、この考え方に対し、それではだめなのだということまでどう説明すればいいのか分からない。余計こじらせてしまうような気もする。

普通、人は傷ついたり悲しんだりしたらその分、他人には優しくなれるはず、そう思っていた。勝手に思っていただけのようだ。
どうすればいいのか…あの時、どうしてあげれば良かったのか。ただわかることは…その心がひどく傷ついているということだ。

だから思うのだ、傷つけられた心が同じように人を傷つけないように、周りは何が出来るのか。どうしたら傷ついた心をケアできるか…傷つけあわないのが一番だが、人は中々そうはいかないからだ…


私がこういった人の心の動きがあるという事を初めて知ったのは、実母に精神的虐待を常に受けていたという経験がある友から聞いたある言葉からだった。離婚することになり、一人娘を置いていくか連れて行くかの問題で、置いていく事を選んだ友はその理由をいうのだった、「自分も娘を虐待してしまうかもしれないから」。
その時は言葉の意味が理解できなかった。それに、友に自分の子供を虐待するような兆候があるかどうかまで私には分からなかった。
しかし、数年経って友の「自分も虐待してしまうかもしれない」という心情が、ああこれはこういうことだったのかと思い至れるような出来事があった。
その人にこういう心情が現れる前に、何とかしてやれなかったのか。






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