早瀬の呟き日記

2007年04月23日(月) 無題

例えば、45分の授業があったとしよう。
その45分間に教師が提示する教育内容に、無駄のない一貫性があったとしよう。
口頭説明、図、それらが一つの目的のもとに配置されている。
脇道に逸れた内容は、ない。
それらによって、生徒の認識はきっちり一貫してそれを学ぶだろうか。混乱もなく、一直線に。
正直、私は疑問である。
45分の授業のうち、その時間が終わって生徒の意識に残るのはたかだか15分くらいの断片ではないだろうか。ノートにメモを取っていれば後で思い出すことはできるが、そうして再生された「知識」は、もうその頃には「他人事」でしかない。

「今ここで」学んでいる意識に対して、多少(全然関係ないということではなく)目的からズレたものを提示して気分転換、「何だこれ?」的な意識の動きを挿入した方が、むしろ意識の惰性を食い止めるのではないだろうか。
そうした、「ん?」という経験の積み重ねが、知的な働きをさりげなく促すのではないか。
知識はある。「××って何?」と訊けば、答えられる。
しかし、主観と結びついた客観性はまだない。
それは単に無責任でいられるがゆえのドライさであり、自己中心性という幼稚な主観でしかない。
そういう年代の人間には、多少の一貫性を犠牲にしてでも、「何だこれ?」という認知的経験を挿入した方が、遠回りなようだけれども効果的なのじゃないか、と個人的には思うわけである。

それとも、やっぱり混乱を招くだけなのだろうか。
迷いは尽きない。

全然関係ないが、某Q&Aサイト(?)で「オススメのゲームを教えて下さい」と書き込んでおきながら、「Aはどうでしょう?」「Bは?」という親切な書き込みに対して「Aは絵柄が苦手」とか「Bは評判が悪い」と(それでも最後には「ありがとうございました」と言ってはいる。最低限)、自分のストライクゾーンがあまりに狭く他人にオススメを尋ねる意味が全くない人がいた。
こういう人は、自力で(ハズレを掴むのも含めて)出会う方がよい。

汚れていく美しさ、というものもあるのではないかと最近考える。
ドブネズミみたいに美しくなりたい、というわけではないが。


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琳 [MAIL]