| 2006年10月16日(月) |
抽象的、あまりに抽象的 |
「人にわかってもらう」ことに熱心な人の表現は具体的である。 私は割合抽象的に考え、表現する。 たぶん、「わかってもらおう」とあんまり思っていないからだろう。 社会性がない。 「アウトプットを前提としないインプットは無意味だ」と日垣隆氏の『知的ストレッチ入門』(タイトルうろ覚え)に書いてあったが、「そうかなあ?」と思うあたりが、社会性がない。 自分の属性を「人に見える形にする」ことに、不熱心ということ。 記憶でも、「具体的なエピソード」を忘れやすい。 抽象的に考えたことの方がよく覚えている。 人にされる質問で「最近どう?」とかも、最初は戸惑った。 何を答えればいいのか。どうって何だ。 主に仕事のことを訊いている、というのが、今はわかっている。 自閉症の人は、こういう漠然とした問いが決定的に苦手らしい。 努力すれば理解できないわけではないところが、自閉症かそうでないかの差だろうか。 出かけ際の「気をつけてね」も、苦手。 「何に?」と訊き返して、家人に嫌な顔をされた。 なので、もう言っていない。「うん」とうなずいておく。 考えてみるに、「無事に帰ってきて欲しい」という意味であり、祈りであって、相手の返答を期待したものではないような気がするが。
抽象的な話を続ける。 「強制」とか「責任」とか、はっきり線引きできるものではない、と思う。 まあ、自分の場合には、ちゃんと「責任」を引き受けなければいけないとは思うけど。一般的に言って、「強制か自主的か」「誰の責任か」というのは、あいまいなものだと思う。 極端に言えば、どこにも責任なんて存在しない。「なんとなくそうなっている」のが現実だ。 そういう、いい加減でルーズで適当な世界を、「責任」という刃物で特定の形に切り取るのが、人間の倫理だ。
最後は少し具体的な話を。 自殺したい、と思っている人の大半は、その責任は本人にはない。 上と矛盾するようだが、明らかに、当人の希死願望に影響を与えている人間に問題がある、と感じることが多い。 このへんはまだ、私にも社会性が与えられているという証拠だろうか。
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