戦力に圧倒的な差があるときのみ、武力解決は「有効」である、と私は思います。「有効」というのは、「相手をたたきのめすことによる沈静化」であり「当面の憂いの排除」ができる、という意味です。アメリカとアルカイダ、イスラエルとパレスチナ自治政府。「圧倒的な戦力差を背景とした武力行使」に対して反感を覚える人があるのは、その人が良心的なんだなあと思いますが、だからと言って、「正々堂々軍事力が拮抗している集団同士で衝突しろ」とは言えません。喧嘩じゃないんですから。 武力を使うのであれば、それが最小限で済む相手に使うのが、たぶん現時点での最も賢明な策なのでしょう。「少ない労力で確実に勝てる相手以外に戦争を仕掛けない」。長期化し慢性化する戦時体制は、どの国も避けたいと考える筈です。 戦争とテロに主体の違い以上のものがあるとすれば、それは目的の違いで、勝敗よりも「相手にダメージを与えること」が最優先されているのがテロであると言うことができます。何故なら「テロ」である時点で力の差は明らかなのですから、最終的な勝利はありえない。力の差は逆転することはない。どれだけの被害が与えられるかでしか、成功度合いは計れない。ダメージを与えることを主眼とするからこそ、テロリズムには終わりが来ない。終わりの来ないものを相手に行なう戦争もまた、終わりは来ない。 それでも、「何もしないよりはいい」のだろうか。 何かを行なうことは、意図した結果と意図しない結果の両方をもたらす。 責任、とは意図した結果に対してのみ負われるものなのだろうか。 近代社会の原理からすれば、たぶんそうでしょう。 「私はそんなつもりじゃなかった」「あなたのためを思ってしたことよ」「どうして私の善意がわからないの?」 私は、「偽善」を否定しません。「真善」がありえないと考えるからです。しかし、「独善」だけは、どうにも勘弁してくれ、と言いたくなります。
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