黒武日記
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 ボヘミアン
2006年05月02日(火)

 銀とこで紹介されてた「チェルニー」先生肖像に爆笑。
 なにより、その「髪型」に。だってもお、さ?なんであんなところで分けて貼り付けちゃったんだろうって不思議さだけど、不思議も何も、限りなく広い額をカムフラージュしてるって以外なにものでもなさそうな・・・生え際の延長線を無意識で目視上で結んでしまうような・・・ね、不自然な髪のなでつけ角度、最高だよ。どこか近未来的だよね。SFチックで更なる魅力が引き出されてますよ〜あの髪型。チェルを愛してる銀には申し訳ないけど絵のデザインとしては面白いものがありますよ〜。惜しむべきは服かなあ〜地味服だから奇をてらうことも流行最先端を行くわけでもないために今みてもそれほど奇妙じゃないんだよね。流行服こそが奇妙さを追求したら最高な衣装もないんじゃねえの?例えば、簾みたいな前髪どころか、熊手みたいになった90年代女性の前髪とか、顔グロ超えてゴン黒になってる女子とか、ズボンずり下げすぎて膝が腰になってるとか、肩パッド入れすぎでガン○ダムみたいになってる服とか最高ですよ!!(それにしても、服飾の歴史上では定期的に肩の辺りの布地が膨張した服が登場するのだろう?そしてやりすぎちゃってる人がいるのだろう?)いっそ古いっていうより周期的に繰り返される流行の共通点って、逃れられない選択肢の限界を感じるんだよね〜ニュアンスは変わっても、あくまでも他の時代それぞれにある要素との協調を図る上の調和装置としてのやくわり程度がニュアンス程度の違いでしかないという・・・内面の表層としての外面といっても、人間、手足の数やら体の多きさが大幅に変わるという事も無いのだからなあ〜と単純にそういう事もあるわけだけど、内面の表出がすくなからず外面に繋がると言うことに異存がないとして、その外面を選びうる内面は流行という同じ共通外面をもつことで、その共通性を示している。つまりは流行服とは、同時代に生きる人々の共通意識の存在を示すものであり時代を感受した人々の総意的(平均的)意識の表出が流行ファッションなるものであるのだなあ〜と思うのですよ。その中で、いわゆる「いきすぎ」てしまう人々ってのは、同時代を生きる時代の空気からズレてるのですよね。しかし流行を無視してるわけではなく「乗ってる」わけですから、あくまでも同時代、同時代の人々の意識の上に載りたいわけですな。普通の人(いきすぎない人)ってのは、溶け込めてるわけですよね〜目立たない(在る意味流行服を少し取り入れるぐらいが一番目立たないという事実があるよね)ということは協調できてるわけです。でも、「いきすぎてる」人はそれが出来てない。同時代、同時代の人々・・・社会との協調ができていないといえる。しかしながら、その社会(まあ、広く見てもいいし、友達付き合い、会社、団体とか・・・なんらかのカラー、共通目的・意識(親密な)に積極的に介入しようとしている。う〜ん。極端に寂しがりやなのか、いや、むしろ強い自己顕示欲を感じますよね。簡単にいうと流行ノリノリの服は概して網羅的で、周りに溶け込むことがむずかしいものではないはず・・・だが、本来目立たないデザインだったとしても、それを更に大幅に強調し(間違ってることが多い)飛躍させずにはいられずミニスカが流行れば尻が見えるギリギリまでスカートを上げずにいられない!そこには常識なんて介入できませんよ。内なる叫びですからね〜。
自己顕示欲がなにから引き出されるのか・・・と事を考えようとすると様々な理由があるだろうことは想像に難くないわけでね、だからなんだって話なわけですが。(この、やりすぎの一端として気になるのが、全く分野が違い流行などなさそうな「コック帽」なんですよね。あの、偉くなるほどに帽子の高さが高くなるというアレですよ。力を誇示するがごとくそびえる白い巨塔ですよ!!あれ・・・最高でどのくらいの高さの帽子をかぶった人がいたのか・・・また・・・今もいるのか・・・。三角巾なんてお粗末なものじゃなく、そびえるコック帽の面白さは語りつくせぬものがあるなあ)
 いや、ハッキリいうとだよ。地味服なチェルは社会と調和できる柔和さを持ちえていたと言う事もよかったと思うし、(や、当時の社会体制の善悪とかがいいたいんじゃなくて・・・多少人の中で生きるにしたら・・・その方がマシかなって)現在みても「ふ〜ん」と思うあたりに時代に乗りきれない、いや、どの時代に生まれてものノリノリになることが無かろうという、裏返せば・・・大げさにいえば普遍的な人柄ぶりを垣間見れたのも良かったな。と思うんですが・・・。いかんせん、あの頭ですよ。あれだけは、ゆゆしき事態ですよ。クルクル髪の多かったであろう人々が考え出しそうな髪形でもあるわけですが、それにしても「奇妙」というか「珍妙」というか・・・。何か特別なチェル以外の意識の介入すら感じられませんか?まあ、「描いた人の」といわれればソレまで、なんですが・・・。特に変容の激しい髪形という分野だけに見逃せませんよ。あれは「流行」なのか?なんでしょうか?しかし、気になってくるのは・・・どうして「服」に現れなかった「流行」が「髪」にのみ現れているのか?これは「服」と「髪」に流れる「流行」の「共通意識」が別別のものであるということを示しているとみたい!このチェルの「服」と「髪」は明らかに異なった流れのもとにあるとみていいだろう。その異なった流れとは何か?「服」・・・・の流れは彼自身が溶け込むことで、ある意味無視してるから、追求することも無かろう。だが、「髪」の方はどうだろう。彼はどういった選択であの髪形をすることに決めたのであろうか?考えずにはいられませんよ。そこで思い出されるのが第一印象です。どこか超越してしまったような未来的印象。それが奇妙さを感じさせもするのだが、それ以上にチェルが生きた時代から未来にある私にも何か感ぜずにはおれず・・・そして更なる未来までも届きそうな、何か超越した髪型。何を超越してしまったんだろう・・・正しくは何を超越したかったか?か。未来まで続きそうな・・・いや、多少の奇妙さを補って余りあるほどの普遍的なものの存在があるとしても良いのではないか?所詮人の手足が2本づつで頭が一つであるという事で繰り返し同じループを回る流行ファッションの(在る意味)限界のように?「超えてしまいたい」「普遍的なもの」・・・その思いとは?動機とは?私は、あの髪型に、越えてしまいたい普遍的なものを感じたにしても・・・「ドコ」にそうった特徴を、「ナニ」に特徴を見出したのか。それは、極初め見たままに無意識になされた「〜生え際の延長線を無意識で目視上で結んでしまうような・・・ね、不自然な髪のなでつけ角度、〜」という延長線を追うという事とその延長線を悟られまい、隠しおおそうというかの様に生え際を隠して横切る前髪にあった。そこまでして隠そうとする事実はもはや左右モミアゲから頭頂部へのつづく延長線の接点以外に無い。あの一見から見た以上にその接点が上へ上へ、奥へ奥へと延びてることを、もはや否めない。その横切る前髪の境界線から生え際の終着点までの面積を彼、チェルは否定していた・・・。チェルが「超えてしまいたい普遍的」ものとは「ハゲ」に立ちはだかる現実そのものだったといってよいだろうか。ハゲ自体かハゲという事実か、それがあの髪型の動機であったろう、あの「髪」の下に脈々と流れる「共通意識」とは、様々な差異はあっても共通する「ハゲ隠し」隊という意識に他ならないだろう。ハゲを隠すことで、どういった事を求めているのか・・・その先というものは、ハゲを隠すという行為をすることで「生えている」という進路の支流に戻ってしまい、それ以上の前進という選択がないことを意味している。多くの薄げの人々が各時代でさまざまに「ハゲ隠し」をしてきたことだろう。「髪は頭頂部に生えているものだ」という一定の価値観のもとでは、ハゲを隠したいという願望もまた時代を超えて変わらないということでもある。チェルがした髪型には時代を超えた「ハゲ隠し」隊という意識のもとになされた選択だった。チェルの服装は地味服であることで(あのスタイルを生み出した)社会に溶け込み、また、彼のアノ髪型も彼個人の意識でありながら時代を超えた同士達の意識という流れの上にあった。チェルは生きた時代にのめりこめないものの溶け込みながら一方では時代を異にする意識をも感受し体現せしめているのではないかと思うのだよ。
 しかし、本来チェルの素晴らしいところは、多く知られる肖像にあるように全くその広い額を隠そうともしないところだと思うのだ。「生えている」という流れを意識するあまり、生えているフリをすることで1歩下がって1歩戻るというような前進0歩といった構えでしかいられない人間であるよりも、それがたとえ逆の流れ「ハゲ(丸ッパゲ)」であってもその方向を真摯に向き進む姿こそとらわれない自由な姿ではあるまいか?銀による新発見の絵で妙に美麗な顔かたちでかかれようとも、従来認識していた肖像画の彼の方が私は好きだ。造作がどうのというよりも、そのエゴの具合によるものである。チェルらしからぬと感じるといえば、そういった部分でのことであろうか・・・。

 ブハハハ!真面目に読む人もいないだろうけど、ツッコミが一言では収まらなかったという事です。

 あ〜・・・今日は次元(ルパン三世)について言いたいことがあったのに、チェルのことになっちゃったよ。





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