ウラニッキ
You Fuzuki



 『そらの見える窓(仮題)』草稿

「異常なし、……っと」
 日誌に入力して、ひとつ伸びをする。いつもと変わりない一日が、またひとつ無事に過ぎたということだ。
「お疲れさま」
 横からコーヒーカップが差し出された。懐かしい声に振り向くと、これまた懐かしい顔が笑っていた。
「エルマ! 起きてたのか」
「ええ、今日からね。またしばらく、よろしく。――どう、最近は?」
「あいも変わらず、さ。航行計画は順調に消化中。老朽化は各所で進んではいるが、どこも当初の予想の範囲内だな。『村』には特にトラブルもなし、平和にやっているらしい」
「そう。なによりだわ」
「まあ……あえて個人的な問題を挙げるとすれば、少しばかり飽きてきた、ってとこか」
「――レオ」
 エルマがふっと笑みを消して、俺を見つめた。失言に気づき、俺はおどけた表情を作ってみせる。
「冗談、冗談。どうせ俺も、もうしばらくしたら眠る番だしな。ぐっすり寝て起きれば、忘れてるさ」
 まだ心配そうに見つめてくるエルマに笑いかけて、俺はカップの残りをぐっと飲み干し、立ち上がった。
「点検も兼ねて、散歩でもしてくるよ。ずっと座りっぱなしだから腰が痛い」
 エルマは少しだけ眉を下げて、いってらっしゃい、と言ってくれた。


「失敗したなぁ……」
 ひとけのない通路を歩きながら、俺は頭を掻いた。飽きた、だなんて、あの瞬間まで心の中でさえ言葉にしたことはなかったのに。
 気が緩んだということだろうか。緩んで、抑えていた本音が出た? つまり――そう、確かに俺は飽きてきているのだ。このかわりばえのしない日常に。計器と灰色の壁を見つめるばかりの、いつ果てるともしれない日々に。
 頭をぶるりと振って、思考を中止する。俺は今、どんな顔をしているのだろう。
 足は自然と、人に会わないですむ方へ向いていた。『村』との数少ない接点である非常用通路、この旅が始まってから一度として使われたことはなく、このまま順調に進めば最後まで使われることもないだろう。クルーそれぞれに点検を担当する区域が割り振られていて、次に眠るまでに一度は見廻っておかなければならなかったから、ちょうど良いというものだ。

 薄暗い照明に照らされた通路を、のんびりと歩く。壁も床ものっぺりと無機質で、目に楽しいものがあるわけでもないが、毎日同じものばかり見ている身には少しばかり新鮮と言えなくもない。
 ゆるいカーブを曲がる。と、本格的に見慣れないものが、視界に飛び込んできた。
 『村』からの通路のひとつに通じる扉から、いくらも離れていない場所だった。人の目の高さほどの円窓の真下に、あれはどう見ても、うずくまった人影。
 隣接する区域の担当はエルマで、今ここにいるはずもない。そもそも身なりが違う。
 『村』の人間に違いない。
 俺がこの場所で、もっとも会ってはいけない相手、だった。

 30秒ほども、そこで硬直していただろうか。予期していた反応のひとつもないことに気づいて、俺はやっと頭の回転を再開させた。よくよく見てみれば、その人物は目を閉じているようだった。目を閉じ、壁にもたれ……眠っているのだろうか、あれは。
 ひとまず戻って身を隠すか――と、踵を返そうとしたところで、靴が床に当たって音を立てた。頭を抱えてしゃがみこみたくなる。なにをやっているんだ、俺は!
 人影をそっと見やる。今の音が聞こえないほど深く眠っていてくれ、という祈りは通じなかった。
 ぱっちりと開いた目が、こちらを凝視していた。
 俺はもう一度、息を呑んだ。先刻とは少しばかり違う驚きに。
 それは、ひどく美しい瞳だった。美しい――どこまでも透明な、高い高い空の青。

「こんにちは」
 その人物は、ぱちぱちと瞬きをすると、そう言った。高い、澄んだ声で、俺はこの相手が年若い少女なのだと、遅ればせながら認識する。
「こ……こんにちは」
 逃げるという選択肢をこの瞬間に失い、俺は間抜けな返答をしていた。少女は会話を続けたそうな表情で俺に視線を合わせたままで、俺は仕方なく、そのそばまで歩み寄る。
 少女は興味深げな目つきで俺の服装を眺めまわした。上から下まで合成繊維のつるりとした一揃い。天然素材のシンプルな衣服をまとった彼女の目には、さぞかし異風体に映るだろう。
「君は……」
「そら」
 少女は人懐こい笑みを浮かべた。
「そら、よ。あたしの名前」
「あ、ああ……。成程」
 そら、と名乗った少女は首を傾げた。またぱちりと瞬き、それでいっそう、瞳が濡れたように光った。乏しい照明でもわかる、その鮮やかな色に、俺は魅入られる気分になる。
「なるほど、って?」
「君の目。空の色だ。だから、だろ?」
 俺がそう言った瞬間、そらは顔を輝かせた。それは驚くほどの変化で、俺は思わず半歩後ろに下がる。反対にそらは、ぶつかるようにこちらに体を寄せてきた。息がかかるほどに顔が近づく。
「あなた、じゃあ――『そら』を見たことがあるのね!?」
 俺は内心で歯噛みした。馬鹿野郎、最悪だ! 今日の俺は失敗続きだが、その中でもこれは最たるものだ。
 そらは期待できらきらと目を輝かせて見つめてくる。俺は表情筋を総動員して、ふさわしい顔をつくった。すなわち、軽い戸惑い。「いや……俺も、話に聞いただけなんだ。こういう、澄んだ青い色を空の色って言うんだって」
「……そう」
 あからさまな落胆を顔いっぱいに浮かべて、そらはうなだれた。その様子があまりにも残念そうで、俺はもう少し、この少女と話をしてみることにした。して、しまった。

「この名前は、母さんがくれたの」
 通路の壁に背中を預けて並んで座り、俺はそらの話を聞いていた。
「この窓のことを教えてくれたのも母さん。母さんはね、ずっとずっと小さい頃、迷子になって、気がついたらここにいたんだって。心細くてさみしくて、泣きたくなったときに、ふと、視線を上げて――」
 そらはその日の母親の行動をなぞるように、顔を上げる。ほそい指が、窓を指差した。
「あの、窓の向こうにね。とってもとっても綺麗な青い色が見えたんだって。本当に、吸い込まれるように綺麗で、それで母さんは泣くのも忘れてずっとそれを見つめた。そうしたらなんだか勇気が出てきて、またずいぶん迷ったけど、うちに帰れたんだって」
 くすり、と笑う。
「その日の夜に、母さんは母さんの父さんに、その青い色の話をした。母さんの父さん――おじいちゃんは、黙って話を聞いていて、話し終わった母さんを、ぎゅっと抱きしめたそうよ。そのままぽつりと、それは『そら』というんだ、憶えておきなさい、って。……おじいちゃん、泣いてたみたいだった、って母さん言ってた。あたしが生まれて、初めて目を開けたとき、母さん、その『そら』の色と同じだって思ったそうよ。だからあたしに『そら』って名前をくれて、どんなに綺麗だったか、何度も何度も話してくれたわ。もう一度、『そら』が見たいわって、母さんずっと言ってた。――死ぬまで」
 そらは目を伏せる。母親を想っているのだろう。俺は無言で続きを待った。
 少しの沈黙のあと、そらは俺のほうを向いて笑みを作った。
「だからあたし、暇を見つけては母さんの話の場所を探したの。探して、探して、探して、やっとこの間、ここを見つけた。だからここはあたしの秘密の場所。誰にも内緒よ。だって母さんが、あたしにだけ話してくれた秘密なんだもの。――あの窓、あそこから『そら』が見えるんだわ、そうでしょう?」
「……空は、見えたかい」
 答えるかわりに、卑怯な質問を、俺はする。そらは笑んだまま、かぶりをふった。
「いつ来ても、暗闇しか見えない。でもね、そういう時は、ここに座って想像するの」
「想像?」
「そう。母さんから『そら』の話を聞いてからね、あたし、いっぱい本を調べたの。どうしてだか、『そら』についてちゃんと書いている本は一冊もなかったけど、お話の本のいくつかに、すこしだけ、『そら』のことなんじゃないかっていう部分があった。こうやって目を閉じて、母さんの話や本で読んだ内容を思い出す。そうしながら想像するのよ。あの窓の向こうに、『そら』はどんなふうに見えるんだろうって……。それだけでもとっても楽しいから、いいんだ」
 うたうように、そらは言う。幸せそうな微笑みを浮かべて。
「……そうか」
 相槌を打つことが、そのときに出来た俺の精一杯だった。

 扉の向こうに消えるそらを見送り、俺は居住区に戻った。『村』の少女と会い、あまつさえ会話を交わすなど、重大な規則違反だ。だが――そらはこの場所を誰にも秘密にしているらしい。であれば、ここで俺と会った事も、誰にも告げることはないだろう。
「――畜生」
 個室の狭いベッドに転がり、低い天井に向けて呟く。畜生、畜生、畜生。怒りと苛立ちがぐるぐると体内に渦巻いていた。
 それは能天気に夢を見る少女に向けたものでもあり、彼女になにひとつ真実を語れない自分自身に向けたものでもあり、そして、俺たちが否応なく押し込められた運命に向けたものでもあった。
「空、なんてなぁっ」
 完全防音のこの部屋では、いくら大声をあげても他人に聞かれることはない。この船を設計した人間は、クルーが私室でわめきたくなることも想定していたのだろうか。
 あんた、偉いよ。設計者に感謝して、俺はひときわボリュームを上げて叫ぶ。
「そら! おまえ、空なんて、一生見られやしないんだ……!!」

 はじまりは、とある地球型惑星に、地球からの移民団が降り立ったことだった。空間跳躍と冷凍睡眠のおかげで体感としては数週間で、彼らは新天地に降り立った。穏やかな気候に恵まれた、暮らしやすい惑星は、地球で最下層の生活を送っていた人々にとっては、まさに天国に来た想いだったという。
 だが――天国の暮らしは、ほんの数世代で終わりを迎えた。巨大な隕石が、惑星に衝突することがわかったのだ。衝撃で人は死に絶え、生き延びたとしても人の暮らすことの出来る土地は消滅する。逃げ出すしかなかった。
 幸い、実際に衝突が起きるまでには数年の時間があった。かつての移民船には、全員を乗せてさらに余りある広さがあった。しかし二つだけ、足りないものがあったのだ。ひとつは、冷凍睡眠装置。数倍に増えた人々をすべて収容するほどの数も、新たに作る技術も無い。そしてより深刻なことは、空間跳躍装置の故障だった。通常航行で、最も近い宇宙ステーションを目指したとして、数十年。住民の受け入れが可能と思われる地球型惑星まで、三百年はゆうにかかる。
 指導者たちは、苦渋の決断を下した。まず、宇宙船の運航を担うクルーに、最優先で冷凍睡眠装置が確保された。最低限の人数だけを残し、交代で装置を使うことで、最終目的地までの運航の見通しは立った。残りは、年齢が高いものから順に割り当てられた。残ったごく若い世代と、志願した少数の大人は、眠りにつくことなく船に乗り込むこととなった。
 彼らは船の中に小さな村を作った。畑を耕し家畜を飼う、原始的な暮らし。大人たちは子どもらに、その村こそが世界のすべてであると教え、物心つく頃から『村』しか知らぬ子どもらは、素直にそれを信じた。
 ――そんな旅が始まって、もう、30年以上が経っている。

 俺は宇宙に憧れて、宇宙船クルーの道を目指した。課程を修了した俺の、最初の本格的な航宙が、この旅になった。
 同い年の、俺とは違う道を選んだ奴等は、ほとんどが装置の中で眠っている。俺もまた、眠るかと打診された。だが俺は肯かなかった。宇宙船乗りを志した誇りと意地があった。長い旅だ、出来るだけ若いクルーが必要であろうとの、若さゆえの自己犠牲的な精神も後押しをした。――だが最近、その判断は本当に正しかったのかと、ふと自分に問うときがある。俺はすでに飽き始めていたのだ。俺にとってはほんの数年に過ぎない、この旅に。それが絶望に変わるまでに、あとどれだけかかるのだろう?

 俺は空の青さを覚えている。夕暮れの、茜に染まる空も、夏の入道雲も、天から降る雨さえも。
 そらは、それらの何一つ知らずに生まれて、そして何一つ知らぬまま死ぬのだろう。母親から聞いた、窓の向こうの青い色。それだけが、そらの知る『空』で、それすらも自分で目にすることは一生、叶わぬまま。
 ――とっても楽しいから。夢見る瞳で、微笑むそら。夢を見ることを奪われた俺。空を知らないそら。空を覚えている俺。
「畜生!」
 そらに空を見せてやりたい。その瞳が、それと同じ色を移して輝くさまを目にしたい。
 そらの夢を踏みにじってやりたい。その瞳が、絶望に曇るさまを目にしたい。
 自分が、どちらを望んでいるのか、わからなかった。
「畜生畜生畜生、ちくしょうッ……!」
 呪文のように俺はそれだけを繰り返した。天井を睨んだ目から涙が溢れてベッドを濡らした。旅立って初めて流した涙だったと、ずいぶん経ってから気がついた。

 俺はそれから、何度もそらの窓に足を運んだ。そらはいるときも、いないときもあった。そらに会った日には、そらの語る『そら』の夢を聞いた。断片的な知識をもとにした、そらの夢の空は、本物を知る俺にとってはずいぶん奇妙なものになることがあって、時折俺は笑いをこらえるのに苦労したものだった。そらが俺のことを何者だと思っているのかはわからなかったが、そらは俺に何も聞かず、それをいいことに俺もまた何も話さなかった。
 思ったとおり、そらの母親は、ごく幼い時分に船に乗り込んだ子どもであるらしかった。船内の『村』での暮らしは出航よりずいぶん早くから始められていたから、まだ船が地上にあったときに、母親はあの窓から空を目にしたのだろう。
 時々俺を、二つの衝動が襲った。俺の知る空を教えてやりたいという衝動、空など一生見られないのだと告げてやりたい衝動。正反対なようで、どちらも同じことだ。つまり俺は、そらを俺の側に取り込んでしまいたかったのだ。そらが楽しそうに笑うたびに、それは強くなった。
 それでも俺はなんとかその誘惑をやり過ごし、そ知らぬ顔でそらと会い続け――そして、俺が眠りにつく日が来た。

「しばらく、来られなくなるんだ」
 俺がそう告げると、そらは眉を下げて、ざーんねん、と呟いた。
「しばらくって、どのくらい?」
「うーん……ちょっとわからない。ずっと、かもしれない」
 わからないというのは嘘だ。だが俺は次に目覚めても、ここに来るつもりは無かった。そらと俺の時間は、離れてしまうのだから。
「だから、――元気でな」
 そらはぱちぱちと瞬きをして、それから、にっこりと笑った。空色の瞳いっぱいに、俺を映してくれた。
「うん、元気でね。ありがとう、レオさん。そらの話、聞いてくれて嬉しかった」
 無意識に伸ばしかけた手を、俺は意志の力で止めた。そらを抱きしめたかった。だが、それをしていいのは、俺じゃない。

「おはよう、レオ」
 深い眠りから覚め、伸びをしながら私室に向かう俺を、呼び止めたのはエルマだった。――眠りのサイクルは一定ではない。毎回同じ順番では飽きるからだ。
「手紙を預かってるわ。――どうして私が見つけたのかは、聞かないでちょうだい」
 エルマは複雑な顔で笑うと、封筒を俺に手渡した。どきりと胸が鳴る。やわらかい筆跡で書かれた宛名は俺の名前、裏返して差出人を確かめると、予想したとおりの名が記されていた。――「そら」。

 ――レオさん、ありがとう。ごめんなさい。
 手紙はそう始まっていた。俺は手が震え始めるのを感じていた。
 ――ごめんなさい。あたし、知っていました。レオさんの前に、クルーの人に会ったことがあるの。その人が全部教えてくれた。
 あの日、あたし、これで最後にしよう、もう来るのやめようって思っていました。でもレオさんが来て、あたしの目を空の色って言ってくれて、あたしの話を聞いてくれて、本当のことを何ひとつ言わないでいてくれた。あたし、その全部がとっても嬉しかったの。想像するだけで楽しいって、あたしはずっと、それだけで楽しめてたんだって、本当にそう思えたの。たとえ、空を見る日が、あたしには来ないとしても。
 だからあたし、ずっとずっと夢見ることにしました。いつか子どもが出来たら、その子にも話してやるの。その子はきっと、そのまた子どもに。そして――ずっとずっと先の子どもが、本物の空を見る日が、きっと来るわ。その時その子はどう思うかしら?
 あたし、その日を想像するだけで、楽しくなることが出来るの。
 レオさん、ごめんね。あたしの話を聞くの、つらかったでしょう。でも、あたしはレオさんに、勇気を貰いました。あたしからもレオさんに、勇気を返せたらいいのだけど。
 レオさんが、そしてあたしのずっと先の子孫が、無事にそらの見える星にたどり着けるよう、祈っています。

 俺は手紙を封筒に戻した。それをそっと胸に当てて、目を閉じる。
 そらの見える星まで、君の子孫を送り届けるのが、俺の一生の仕事だ。
「飽きてる暇なんかないぞ、俺」
 両手で頬をぴしゃんと叩き、俺は立ち上がった。
 ――そら。願わくば君が今も、幸せに笑っていますよう。

2007年09月07日(金)
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