ウラニッキ
You Fuzuki



 白珠ラスト(ネタばれ!)

いまのところ、こんな感じ。

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 バルコニーの扉を、今度は自らの手で押し開けたとたん、喧騒が引き波のように静まっていくのがわかった。
 先刻までのドレス姿とはとはがらりと変えた男装に面食らった眼差し、あるいは面白がる目、多種多様な視線にさらされながら、律動的な足取りでクリスは手摺のすぐ手前まで進み出た。
 騎士隊式の礼は、やはりこの姿だからこそきちりと決まる。婦人方が、ほう、とため息をつくのがいくつも重なって、会場の空気を漣《さざなみ》のように揺らした。
「皆様、たいへんお待たせいたしました」
 ゆったりと見渡した視界の端に、両親の姿を認める。どこか残念そうな苦笑を浮かべている母マリアティーザの隣で、チャールズ=グレン国務卿はにやりと性格の悪そうな笑みをクリスに送ってよこした。
(やっぱり仕組みましたね、父上)
 心中で恨み言を呟きながら、同時に感謝もしていた。
 気がつけばどれほどたくさんの人が、自分の背中を押していてくれたことか。
 にこりと笑って、クリスは芝居がかった動きで斜めうしろをかえりみた。
「あらためて、ご紹介いたします。わが剣をお預けするかた、白の宝珠の巫女、エアリアス=セシル=ラフィード」
 差し伸べた手にしなやかな指先をゆだねて、優雅な動きで扉の内側からエアリアスが歩み出た。
 シャンデリアの光に、本来の色を取り戻したプラチナの髪がきらきらと煌めく。身体の線を出さない装束は、聖職に相応しく清楚で、けれどもどんなドレスにも劣らず巫女の神秘的な美貌を飾る。額に咲いた銀の花は、見間違いようもなく、フェデリアでたった八人しか許されぬ巫女のしるしだ。
 息を呑むような沈黙が迎える。もう一年近くも、巫女として周囲を欺き続けたエアだ。その変わり身はクリスをはるかに上回って見事だった。
「……わたくしの我が侭で、お騒がせいたしました」
 はにかむように、巫女は観衆に微笑んでみせた。クリスすら思わず見惚れるほどのやわらかな笑み。
「どうしても、この場に潜りこみたかったものですから。私の騎士に、無理を言ってしまいました」
 軽く首を傾げて視線を向けてくる巫女に笑いかけ、クリスは台詞の先を引き継いだ。
「今宵私がドレスを着るというので――なにせ、女装など久しぶりなものですから、ぜひ見物に来たいとお望みになりまして」
 女装、という表現に会場がどっと沸く。スタインの令嬢がドレスを嫌い、騎士隊入隊後に顔を出した数少ないすべての夜会を騎士の正礼装で通したのは、この場にいる誰もが知っていることだ。実際、今日こそはクリスのドレス姿が見られると期待して集まった輩も多いだろう。
 彼らは知らない。ほんとうは、なにもかも諦めたような想いで袖を通したドレスだった。
 あのとき暗く灰色に沈んでいた世界が、いまは眩しいほどに色鮮やかだ。
「友人に頼みまして、お忍びのかたちでお招きいたしました。本当はもう少し、こっそりといらしていただくつもりだったのですが――わたくしが女装するのだから、ご自分は男装なさると仰いまして。……押し切られました」
 また、笑いが起こった。男装のひとことに、納得したという表情で頷きあう顔がいくつもある。
「今宵のためしばらく休暇をいただいておりましたが、これからも私のこの身はわが巫女のために。この隊服を、脱ぐつもりもいまはございません。若輩の身ではございますが、皆様どうかお引き立てのほどお願いいたします」
 ふたたび緋色のマントを揺らして、クリスは礼の動作を取る。
 まばらな拍手が挙がった。エドマンドが、ユーリグが、そして揃いのマントの騎士隊の同僚たちが、率先して手を叩いてくれていた。それが呼び水となり、やがて広間を満たした拍手の渦の中、手を取り合ってクリスとエアはゆっくりと、広間に続く階段を下りる。
 しばらく演奏を止めていた楽団が、古典の名曲の前奏を奏ではじめた。
 ゆるやかな三拍子。最後の一曲だ。
 広間の中央まで歩み出て、クリスはエアを振り返った。
 紫の瞳をまっすぐ逸らさずに見つめて、微笑みかける。
「踊って頂けますか、――エア」
「はい」
 春風のようにエアリアスが笑った。
 軽く織られた礼装用のマントを翻し、クリスは鮮やかなリードでステップを始めた。重い巫女の衣装をうまく捌いて、エアリアスがぴたりとついてくる。背丈に差がないことは問題にならなかった。誰をリードしたときよりも踊りやすい。先刻、女のステップを踏んだときはどうだったろうかとクリスは記憶をたどった。……憶えていない。脳裏に甦るのはあのときのエアリアスの言葉と、強くひかる紫色の瞳ばかり。
(勿体ないな)
 苦笑したクリスを、首を傾げてエアリアスが見やる。ふとその口許がほころんだ。耳に馴染んだメロディラインが調子を変えるところで、一瞬その左目にひらめいたウィンクを、クリスは見逃さなかった。
 互いの瞳の中に、間違わずに同じ意図を見つけていた。
 一呼吸で手をつなぎかえる。銀髪をふわりと浮かせてエアリアスが大きくターンした。片手を離しもう片手を頭上に掲げる、男性側のうごきに合わせて、ドレスの裾をおさえる代わりにマントを引き寄せたクリスが、くるりとまわって見せた。そのまま、それぞれの衣装とは逆側のステップを踏む。
 陽光ではなくシャンデリアが、口ずさんだ俗謡ではなく楽団の音色があった。それでも心は、いつかの草原とおなじくらいに自由だった。くすくすと笑いながら、クリスは長い長い最後のダンスを踊り続けた。



 厩舎からは鞍をつけた鹿毛がきちんと引き出されていた。巫女殿からの迎えの馬車もすでに待機している。
「隊長から伝言。隊服の新調のぶんは給料からさっぴくから、きりきり働けってさ!」
 ぽんと背中を叩いて、とおりすがりしなエドマンドがからかうような笑顔で伝えていった。
「おまえがいなかった間の警備はエドと分担したからな。今度呑むとき奢りな」
 逆側からは漆黒の愛馬の手綱をひいたユーリグが、どこまで本気かわからない目で告げる。
 まったくもう、と幸せなため息をついて、クリスは傍らのあるじを振り返った。
「さあ、――帰りましょう」
「ええ」
 微笑んだエアリアスの手をとって、二人掛けの馬車に乗せる。すべての窓に目隠しの布をおろされた、お忍び用の小さな馬車のなかで、エアリアスの白い顔はほとんど闇の中に沈んでしまう。
 座席の片隅に腰を落ち着けたエアリアスが、ふと顔を上げた。
 クリスの身体の半分も、扉の内側におろされた分厚いカーテンの中にあった。引き寄せられるように身を乗り出す。どちらからともなく、そっと唇を重ねた。
「……来てくれて嬉しかった」
 頬の熱は、暗闇が隠してくれていた。
「私は、貴方が好きです。……どんなかたちでも、ずっと、貴方のそばにいます」
 それが、クリスが自分の心の中に見つけた、一番大切な望みだった。
 護りたい気持ちにいまも変わりはないけれど。それ以上に、寄り添っていたかった。
 エアリアスもまた、ほんとうはそれだけを望んでくれていたのだと、いまはわかっている。
 微笑みが見えるほどの明かりはなかったけれど、きっとエアにはわかっただろう。クリスもまた確かに、暗闇の中で大切な人が、幸せそうに微笑んでくれたことを知っていたのだから。
 身を翻して、クリスは愛馬に飛び乗った。夜の中に駆け出したい衝動を抑えて、動き出した巫女殿の馬車に歩調を合わせる。夜風がほてった頬に心地よかった。


 ――それから二年。
 白の宝珠が新しい巫女を選ぶまで、クリス=スタインは守護騎士として彼女のあるじを支えつづけた。巫女が公《おおやけ》に姿を現したごく少ない機会には、その傍らに、つねに巫女に寄り添う守護騎士クリスの姿があった。

 そして最後の夜が来た。
 別れがたさに涙ぐむ女官らの前で、巫女エアリアスはいつもどおりに、穏やかに微笑んで見せた。ひとりひとりに心のこもった礼を述べた巫女が、用意された馬車に乗ろうと向きを変える前に、走り寄ったクリスが巫女の細い身体をかたく抱きしめた。
「お元気で――」
 重なった言葉に笑みをもらして、クリスはあるじの頬にくちづけた。ぱちぱちと瞬きをして、わずかに頬を染めた巫女が、クリスにおなじキスを返す。
 それからもう振り返らずに、巫女は馬車の中へ姿を消した。遠ざかるその姿を、身じろぎもせずクリスは見送った。
 それが白の宝珠の巫女エアリアスと、守護騎士クリス=スタインとの、永遠の別れとなった。


Epilogue


 控えめに扉を叩く音に、クリスは顔を上げた。
 額に落ちかかる髪をかき上げ、応えながら書き物を机の脇に押しやる。
「分隊長。今年の新入隊員です」
「うん」
 扉を開いて一礼した部下に頷いてみせ、続いてどこか緊張した面持ちで入ってきた若者を、クリスはにっこりと微笑んで迎えた。
「入隊おめでとう。きみは今日から私たちの一員だ」
 机の上に用意された、磨き上げられたレイピアを取り上げる。緋色のマントは隊長から、そして隊の紋章の入ったレイピアは配属先の分隊長から授けられるのが隊の慣例だ。
 作法どおりに膝をついた新入隊員の前に立ち、刀身をさらした細剣を目の高さに掲げて、クリスはふるい祝福の言葉を口にする。
「汝に宝珠の導きと祝福を。われらフェデリア騎士隊の一刀であれ」
 鞘に収めたレイピアを、恭しく受け取った若者が、宣誓のために顔を上げた。
 プラチナの髪にふちどられた、色白の美貌の中に、アメジストのきらめきがある。
「宣誓を。――セシル=ラフィード」
 ほころびかける口許を引き締めて、クリスは促した。
 喜びにかがやく顔いっぱいに少年のような微笑みを浮かべて、エアリアスは隊への忠誠を誓う口上を口にした。

 ――それは六年前、まさにこの部屋でクリスタル=リーベル=スタインが口にした、おなじ宣誓の言葉だった。
 彼はたしかに、夢をかなえたのだった。




2003年03月04日(火)
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