春の蠢動(しゅんどう)が肉体をモゾモゾとさせる。
モゾモゾの奥底、川底で沈んでいるのが、私は死ぬ、という褪めた想いである。
この褪めた想いを拡大させれば、この世との乖離になる。
私は死ぬ、「のだからどうせ」という来世への願望になる。
そうはなるまい。
ブッタが修行者には語らなかったのだから、来世を。
イエスが方便として語ったにすぎないのだから、来世を。
孔子は最晩年に死を語ったのだけれど、その来世を。
そうはなるまい。
この蠢動に身を任せながら、絶望の淵に立ち続ける。
立ち続けたい。
仕事や家族や栄誉や金銭や大義や国益に身をプカプカと浮かべていようとも。