私達子羊の出産から自己意識形成までの出発点が既に「可能的」「かつ」「必然的」な存在である「べき」という論理的矛盾。
しかし、その論理的矛盾が出発点である、というのには同意したい。
けれども、その論理的矛盾を神学的還元によって信仰に突き進む側面には、眉を顰めざるをえない。
あなたはオリエントとオジエントの対立を、ヨーロッパとアジア、もしかしたらアジアが現在のトルコの一部の地方名に過ぎないことさえ、知る時代にいた。
けれども、貴方は視界に入りつつそれらを見ることをしなかった。
神学的還元が耶蘇教の異端的還元になることを、ルターの宣言、いやローマ帝国による遺棄、西暦11世紀の破門によることを知らぬはずがない。
あなたはどうして、その「地上的なあるもの」によって視界に暗闇を作るのであろうか。
けれども、貴方の「自分自身に対する絶望」へと「地上的なるもの」を還元していく方向は、「絶対的自己」へと進む道なのである。
貴方の死に至る病に私は首を垂れたい。
豊かに実る稲が首を垂れる所以である。
「皆人は死ぬために生まれた」という言い尽くされて日常生活の茶飲み話で出てくる仏教の教訓にはない、実り豊かな絶望があるからである。
貴方が「信仰の問題」として描き出した「生の極限」は、まだその先に突破する道があるとしても。
ここに絶対的自我は現れていく