福岡は、今年一番の夕日だった。名残惜しそうに電車は、飯塚へ向けて出発した。日本でも有数の港町から、ゴトゴトと各駅停車でゆっくりと深い山へ入っていくと、夕日はすっかり消えて行こうとした。博多の冬は、雪が積もることもあるくらい雲に覆(おお)われる。厚く覆いかぶさる雲と街のビルの間に夕日は沈もうとしていた。寒さで暮れ行く日差しが、朱色をテラテラと強めていた。陽と陰を山の深緑にくっきりと写しだすと、自然と目に重さを感じた。目蓋をゆるりと閉じて、夕日から遡(さかのぼ)り、正午の雲に突き刺さるように海面から伸びた神々しい太陽光線の数本を思い出した。
11時の待ち合わせに「15分ほど遅れてしまう。すいません」とジジは留守電に入れていた。私は博多の親不孝通りの北側にある白い雑貨屋の前で聞いた。11時2,3分前についたので、一応メッセージを確認しておいたからだった。天神の駅から歩いてくる途中に、吉牛があったのを思い出し、少し早足で駆け込んだ。280円の並盛と50円の味噌汁を注文した。直(すぐ)に来たので紅しょうがを3掴(つか)み程ぶちこんでグチャグチャにして胃袋に押し込んだ。時間は11時9分。また、引き返して見たがいないので、近くの自動販売機で御茶を探した。適当なのがなったので、ぶらぶらと歩き出した。飲み終わって帰ってくると閉まっている白い店の前に、茶色のチェックのスカートに黒いセーター、2つのバックをもった女性が立っていた。髪はセミロングだが、量が多く伸びっぱなしにも見える。しかし、それはカリスマ美容師がしたように格好がついていた。とんとブランドに薄いのでよく分らなかったが、全体として1つの調和したイメージだ。つまり、口元の皺(しわ)も落ち着いた大人の女性としてのイメージを引き立てるような女性だった。
目が合ってから、「こんにちは」と声を掛けた。ジジらしき人は「あぁ」と言って目を絡ませてきた。そして涙袋がくいっとマスカラと青いシャドウに近づいた。笑顔は第一印象としては上出来だった。
「じゃあ、行こうか」と言って歩き出した。
歩く速度は、少し速めだ。横顔は大きい髪の傘に守られて見えなかったが、こちらをちらりと見る仕草で傘が閉じた。身長は160cmくらいだろうか、そこそこだったし、前もって自己申告していたものと変わりはなかった。そのことが頭に過ぎると少し眠気が出てきた。なんにせよ昨日は金曜日で、深夜までゲームをしていたからだ。工場でラインの仕事をしているから平日は好きなゲームも殆ど出来ない。決まって休みの前日は、4時5時までゲームをしてしまう。起きたのは9時だったので、緊張のたがが少し緩んだ途端、胸部から眠気が湧(わ)き登ってきた。好意と初対面の緊張を残したままにジジは、
「眠いの?」
と聞いてきた。少し驚いて、だけれど、正直に
「うん。眠い」
と言った。
「それと、どこにいくの??」
と聞いてきた。
この方向は、右へ周ればラブホ街へ通じる通りだからだ。その事を一介の主婦である彼女も知っているんだ、と彼女を見て笑いあった。
「喫茶店だよ。行った事ないけれど、1度行ってみたかったんだ。」
「本当?」
2人とも笑みをこぼした。
「本当。店の上に変な象が乗っている喫茶店知らない? 確かこの近くだけど。」
「ええ?あったっけ?天神は良く知らないの。言ったでしょ。」
「そっか、まあ、この大通りか次の通りにあるよ。よく分らないけど。」
「行ったことないの?」
さっきの台詞を聞いていなかったのか、少し会話のペースが速いのかもしれない。少しゆっくりした口調にして
「うんないよ。多分こっち」
「そっか、じっくり探そう。散歩と思って。」
最後の言葉に彼女の性格をみて少し安心した。今日はゆっくり話せそうだ。
ジジとはいわゆるチャットで出会った。会話のペースが合うのでメッセンジャーを使い2人で話していたら、段々盛り上がってきたので画像交換の後、電話をした。出会ってから2時間も経たなかった。彼女はそこで、「旦那がいるけれど16歳下の彼氏がいて、その人と上手く行っていない。30代だけれど中学などの子供が3人いることや、アナウンサーのような声を使う仕事をしたい」と言っていた。20代後半で独身の私は、会話を聞かずひたすら自分の話をする相手に苛立っていた。けれど電話では淑やかな女性の印象を持った。相変わらず話の筋は外すし、まとまった終わり方をしない場合もあったけれど、メッセに比べると10分の1に減っていた。翌日や翌々日にもチャットで話し掛けられ、なんともなしに放っておけず何時間か話した。彼女から「空いてる日を教えて、逢おう」と言ってきたので、暇な土曜日を指定した。
そんな訳で逢ったのだが、私の中で相手をどのように扱って良いか分り兼ねていた。2人で逢うという事は男女の関係にも発展する可能性がある。大分前に子持ちは止めようと心の中でなんとなしに決めていたけれど、まあ、逢ってから決めよう、とも考えた。会話を要約しようとする癖が、高校からの男の友人にそっくりだったので密かに親近感を持ったのもあったし、「去年は寂しくなって5人と寝た」とジジが告白したのにも惹かれた。後腐れないんじゃなか、と。実際、2,3年前に40過ぎの主婦と付き合ったが、後腐れが無かった。逆に女性らしい弱弱しすぎる気遣いに好感を抱いていた。
喫茶店はものの2分で見つかった。思った通りの場所にあって、象もへんてこだった。モーニングもあるようでメニューを見ずに中に進んだ。中は黒壁で黒いソファーに濃い茶色のテーブルや赤茶色の絨毯で店の年季を、左手のレジ前にある10種類以上のケーキやモーニングや美人の店員で人気を、感じさせた。象の下の2階は使えなかったので、一番奥に座った。丁度私の後ろに壁があって入り口から見えないようになっている。左と前は壁であり、4m以上離れた右後ろに大きな窓があるがレースが掛かっている。右には空きの席が2つ並び、つき当たる場所に仕事だろうか、30過ぎの男2人が世間話とも商用とも区別が出来ない服装で携帯を鳴らしている。よく聞こえないので私は、店員にグレープフルーツと言い向き合った。ジジも同じ物を頼み、「グレープ好きなのね。いいよね、グレープフルーツ」とチャットや電話と同じ口調で話した。
多分、初対面からこの容姿なら、私は畏(かしこ)まって敬意の態度を崩さないだろう。座ってテーブル1つの距離になると、肌の弛みが口元や頬(ほほ)の下に出ているのが分る。白粉が日の光を浴びて浮き立っているのが気になったからだ。
彼女は、早速「眼鏡かけてるんだね、真面目そうだよ」と話し掛けてきた。
「ああうん。」
と続けて、私は何だか楽しくなった。それはやはり浮(う)いた気分だった。
「仕事はなんだっけ?ホストには見えないよ。」
と聞いてきた。
仕事を聞きたがったので、適当にホストだとかフリーターだとか言っていたのだ。
答えずにいて、お互いの将来の夢などをさらりと話し合った。
話すそぶりを見ていて、さぞかし美人だったのだろうと思った。目も大きいしパーツがはっきりしている。何より、夢に対する曖昧(あいまい)さは、苦労なしで生きてきたのを感じ取らせた。12年前に結婚したと言っていたので、素晴らしくもてたのだろう。逢う前にキャッチセールスに声をかけられたことを何度か言い直していたのにも現れている。彼女の中で自分の女性としての肯定につながったのだろう。いつまでも他人の賞賛を忘れられない性(さが)を謳歌(おうか)して来た者の匂いが漂(ただよ)っていた。それが彼女の女々しい弱弱しさにも連なっているのだけれど。
この先どうしようか、確か学校に行くのは1時半と言っていた。ここから歩けば2,3分の距離だし、などと考えていた。
すると、
「で、今はバスケでしょ? 前は何のスポーツをしていたんだっけ?」と聞いてきた。
「ええとね、水泳、陸上、ハンドボールだよ」
「そっか〜凄いね〜。スポーツ万能なの?」
「いやそんなことないよ。でも、好きだよスポーツは」
「バスケの次は何をするの?」
「そうだね、剣道か合気道か空手でもしようかと思ってるんだ。」
「そうか、私もね、子供に剣道をさせようとしているんだ。」
「下の子供は体が小さいせいか、サッカーの時人にゆずってしまうの。だから、空手か合気道も良いよね。」
と言い返した。
私は2,3年前に読んだ小説を思い出した。
小さな事務所の秘書と不倫をしていたが、その女がおかずを持ってきたので止めた、という小説を。家族と同じ物を食べさせる女は女ではなく、母親の心境で接してきているのだと。だから、女を切ったと。
私も同じような気分になった。さっきまでの浮ついた気分は萎(しぼ)んでしまった。多分、ホテルにいっても楽しくないだろう。もうどうでも良いので、難しい話にしてみた。
「空手は兵法で言えば孫子だよね。合気道は墨子で。」
「え?へいほう?」
「あ、兵士の兵に、法律の法ね。」
ちょっと待ってね。ごそごそとバックの中を探った。重いだろうと持っていたバックの中に鉛筆があるようで、それを渡してメモ用紙と鉛筆を取り出した。メモ用紙は何か広告の裏のようで表に浮かび上がっていた。無印でメモ用紙は100枚くらい80円なのに。そういうことをしている女。そしてそれを初対面の私の前で広げる女。田舎者とはこういう人のことをいうのだろうか。無神経な田舎者。私は飯塚生まれだし、高校も大学も親の希望で地元にいった。地元といっても九州工業大学というJR飯塚駅から約3キロ、新飯塚駅からは2キロ足らずなのだ。家から5キロも離れていない。やっと25歳を過ぎて1人暮らしが出来るようになったのだし、それでもここまで無神経ではない。
彼女は「へいほう」と漢字で「兵法」と書いて「これでいいの?」と聞く。
「うん。」と気だけは取り直した。
「じゃあ、そんしの「そん」はどう書くの?」
「まごにこどものこだよ」
「こうね。」と言ってさらさらと書く。字は奇麗だ。
「じゃあ、ぼくしのぼくは?」
「すみってじだよ。」
「こう?」と言って「牧」という字を書いた。
「いや・・・・黒に下は土だよ」
今度は少しゆっくりと「墨」の字を書いて、書き終わるとこちらの目を見た。
顎(あご)を引き鼻筋が真っ直ぐと見え、その上に目が美しく光っている。何度この顔をしたのだろうと思って、
「うん、そうそう」と言った。
すると、体を起こして顎を少し出して口の端を持ち上げるようにして笑った。
「で、どういう意味?」
「孫子は、力で勝つ方法で、墨子は負けない方法って意味だよ」と言ったけれど、正直いって、徒労だと思った。「兵法」の字も知らず、孫子すら知らないのだから。誤魔化していたら、
「じゃあ2つの他にはどんな兵法があるの?」と聞いてきた。
「・・ええと、」少し考えて、
「古代中国のもの?日本のもの?それともヨーロッパのもの?どれがいいの?」と言った。「どれでもいいわ」
私は、こういう会話のパターンにメッセや電話で慣れていた。そうして私が説明した後に、ジジが自分で簡単な要約を作るのだ。そしてそれを私に「これでいい?」と聞いてくる。それでは簡単すぎるし、何より本質が現れていない要約なのだ。そしてそれは何より私の説明が伝わっていなかったことを明らかに示していた。そのパターンに嵌(はま)ると思い、それ以上の説明を避けた。山鹿流の発生から忠臣蔵までの紆余曲折(うよきょくせつ)などを面白く語ろうと思ったけれど、最後の身を切られる思いを避けたかったのだ。
それからジジと、互いの印象が良かったね、と言い合い、本屋にいってみたら、1冊の本を紹介してくれて別れた。別れる時の目はすっかり馴染みのようになっていたし、僅(わず)かだが潤(うる)んでいるように見えた。本屋のエレベーターの中で2人になってありありと男女間の匂いを発していたし、「もう少し平気よ」と自分から言い出した。
匂いは目で、ぎこちない問いかけで、さっきまでとは明らかに違う動きで。
ジジはそうして用事に向かった。
私はズボンを買おうと思っていたが、無性にゲームセンターに行きたくなって、馴染みのゲームセンターにいった。それでも飽き足らず歩き回り三軒の梯子(はしご)をした。前々からチェックしていたけれど買うのを迷っていたCDを3枚買った。JOEが思いの外良くて、他には、シューティングが沢山あってこぢんまりとしたゲーセンを見つけたので、気持ちよく2000円を投入した。、今日は土曜日なのにある仕事の送別会は、当人が風邪のため中止になったという連絡を、帰りの天神のホームで聞いた。
目を開けると、山に掛かっている夕日が心なしか鋭角に目に入ってきた。まだ、ぼやけているけれど、家々からすっかりと室内灯が漏(も)れ出していた。
今後どうしようかと思った。ジジとどうしようかと。40過ぎの人とも自然消滅にしてもらった。ジジのあの目は縋(すが)り付くような目に、私は翻弄されるのだろうか。それは避けたかった。エレベーターのぎこちなさを忘れたかった。けれど、それは難しいと気持ちが言ったので、また、重くなった。夕日に変わって闇が地上から盛り上がるように私の中にも静かに進入してきた。
女性として魅力がない人間。人として魅力のない人間。話が当り障り無くて、自分の夢に対しても一途でなく、人と人との間でしか自分の存在意義を見出せない魅力のない人間は、いつも重々しい。
だけれど、そんなに簡単に人を人間と異性とに奇麗に分けられるのだろうか。
「友達としては良いのにね。」、「私達付き合わなければ一生仲のいい友達だったわ。」、「お前は女として、雌としてしか魅力がないな。」、「悪女だから惹(ひ)かれるんだ。」、「あの人は、本当は心の優しい人。顔が良いからもてて狂ってしまったの。本当は人として優しい人。家族思いなの。」
こんな感じで人間と異性を奇麗に分けられるのだろうか、と思った。ジジだけでなく人間と人、そして異性よりももっと深い部分はあるのではないだろうか、と、ふと疑問に思った。
だが、これから起こるだろうジジの災禍(さいか)を自己正当化しようとしているのじゃないだろうか。ただの自己弁護じゃないんだろうか。自分の自信の無さを隠すために、深そうな話に転化してしまう癖。何度となく同年代に「気難しい」と裁定(さいてい)されてきたその性質が、またもたげて来たのではないだろうか。
私は、やっぱりそんな軽々しい癖は信じない。人間と異性に奇麗に分けられるって信じようと思った。ジジと別れようと思った。それか、「家族の話をするな」と言うか、言えるのかな。ああ、頭がこんがらがって来た。
もう、桂川駅についた。浦田駅まで3つしかない。ドアから寒気が流れてきた、と同時に1つの紙袋が肩に軽く触れた。座席は1シートに1、2つ席が空いている。都会でもないのに座らない人は珍しいので、ふとその人を見た。ジジに比べると少な過ぎるし、櫛(くし)を梳(す)いていないか、ボサボサのひどく跳(は)ねている髪の毛だった。横顔は殆ど隠されていたが、唇が薄紫色のパールで燦燦(さんさん)と綺羅星(きらぼし)を集めたように濃厚で輝いていた。柔らかそうな下口唇に目が動かされた。
ドクン!!
と心臓は跳(は)ね飛び、その波が頭まで来て四方に大きく広がった。今までのごちゃごちゃとした垢(あか)のような思考はぶっ飛んで、ただ口唇のパールが埋め尽くした。癖も、苦悩も、ちょっと張り出してきていた空腹も、今年一番の夕日の残像ですら、吹き飛ばされてしまった。
それに気がつくと、カッ、と恥ずかしくなって顔を伏せた。右側にさっきの抱えられた紙袋が目の際(きわ)に入る。紙袋の先にあるパールを意識しながら視界を寄せていくと、もう1つ奥に大きいのがあるようだ。片手に2つのデパートの紙袋だ。そして黒いフェルトの切れっぱなしのようなスカートが目に入り、次に水色のソフトジージャンが見えてきた。
「なんだか、ダサいな、一般的には」
少し落ち着いたけれど、私は相変わらず明らかに薄紫の燦々に惹かれていた。髪の毛の端まで入ってくると、また、余分なものが、ボン!! とぶっ飛んだ。「ダサい」などというものは、パーっと真っ先に消え去った。
「声はどんなのだろう。顔は、目は、どんなのだろう。見てみたい。髪をかきあげたい。」
私は、頑張っても髪の端までしか見つめられなかった。鮮やかな唇がそこにあるというのに、頭の中はさっきまでの、星達で埋め尽くされていた。
いつの間にか次の駅のアナウンスをしていたようだ。飯塚駅についた。彼女は、紙袋を軽く持ち上げて握り直し、そそくさと降りていった。私はそこで初めて後ろ姿で全身を見る事が出来て、左手に真っ黒のまんぱんに積めた肩掛け袋を下げているのを知った。歩き方はO脚に近いけれど足を引きずるように歩く。誉めようとしても何処(どこ)も誉められないのではないかという後ろ姿だ。
だけれど、あの口唇をテラテラと塗る純粋な雌のアンバランスが、全てを打ち消していた。塗るのは性(さが)の情念かもしれない。ジジと同じかもしれない。だけれど、私の心は、唇に接吻された後に唾液が糸を引くようになっていた。生々しく純度の高い粘液に惹かれるだけだった。
小春日和に 執筆者:藤崎 道雪
校正(H15,10,17)