こんな詩知っていますか? 昔中学校の国語の教科書に載っていた「夕焼け」という吉野弘さんの詩です。 (夕方の満員電車で、おとしよりにせきを譲った少女。そのとしよりが電車を降りるとほかのとしよりが少女の前に押されてきて、また席を譲る少女。そのとしよりが降りた後、また他のとしよりが座る娘の前に押されてきた。)
可哀想に/娘はうつむいて/そして今度は席を立たなかった。/ 次の駅も/次の駅も/下唇をキュッとかんで/身体をこわばらせて---。/ 僕は電車を降りた。/ 固くなってうつむいて/娘はどこまで行ったろう。/
やさしい心の持ち主は/いつでもどこでも/われにもあらず受難者となる。/ 何故って/やさしい心の持ち主は/他人のつらさを自分のつらさのように/感じるから。/ やさしい心に責められながら/娘はどこまでゆけるだろう。/ 下唇を噛んで/つらい気持ちで/ 美しい夕焼けもみないで。
この詩についての発問 「やさしい心の持ち主は誰ですか?」
生徒は「少女!」と自信満々で答えます。
「なぜ?」と問うと生徒は口をそろえて言います。 「二回もお年よりのために席を譲ったから!」
「いいえ。それは違います。お年寄りに席を譲ったから少女がやさしいのではありません。 それが理由であれば、少女は親切だとは言えるけど、やさしいとは言えない。親切とやさしさを履き違えてはいけません。」
これは中沢先生の授業です。 私は、うーんとうなってしまいました。
「やさしさって???親切って???」
確かに、少女はやさしい心の持ち主にちがいないです。
でも、その根拠は、席を譲ったからではなく、 “他人のつらさを自分のつらさのように感じる”ことができるからなんです。
私は初めて、やさしさと親切の違いを知りました。 今まで私の中でこの二つは判別されないぼんやりをした概念でしかなかったのです。 二つの概念がとても近い、似た意味を持っていることは確かです。 でも、大きな違いは、親切は、人のためになる行為そのものを表していて、やさしさは人の身になり、ためを思う心持ちであるということでしょう。
だから、ときに、やさしいがゆえに厳しい人がいたり、親切で気がきくけれど、本当は自分のことしか考えていない人がいたりするのです。
私は親切だけど、やさしくはないかもしれない。
|