楓蔦黄屋
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2022年08月22日(月) |
丁未・長潮・好きと嫌い |
嫌いなものに無自覚だ。
好きなものには無自覚で突っ込んでいくタチなのだが、 だからこそだろうか、自分が嫌いなものがどうもはっきり自分でわかってない節がある。
というか、嫌いなものにも無自覚で突っ込んでいくタチだ。 それで、吟味して、考えて、なぜこんなに腹が立つのだろうと思い、 ダンナに話してやっと「あ、私はこれが嫌いなのか!」と自覚する。
「これが嫌いということなのか!」と、北島マヤが演じたヘレンばりに雷に打たれたように自覚する。
どうやら私にとって、「嫌い」は「好き」と同じぐらいの熱量を持っているようで、 だからとても紛らわしいのだ。 「嫌い」に対しては怒りが湧くので、それが好きと嫌いを分けている。
ついきのうも、どうにも納得がいかない漫画を2作立て続けに読んでしまって、 それについての自分の心の動きを怒りながらダンナに話して それでやっと、私はその漫画が嫌いだということに気づいた。
好きなものと同じ労力をかけないと、私は自分の嫌いなものがわからなかった。 きのうやっと、わかった。
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ただ、好きなパターンと嫌いなパターンの把握はまだできていない。 今私が好きなもののことを、どうして私は好きなんだろうな。 嫌いなもののことはどうして嫌いなんだろう。 理由が説明できない。好きになったり嫌いになったりする気持ちが言語中枢をまったく通ってない気がする。
高温で真っ赤に溶ける鉄が心の中にある感じだ。
私の喜怒哀楽といったら全部その真っ赤に溶けている鉄で、 どれがどれだか自分で判別がつかないのだ。
その鉄が「きれいなものになりそうだな」と感じるか 「ロクなものにならなさそうだな」と感じるか、ただそれだけの違いだ。 真っ赤に溶けているその様が、きっと自分にとって一番大事なことなんだろうと思う。 それが何になるかは二の次なのだ。 しかし二の次だからといって、ほっぽりっぱなしはよろしくないと気づいた。きのう。
でも本当に、「きれいで美しいものになる」or「つまらんものになる」という確信しか判断基準しかないな。 前者がつまり「好き」ということで、後者が「嫌い」ということなんだろう。
なるほど。 書いていてわかった。 私はいつもそうだ。アウトプットして初めてわかるのだ。
それでいいのか。そうか。
夏があっという間に終わりの始まりを迎えている。
楓蔦きなり
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