20代後半のころだったろうか、 「後はもうやがて来るだろう死を受け入れるだけだ」 とノートに書いたことがある。 きっと建設現場に通う毎日が嫌だったのだろう、と今なら分かる。 しょっちゅう親方から叱られていた。 だから、そのころの願いは人を怒鳴ったりしないで、 穏やかに将来を過ごすことだったのだろう。
ところが今だに、僕は荒っぽく不機嫌を振りまいているらしいのだ。 つい先日も「せめて今後は穏やかに仕事をしたいものです」 と長年の仕事仲間からのファクスで驚いた。 送信時間が深夜だから、思いあまって書いたのかもしれない。 自分が人の気分を害するようなことをしているのだろうか。 いつ自分はそんなことをしているのだろう。 怒鳴ったことすら覚えがない。
舞台の上で何百人もの人物を演じて、 その人物からは溢れ出る言葉を語っているというのに、 いざ自分本人のこととなると全くあらゆることがわからない。 平穏に日常を過ごしていると思っているのに、 周りの人間が不安定だと言うのだ。この行き違いは悲劇だろう。 誤解なら解きようもあるが、感じ方の問題だから、収拾のつけようがない。 たとえば「気を使う」という行為に代表されるように、 一方が遠慮すれば、他方もギコチなくなるようなものだ。 一旦、狂った歯車は悪い結果を生むのと似ている。
ドイツ人のある小説家と話したとき、この話題になった。 彼は「むかし盲目の友人に、よく本を読んでいた。 それはきっと彼の楽しみでもあっただろう、と思う。 私の楽しみでもあったから」と微笑んだ。
多分、現実に叶わないことをイメージで共有するのが 幸福だと言いたかったのだろう。
そうか、生きているうちに僕がしたくてすることは、 舞台で他人を演じることかな、と思う。 それ以外に何もないのが、貧しいかのように感じるけれど、 あきらめて、「打ち解けて楽しく談笑する」を切なる望みとしよう。
★生きてるうちにしたいこと「打ち解けて話したい」/イッセー尾形★
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