宿題

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2007年02月25日(日) 生きてるうちにしたいこと「打ち解けて話したい」/イッセー尾形
20代後半のころだったろうか、
「後はもうやがて来るだろう死を受け入れるだけだ」
とノートに書いたことがある。
きっと建設現場に通う毎日が嫌だったのだろう、と今なら分かる。
しょっちゅう親方から叱られていた。
だから、そのころの願いは人を怒鳴ったりしないで、
穏やかに将来を過ごすことだったのだろう。

ところが今だに、僕は荒っぽく不機嫌を振りまいているらしいのだ。
つい先日も「せめて今後は穏やかに仕事をしたいものです」
と長年の仕事仲間からのファクスで驚いた。
送信時間が深夜だから、思いあまって書いたのかもしれない。
自分が人の気分を害するようなことをしているのだろうか。
いつ自分はそんなことをしているのだろう。
怒鳴ったことすら覚えがない。

舞台の上で何百人もの人物を演じて、
その人物からは溢れ出る言葉を語っているというのに、
いざ自分本人のこととなると全くあらゆることがわからない。
平穏に日常を過ごしていると思っているのに、
周りの人間が不安定だと言うのだ。この行き違いは悲劇だろう。
誤解なら解きようもあるが、感じ方の問題だから、収拾のつけようがない。
たとえば「気を使う」という行為に代表されるように、
一方が遠慮すれば、他方もギコチなくなるようなものだ。
一旦、狂った歯車は悪い結果を生むのと似ている。

ドイツ人のある小説家と話したとき、この話題になった。
彼は「むかし盲目の友人に、よく本を読んでいた。
それはきっと彼の楽しみでもあっただろう、と思う。
私の楽しみでもあったから」と微笑んだ。

多分、現実に叶わないことをイメージで共有するのが
幸福だと言いたかったのだろう。

そうか、生きているうちに僕がしたくてすることは、
舞台で他人を演じることかな、と思う。
それ以外に何もないのが、貧しいかのように感じるけれど、
あきらめて、「打ち解けて楽しく談笑する」を切なる望みとしよう。


★生きてるうちにしたいこと「打ち解けて話したい」/イッセー尾形★

マリ |MAIL






















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