この堰のある落合の窪地に越して来たのは、 尾崎翠さんという非常にいい小説を書く女友達が、 「ずっと前、私の居た家が空いているから来ませんか」 と此様に誘ってくれた事に原因していた。 前の、妙法寺のように荒れ果てた感じではなく、 木口のいい家で、近所が大変にぎやかであった。 二階の障子を開けると、川沿いに合歓の花が咲いていて 川の水が遠くまで見えた。
私は障子を張るのが下手なので、十六枚の障子を全部尾崎女史に まかせてしまって、私は大きな声で、自分の作品を 尾崎女史に読んで聞いて貰ったのを覚えている。 尾崎さんは鳥取の産で、海国的な寂しい声を出す人であった。 私より十年もの先輩で、三輪の家から目と鼻の先のところに、 草原の見える二階を借りてつつましく一人で住んでいた。 この尾崎女史は、誰よりも早く私の書くものを愛してくれて、 私の詩などを時々暗誦してくれては、 心を熱くしてくれたものであった。
★落合町山川記/林芙美子★
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