「まだ行かないで」とアンナは頼んだ。 「あの、クリングさん、ずいぶん助けていただいて。 パパとママの家をおみせしたいのよ」 ふたりはいっしょに部屋から部屋へと屋敷を見てまわった。 どの部屋も独自の変わらぬ秩序にしたがっているのだが、 カトリにはたいした差とは思えない。 どれも色あせた青で、なんだか気が滅入る。 アンナはとりとめなく喋る。 「これはパパが新聞を読んでいた椅子よ。 雑貨店まで新聞を買いに行くのはパパと決まっていて。 パパは新聞を順序だてて読むの。 郵便物はめったに来なかったわね…。そうそう、 これがママの夕べのランプ、シェードにはママが刺繍をした。 この写真はハンゲーで撮ったものでね…」 カトリ・クリングはあまり喋らない。たまにそっけなく相づちをうつ。
「そしてね、クリングさん、パパは村に知り合いはほとんどいなかった。 でも、パパが通るとだれもが帽子を取ったの、いわれなくてもね」 「はあ」とカトリは応じる。 「それで、お父さんは帽子をおとりになったんですか?」 「帽子を?」アンナは呆然とくり返す。 「そもそも帽子をかぶっていたかどうか…。 変ねえ、パパの帽子を思い出せない…」 そしてすぐさま喋りつづけた。 アンナはひどく動揺している。多弁すぎる。 さて、こんどはママの話になった。 クリスマスに、村の貧しい人たちの家をおとずれて、 小麦とパンを配ってまわったんだとか。 「配られた人たちは気を悪くしなかったのですか?」 とカトリはいった。 アンナはさっと顔をあげたが、すぐに眼をそらし、 勇気をふるって話しつづけた。 パパの切手募集帳、ママの処方箋の手帳、犬のテディのクッション、 自分の善行と悪行が列挙してあり、 大晦日にじっくり読み返されたパパの日記について。
アンナは両親の家を見境もなくさまよい、 尊く愛すべきものを生まれてはじめて疑い、 あげくのはてに白日のもとにさらけだす。 タブーに挑んでいるという罪深い開放感にあおられて、 もはや自分を押しとどめられない。 気乗りしない客にパパの挿話や小話をつぎつぎと披露するが、 カトリの沈黙を待つまでもなく、意味はすでに失われている。 教会で高笑いするにひとしい。 剣呑な攻撃にさらされて、神聖なものの覆いが剥がされるが、 アンナは頓着しない。 声がうわずり鋭くなり、敷居につまずく。 ついにカトリはアンナの腕をとって、 「アエメリンさん、もう、おいとまします」 といった。アンナはふいに黙りこむ。カトリはやさしくつけ加えた。 「ご両親はとても強烈な個性の持ち主だったんですね」
★誠実な詐欺師/トーベ・ヤンソン★
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