宿題

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2005年12月14日(水) 随筆井伏鱒二/小沼丹
夜になつて、通りの「ここが酒場だ」と云ふ妙な名前の酒場に入った。
店の女性たちは僕らの服装から、僕らの泊まつてゐる旅館が判つたらしい。
あそこには偉い小説家が泊つてゐるさうだが、何をしてゐるのか?と訊ねた。
すると「偉い小説家」の井伏さんは眼ををぱちくりさせて、
──ああ、あのひとは昨日帰つたさうだ。オレたちは将棋指しだよ、
と云われた。



一度、何のときだつたか、井伏さんは僕を見て憫笑された。
──君は、飲んでゐるんだらう?
──ええ、まあ……。
──僕は酒をやめたよ。酒をやめると調子がいいね。
原稿もよく書ける。遅くまで飲んでる奴の気がしれないね。
──はあ?しかし…。
──いや、断じてやめたんだ。
それから、一週間ばかりして、荻窪の飲みやにゐたら、
井伏さんがとことこと入って来られた。
少し話が怪訝しいと思ったけれども、最初は黙つてゐた。暫くしてから、
──お酒はやめた筈ぢやなかつたんですか?
と訊ねると、井伏さんは再び憫笑された。
──君、オレが酒をやめるわけがあるかね。
まことにその通りであつて、僕だつて本気でさう思つたわけではない。



僕は学生の頃、一度だけ井伏さんの講演を聴いたことがある。
尤も、井伏さんはその時、講演、とは云わずに、演説、と云はれた。
──無理に演説をさせられるんだ。君、僕は演説なんて大嫌ひなんだ。
当日、井伏さんは文学部の大教室の壇上に、何だか心細さうな様子で上られた。
僕は会場の後の方に坐って、多大の期待と多少の不安を覚えながら聴耳を立ててゐた。
ところが、井伏さんの声は僕の席まで届かない。
そんな筈はない。
飲みやにおける井伏さんの声は、まことによく透るのである。
三.四分、井伏さんは何か話された。
それから、口が動かなくなつた。井伏さんは時計を出して見ると、
これでおしまひ、と云って降壇された。
あとで、井伏さんに感想を訊ねたところ、
──オレはもうメチャメチャだよ。
と大きな声で云はれ、さらに大きな声で梶井基次郎の話をされた。
その後、僕は井伏さんの演説は聞いてゐない。



大きな収穫があつたあとなぞ、そのときの様子を話す井伏さんは、
たいへん愉快さうであって、聞いてゐるわれわれは、
釣りを知らなくても、胸がごとんごとんするやうな錯覚を覚えるから不思議である。


★随筆井伏鱒二/小沼丹★

マリ |MAIL






















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