夜になつて、通りの「ここが酒場だ」と云ふ妙な名前の酒場に入った。 店の女性たちは僕らの服装から、僕らの泊まつてゐる旅館が判つたらしい。 あそこには偉い小説家が泊つてゐるさうだが、何をしてゐるのか?と訊ねた。 すると「偉い小説家」の井伏さんは眼ををぱちくりさせて、 ──ああ、あのひとは昨日帰つたさうだ。オレたちは将棋指しだよ、 と云われた。
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一度、何のときだつたか、井伏さんは僕を見て憫笑された。 ──君は、飲んでゐるんだらう? ──ええ、まあ……。 ──僕は酒をやめたよ。酒をやめると調子がいいね。 原稿もよく書ける。遅くまで飲んでる奴の気がしれないね。 ──はあ?しかし…。 ──いや、断じてやめたんだ。 それから、一週間ばかりして、荻窪の飲みやにゐたら、 井伏さんがとことこと入って来られた。 少し話が怪訝しいと思ったけれども、最初は黙つてゐた。暫くしてから、 ──お酒はやめた筈ぢやなかつたんですか? と訊ねると、井伏さんは再び憫笑された。 ──君、オレが酒をやめるわけがあるかね。 まことにその通りであつて、僕だつて本気でさう思つたわけではない。
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僕は学生の頃、一度だけ井伏さんの講演を聴いたことがある。 尤も、井伏さんはその時、講演、とは云わずに、演説、と云はれた。 ──無理に演説をさせられるんだ。君、僕は演説なんて大嫌ひなんだ。 当日、井伏さんは文学部の大教室の壇上に、何だか心細さうな様子で上られた。 僕は会場の後の方に坐って、多大の期待と多少の不安を覚えながら聴耳を立ててゐた。 ところが、井伏さんの声は僕の席まで届かない。 そんな筈はない。 飲みやにおける井伏さんの声は、まことによく透るのである。 三.四分、井伏さんは何か話された。 それから、口が動かなくなつた。井伏さんは時計を出して見ると、 これでおしまひ、と云って降壇された。 あとで、井伏さんに感想を訊ねたところ、 ──オレはもうメチャメチャだよ。 と大きな声で云はれ、さらに大きな声で梶井基次郎の話をされた。 その後、僕は井伏さんの演説は聞いてゐない。
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大きな収穫があつたあとなぞ、そのときの様子を話す井伏さんは、 たいへん愉快さうであって、聞いてゐるわれわれは、 釣りを知らなくても、胸がごとんごとんするやうな錯覚を覚えるから不思議である。
★随筆井伏鱒二/小沼丹★
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