そしておもしろいことには、坊ちゃん、圭さん、道也先生は (あるいは大学生三四郎、一郎の弟の二郎のような仲介人、観察者、 ほどの良さをくずさない傍役は半分ぐらい)、 いずれも神経衰弱を無視できたと同じ程度に、女性をも無視することができている。 これらのアンチ神経衰弱派は、なるほどお婆さんでも女中さんでも、他人の奥さんでも、 感じのいい女を感じがいいと感じる点では、正常な感覚をもってはいるけれども、 神経衰弱的なするどさ、執念深さ、不可解なほどの底ぶかさで女性にかかずらおうとしない。
漱石の女性たちがいきいきと輝き、人間の多様性を画面いっぱいにくりひろげるのは、 実に、神経衰弱派がムニャムニャとつぶやきはじめ、内省的な男どもの暗さが、 行動グループの明るさを、雲か霧かでつつみかくし、おしのけはじめてからである。
アンチ衰弱派の男たちにとって、神経過敏派が、わかりにくい困った存在であるのと、 全く同じ程度に、ふつうの女性、家庭をつくり家庭を守る女たちにとっても、 わけのわからぬ不安な生物であるにちがいない。 彼女たちは、神経過敏な男たち(多くはまぎれもない知識人)をおびやかしたり、 困らせたり、不意打ちをくらわせたり、ひきよせたり突きはなしたりすることによって、 彼女たちの女らしさをあざやかに示してくれる。 行動派や無神経派だけが男性だったなら、彼女たちはとてもあれだけの魅力を 発揮できなかったにちがいない。
★文人相軽ンズ/武田泰淳★
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