彼は手に持った水のグラスの中をじっと見ていた。
水の中の何かを見ていたのではなく、グラスの向うを透かして見ていたのでもない。
透明な水そのものを見ているようだった。
「何をみている?」とぼくは聞いた。
「ひょっとしてチェレンコフ光が見えないかと思って」
「何?」
「チェレンコフ光。 宇宙から降ってくる微粒子がこの水の原子核とうまく衝突すると、光が出る。
それが見えないかと思って」
「見えることがあるのかい?」
「水の量が少ないからね。たぶん一万年に一度くらいの確率。
それに、この店の中は明るすぎる。光っても見えないだろう」
「それを待っているの?」
「このグラスの中にはその素粒子が毎秒一兆くらい降ってきているんだけど、
原子核は小さいから、なかなかヒットが出ない」
彼の口調では真剣なのか冗談なのかわからなかった。
「水の量が千トンとか百万トンといった単位で、しかも周囲が真の暗闇だと、
時々はチラッと光るのが見えるはずなんだが、ここではやっぱり無理かな」
「微粒子ね」
「ずっと遠くで星が爆発するだろう。
そうすると、そこから小さな、ほとんど重さもない粒子が大量に宇宙全体に飛び出す。
何千年も飛行して、いくつかが地球に落ちてくる。
いくつかって言うのが、このグラスに毎秒一兆くらい」
★スティル・ライフ/池澤夏樹★
■小柴昌俊さんのノーベル賞受賞のニュースで「ニュートリノ」という言葉を聞いた時、 なんかこれ読んだことある、と思ったのですが、探してみたら「チェレンコフ光」でした。 全然ちがった。
でも実際「ニュートリノ」と「チェレンコフ光」はどのくらい遠い言葉なのか、 っていうとそれもわからないのですが。
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