「 食事をしながら音楽を聴くというのは、コック と ヴァイオリニスト に
対する侮辱である 」
ギルバート・K・チェスタトン ( イギリスの作家 )
Music with dinner is an insult both to the cook and violinist.
Gilbert Keith Chesterton
お酒を呑む程度ならよいが、生演奏に食事というのは、あまり好まない。
クリスマスなので趣向を凝らしてみたが、やっぱり、不自然に感じた。
世間一般がクリスマスでも、お正月でも、普段以上に汗を流す人々がいて、そうした人たちのご努力により、大勢の人々が楽しい時を過ごせる。
まことに有難いことだと感謝しなければならないが、彼らにも恋人や家族の存在があって、そうしたイベントに参加できない寂しさはあるだろう。
旧知のジャズマンは、何十年もイブに 「 他人の家族 」 を喜ばせる目的で演奏し、ささやかな拍手と笑顔とギャラのため、家を空けている。
以前に、「 寂しくないか 」 と尋ねたところ、「 皆さんより、私は多くの人々の笑顔に囲まれているので、とても幸せな商売です 」 と返答された。
本音かどうかはともかく、他人を喜ばせる作業に誇りと生きがいを求めて、自身や家庭を犠牲にしても仕事に徹する、彼は本物の 「 プロ 」 である。
もちろん、なかには嫌々やってる人もいるだろうし、家に早く帰りたい人や、無邪気に楽しむ酔客を羨ましがっている演奏家もいるだろう。
しかし、そうではなく 「 プロ 」 として、最大級のもてなしを追求する人も多く、彼らは熱のこもった演奏を、華やかなイブの舞台で繰り広げている。
それがわかっている反面、イブには 「 不埒に女性を口説くもの 」 と決めている私としては、演奏と女性、どちらに集中すべきか戸惑ってしまう。
女性に集中すべきか、プロの演奏を傾聴すべきか、半々にバランスを取る ( 女性を小声で口説きつつ、曲間に拍手 )べきか、それが問題だ。
そんな葛藤の最中に、食事なんか出されても、優雅に味わう余裕などないわけで、せいぜい強い酒でも口に運ぶのが、やっとのことである。
そういった経験から、生演奏を聴きながらの食事は、冒頭の 「 料理人にも演奏家にも失礼 」 という言葉に、なんとなく共感するところがある。
どちらかというと、クラシック音楽の弦楽四重奏でもやってくれたほうが聞き流しやすく、ジャズのセッションなんかは、傾聴しないと気がひけてしまう。
クラシックとジャズの大きな違いは、前者が決められた楽器に指示を与えられるのと対照的に、後者の生命が各パートの自発性にあるところだろう。
指揮者もなければ譜面もなく、雑多な個性を持った演奏家たちが、互いの個性を最大限に発揮させつつ、全体の調和を探るのがジャズの醍醐味だ。
そのため、クラシックは 「 機械的 」、ジャズは 「 人間臭さ 」 が表出されていて、どうしても演者のことが気になってしまうのである。
黒人音楽を源流に持つジャズという文化が、アメリカで支持され、大成した背景は、それが極めて 「 アメリカ的 」 だったからではないかと思う。
雑多な個性を持つ人々が、権威ある指導者に頼らずに、自発的に協力することで社会を編成してゆこうという思想は、まさにアメリカそのものだ。
そんなことをボンヤリと考えながら、演奏に耳を澄まし、目の前で楽しげに会話 ( 一方的に ) する彼女を眺め、上の空で食事を口にする。
これこそ、イブなのに 「 演奏家にも、料理人にも、彼女にも失礼 」 な態度であり、ついでに言うと 「 キリストにも失礼 」 な話である。
当然、「 さっきから私の話、ぜんぜん聞いてないでしょー 」 というお叱りが飛んでくるわけで、その後、事態の収拾に苦労する結果となった。
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