Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2007年10月28日(日) 私が 「 判官びいき 」 を嫌う理由



「 人間よ、人間よ、それは全く哀れみなしで生きられないものなのだ 」

                  フェドール・ドストエフスキー ( ロシアの文豪 )

Man, man, one cannot live quite without pity.

                              Feodor Dostoyevsky



二者のうち、弱い方を えこひいき する感情を 「 判官びいき 」 という。

言葉の由来となる 「 判官 」 は、九郎判官義経 ( 源 義経 ) のことだ。


歴史文献によると 義経 は、平家を打倒した功労者だったが、兄の 頼朝 と対立して疎んじられ、逃避行の末に悲惨な最期を遂げたと語り継がれる。

日本人は権力に従順な反面、「 弱きを助け、強きをくじく 」 ことを美徳とし、ただ 「 弱いから 」 という理由だけで、必要以上に肩入れする傾向が強い。

特に、義経 の悲劇的な生涯は庶民の同情を誘い、昔から、日本人好みのヒーローとして人気が高く、数々の伝説が書物や芝居の題材とされてきた。

欧米でも、健気で哀れな主人公を称えることはあるし、弱者救済に関心が薄いわけではないが、弱者や敗者に無条件で魅入られることは少ない。

義経 はともかく、他の 「 判官びいき 」 と思われる対象例をみると、いかに日本人が弱者、敗者への保護本能や、優越感を抱くのかがよくわかる。


まず、少し前に話題となった競走馬の 「 ハルウララ 」 だが、競争に一度も勝てないという理由だけで、なぜか全国的な大人気となった。

ファンの方からは、「 健気に頑張っている姿が感動的だ 」 などという意見を聞くのだが、では、勝つ馬が 「 頑張っていないか 」 というと疑問である。

仮に、能力面で差がないとすれば 「 努力が足りないから勝てない 」 と考えるのが自然で、敗者をみて 「 頑張っている 」 と評する根拠など無い。

また、70m の崖から救出された 「 がけっぷち犬 」 が報道されるや、引取り希望者が殺到するという珍事件もあった。

全国で、毎年数万の野犬が処分される中、この犬だけが特別扱いを受けたのは、その哀れさが クローズアップ されただけのことで、他に違いはない。


今朝も、先週の 「 亀田会見 」 が テレビ で報じられていたけれど、彼らも当初は 「 弱者 」 として扱われていた記憶がある。

けして裕福とはいえない環境で、父親が1人で子育てをし、自分の成し得なかった夢を子供に託す姿は、多くの視聴者の心に響いたはずだ。

それが今では批判を浴びせられ、まるで 「 判官びいき 」 とは対極に立ったわけだが、これは、彼らが 「 強くなったから 」 ではないように思う。

それより、同情を寄せた相手が、すっかり調子づいて、いつしか脚光を浴びる存在に化したことが、多くの人の癪に障ったのではないだろうか。

大昔の悲劇的な武将、一度も勝てない競走馬、断崖で救助された子犬は、同情を寄せた人々を裏切らないが、亀田 は 「 調子に乗った 」 のである。


日本人は昔から 「 弱者救済 」 の大好きな民族だが、同情心が過ぎると、その結果として、対象を甘やかすことにつながりやすい。

そして、甘やかされた対象が調子に乗ると、その途端、それまで傾けてきた愛情は裏返り、今度は、猛烈な バッシング が開始される。

亀田家 にかぎらず、そんな例は過去にいくらでもあり、そうなると、もともと窮地に立たされていた弱者はひとたまりもなく、社会から葬られてしまう。

つまり、日本では 「 弱者ほど、慎ましさが要求される 」 のであって、同情を買った者は、強気の姿勢や、成功した姿を晒すことが許されない。

そんな理由から、私は、日本特有の 「 判官びいき 」 という メンタリティ を好まず、「 さっさと消滅しちまえばよい風習 」 だと思っている。






↑ エンピツ投票ボタン です。 一度クリックする毎に筆者が踊ります。

My追加


 < PAST  INDEX  NEXT >


Oldsoldier TAKA [MAIL]

My追加