私は過去において誰も殺さなかったし、終生、これからもそうだろう。
この日記をご覧の皆様も、おそらくは同じはずだ。
それは改めて述べるまでもない 「 当たり前のこと 」 と思われるかもしれないが、世の中では日常的に殺人事件や、殺戮が繰り返されている。
無論、営利を目的とした強盗殺人などや、怨恨で人を殺すことについては、個人の 「 良識 」、「 倫理観 」 に大きな問題がある。
祖国が戦争に参加し、徴兵、あるいは志願兵といった形で戦闘に加わり、敵兵を討つ場合は、個人の良識より 「 環境 」 に左右されるだろう。
では 「 テロリズムによる殺人 」 では、何が殺意の原因となるのか。
諸説あるだろうが、私はその原因を 「 貧困 」 にあると考える。
経済的に豊かな国でも、「 テロ集団 」 は発生する。
たとえば、日本中を震撼させた 「 オウム真理教 」 などは、けして経済的な貧困や、信者の窮状から派生したものではない。
彼らの 「 貧困 」 は、発想や、自主性、判断力、倫理観、見識などの部分に見受けられるが、経済的な窮状があったようには考えにくい。
だが、そういった集団は、国家的、民族的なテロ組織までは成長しない。
国家や民族が結束してテロリズムに向かう背景には、もっと飢餓的で、絶望的な貧困というものが常に介在し、それが攻撃性を放つのである。
ブッシュ大統領はテロに対し、「 文明社会への攻撃 」 だと糾弾した。
ここでいう 「 文明社会 」 とは、けして物質的に豊かである国々だけを指した言葉ではなく、知的で、精神的にも成熟した社会を表したものだろう。
しかしながら、「 文明 」 というものは経済の発展と共に栄えるのが必定であり、経済で遅れをとることは、すなわち文明の未発達につながる。
だからこれは 「 正直だが、不謹慎な発言 」 であり、ブッシュ政権に批判的な人々が、なぜ、この発言に言及しないのか、未だに不明である。
きっと彼らは、経済後進国の人々が侮辱されることに関心などなく、ただ単に 「 強大なもの 」 にケチをつけたいだけなので、見過ごしているのだろう。
早い話が、テロリズムとは 「 貧乏人による金持ちへの嫌がらせ 」 であり、意外とその構造は、シンプルなものではないかと思う。
もちろん当初は、宗教的な対立であったり、イデオロギーの問題だったり、略奪された土地の奪還など、ご立派な意思の存在があるだろう。
一般的な我々の日常生活でも、気に食わない奴がいたり、意見の相違が生じる相手はいるだろうが、それが現実の 「 殺意 」 にまでは至らない。
たとえ殺意に至ったとしても、刑罰やら、自分自身の将来を思うと 「 実行 」 に移すことは躊躇されるはずで、それが殺戮を抑制させる仕組みになる。
逆に言うと、「 どうせ明日は餓死するかもしれない 」 という、悲惨で、将来に夢を馳せることもできない状況下では、そのブレーキが利かない。
特に 「 自爆テロ 」 というものは、「 貧乏人の最後っ屁 」 みたいなもので、他の方法では対等に勝負できない相手に、一矢を報いる手段となる。
それを操る側は、「 年収1千ドルの部下一人が、年収10万ドルのアメリカ人十人を殺したので、100倍の戦果 」 といった計算を、実際にしている。
我々にしてみれば、人命の価値に高低などないと思うのだが、テロの首謀者たちの考えは、「 金持ちの命 = 価値が高い 」 というのが常識だ。
実際、アルカイダが敵国人を捕らえた者に与える懸賞金が、捕虜の国別によって違うという報道を、聴いて知っているという人も多いだろう。
テロを企図する者の 「 駆け引き 」 と、実行する者の 「 絶望感 」 が微妙にあいまって、今日もテロリズムは世界を駆け巡るのである。
考えてみれば、太平洋戦争で戦局が悪化してからの日本も似たようなもので、「 人間魚雷 」 やら 「 特攻 」 やら、自爆テロが横行していた。
資源や国力が豊かで、戦局を有利に運んでいる国の軍隊は、けしてそのような 「 兵の命を粗末に扱う 」 ような真似はしない。
もし、この世界から 「 戦争 」 というものが廃絶されたとしても、貧富の差がそこに存在し、飢える民族がいるかぎり、テロが消滅することはないだろう。
たとえ今以上に、富める者が貧する者に与えたとしても、その壁がなくなることなど考えられるはずもなく、所詮は無理な話だ。
むしろ、これから先 「 今以上に、生き残りを賭けた戦いが激化する 」 社会や、地球環境や、限りあるその資源のことを思えば、さらに難しい。
平和の祭典と呼ばれるオリンピックの会期中に、ロシアではチェチェン勢力と思われるグループによるテロが発生した。
日本では、オリンピックを観戦するために 「 液晶テレビ 」 や 「 DVDレコーダー 」 の需要が伸び、売上が好調だという。
その豊かさを、「 今日の食事 」 にもありつけない人々は、どのような気持ちで眺めているのか、考えたことがあるだろうか。
けして、テロを容認するわけではなく、「 今の平均的な日本人の生活水準を維持したければ、敵が現れるのは当然 」 という覚悟が必要だということだ。
エアコンの効いた部屋でパソコンのキーを叩いている時点で、世界平和や弱者の救済を唱えても不毛なことを、ご承知あれ。
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