羽積風narration
…どうかなぁ?

2003年09月04日(木) 『ジーキル博士とハイド氏』(スティーヴンソン・著)

『ジキルとハイド』を今更ながら初めて読みました。

「ジキルとハイドのように」という言葉はよく使う(?)けれど、
そういえば読んだことないなぁ…と思って。

ん〜…

人はそんなに悪を秘めていないと思う。





最近の少年犯罪などに関する意見で、よく

「近頃の子供は、幼いうちに
 虫の羽根をちぎるとか蛙に空気を送り込んで破裂させるとか
 そういう遊びをちゃんとやってきてないから、
 いい歳になっても“命を奪う”というのがどういうことなのか
 という感覚が掴めずに、安易に人を殺したりするんだ」

というようなものを見かけるのですが。

何言ってんだ、ばか。

虫やら蛙に対してそんな残虐なことをできるやつこそ、
いい歳になったら平気で人間を殺せるようになるんじゃないのか。

(↑統計はそんなこと示してやいないだろうが)

上記で言うところの虫や蛙というのは、
殺人の疑似体験としての扱いでしょう。

小さな疑似体験によって大きな殺人を食い止めることが
できるというのなら、ゲームはどうなんだ。

「簡単に人を殺せるゲームが悪影響」

というのも、よく出た意見ですが。どっちなんだ。

そのゲームの死ぬ場面がとてもリアルに残虐なスプラッタなら、
疑似体験として機能するので、殺人には至らないということか?

…はぁ?何言ってんだ、私。





てな感じでわけがわからなくなってきたのですが、
何が言いたいのかというと。

“人間は底に残虐性を秘めているものなんだ”

ということが正当化されて書かれているように読めて、
この本からは嫌な感じを受けた。ということです。

“みんな本当はメチャクチャに壊したり汚したりしてしまいたい
 欲望を持っているけれど、それを理性で押さえて生きているのだ”

なんてことにされちゃうと、困るわけです。





もし、仮に。

人間がみんなそういう欲望を底に持っているのだとしたら。

・小さな疑似体験をすることで命を奪うことの嫌悪感を体感し、
 大きな殺人に至るのを防ぐ

・小さな疑似体験を積み重ねることで命を奪うことの快感を得、
 欲望は徐々に大きくなり、やがて小動物、そして殺人に至る

・小さな疑似体験を積み重ねることで欲望を小分けに発散し、
 大きな殺人に至るのを防ぐ

・小さな疑似体験を全く犯さず、欲望を根本から断ち切る

・小さな疑似体験を全く犯さず、
 ある日欲望を大爆発させて突然大きな殺人に至る

といった、いろんな可能性を孕んでいるわけです。





人はそんなに悪を秘めていないと思う。





…というようなことが、この本を読んで汐が思いめぐらせたことでした。

ちっとも書評になってないし。支離滅裂で申し訳ない。


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汐 楓菜 [MAIL] [活動記録]

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