本日はかなり重い話題です。
「民主党政権で初めての死刑執行」
個人的意見もあるので、話避けたい方はスルーの方向でお願いします。
本日民主党政権下で初めて二人の死刑が執行されました。
このニュースを知った時、まず驚いたのが、自分と同年代の人間が法の下で刑に処されたこと。
執行のサインをした千葉法務大臣は死刑制度に批判的だったということ。
更に彼女は死刑執行に自ら立ち会ったということです。
上の二件についてネットでの反応はパフォーマンスだ何だと叩かれてますが、この際政治うんぬんの批判や推測は横に置いておいて。
私は最後の「千葉法相が執行に自ら立ち会った」という事実に関しては評価したいと思います。
思うに、法の名のもとで人を死に処する瞬間に大臣自らが立ち会うというのはほとんどない。それは相当の覚悟をもってのことだと思うのですよね。
政治のことは頭に入ってこない私ですが、持論をひっくり返すのなら、なおさらのことだと。
死刑執行の日に何が行われるのか、私は書籍やネットでの知識しかありません。ですが、実際に執行する側も立ち会うほうもかなり精神的にくるものだという認識があります。
私でさえ「13階段」読んでくらっときたくらいです。受刑者にとってはことさら恐怖の瞬間でもありましょう。実際に執行する人たちの身になってみれば、淡々と進めなければ、こちらの精神が壊れてしまいそうになる。
死刑執行なんて、言葉で言えば簡単ですが、実際に刑が完了(執行され、心臓停止の確認)するまで、刑が執行されたあとを消すまで、かなり時間がかかるようです。ひとつ現実として、千葉法相は自分の時間をその為に割いたわけです。
彼女の心中は分かりませんが、立ち会いには相当な覚悟、自身への戒めを持って向き合ったのかもしれません。
死刑制度について、幼い頃の私は反対の意見を持っていました。
それは単純に性善説からくるもので、人の命は大切なのだということから。
しかし今は死刑制度はあるべきなのかな、と思います。
理不尽に奪われた人たち、残された人たちの感情をないがしろにしてはいけない。
重罪に対し、ひとつの区切りをつけなければ人は最低限の悪を知ることができない。(言い方は悪いですが)見せしめという形での刑を作らなければ、人間は罪を犯すことの結果や恐怖を記憶に刻むことができないのだと思うのです。
何か「縛り」を作らなければ、国の治安は絶対に守れない。
人間は、自分たちが思っているよりずっと忘れっぽく、都合良く生きようとする生物だと私は考えます。
重い話ですみません。
本当はあはは〜、きゃっきゃな話をしたかったのですが、最近自分の妄想世界が「罪」や「命」についてあーだこーだ討論してたので、この話題に触れられずにいられませんでした。
あと、死刑囚たちが犯した罪――特に熊谷の事件については私にとってショック大きかったというか、未成年の炊きつけから、取り返しのつかないことになってしまったというのがとても残念に思えてなりません。
最近は「死んじゃえよ」なんて友達や恋人同士の間で冗談で言い合ったりする時代です。
できることなら、その言葉を言う前に、本当の「死」がどういうものか、一度は振り返ってほしいと願わずにいられません。
今を生きる私も、命について見つめ直していきたいと思います。